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【3830】Re:なぜ曹操は渡河を試みたのか(赤壁)
多分…  R・F  - 2015/5/12(火) 0:18 -

引用なし
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   ▼酒井さん:

浅学ではありますが、個人的な所見を述べさせていただきます。


一言で云うと、曹操は勝ちすぎて引き時を誤った、と言うことではないでしょうか。

本来、208年に始まった遠征は、対劉表への装備であって、孫呉向きではありません。玄武池の水練も、水上戦闘の為ではなく、南に撤退する劉表軍を船で速やかに追撃、あるいは渡河するためのものであろうと、私は考えています。

後知恵かもしれませんが、酒井さんの云われる通り、一旦引いて孫呉への圧力を掛けながら、軍を孫呉向けの装備で再編してから、再度南下するのが正解であったかもしれません。
実際、同じことを賈クが進言しています。それ以前にも同じような戦力比であった官渡の戦いの前に、袁紹の参謀である田豊が同様に持久戦を進言しています。云わば、曹操は袁紹と同じ轍を踏んだわけです。

では。曹操はなぜ袁紹と同じ轍を踏んだのか。ここからは私の持論ですが、理由は二人とも同じで、何年も待つだけの時間的な猶予がなかったからでしょう。この時、曹操は54歳です。当時天命を知ると言われる50歳を越えています。確かに曹操は66歳まで生きて、60歳を過ぎても戦場に出ていましたが、それは結果論です。数年後、自分は生きていられるのか、健康で居られるか、その場合に自分同様に大軍を指揮できる有能な将軍は居るのか、そいつの能力と人格は本当に信頼できるのか、と言うのは切実な問題であったでしょう。

良く「赤壁の戦い」は曹操の驕りであった、と云われます。私は「驕り」ではなく「焦り」であったと考えています。数か月、場合によっては何年も続くかもしれないと考えていた劉表との戦いが、降伏によりあっけなく終結。蜀の劉璋も帰順の使者を寄越してきた。残るは、張魯、馬超のタカの知れた群小軍閥のみ。孫呉を屈服させれば、念願の天下の制覇は成る。出征前は、劉表を片づけても、劉璋、孫呉、張魯、馬超と10年単位の時間が掛かると考えていたのが、突然天下が目の前に転がってきた。「なまじゴールが見えて来たので、焦った」というのが、私の推測です。
後に、張魯を下した曹操は、配下にこのまま蜀攻めをしないかと進言されるのですが、軍は蜀攻めを想定していない為、また赤壁と違って蜀を攻略できても天下制覇が成るわけではないので、曹操は拙速な博打を避けて、あっさり撤退しています。

まぁ、一概にこの「赤壁」での判断が間違いであったとは言えないわけです。
疫病が流行るには、幾つかの条件があります。風土、兵の疲労、衛生面の問題です。孫呉が相手である限り、風土は避けられず、遠征している限り疲労は蓄積されます。大軍が駐屯して衛生面が悪化すれば(具体的には、兵の排泄物がその地の浄化能力の限界を越えるという意味です。現代でも大震災後に必ず出てくるトイレの衛生問題です)病は拡大する一方です。
これを収めるには、大軍である遠征軍を一旦撤退させるしかありません。そうなると、軍の再編や再遠征の準備には年単位の時間が必要になります。当然、相手にも準備期間を与えることになります。
孫呉戦の装備は不足していても、降伏したばかりの荊州兵の戦意は当てにならなくとも、河を渡って橋頭堡を確保。位攻め(圧倒的な兵力差)で相手を圧倒して、屈服させれば、と考えるのはあながち間違いとは言えないわけです。

やや時間はかかるが確実な勝利を選ぶか、やや博打ではあるが短期決戦を選ぶか。残り時間との兼ね合いで、曹操は後者を選び、そして博打に敗れた、ということではないでしょうか。

>こんにちは。久々に投稿させていただきます。
>
>とても基本的な質問で恐縮ですが、皆様の考えをお聞かせいただければと思います。
>
>荊州が曹操の手に渡った後、呉を制圧せんとする曹操軍は長江の渡河を試み烏林に集結します。
>結果として孫権・劉備軍に撃退され、荊州も手放さざるを得なくなってしまったわけですが、ここでひとつ疑問があります。
>
>当時、曹操軍内では疫病が流行っていたといいます。また、渡河するタイミングで強力な水軍を擁する呉軍に叩かれることは容易に想像がつきます。
>よって、荊州にて疫病が鎮まるのを待ち、渡河をする際に呉軍と渡り合える水軍を調練し、軍を整えてから渡河しても良かったんじゃないかと思います。
>なぜ曹操は、荊州奪取直後の渡河を試みたのでしょうか。
>
>個人的には以下の理由があったのかなと思います。
>1つは、呉の水軍と対峙しても勝てる自信があったこと(疫病の蔓延を差し引いても)。根拠は兵士の多さと荊州の水軍を手中に収めていたことです。
>2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。
>曹操としては、北方地域の反乱も当時は懸念事項だったと思います。荊州の周辺から劉備・孫権軍の影響を一掃し、さっさと荊州の守りを盤石して帰りたかったということも考えられる気がします。
>
>
>と、どれも妄想の域を出ないのですが、皆様はどのようにお考えになりますか。
>疑問の答えとなる定説があったら申し訳ないです。
>
>
>曹操軍が渡河しようとせず荊州に留まったとしても、孫権と劉備にとっては大きな脅威なわけで、結果論ですが赤壁とは別に動いていた孫権の合肥組は退散しているわけですから、そうやって「出てきたところを叩く」戦法で圧力を与えつつ外交で孫権を降参させることだってできたんじゃないか、と思ってしまいます。。

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【3829】なぜ曹操は渡河を試みたのか(赤壁) 酒井 2015/4/4(土) 8:36
┗ 【3830】Re:なぜ曹操は渡河を試みたのか(赤壁) R・F 2015/5/12(火) 0:18 多分…
┗ 【3835】Re:なぜ曹操は渡河を試みたのか(赤壁) MK 2015/6/30(火) 19:41

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