三国志ファンのためのサポート掲示板 ※共同掲示板。話題は三国志関係。横レス歓迎。初心者モードの質問からマニアックな雑談まで
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【3485】三国志ファンのみなさまに...[0]  /  【3355】徐州大量虐殺と三国志のス...[19]  /  【3479】引退はあったのか?[3]  /  【3472】三国志の時代の陣営につい...[7]  /  【3457】「うわさの三国志」につい...[8]  /  【3281】三国志の小説を書いてます[3]  /  【3414】6/20(土)勝手に「三国志...[8]  /  【3382】皇帝の兄・叔父等の表記、...[8]  /  【3441】曹沖の諱について[8]  /  【3448】三国志の感想[0]  /  

【3485】三国志ファンのみなさまにお願い
 muonn  - 2009/8/25(火) 5:58 -

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   今、三国志のことで簡単なアンケートをとっています。http://www.enquete.ne.jp/hundred/survey/20090813-2/
とても簡単なアンケートなのでみなさんご協力お願いいたします。

・ツリー全体表示

【3355】徐州大量虐殺と三国志のスタンス
教えて  スズキ  - 2009/2/22(日) 16:18 -

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   皆様 はじめまして

スズキと申します。
三国志歴は十数年ですが、浅学者です。
皆様が展開されているやりとりの質の高さには驚かされます。


曹操の徐州の大量虐殺(と正史にスタンス)について質問です。
魏武帝紀本文に、「太祖撃破之、遂攻抜襄賁、所過多所残戮」
と載っていたと思いますが、
魏を正当化したいはず(?)の三国志で、
しかも、紀伝体の本人に関わるところは、良く描かれる傾向があるのに、
なぜわざわざ不名誉な事が載せられているのか、疑問です。


私自身も三つの仮説から、いろいろ考えました。
1、本当は殺戮はなかったが、載せたかった事情があった
2、殺戮の規模が小さかった、あるいは民が対象ではなかった
3、大量殺戮はあった


1は歴史操作のセンから考えています。
ただ単に魏にとっての戦果の誇張か、
曹氏(曹操)に悪いイメージを植え付け、
とって変わった司馬氏を相対的に「正義」にした、という歴史操作です。
まぁ、陳寿の本文を疑いだすと、キリがありませんし、
根拠がなく、説得力は低いのですが…。5%ぐらいでしょうか?


2は文意の問題です。
「所過多所残戮」は「民への大量虐殺」を意味しているのか、という事です。
漢文に疎いのでよくわかりませんが、私がぱっと見ても、
「多」が何となく「大量」なイメージで、「残戮」も、壮絶な感じがします。
しかし、「民」が対象かは、ぱっと見てもわかりません。

仮に「多」、「残戮」がそういう意味じゃなければ、
大量虐殺の事実はなかった事になりますし、
「民」が対象でなければ、叩かれる材料にはなりません。
特別重大な事実でなければ、まぁ載せるでしょうね。
だから、陳寿は載せたんでしょうかね。


3は通説通り、大量虐殺はあったという事です。
大量虐殺を支える根拠も陳寿の本文の従来の意味という事で明確。
真実は別として、陳寿の本文だけに、根拠として「説得力」はありそうです。

当時の虐殺についての価値観が今と同じならば、大量虐殺は重い事柄です。
事実だからといって軽々しく載せれる類いのもではないです。
重い事柄なら、当然、晋朝側のチェックが入ると思われます。
それでも載せたということは、晋朝が黙認したか(強制したか)、
簡素な記述にする事で晋朝の目をくらませた、
そのあたりが理由かなーと考えています。


某掲示板も同じような質問をしたのですが、全く反応がありませんでした。
その掲示板が駄目なのか私の質問が駄目なのか、
いずれかだと考え、こちらに投稿させてもらい、
内容もできるだけ短くカットしましたが(それでも長いですね、すみません)、
回答しづらかったらすみません。

【3373】Re:荀イクの諫言について
感謝♪  スズキ  - 2009/3/8(日) 21:18 -

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   ペテン師さん

>
>ところでスズキさんは筑摩文庫の三国志はお持ちでしょうか?


持ってないです。
一度は目を通してはいますが、うる覚えです。
また、今回、こういったスレッドを立てさせてもらったあとに、
関連箇所については、補足的な意味で少し拝見しました。

当初は買おうかと思っていたのですが、
近所の図書館に常備されているので、買いませんでした。
おっしゃるとおり、于禁伝など他伝で関連箇所を探す時間が省けそうですし、
今更ながら購入を真剣に検討しています(汗)。


>>○武帝紀本文より(本文に載っている順)
>>本初四年
>>「秋、陶謙征討、十余城陥落」
>>
>
>多分打ち間違いでしょうけど本初の年号は146年の本初元年しかあらず、約50年も前の暦です


あちゃー、これはまずいですね…。初平ですね。間違え方が最悪ですね、実際ある年号と間違えるなんて…(汗)。

>
>>興平二年
>>「春、定陶襲撃」、「夏、李封・薛蘭撃破」、「定陶陥落」、「八月、雍丘包囲」
>>
>><荀イクの諫言>
>>「李封・薛蘭撃破」、「呂布・陳宮がまだ健在」、「陶謙の死」、
>
>
>これらの記事は194年の記事です。
>尚『李封・薛蘭撃破』の記事は195年だけではありません。
>
>
>>「陶謙の先の敗北」、「前の討伐で厳格な処罰をした」と諫言に記載がある。
>
>
>これらの記事は193年の記事です。
>荀イクは『陶謙の死』『李封・薛蘭撃破』『呂布の健在』という記事の後に『往年の敗』『前討の徐州』という記事になっており、前の文章からの繋がりからいっても此処だけずれると言うことはないです。
>それと、『李封・薛蘭撃破』も194年の記事です。興平2年の記事とは別物ですので困惑しないでくださいね。(これらの事も史書を読めば書かれています)
>
>荀イクの記事にも見落としがなければ行き着いたはずです。
>また、『李封・薛蘭撃破』の記事も195年だけでない事にも行き着いてたはずです。
>


そうですかー。
「陶謙死,太祖欲遂取徐州,還乃定布.斯ゥ:」という並びで、荀イクの諫言が始まるので、荀イクの諫言は194年かもしれませんね…。「前討徐州, 威罰實行」が、1年前をさせば、尚更完璧ですね。

私が、195年と判断してしまったのは、諫言の一つ前の文章である「太祖自徐州還擊布濮陽,布東走.二年夏,太祖軍乘氏,大饑,人相食」、の「二年夏」が目に入ったのと、諫言後の「太祖乃止.大收麥,復與布戰,分兵平諸縣.布敗走,兗州遂平」という、兗州を平定した文章があったためです。

文脈的には、194年の可能性の方が高そうなのは確かですね。何か立証できれば別ですが、現段階で195年と言い張るのは妄信ですね…。


むじんさんのおっしゃっていた、改元や西暦と資料の関係と、
ペテン師さんのご指摘の点、了解いたしました。


もう少し、自分で詰めてみます。

【3374】文字化け箇所訂正
 スズキ  - 2009/3/8(日) 21:31 -

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   皆様

たびたびすみません、文字化けをさせてしまって。


>「陶謙死,太祖欲遂取徐州,還乃定布.斯ゥ:」という並びで、荀イクの諫言が始まるので、荀イクの諫言は194年かもしれませんね…。「前討徐州, 威罰實行」が、1年前をさせば、尚更完璧ですね。
>


「陶謙死,太祖欲遂取徐州,還乃定布.斯ゥ:」という並びで(×)
「陶謙死,太祖欲遂取徐州,還乃定布.イク曰:」という並びで(○)


>私が、195年と判断してしまったのは、諫言の一つ前の文章である「太祖自徐州還擊布濮陽,布東走.二年夏,太祖軍乘氏,大饑,人相食」、の「二年夏」が目に入ったのと、諫言後の「太祖乃止.大收麥,復與布戰,分兵平諸縣.布敗走,兗州遂平」という、兗州を平定した文章があったためです。


「太祖自徐州還擊布濮陽,布東走.二年夏,太祖軍乘氏,大饑,人相食」、の「二年夏」が(×)

「太祖自徐州還撃布濮陽,布東走.二年夏,太祖軍乘氏,大饑,人相食 」、の「二年夏」が(○)


諫言後の「太祖乃止.大收麥,復與布戰,分兵平諸縣.布敗走,兗州遂平」という、兗州を平定した文章があったためです。(×)

諫言後の「太祖乃止.大收麥,復與布戰,分兵平諸縣.布敗走,エン州遂平」という、エン州を平定した文章があったためです。(○)


以上、失礼しました。

【3375】Re:疑問点の現状整理
 スズキ  - 2009/3/8(日) 22:05 -

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   むじんさん

迅速なレスポンス、ありがとうございます。


>>3、晋朝や陳寿はどういう風に三国志をどういう風に描こうとしていたか?
>>→解決不能?
>
>このあたりのことは、陳寿その人がどういう志向を持っていたかと考えるよりも、陳寿が依拠した先行史料がどのような性質のものであったかを想像した方がよい結果になりそうな気がします。もっともそのような史料はほとんど現存してないので、裴注などで断片的に伝わっているものから推測を重ねるしかないのですが、たとえば王沈の『魏書』だけを裴注から抽出して、それだけを通して読む。次に魚豢の『魏略』だけを読む。そうしていくと、陳寿の本文を見ても「ここは『魏書』を使ってるな、こっちは『魏略』だな」という具合に、確定はできないまでも雰囲気としてはかなりつかめてきます。
>
>趙翼は「『三国志』には遠慮が多い」と批判していますが、わたしの感触としてはむしろ、晋の目を意識してないな、という印象が強くあります。もちろん高貴郷公の敗死などは曖昧にぼかされてはいますが、そこまで深刻でないものに関しては、意外にあっさりと書かれているものもあります。


なるほど、『魏書』や『魏略』に関する話、大変興味深いですね。
一つ一つ見て、そこから雰囲気や傾向のような類いが導きだせればよさそうですね。裏付けのない想像ですが、曹操が打倒した勢力は悪くかかれる。一方、魏を極端には誉めてない、というぐらいに考えています。その想像に固執しすぎず、虚心になって、一つ一つ見ていこうと思います。


>
>わたし自身が、もし曹操の大量殺戮を議題にするとすればセットで考えていくべきだろうな、と漠然と思っているまでで、まだ核心めいたことまでつかんでいるわけではないのですが、たとえば徐州事件では、陶謙を包囲して食糧欠乏のため引きあげる途中(攻めのぼる途中でもそうでしたが)で事件が起こされていますし、いっぽう官渡の戦いでも食糧欠乏に苦しみぬいた末の逆転勝利のさなかで起こっています。どちらも食糧欠乏という共通のキーワードが挿入されているので、もしかしたらそのような状況が事件のトリガーになっているのではないかなと想像しております。
>
>といっても、人を殺してその肉を食ったとかいう話ではなく、徐州の場合は「鶏や犬がいなくなった」との記述もありますが、民間から食糧調達(つまり略奪)する過程で、民間人の抵抗に遭うなどした結果、そのはずみで全軍規模の虐殺事件が起こしてしまったのではないか、などと想像しているんです。
>
>また、官渡の事件についても、最終的に数千人まで追い詰められ、それでも食糧を欠いていた曹軍が、数万人規模の袁軍捕虜を給養できず、始末に困ったあげく殺してしまったのではないか、という気がしています。


食糧というキーワードですね。
この時代、飢えや兵糧の欠乏の話題はいくつもありましたからね、ウェイトはどの程度かはわかりませんが、食糧問題の影響は必ずあったでしょうね。勿論私も立証できません…。


>いずれも裏付けのない想像の段階ですが、ほかの事件との類推からそのように思っているわけです。しかし、これを曹操個人の資質だとか、あるいは古代中国人の民族性だとか、そういう視点であれこれ詮索してしまうと、それ以上に雲をつかむような話になり、ちょっとつまらないと申しますか、あまり本質的でないところで袋小路に迷いこんでしまいそうな感じがします。


ごもっともです。
端的に示せないもの、形に現れないもの、あやふやなもので判断するのはダメですね。容易い事ではありませんが、行動ベースや現象ベース、事実ベースで突き詰めれればな、と考えています。そう考えると、陳寿のスタンスを聞いたのも、聞き方がまずかったかもしれません。


むじんさん、
いろんな角度からご意見いただいて、本当にありがとうございます。

【3484】【曹嵩殺害の犯人】と【徐州の虐殺】につ...
話題提供  叔嗣  - 2009/7/31(金) 13:56 -

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   どうも、お久しぶりです。

以前、自分のサイト(現在移転&改装中)でも考察していたことなのですが
【曹嵩殺害の犯人】と【徐州の虐殺】について語らせていただきます。


【曹嵩殺害の犯人】は誰?
曹嵩は陶謙支配地域を通過しているときに殺害されたと言う記事を見つける
事が武帝紀などで簡単に出来ます。陶謙伝内の注で記載される呉書では泰山
で殺害されたと記載されています。張ガイという陶謙配下が出てきたりもします。

さて、そこで陶謙配下の人たちを調べる事にしました。そうしたら興味深い
記事を発見することが出来ました。

揚州刺史であった劉ヨウ伝内で記載されているサク融についての記事です。
サク融は、陶謙から彭城周辺での物資輸送などを監督する任務を受けたが、
ほしいままに人を殺し物資を着服したそうです。

時期的にも、地理的にも、とても近いと思いませんか?


【徐州の虐殺】について
【曹嵩殺害犯人】を上記の人物と仮定して話を進めます。
物資を着服したサク融は、仏教を強制して信徒を集めました。まさに信徒は
一般の民衆です。サク融は曹操が進軍してくると、さっさと信徒を連れて逃
げてしまいますが完璧に全員を連れて行ったわけでは無いと思います。

逃げる際、この一般の仏教信徒を盾として使ったと思えないでしょうか?
兵士ではなく、ただの一般市民からなる信徒ですから戦闘とは言えないただ
の虐殺となってしまったのではないかと思います。

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【3479】引退はあったのか?
初心者質問  ノブナガ  - 2009/7/30(木) 15:03 -

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   三国志の時代の武将には引退はなかったのでしょうか?
樊城の戦いで関羽は57歳。魏軍の援軍に来た于禁は60歳でした。
当時の寿命はそれほど長かったのでしょうか?

【3480】Re:引退はあったのか?
   - 2009/7/30(木) 16:05 -

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    以下はあくまで士大夫層の話です。
 引退の事は致仕と言います。一応,70歳で致仕するものと言われますが,古代では,このルールは曖昧で,70過ぎても仕えている人や,それ以前に致仕する人もいます。ただ70まで生きるということが,きわめて稀です。70過ぎても仕えている人については,散官となっている場合も多く,古代社会では,特に律としては決まっていなかったのでしょう。ですので,特に罷免される場合を除いては,引退するしないの意思決定は本人にあります。
 平均寿命は低かったと思われますが,士大夫の意識としては,先主傳などをみる限り50歳を過ぎれば,もういつ死んでもおかしくない,と思われていたのでしょう。ただ実際の平均寿命はもっと低いものと思われます。
 前近代に至ると,しっかりと引退の年齢は決まっています。ただし実際の年齢による計算ではなく,官年という,科挙合格後に提出する報告書の記載に拠るため,年齢をごまかしている人も多いです。
 時代が新しくなればなるほど,役所に提出する年を若く偽る傾向があります。
 三国時代に近い用例としては,近代とは逆の結果になります。有名な話ですが,『宋書』にある話で,官年を実年齢よりも高く報告することが多かったようです。その史的意義については,研究を要するところでしょう。

【3481】Re:引退はあったのか?
 ノブナガ  - 2009/7/30(木) 16:15 -

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   お早い返信ありがとうございます。
ただ、それでも疑問なのが体力的に大丈夫なのかということです。
50過ぎて前線で指揮、ましてや一騎打ちなど可能なのでしょうか?

【3482】Re:引退はあったのか?
ひと言  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2009/7/30(木) 18:00 -

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   こんにちわ。

[#T3139]
↑「引退」に関してはこのツリーで話されています。

次回より上部のメニューバーから関連する単語で検索し、その検索結果を踏まえた上で、書き込んで頂けると他の方の二度手間にならず、有り難いかと思います。

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【3472】三国志の時代の陣営について
教えて    - 2009/7/23(木) 1:02 -

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   はじめまして、優と申します。
自分の力ではどうにもならなかったので、恐縮ですが、質問させていただきます。

三国志を題材にした漫画に描かれている陣営には、現代のテントのようなもの(帷幕?)があって、それらを囲う柵が営門とくっついている、といった描写がたびた見受けられますが、どんな資料を参考にして描いているのか、ご存知の方がいらっしゃれば、教えていただけないでしょうか。
図版が多ければ、漢籍でも構いません。

学の浅いなりに色々と調べてみたところ、兵器、軍装、戦術や戦略について書かれた書籍はあるのですが、陣営のことや陣中での作法などについては分からず終いで困っています。
欲を言えば『図説 日本戦陣作法事典』(柏書房)の中国版が欲しいと思っておりますが…;;
よろしくお願いいたします。

【3476】Re:三国志の時代の陣営について
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2009/7/27(月) 12:59 -

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    はじめまして、清岡と申します。

 どういった目的で、どの程度、お求めになられているか、理解に自信がありませんので、以下、手探り気味の文になっており、的はずれになっている、もしくは内容が不足しているかと思います。すみません。

 まず回りくどいですが、念のため、書きますね。
 「陣営」という語句はありますが、史書上では「陣」と「営」とそれぞれ単体では意味が違ってくると思います。
 『CD-ROM版 字通』によると「陣」は『説文』で「列なり」、『玉篇』で「師旅なり」となっており、戦うときに兵卒が形作る隊列の意味合いが強く、それに対し、『CD-ROM版 字通』によると、「営」(營)は『説文解字』で「市居なり」となっており、兵卒が駐屯する場の意味合いが強くなっていると思います。
(余談ですが、その意味では『三国志』魏書呂布伝の注に引く『英雄記』にある高順の異名「陷陳營」は陣(陳)と營との両方を陷する意味なのかな、と思いました)

 おそらくご質問は後者の「営」、つまり軍営についてかと思います。以下、そのつもりで書いていきますね。

 多くの漫画では何を参考にしているか、知らないのですが、ツリー[#T1443]赤兎馬Presents「三国志の宴3」第1部レポから推測すると、後世のものが混じっている中国の連環画を参考にしているのかな、と思いました。…と書きつつ、肝心の連環画には目を通してないのですが。すみません。

 私が軍営の画像的資料として思い付くのは、林 巳奈夫/編『漢代の文物』の押圖82ページにある「5-22 幕を張った宿營 魏晋 墓室壁畫 嘉峪関」のスケッチとそれに対応する本文です。表題通り、この壁画のスケッチは、魏晋期のもので、軍営の様子が描かれており、幕(テント)が並ぶ様や、軍旗、戟、盾が並ぶ様が描かれています。ただ、お求めになられている門や柵は描かれていないですね。
 画像じゃない資料で真っ先に思い付くのは『通典』です。唐代に編纂されたもので時代は下りますが、それでも三国時代あたりのことが引かれたりします。例えば、『通典』卷第一百四十九 兵二 法制には、後漢魏武軍令(つまり曹操の軍令)が載っており、そこには營中での法令とそれを破った場合の罰が書かれています。
http://www.cdlvi.cn/dzts/content/2008-08/05/content_30034036_2.htm
 あとは『三国志』およびその注で「營」をキーワードに読んでいってイメージを固める手があります。例えば、『三国志』魏書袁紹伝の注に引く『英雄記』にある界橋の戦いの記載では、戦闘の様子が詳細に書かれており、營がどういった役割なのかも推察しやすくなっています。營の牙門も記載されていますし。


 あと余談ですが、厳密には営中のことではないですが、『中国社会風俗史』[#3474]には、鎧を着ている場合、拝せず粛すことが載っていますね。
http://cte.main.jp/newsch/article.php/736

【3477】Re:三国志の時代の陣営について
感謝♪    - 2009/7/29(水) 1:02 -

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   ▼清岡美津夫さん:

詳細かつご丁寧なアドバイスありがとうございます。
自分の無知を改めて痛感しつつ、拝見させていただきました。
私の言葉足らずで理解に苦しまれたかと存じますが、最初の書き込みでの趣旨は、「陣営の様子について、視覚的に詳細に知りたい」ということでした。
詳細の度合いは、漫画の背景に使える程度のものです。
漫画に使えるものであれば、その他の創作をする場合でもイメージがしやすいので。

> 「陣営」という語句はありますが、史書上では「陣」と「営」とそれぞれ単体では意味が違ってくると思います。
> 『CD-ROM版 字通』によると「陣」は『説文』で「列なり」、『玉篇』で「師旅なり」となっており、戦うときに兵卒が形作る隊列の意味合いが強く、それに対し、『CD-ROM版 字通』によると、「営」(營)は『説文解字』で「市居なり」となっており、兵卒が駐屯する場の意味合いが強くなっていると思います。
>(余談ですが、その意味では『三国志』魏書呂布伝の注に引く『英雄記』にある高順の異名「陷陳營」は陣(陳)と營との両方を陷する意味なのかな、と思いました)

史書上の「陣」と「営」が、それぞれ単体では意味が違っているとは初めて知りました。
私が知りたいのは、ご指摘の通り「営」の様子についてですが、それについて書かれた書籍は見つからないし、かといって漫画や映像で描かれたものを、そのまま鵜呑みにして「営」の様子として捉えていいものか疑問ですし。

> 多くの漫画では何を参考にしているか、知らないのですが、ツリー[#T1443]赤兎馬Presents「三国志の宴3」第1部レポから推測すると、後世のものが混じっている中国の連環画を参考にしているのかな、と思いました。…と書きつつ、肝心の連環画には目を通してないのですが。すみません。

赤兎馬Presents「三国志の宴3」第1部レポの記事を拝見させていただきました。
長野氏が連環画を参考にして描かれておられるのは氏の画集『三国志英傑イラスト集』(世界文化社/ビジュアル三国志の表紙の画集です)のコメントを読んで存じておりましたが、氏に限らず連環画を参考にされる絵師は他にもいらっしゃるんでしょうね。
連環画については殆ど知りませんが、演義の成立よりも後なので明か清代に成立したものと考えていいのでしょうか。
連環画に陣営の様子が背景に描かれていれば、その当時(明清代?)の陣営の様子としては参考になるかもしれません。
機会があれば目を通してみたいと思います。

> 私が軍営の画像的資料として思い付くのは、林 巳奈夫/編『漢代の文物』の押圖82ページにある「5-22 幕を張った宿營 魏晋 墓室壁畫 嘉峪関」のスケッチとそれに対応する本文です。表題通り、この壁画のスケッチは、魏晋期のもので、軍営の様子が描かれており、幕(テント)が並ぶ様や、軍旗、戟、盾が並ぶ様が描かれています。ただ、お求めになられている門や柵は描かれていないですね。

『漢代の文物』ですね!ありがとうございます!
私が知りたいことは、まさに上記のようなことです。
門や柵が描かれていないのが、ちょっと残念ですが、それでも幕が並ぶ様などが図で描かれている資料が存在するのは、私にとって僥倖ですね。
幕がどんな形をしているかが知りたかったというのも、質問させていただいた理由の一つなので。

> あとは『三国志』およびその注で「營」をキーワードに読んでいってイメージを固める手があります。例えば、『三国志』魏書袁紹伝の注に引く『英雄記』にある界橋の戦いの記載では、戦闘の様子が詳細に書かれており、營がどういった役割なのかも推察しやすくなっています。營の牙門も記載されていますし。

袁紹伝ですね。参考になりました。
やはり、好きな人物に関する記述だけを読んでいると見えてこないのですね。

> あと余談ですが、厳密には営中のことではないですが、『中国社会風俗史』[#3474]には、鎧を着ている場合、拝せず粛すことが載っていますね。
>http://cte.main.jp/newsch/article.php/736

『中国社会風俗史』の「敬礼」の項ですね。
これは営中の作法の一つとして捉えてよいのでしょうか。


古い時代の事柄ゆえ万事解決というのは、なかなか難しいところですが、それでも疑問のいくつかは解決しましたので、質問してよかったと思います。
最後になりますが、無学な私のために懇切丁寧にありがとうございました。
<sage>

【3478】Re:三国志の時代の陣営について
ひと言  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2009/7/29(水) 20:06 -

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   こんばんわ。

▼優さん:
>詳細かつご丁寧なアドバイスありがとうございます。
>自分の無知を改めて痛感しつつ、拝見させていただきました。
>私の言葉足らずで理解に苦しまれたかと存じますが、最初の書き込みでの趣旨は、「陣営の様子について、視覚的に詳細に知りたい」ということでした。
>詳細の度合いは、漫画の背景に使える程度のものです。
>漫画に使えるものであれば、その他の創作をする場合でもイメージがしやすいので。

なるほど、実際、漫画の背景を描くという訳ではないのですね。


>> 私が軍営の画像的資料として思い付くのは、林 巳奈夫/編『漢代の文物』の押圖82ページにある「5-22 幕を張った宿營 魏晋 墓室壁畫 嘉峪関」のスケッチとそれに対応する本文です。表題通り、この壁画のスケッチは、魏晋期のもので、軍営の様子が描かれており、幕(テント)が並ぶ様や、軍旗、戟、盾が並ぶ様が描かれています。ただ、お求めになられている門や柵は描かれていないですね。
>
>『漢代の文物』ですね!ありがとうございます!
>私が知りたいことは、まさに上記のようなことです。
>門や柵が描かれていないのが、ちょっと残念ですが、それでも幕が並ぶ様などが図で描かれている資料が存在するのは、私にとって僥倖ですね。
>幕がどんな形をしているかが知りたかったというのも、質問させていただいた理由の一つなので。

紹介した手前、一応、予防線を張る感じで書きますが、『漢代の文物』に載っている件の絵は、当時、書かれたものをスケッチしたものですので、現代人の目から見ると写実性がなくシンプルでデフォルメの強いものとなっています。
(『漢代の文物』自体が借りづらい、もしくは購入しづらいですので、苦労した末に手に取り、その挿図を見たら、期待はずれでがっかりされるかもしれない、と思い書き込みました)

その挿図に対応する本文を読んで、それと併せて知る手掛かりにしてくださると幸いです。

どんな感じの図かというと下記のサイトの「畫像石」のところにある画像と似たような描写になります。

・京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/imgsrv/takuhon/

一応、このサイトで軍営が描かれている画像がないか、ざっと探しましたが、特に見あたらないですね。戦闘最中の画像はいくつか見ましたが。

また、より大きくテントが描写されたものに、林 巳奈夫/著『中国古代の生活史』P139「図7-(27) 国境監視所の傍のテントに住む原住民 彩画 嘉峪関 3〜4世紀」があります。こちらの書籍は先のものより図書館で見つかりやすいかと思います。

>> あと余談ですが、厳密には営中のことではないですが、『中国社会風俗史』[#3474]には、鎧を着ている場合、拝せず粛すことが載っていますね。
>>http://cte.main.jp/newsch/article.php/736
>
>『中国社会風俗史』の「敬礼」の項ですね。
>これは営中の作法の一つとして捉えてよいのでしょうか。

そう考えても問題はないかと思います。
作法と言えば先に挙げた後漢魏武軍令を見てもあれこれありそうな感じですね。

【3483】Re:三国志の時代の陣営について
   - 2009/7/30(木) 23:06 -

引用なし
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   ありがとうございます。

▼清岡美津夫さん:
>紹介した手前、一応、予防線を張る感じで書きますが、『漢代の文物』に載っている件の絵は、当時、書かれたものをスケッチしたものですので、現代人の目から見ると写実性がなくシンプルでデフォルメの強いものとなっています。
>(『漢代の文物』自体が借りづらい、もしくは購入しづらいですので、苦労した末に手に取り、その挿図を見たら、期待はずれでがっかりされるかもしれない、と思い書き込みました)
>
>その挿図に対応する本文を読んで、それと併せて知る手掛かりにしてくださると幸いです。
>
>どんな感じの図かというと下記のサイトの「畫像石」のところにある画像と似たような描写になります。
>
>・京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料
>http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/imgsrv/takuhon/

いわゆる「復元イラスト」とは違うのですね。
私は復元イラストのようなものを少し期待していたので、お知らせしてくださって有難うございました。
とはいえ、少しでも手がかりがあるのは有難いことなので、陣営のことのみならず漢代を知る資料として、ぜひとも目を通して見たいと思います。
ただ『漢代の文物』は、新版ですらお目にかかるのは難しいかもしれませんが…

>また、より大きくテントが描写されたものに、林 巳奈夫/著『中国古代の生活史』P139「図7-(27) 国境監視所の傍のテントに住む原住民 彩画 嘉峪関 3〜4世紀」があります。こちらの書籍は先のものより図書館で見つかりやすいかと思います。

『中国古代の生活史』は国会図書館で一度だけお目にかかりましたが、時間がなかったので、ざっと見て少しだけコピーをとりました。
その中に上記のものが含まれていなかったのが、甚だ残念です。
近くの図書館にはなさそうなので、遠出のついでにかれこれ2年ほど探しているのですが、やはり入手は難しいようですね…
良書が昔に出たものばかりと思うのは、私一人の感想でしょうか。
<sage>

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【3457】「うわさの三国志」についておしえてくだ...
 よれよん  - 2009/6/26(金) 19:36 -

引用なし
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   こんにちは。

「うわさの三国志」というものがあるとか、代官山界隈でチラシを見たとか聞きました。

どういったものなのでしょうか?映画ですか?まんがですか?

どなたかご存知の方、おしえてください。

よれよんでした。

【3467】Re:「うわさの三国志」についておしえてく...
 やまき  - 2009/6/27(土) 14:17 -

引用なし
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   ▼清岡美津夫さん:
ありがとうございます!

九州にもいずれ来てくれるとよいです。
なにせ演劇、と聞くと、遠いなー、というのが印象ですから。

【3468】[投稿者削除]
   - -

引用なし
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   この書き込みは投稿者によって削除されました。(09/7/3(金) 13:13)

【3469】Re:「うわさの三国志」についておしえてく...
管理系  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2009/6/27(土) 19:40 -

引用なし
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    こんにちわ、「三国志ファンのためのサポート掲示板」の管理メンバーの清岡です。
 ツリーの本筋から外れる書き込み失礼いたします。

 一応、注意喚起するためと閲覧者の混乱を防ぐため、ここに書き込んでおきます。

・書き込みのルール(暫定)
http://cte.main.jp/rule.html

>あと複数ハンドルネームはやめてください。自作自演の防止および閲覧者の混乱をふせぐためです。改名をする場合は、改名後、初めての書き込みの時に改名の宣言をしてください。

 「書き込みのルール(暫定)」の項目「[投稿者の名前について]」には上記のように書かれており、投稿[#3457]を書き込んだよれよんさん、投稿[#3464][#3467]を書き込んだやまきさん、投稿[#3468]を書き込んだ大田さんとが同一人物の可能性(あるいは同一ホスト、同一ユーザーエージェント)があることを、管理メンバーとしてここに記しておきます。

Host
marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp

User-Agent
Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; en-US) AppleWebKit/530.5 (KHTML, like Gecko) Chrome/2.0.172.33 Safari/530.5


同一人物だとすれば、私は宣伝行為の片棒を担がされた形になっていますね。

【3470】Re:「うわさの三国志」についておしえてく...
 USHISUKE WEB  - 2009/6/28(日) 14:27 -

引用なし
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   > 「書き込みのルール(暫定)」の項目「[投稿者の名前について]」には上記のように書かれており、投稿[#3457]を書き込んだよれよんさん、投稿[#3464][#3467]を書き込んだやまきさん、投稿[#3468]を書き込んだ大田さんとが同一人物の可能性(あるいは同一ホスト、同一ユーザーエージェント)があることを、管理メンバーとしてここに記しておきます。

清岡さん、情報共有ありがとうございます!
これがホントだとすると…「良識」を疑ってしまいます、ちょっと残念です。

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【3281】三国志の小説を書いてます
感想  ノブナガ WEB  - 2008/11/23(日) 14:04 -

引用なし
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   ブログに乗せているのですが感想がなくて手ごたえがありません
どなたか評価してもらえませんか?
どんな酷評でも構いません。

【3283】[投稿者削除]
   - -

引用なし
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   この書き込みは投稿者によって削除されました。(09/6/25(木) 20:21)

【3284】Re:三国志の小説を書いてます
 ノブナガ WEB  - 2008/11/25(火) 12:01 -

引用なし
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   紅砂さんお返事ありがとうございます。
参考にさせてもらいます。なかなか難しいですよね。
お互い頑張りましょう。

【3454】ごめんなさい
 紅砂 E-MAILWEB  - 2009/6/24(水) 14:53 -

引用なし
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    あの……ずっと気になっていたんですが、ホムペ閉じられてしまったのは、私のせいでしょうか?

 本当にごめんなさい。「悪気がないなら何をやっても構わない」なんて思ってはいないのですが、本当に悪気はなかったんです。ただ、「同じ小説を書く人」として、「切磋琢磨できたらいいなぁ」なんて思っていただけなのです。

 そんなに親しい訳でもないのに、今過去の私がこの掲示板に書いたものを読むと「馴れ馴れしい」と思います。

 本当にごめんなさい。もっと言葉を選んで言えばよかったのに……

 当然ですが「後悔先立たず」ですよ……すごくあんな偉そうなこと言って後悔しています。

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【3414】6/20(土)勝手に「三国志検定」おべんき...
 USHISUKE WEB  - 2009/5/9(土) 8:15 -

引用なし
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   みなさんこんにちは、USHISUKEと申します。
来る6/20(土)に、7月実施の「第2回三国志検定」にかこつけた、三国志をもっと好きになるための勉強会を行います。
「三国志界」で有名な豪華「特別講師陣」をお招きしての会。
三国志検定を受ける方も受けない方も、クイズ&貴重なトークを中心に三国志のことを楽しく学びませんか?
限定60名のイベントです。
ぜひお気軽にご参加ください。

なお、ご質問などがございましたら、このツリーに返信をつけてください(右の「返信」ボタンを押し投稿手順にうつることができます)。

また、このツリーへの参加表明は申込扱いにはなりませんので、必ずメールでのお申し込みをお願いします。


↓こちらでチラシをご覧いただけます。
http://www.sangokushi-forum.com/20090620.pdf
↓こちらでもご紹介いただいています。
http://cte.main.jp/newsch/article.php/1253
↓チラシの内容を転記(一部非転記)しておきます。
=============
[イベント名称]
勝手に「三国志検定」おべんきょう会in 東京
[特別講師]
◆早稲田大学三国志研究会
◆哲坊(上野哲弥)さん and more
 ※三国志ライター http://kakutei.cside.com/san.htm
●さらに複数のかたに「特別講師」打診中です。
[日にち]
2009年6月20日(土)
[時間]
13:30開始 17:00終了予定
[場所]
大田区産業プラザ会議室C
http://www.pio-ota.jp/plaza/map.html
●京急蒲田駅東口より徒歩3分
[参加費]
500円(当日徴収)
[参加方法]
メールで事前参加申込をお願いします。
※メールアドレスはセキュリティの都合上表記していません。
↓メールアドレスはコチラをご参照ください。
http://www.sangokushi-forum.com/20090620.pdf
●参加人数、参加者名を必ず明記してください。
●60名に達した時点で受付終了。お早めに!
[運営・お問い合わせ]
NPO三国志フォーラム http://www.sangokushi-forum.com/
●内容は予告なく変更になる場合があります。
●内容は「三国志検定」での出題を保証するものでは全くありません。
=============

【3427】満員御礼!!
 USHISUKE WEB  - 2009/5/30(土) 17:04 -

引用なし
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   みなさん、ありがとうございました!
おかげさまで、
6/20(土)開催「勝手に『三国志検定』おべんきょう会」
参加申込数が定員の60名に達しました。
満員御礼です!!
申込受付を終了とさせていただきます。
ご参加いただく方は、当日めいっぱい三国志を楽しみましょう。
どうぞよろしくお願いいたします!

【3430】Re:満員御礼!!
 たいがあ WEB  - 2009/6/4(木) 22:36 -

引用なし
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   ▼USHISUKEさん:
>みなさん、ありがとうございました!
>おかげさまで、
>6/20(土)開催「勝手に『三国志検定』おべんきょう会」
>参加申込数が定員の60名に達しました。
>満員御礼です!!
>申込受付を終了とさせていただきます。
>ご参加いただく方は、当日めいっぱい三国志を楽しみましょう。
>どうぞよろしくお願いいたします!

参加したかったのですがTOEIC試験の直前で今回は見送らせていただきました。
またこういう勉強会があったら参加してみたいです。

【3431】Re:満員御礼!!
 USHISUKE WEB  - 2009/6/5(金) 0:55 -

引用なし
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   >参加したかったのですがTOEIC試験の直前で今回は見送らせていただきました。
>またこういう勉強会があったら参加してみたいです。

たいがあさん、ご無沙汰しております。
たびたび三国志学会などでご一緒したUSHISUKEです。
TOEIC試験に向けての準備、がんばってください。
また今回のようなイベントなどができたら、その際はぜひご参加ください!

USHISUKE

【3453】[御礼]6/20(土)勝手に「三国志検定」...
 USHISUKE WEB  - 2009/6/22(月) 0:44 -

引用なし
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   6/20(土)大きな問題もなく「勝手に『三国志検定』おべんきょう会」開催できました。
参加いただけた方々、ありがとうございました!

■まじめな問題からおもしろい問題まで幅広く出題されていたので、最初から最後まで楽しめました。ありがとうございました。
■問題がどれも手がこんでいて、検定へ向けていい勉強になりました。貴重なイベントに参加できてうれしかったです。また参加したいと思います。
■オープニングムービーから面白かったです。問題も難度に幅があって面白かったです。
などの声が寄せられたり、
「また参加したいですか?」の質問に「参加したい」と答えた方が「90%強」だったりと、
運営の拙さなど反省点はあるものの比較的好評のうちに終われたかと思います。

これからもいろんな形で三国志を通じた交流を図ることができれば…と思っています。
どうぞよろしくお願いします!

※「声」や「数値」は、事後アンケートより

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【3382】皇帝の兄・叔父等の表記、紹介について
初心者質問  R・F  - 2009/3/15(日) 18:38 -

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   質問です。

以前に三国志の関連本を読んでいた時、儒教的に考えて(三国演義のような)劉備の呼称を「劉皇叔」とすることはありえない、と云う文に逢ったことがあります。

儒教は序列を重んじる教えです。位階的に、兄は弟より上、叔父は甥より上になります。皇帝は至尊の存在ですから、その上を思わせる(「皇叔」のような)呼称はありえないのは当然なわけです(解説はありませんでしたが、私はそう解釈しました。間違いであればご教示をよろしくお願いします)。

で。
ふと、思ったのですが、皇帝の兄や叔父のような存在は、(記載するときや、公式の場で紹介されるときに)どのように表現されていたのでしょうか。
まさか、紹介時に「現皇帝」の「兄・叔父」とは云えませんよね。「先帝の息子、兄弟」あるいは「御一族」でしょうか。

曹操の長子である曹昴は、「豊愍王昴伝」には、曹丕の兄とはもちろんなく、長子とも記されていません。

それから、もう一つ。
皇后の父兄の場合はどうなんでしょう。これは、そのままでも良かった気がするのですが。

よろしくお願いいたします。

【3388】殿下?
多分…  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2009/3/19(木) 19:15 -

引用なし
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    こんばんわ、清岡です。
 [#T3311]のツリーが解決されてないうちに別のことに答えるのは心苦しいのですが、わかる分を書きますね。

>ふと、思ったのですが、皇帝の兄や叔父のような存在は、(記載するときや、公式の場で紹介されるときに)どのように表現されていたのでしょうか。

 それは表現される人の官位によるのではないでしょうかね。

 皇帝の兄弟、つまり元々は皇子である人物ともなると、『続漢書』百官志に

皇子封王、其郡為國
(皇子は王に封じられ、その郡を国と為し)

とあるように、通常、王あるいは公に封じられるかと思います。
 ここらへんどのへんまで言えるのかあまり裏をとっていないのですが、[#3385]で引かれる『晋書』武帝紀の記述は司馬炎が皇帝に即位したことを承けて、まさに血縁で近い者が王に封じられている史書での記述でしょうね(※念のため書くと、そこでの「皇叔父」は当時の呼称ではなく史書上での記述ですね。他はどうか知らないですが)。

 そのため対象となる人が王である場合、臣下による二人称では「殿下」、三人称では「○○王」、御前では「○○王●(名)」とかなるんでしょうね。


>曹操の長子である曹昴は、「豊愍王昴伝」には、曹丕の兄とはもちろんなく、長子とも記されていません。

 前述と同じように、曹丕が即位した翌年の黄初二年に、曹昴は『三国志』魏書豊愍王伝によると

黄初二年追封、諡曰豐悼公。

と豐悼公に追封され、後に王になります。いきなり王にならないのは、生者と死者との違いや、卞皇后の子と他の夫人の子との違いなんでしょうね、『三国志』魏書で見比べていくと。あと前例と後例を見ていると、その時代における宗族の待遇の違いなんかも絡んできそうですね。

 少し本題からズレますが、元の投稿での冒頭にある劉備の場合であると、有名どころでは、『三国志』蜀書先主伝での記述で、

是時曹公從容謂先主曰:「今天下英雄、唯使君與操耳。本初之徒、不足數也。」

とありますように、曹操が豫州刺史の劉備のことを「使君」、つまり刺史に対する尊称を用いています。
 時代が下り、劉備が漢中王のときは、『三国志』蜀書費詩伝を見ると、

後群臣議欲推漢中王稱尊號、詩上疏曰:「殿下以曹操父子

と費詩から「殿下」と称されています。
 『三国志』魏書公孫[王賛]伝の注に引く『呉書』では、韓馥が袁術への書上で大司馬の劉虞を「劉公」と称しています。


 書いているうちにどんどん皇帝から遠ざかってしまいますが、話を戻し、最後に、皇帝に関わる人物が儒教の枠組みでどう位置づけられるのか参考となりそうな論文をあげておきます。皇帝に対する皇后の対偶性の変遷について論じられています。

・CiNii - 天子の好逑--漢代の儒教的皇后論
http://ci.nii.ac.jp/naid/40005461874/

 通常、手に入りにくい論文と思いますが、これを収録している『東洋史研究』第61巻第2号他同学会誌が昨年11月の「東洋史研究会大会」で100円で売られていて、たまたま手元にありましたので。

【3389】ありがとうございます
感謝♪  R・F  - 2009/3/22(日) 1:17 -

引用なし
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   >ペテン師 さん
>巫俊(ふしゅん) さん
>むじん さん
>清岡美津夫 さん
レスをありがとうございます。返事が遅れて申し訳ありません。

>巫俊(ふしゅん) さん
>私的な感覚としましては、「儒教的」って括りでの判断が曲者というか、儒教といっても前漢の学、西晋の学、南宋の朱子学それぞれで全然違うものでしょうし、それ以前に生活習慣と原典経典とは違うものですしね。
>同時代や別の時代の儒教の解釈を見て、当否を判断することになりますが、別の人の意見を元にするんですからどこまで信用できるかは分かりません。
>儒教がどうだとか言ってる最大の陣営は南北朝隋唐の史家か宋代の史家なんで、ちょっと参考にし過ぎると古代史的には研究になりません。
指摘ありがとうございます。云われてみると、確かにそうですね。「儒教的」という表現は少し考えが足りませんでした。当時は、皇帝の兄・叔父はどう呼ばれていたか、と表現するべきでした。
しかし、そうなると、
>『晋書』武帝紀に、
>封 皇 叔 祖 父 孚 為 安 平 王 , 皇 叔 父 幹 為 平 原 王 ,
と記されていても、実際にそう呼ばれていたかどうか、の参考にならない可能性もありますね。『晋書』は唐代に作られたものですから。
そうやって考え出すと、混乱が増殖していく一方ですね。

>在位中の皇帝個人って「至尊」でしたっけ?
>皇帝個人よりその遠祖の方が偉いに決まってるというのは、私の先入観なんでしょうか^^
確かにそうですが、この場合は、生きている人限定でお願いします。遠祖ならまだしも、天帝とか孔子とかを考えると収拾が付かなくなります。
そうでなくとも、頭が混乱中です。孫ぽこさんのサイトで、儒教はタブーという言葉の意味が実感しています。自分で振った話題ながら少し後悔しています。

>ペテン師 さん
>この問題は親に対する孝と国家の指導する立場の威との板挟みが問題なのでしょう。
そうなんですね。それが本質ですね。私と公。現実と建前(思想)ともいえます。
落とし所をどこにするか、どこで折り合うか、ということでしょう。
その意味では、
>黄朗は当然使役する側にいるので、官職で呼ぶべきなのですが、黄朗は姓又は字で呼んでいるとあります。
が妥当なようですね。

>むじん さん
>あまり関係のない話題で恐縮ですが、北宋の時代に「濮議」という論争が起こったことがあります。
これは、現実と建前(思想)で折り合いが付かなかった例ですね。
けれど、儒の思想が漢より更に強固であったはずの北宋で、王伯派・皇考派という呼称で議論された、ということは現実に「皇叔」という呼び名があってもおかしくないような気もしてきます。
それとも、生者でないならよいのでしょうかね。
疑問は深まるばかりです。

>清岡美津夫 さん
>『晋書』武帝紀の記述は司馬炎が皇帝に即位したことを承けて、まさに血縁で近い者が王に封じられている史書での記述でしょうね(※念のため書くと、そこでの「皇叔父」は当時の呼称ではなく史書上での記述ですね。
と、いうことですし。
史書の会話文で、「皇叔父」のような表現があればもう少し明解なんでしょうが。

少し混乱した文章で申し訳ありません。
ご教示頂いたことを元に、もう少しゆっくり考えて見ます。

(素性のあやしい)劉備が「劉皇叔」と呼ばれていなかったことは云えても、「皇叔」という表現自体はありえない、と断言できないことはわかりました。

いつもややこしい質問ばかりで申し訳ありません。
ありがとうございました。

【3390】『通典』、『朱子語類』、『清史稿』ドル...
紹介  巫俊(ふしゅん) WEB  - 2009/3/24(火) 7:57 -

引用なし
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   ・前段として

>R・Fさん

前のレスにもちょっとだけ書いたかと思いますが、
私は演義と正史の対比がしたくて三国志いじくってるんじゃなかったりします。
演義に対して正史は・・・という手法は正史三国志のイメージ向上や宣伝の上で、非常に有効な結果をもたらしたと思いますが、
私は演義と正史の比較は他の方にお任せして、三国志の世界に深く関係している古代史や地方の風土、「蛮」といった民族や、サク融の仏教教団登場といったことなど、

変容

していく濁流のような中国の歴史に興味があります。

例えば、三国蜀の時代に彫られたとされる磨崖仏の発見は仏教伝来の歴史を塗り替えるものです。
三国時代の社会の下層には、儒教と相反する思想をもった勢力が潜在していました。
この仏教教団的エスニックグループは西晋滅亡以降の胡族社会の中で求心力を先鋭化させて、ついには匈奴系中原王朝の国教にまでなったようです。

ところで、こういった下層からの仏教理解というものが、日本の仏教伝来史にも中国史からのモデル輸入という形で広まりつつあるのをご存知ですか?
奈良県の橿原考古学研究所の所長の菅谷文則先生は中国の考古学や仏教学に詳しい方ですが、奈良県の東方の山中の宇陀地方(神武東征の拠点)に仏教伝来以降最古級になる磨崖仏があると語っておられました。

三国志を通して、中国と日本の歴史自体が塗り換わる、こういう日が必ず来ると私は思っています。

そういう訳で、私は儒教がしゃべってはいけないタブーであるとは考えていませんけど(むしろ話そうとしてる^^;)、
儒教がどういうものであるかについては非常に重要な議題であると思います。
とくに三国時代などの士大夫が書いた儒教関係の著作は、儒教の解釈自体が変わっていく様子を描き出してくれるだろうと思っていますし、
それに私が専攻していた夏殷時代には儒教というものすら存在しないどころか、陳寿が鬼道と特記した邪馬台国の卑弥呼のような巫術的、動物霊的な世界が、古代中国王朝の巫祝王の権力の源泉になっていました。

そして私は三国時代の史家が未開社会の象徴のように表現する「鬼道」が、その実合理的な中国の儒教社会の中に深く根付いた病根のようになっていると思います。
「鬼道」は張魯伝の中に出てくる言葉でもありますね。


・後段として、本題ながら簡略に。

皇兄という言葉が『後漢書』に出てくるようですね。
『東観漢記』には無いようです。
『爾雅』や『通典』も見ましたが、
『朱子語類』と『清史稿』に出てくる「皇叔」という文字列も参考になると思います。

南宋の朱子が著作した『朱子語類』では、近ごろ「皇兄」「皇叔」「皇伯」といった言葉を官職に付ける輩が増えているが・・・とあり、「退廃した」空気を批判しているのでしょうか。

清朝の歴史書である『清史稿』の世祖本紀(世祖=順治帝フリン)では、清朝の順治帝フリンの叔父であるドルゴンが「皇叔父摂政王」と呼ばれたと特記しています。
睿忠親王ドルゴン列伝によると、権力者であるドルゴンが朝臣の自分に対する態度が不遜であると思った様子があり、御史の趙開心は進み出て「叔父の上に皇の字を加えると、みな上下の序列を弁えることと思います」と進言しています。

このような例からすると、『通典』にある唐の葬制に「皇叔」が出てくることなど例外をおおいに孕みながら、「皇叔」「皇叔父」という言葉の運用に厳しい目や貴重な待遇であるという用例があることが分かると思います。
演義における劉備の代名詞「皇叔」とも関わってくるのではないでしょうか?

【3452】Re:皇帝の兄・叔父等の表記、紹介について
 不居見  - 2009/6/20(土) 14:22 -

引用なし
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   ▼R・Fさん:

既に終わった話題かもしれませんが、たまたま自分の質問した曹沖を調べていてたまたま見つけたので一言。

三ゲΣd舛琉「C箸海蹐痢懺歌沱C如∧個(曹丕)が曹昂のことを、"家兄孝廉"と呼んでいますね。

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【3441】曹沖の諱について
教えて  不居見  - 2009/6/11(木) 10:26 -

引用なし
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   不居見(いずみ)と申します。
以前から拝読させていただいておりましたが、本日初めて書き込みさせていただきます。
自己紹介は専用のスレッドがあるようなので、改めてそちらに書かせていただくとして、早速質問させていただきます。

先日、調べものでネット上の後漢書訳を当たっておりました。その中の沖帝紀で、注に「沖」は幼くして帝位に就くこと、また夭逝することとありました。
「沖」と聞いて真っ先に思い至ったのは、曹操の息子にして聡明ながら13歳で亡くなった曹沖のことです。13歳ですから夭逝の範疇に入ると思います。
まさに名は体を表すといったところですが、同時に当然の疑問も湧いてきます。

なぜ、こんな不吉な文字を名前に付けたのか?ということです。

沖帝の「沖」は諡ですから、死後に贈られたものだとわかりますが、曹沖の場合は
諱ですよね。
知らずに付けたとも考えられますが、あの読書家曹操(←ただのイメージでしょうか?)のことですから、そんなはずもないでしょうし、仮にそうであっても、側近の誰か一人くらいは気付いても良さそうなものです。
「沖」が諡では?とも考えましたが、「哀」という正式な諡がありますので、これも可能性は低そうです。
もちろん、他に良い意味があるとか、「冲(にすい)」の間違いであるとか、死後に改名させられたという可能性も考えられるとは思いますが、色々と愚考した結果、一つの仮説を立てました。

字は成人してから付けるものだったと聞きますが、これと同様に、諱も成人してから付けるものだったのではないのか?ということです。(もし、当然の事実であればごめんなさい)

どうぞ、皆様のお考えや、その他の事例などありましたらご教授ください。
宜しくお願いします。

【3447】Re:文醜の諱について
雑談  スズキ  - 2009/6/14(日) 18:27 -

引用なし
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   > 記憶が確かなら、モンゴルでは「悪魔」とか「鬼」とか割と一般的に付けるみたいですね。
> ただ、名前を呼ぶと本人に災難がかかるといって名前で呼ばなかったり、避諱をしたりと、かなり神聖なものという印象が強いので、そんな不吉な名前を付けるのかな?と単純に思ったんです。
>
> とはいえ、文醜なんてどう見ても良い意味があるとは思えないので、何とも言えないですが。


スズキと申します。
いつも楽しみに拝見させていただいています。
横からすみません。


確か「醜」に何か意味があったような…、と思って探していたら、
「神に仕える者」という意味があったみたいですよ。
「酉=酒つぼ」と「鬼=巫女」というのが由来らしいです。
(Yahoo!知恵袋に載っていたので、信憑性は何ともいえませんが)


ただ、基本的に良い意味を持つ字ではないようです。
由来はあくまで由来であって、日常的にはやっぱり悪い意味で使うようです。
日本では「醜名」といった使い方をする時は、「逞しい」という意味をもつようです。

【3449】Re:曹沖の諱について
 不居見  - 2009/6/20(土) 13:50 -

引用なし
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   ▼GEOさん:

返信ありがとうございます。

>中国では、北方の少数民族の一部などで、わざと子供に悪い名前をつけたり、子供を虐待する習俗があります。
>これは、中国には子供を狙うと考えられている悪霊の類が数多くおり、そういった悪霊に、自分の子が大切な子であることを悟られぬよう、また、悪霊に狙われにくくするように、わざとこういう名前をつけるところがあります。
>なので、縁起の悪い名前がついているということは、けっして珍しくないです。

そうですね。ひと昔前、いわゆる「悪魔くん問題」の時、悪名を付けるという習慣を持つ地域があるという話を聴いた気がします。
三国時代にもあったのでしょうか?他の例がパッと浮かんでこないので、人名辞典眺めてみます。冷狐愚は親が付けた名前ではないですしね。

>このあたりは永尾龍蔵『支那民俗志』などを読んでみるとよいかと思います。
大きな図書館に行く機会があったら探してみます。

【3450】Re:文醜の諱について
 不居見  - 2009/6/20(土) 14:06 -

引用なし
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   ▼スズキさん:

返信ありがとうございます。

>確か「醜」に何か意味があったような…、と思って探していたら、
>「神に仕える者」という意味があったみたいですよ。
>「酉=酒つぼ」と「鬼=巫女」というのが由来らしいです。
>(Yahoo!知恵袋に載っていたので、信憑性は何ともいえませんが)

上記の知恵袋見てみました。そういえば、楊醜もいましたね。


>ただ、基本的に良い意味を持つ字ではないようです。
>由来はあくまで由来であって、日常的にはやっぱり悪い意味で使うようです。
>日本では「醜名」といった使い方をする時は、「逞しい」という意味をもつようです。

私も、下記のサイトで調べてみました。
基本的に悪い意味ばかりですね。載っている中では「不思議な現象」というのが一番まともな意味のようですね。
http://tool.httpcn.com/

【3451】Re:曹沖の諱について
 不居見  - 2009/6/20(土) 14:14 -

引用なし
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   ▼清岡美津夫さん:

>というところですね。
>そこから少し遡って順帝紀を見て貰うと、漢安二年夏四月のところに護羌校尉の趙沖なる人物の記載が見えると思います。
>また、『三国志』をざっと見てみると、鄭沖、王沖、胡沖など「沖」を名とする人物が見られますので、特に珍しい名でもないように思います。
>ちなみに、『字通』に引かれる『説文解字』[#3189]で「沖」は「涌(わ)き揺(うご)くなり」となっていますね。

そうですね!王沖、趙沖は知りませんでしたが、鄭沖、胡沖は確かに知っておりました。


>『礼記』内則には、子が生まれたときにどういった行動をとるか書かれており、それに付随してどういった名を付けてはいけないかということが書かれていますね。

ありがとうございます。『礼記』にはそういうことも書いてあるんですね。その辺りの知識はまるでないので、勉強してみたいと思います。

皆様、ありがとうございました。

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【3448】三国志の感想
 とと E-MAIL  - 2009/6/19(金) 7:06 -

引用なし
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   唐国強さんの諸葛孔明の大ファンになりました。他の三国志の諸葛孔明も見たのですが、唐国強さんの諸葛孔明が抜群に完璧なる孔明ではないでしょか。本でも読んでいたので私の想像以上のすてきな孔明像でした。後半の苦戦のところから死に至るまで頑張れのエールをおくり、志半ばの無念での死など涙が止まりませんでした。残りの78〜84までの孔明のいない場面を見るのがとても辛かったです。今までいろいろな映画やドラマを見てきましたが、この三国志はスケールも大きくて永久保存番の貴重なるドラマではないでしょうか。西暦200年にこれだけ栄えていたことに中国の歴史は偉大だなあと思いました。

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