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スズキ
- 2009/2/22(日) 16:18 -
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皆様 はじめまして
スズキと申します。
三国志歴は十数年ですが、浅学者です。
皆様が展開されているやりとりの質の高さには驚かされます。
曹操の徐州の大量虐殺(と正史にスタンス)について質問です。
魏武帝紀本文に、「太祖撃破之、遂攻抜襄賁、所過多所残戮」
と載っていたと思いますが、
魏を正当化したいはず(?)の三国志で、
しかも、紀伝体の本人に関わるところは、良く描かれる傾向があるのに、
なぜわざわざ不名誉な事が載せられているのか、疑問です。
私自身も三つの仮説から、いろいろ考えました。
1、本当は殺戮はなかったが、載せたかった事情があった
2、殺戮の規模が小さかった、あるいは民が対象ではなかった
3、大量殺戮はあった
1は歴史操作のセンから考えています。
ただ単に魏にとっての戦果の誇張か、
曹氏(曹操)に悪いイメージを植え付け、
とって変わった司馬氏を相対的に「正義」にした、という歴史操作です。
まぁ、陳寿の本文を疑いだすと、キリがありませんし、
根拠がなく、説得力は低いのですが…。5%ぐらいでしょうか?
2は文意の問題です。
「所過多所残戮」は「民への大量虐殺」を意味しているのか、という事です。
漢文に疎いのでよくわかりませんが、私がぱっと見ても、
「多」が何となく「大量」なイメージで、「残戮」も、壮絶な感じがします。
しかし、「民」が対象かは、ぱっと見てもわかりません。
仮に「多」、「残戮」がそういう意味じゃなければ、
大量虐殺の事実はなかった事になりますし、
「民」が対象でなければ、叩かれる材料にはなりません。
特別重大な事実でなければ、まぁ載せるでしょうね。
だから、陳寿は載せたんでしょうかね。
3は通説通り、大量虐殺はあったという事です。
大量虐殺を支える根拠も陳寿の本文の従来の意味という事で明確。
真実は別として、陳寿の本文だけに、根拠として「説得力」はありそうです。
当時の虐殺についての価値観が今と同じならば、大量虐殺は重い事柄です。
事実だからといって軽々しく載せれる類いのもではないです。
重い事柄なら、当然、晋朝側のチェックが入ると思われます。
それでも載せたということは、晋朝が黙認したか(強制したか)、
簡素な記述にする事で晋朝の目をくらませた、
そのあたりが理由かなーと考えています。
某掲示板も同じような質問をしたのですが、全く反応がありませんでした。
その掲示板が駄目なのか私の質問が駄目なのか、
いずれかだと考え、こちらに投稿させてもらい、
内容もできるだけ短くカットしましたが(それでも長いですね、すみません)、
回答しづらかったらすみません。
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スズキ
- 2009/3/8(日) 21:18 -
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ペテン師さん
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>ところでスズキさんは筑摩文庫の三国志はお持ちでしょうか?
持ってないです。
一度は目を通してはいますが、うる覚えです。
また、今回、こういったスレッドを立てさせてもらったあとに、
関連箇所については、補足的な意味で少し拝見しました。
当初は買おうかと思っていたのですが、
近所の図書館に常備されているので、買いませんでした。
おっしゃるとおり、于禁伝など他伝で関連箇所を探す時間が省けそうですし、
今更ながら購入を真剣に検討しています(汗)。
>>○武帝紀本文より(本文に載っている順)
>>本初四年
>>「秋、陶謙征討、十余城陥落」
>>
>
>多分打ち間違いでしょうけど本初の年号は146年の本初元年しかあらず、約50年も前の暦です
あちゃー、これはまずいですね…。初平ですね。間違え方が最悪ですね、実際ある年号と間違えるなんて…(汗)。
>
>>興平二年
>>「春、定陶襲撃」、「夏、李封・薛蘭撃破」、「定陶陥落」、「八月、雍丘包囲」
>>
>><荀イクの諫言>
>>「李封・薛蘭撃破」、「呂布・陳宮がまだ健在」、「陶謙の死」、
>
>
>これらの記事は194年の記事です。
>尚『李封・薛蘭撃破』の記事は195年だけではありません。
>
>
>>「陶謙の先の敗北」、「前の討伐で厳格な処罰をした」と諫言に記載がある。
>
>
>これらの記事は193年の記事です。
>荀イクは『陶謙の死』『李封・薛蘭撃破』『呂布の健在』という記事の後に『往年の敗』『前討の徐州』という記事になっており、前の文章からの繋がりからいっても此処だけずれると言うことはないです。
>それと、『李封・薛蘭撃破』も194年の記事です。興平2年の記事とは別物ですので困惑しないでくださいね。(これらの事も史書を読めば書かれています)
>
>荀イクの記事にも見落としがなければ行き着いたはずです。
>また、『李封・薛蘭撃破』の記事も195年だけでない事にも行き着いてたはずです。
>
そうですかー。
「陶謙死,太祖欲遂取徐州,還乃定布.斯ゥ:」という並びで、荀イクの諫言が始まるので、荀イクの諫言は194年かもしれませんね…。「前討徐州, 威罰實行」が、1年前をさせば、尚更完璧ですね。
私が、195年と判断してしまったのは、諫言の一つ前の文章である「太祖自徐州還擊布濮陽,布東走.二年夏,太祖軍乘氏,大饑,人相食」、の「二年夏」が目に入ったのと、諫言後の「太祖乃止.大收麥,復與布戰,分兵平諸縣.布敗走,兗州遂平」という、兗州を平定した文章があったためです。
文脈的には、194年の可能性の方が高そうなのは確かですね。何か立証できれば別ですが、現段階で195年と言い張るのは妄信ですね…。
むじんさんのおっしゃっていた、改元や西暦と資料の関係と、
ペテン師さんのご指摘の点、了解いたしました。
もう少し、自分で詰めてみます。
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スズキ
- 2009/3/8(日) 21:31 -
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皆様
たびたびすみません、文字化けをさせてしまって。
>「陶謙死,太祖欲遂取徐州,還乃定布.斯ゥ:」という並びで、荀イクの諫言が始まるので、荀イクの諫言は194年かもしれませんね…。「前討徐州, 威罰實行」が、1年前をさせば、尚更完璧ですね。
>
「陶謙死,太祖欲遂取徐州,還乃定布.斯ゥ:」という並びで(×)
「陶謙死,太祖欲遂取徐州,還乃定布.イク曰:」という並びで(○)
>私が、195年と判断してしまったのは、諫言の一つ前の文章である「太祖自徐州還擊布濮陽,布東走.二年夏,太祖軍乘氏,大饑,人相食」、の「二年夏」が目に入ったのと、諫言後の「太祖乃止.大收麥,復與布戰,分兵平諸縣.布敗走,兗州遂平」という、兗州を平定した文章があったためです。
「太祖自徐州還擊布濮陽,布東走.二年夏,太祖軍乘氏,大饑,人相食」、の「二年夏」が(×)
「太祖自徐州還撃布濮陽,布東走.二年夏,太祖軍乘氏,大饑,人相食 」、の「二年夏」が(○)
諫言後の「太祖乃止.大收麥,復與布戰,分兵平諸縣.布敗走,兗州遂平」という、兗州を平定した文章があったためです。(×)
諫言後の「太祖乃止.大收麥,復與布戰,分兵平諸縣.布敗走,エン州遂平」という、エン州を平定した文章があったためです。(○)
以上、失礼しました。
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スズキ
- 2009/3/8(日) 22:05 -
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むじんさん
迅速なレスポンス、ありがとうございます。
>>3、晋朝や陳寿はどういう風に三国志をどういう風に描こうとしていたか?
>>→解決不能?
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>このあたりのことは、陳寿その人がどういう志向を持っていたかと考えるよりも、陳寿が依拠した先行史料がどのような性質のものであったかを想像した方がよい結果になりそうな気がします。もっともそのような史料はほとんど現存してないので、裴注などで断片的に伝わっているものから推測を重ねるしかないのですが、たとえば王沈の『魏書』だけを裴注から抽出して、それだけを通して読む。次に魚豢の『魏略』だけを読む。そうしていくと、陳寿の本文を見ても「ここは『魏書』を使ってるな、こっちは『魏略』だな」という具合に、確定はできないまでも雰囲気としてはかなりつかめてきます。
>
>趙翼は「『三国志』には遠慮が多い」と批判していますが、わたしの感触としてはむしろ、晋の目を意識してないな、という印象が強くあります。もちろん高貴郷公の敗死などは曖昧にぼかされてはいますが、そこまで深刻でないものに関しては、意外にあっさりと書かれているものもあります。
なるほど、『魏書』や『魏略』に関する話、大変興味深いですね。
一つ一つ見て、そこから雰囲気や傾向のような類いが導きだせればよさそうですね。裏付けのない想像ですが、曹操が打倒した勢力は悪くかかれる。一方、魏を極端には誉めてない、というぐらいに考えています。その想像に固執しすぎず、虚心になって、一つ一つ見ていこうと思います。
>
>わたし自身が、もし曹操の大量殺戮を議題にするとすればセットで考えていくべきだろうな、と漠然と思っているまでで、まだ核心めいたことまでつかんでいるわけではないのですが、たとえば徐州事件では、陶謙を包囲して食糧欠乏のため引きあげる途中(攻めのぼる途中でもそうでしたが)で事件が起こされていますし、いっぽう官渡の戦いでも食糧欠乏に苦しみぬいた末の逆転勝利のさなかで起こっています。どちらも食糧欠乏という共通のキーワードが挿入されているので、もしかしたらそのような状況が事件のトリガーになっているのではないかなと想像しております。
>
>といっても、人を殺してその肉を食ったとかいう話ではなく、徐州の場合は「鶏や犬がいなくなった」との記述もありますが、民間から食糧調達(つまり略奪)する過程で、民間人の抵抗に遭うなどした結果、そのはずみで全軍規模の虐殺事件が起こしてしまったのではないか、などと想像しているんです。
>
>また、官渡の事件についても、最終的に数千人まで追い詰められ、それでも食糧を欠いていた曹軍が、数万人規模の袁軍捕虜を給養できず、始末に困ったあげく殺してしまったのではないか、という気がしています。
食糧というキーワードですね。
この時代、飢えや兵糧の欠乏の話題はいくつもありましたからね、ウェイトはどの程度かはわかりませんが、食糧問題の影響は必ずあったでしょうね。勿論私も立証できません…。
>いずれも裏付けのない想像の段階ですが、ほかの事件との類推からそのように思っているわけです。しかし、これを曹操個人の資質だとか、あるいは古代中国人の民族性だとか、そういう視点であれこれ詮索してしまうと、それ以上に雲をつかむような話になり、ちょっとつまらないと申しますか、あまり本質的でないところで袋小路に迷いこんでしまいそうな感じがします。
ごもっともです。
端的に示せないもの、形に現れないもの、あやふやなもので判断するのはダメですね。容易い事ではありませんが、行動ベースや現象ベース、事実ベースで突き詰めれればな、と考えています。そう考えると、陳寿のスタンスを聞いたのも、聞き方がまずかったかもしれません。
むじんさん、
いろんな角度からご意見いただいて、本当にありがとうございます。
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叔嗣
- 2009/7/31(金) 13:56 -
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どうも、お久しぶりです。
以前、自分のサイト(現在移転&改装中)でも考察していたことなのですが
【曹嵩殺害の犯人】と【徐州の虐殺】について語らせていただきます。
【曹嵩殺害の犯人】は誰?
曹嵩は陶謙支配地域を通過しているときに殺害されたと言う記事を見つける
事が武帝紀などで簡単に出来ます。陶謙伝内の注で記載される呉書では泰山
で殺害されたと記載されています。張ガイという陶謙配下が出てきたりもします。
さて、そこで陶謙配下の人たちを調べる事にしました。そうしたら興味深い
記事を発見することが出来ました。
揚州刺史であった劉ヨウ伝内で記載されているサク融についての記事です。
サク融は、陶謙から彭城周辺での物資輸送などを監督する任務を受けたが、
ほしいままに人を殺し物資を着服したそうです。
時期的にも、地理的にも、とても近いと思いませんか?
【徐州の虐殺】について
【曹嵩殺害犯人】を上記の人物と仮定して話を進めます。
物資を着服したサク融は、仏教を強制して信徒を集めました。まさに信徒は
一般の民衆です。サク融は曹操が進軍してくると、さっさと信徒を連れて逃
げてしまいますが完璧に全員を連れて行ったわけでは無いと思います。
逃げる際、この一般の仏教信徒を盾として使ったと思えないでしょうか?
兵士ではなく、ただの一般市民からなる信徒ですから戦闘とは言えないただ
の虐殺となってしまったのではないかと思います。
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