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皆様 はじめまして
スズキと申します。
三国志歴は十数年ですが、浅学者です。
皆様が展開されているやりとりの質の高さには驚かされます。
曹操の徐州の大量虐殺(と正史にスタンス)について質問です。
魏武帝紀本文に、「太祖撃破之、遂攻抜襄賁、所過多所残戮」
と載っていたと思いますが、
魏を正当化したいはず(?)の三国志で、
しかも、紀伝体の本人に関わるところは、良く描かれる傾向があるのに、
なぜわざわざ不名誉な事が載せられているのか、疑問です。
私自身も三つの仮説から、いろいろ考えました。
1、本当は殺戮はなかったが、載せたかった事情があった
2、殺戮の規模が小さかった、あるいは民が対象ではなかった
3、大量殺戮はあった
1は歴史操作のセンから考えています。
ただ単に魏にとっての戦果の誇張か、
曹氏(曹操)に悪いイメージを植え付け、
とって変わった司馬氏を相対的に「正義」にした、という歴史操作です。
まぁ、陳寿の本文を疑いだすと、キリがありませんし、
根拠がなく、説得力は低いのですが…。5%ぐらいでしょうか?
2は文意の問題です。
「所過多所残戮」は「民への大量虐殺」を意味しているのか、という事です。
漢文に疎いのでよくわかりませんが、私がぱっと見ても、
「多」が何となく「大量」なイメージで、「残戮」も、壮絶な感じがします。
しかし、「民」が対象かは、ぱっと見てもわかりません。
仮に「多」、「残戮」がそういう意味じゃなければ、
大量虐殺の事実はなかった事になりますし、
「民」が対象でなければ、叩かれる材料にはなりません。
特別重大な事実でなければ、まぁ載せるでしょうね。
だから、陳寿は載せたんでしょうかね。
3は通説通り、大量虐殺はあったという事です。
大量虐殺を支える根拠も陳寿の本文の従来の意味という事で明確。
真実は別として、陳寿の本文だけに、根拠として「説得力」はありそうです。
当時の虐殺についての価値観が今と同じならば、大量虐殺は重い事柄です。
事実だからといって軽々しく載せれる類いのもではないです。
重い事柄なら、当然、晋朝側のチェックが入ると思われます。
それでも載せたということは、晋朝が黙認したか(強制したか)、
簡素な記述にする事で晋朝の目をくらませた、
そのあたりが理由かなーと考えています。
某掲示板も同じような質問をしたのですが、全く反応がありませんでした。
その掲示板が駄目なのか私の質問が駄目なのか、
いずれかだと考え、こちらに投稿させてもらい、
内容もできるだけ短くカットしましたが(それでも長いですね、すみません)、
回答しづらかったらすみません。
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