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こんにちは。
>3、晋朝や陳寿はどういう風に三国志をどういう風に描こうとしていたか?
>→解決不能?
>
>私自身がこんな質問しておいて、ナンですが、解決不能かもしれません。私は割と陳寿は事実重視かなって思ったりするんですが、荀イクの孔融との袁紹陣営評価の箇所にあるように、多少の修正はあるんじゃないかなって思っています。もしかしたら、徐州における大量虐殺も何らかの修正がかかっているのか、と思い質問でのですが、今のところ解決不能です。虐殺の価値観について、目覚ましい進展があれば、突破口の一つになりうるかもしれませんが…。
このあたりのことは、陳寿その人がどういう志向を持っていたかと考えるよりも、陳寿が依拠した先行史料がどのような性質のものであったかを想像した方がよい結果になりそうな気がします。もっともそのような史料はほとんど現存してないので、裴注などで断片的に伝わっているものから推測を重ねるしかないのですが、たとえば王沈の『魏書』だけを裴注から抽出して、それだけを通して読む。次に魚豢の『魏略』だけを読む。そうしていくと、陳寿の本文を見ても「ここは『魏書』を使ってるな、こっちは『魏略』だな」という具合に、確定はできないまでも雰囲気としてはかなりつかめてきます。
趙翼は「『三国志』には遠慮が多い」と批判していますが、わたしの感触としてはむしろ、晋の目を意識してないな、という印象が強くあります。もちろん高貴郷公の敗死などは曖昧にぼかされてはいますが、そこまで深刻でないものに関しては、意外にあっさりと書かれているものもあります。
>官渡の件と徐州の件をセットで考えるとは、今までになかった視点がありそうな感じですね。
>
>お手数をおかけして申し訳ないのですが、もしよろしければ、
>むじんさんのご意見をうかがってもよろしいでしょうか?
わたし自身が、もし曹操の大量殺戮を議題にするとすればセットで考えていくべきだろうな、と漠然と思っているまでで、まだ核心めいたことまでつかんでいるわけではないのですが、たとえば徐州事件では、陶謙を包囲して食糧欠乏のため引きあげる途中(攻めのぼる途中でもそうでしたが)で事件が起こされていますし、いっぽう官渡の戦いでも食糧欠乏に苦しみぬいた末の逆転勝利のさなかで起こっています。どちらも食糧欠乏という共通のキーワードが挿入されているので、もしかしたらそのような状況が事件のトリガーになっているのではないかなと想像しております。
といっても、人を殺してその肉を食ったとかいう話ではなく、徐州の場合は「鶏や犬がいなくなった」との記述もありますが、民間から食糧調達(つまり略奪)する過程で、民間人の抵抗に遭うなどした結果、そのはずみで全軍規模の虐殺事件が起こしてしまったのではないか、などと想像しているんです。
また、官渡の事件についても、最終的に数千人まで追い詰められ、それでも食糧を欠いていた曹軍が、数万人規模の袁軍捕虜を給養できず、始末に困ったあげく殺してしまったのではないか、という気がしています。
いずれも裏付けのない想像の段階ですが、ほかの事件との類推からそのように思っているわけです。しかし、これを曹操個人の資質だとか、あるいは古代中国人の民族性だとか、そういう視点であれこれ詮索してしまうと、それ以上に雲をつかむような話になり、ちょっとつまらないと申しますか、あまり本質的でないところで袋小路に迷いこんでしまいそうな感じがします。
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