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こんにちは。久々に投稿させていただきます。
とても基本的な質問で恐縮ですが、皆様の考えをお聞かせいただければと思います。
荊州が曹操の手に渡った後、呉を制圧せんとする曹操軍は長江の渡河を試み烏林に集結します。
結果として孫権・劉備軍に撃退され、荊州も手放さざるを得なくなってしまったわけですが、ここでひとつ疑問があります。
当時、曹操軍内では疫病が流行っていたといいます。また、渡河するタイミングで強力な水軍を擁する呉軍に叩かれることは容易に想像がつきます。
よって、荊州にて疫病が鎮まるのを待ち、渡河をする際に呉軍と渡り合える水軍を調練し、軍を整えてから渡河しても良かったんじゃないかと思います。
なぜ曹操は、荊州奪取直後の渡河を試みたのでしょうか。
個人的には以下の理由があったのかなと思います。
1つは、呉の水軍と対峙しても勝てる自信があったこと(疫病の蔓延を差し引いても)。根拠は兵士の多さと荊州の水軍を手中に収めていたことです。
2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。
曹操としては、北方地域の反乱も当時は懸念事項だったと思います。荊州の周辺から劉備・孫権軍の影響を一掃し、さっさと荊州の守りを盤石して帰りたかったということも考えられる気がします。
と、どれも妄想の域を出ないのですが、皆様はどのようにお考えになりますか。
疑問の答えとなる定説があったら申し訳ないです。
曹操軍が渡河しようとせず荊州に留まったとしても、孫権と劉備にとっては大きな脅威なわけで、結果論ですが赤壁とは別に動いていた孫権の合肥組は退散しているわけですから、そうやって「出てきたところを叩く」戦法で圧力を与えつつ外交で孫権を降参させることだってできたんじゃないか、と思ってしまいます。。
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