|
ペテン師さん
丁寧に答えていただいて、本当にありがとうございます。
荀イク伝の荀イクの諫言から「徐州大量殺戮」の時期を導きだすというのは、興味深いですね。
遠征の年数割り出しに関してだけ触れさせてください。
年数割り出しと私の疑問点は関係ないかもしれませんが…。
>1年ずれているのではないかという思いに行き当たったのは
>193年の彭城の大会戦の記事だけではないんです。
>1つ目には徐州侵攻期間です
>2つ目には彭城の大会戦のことをより詳しく書いている箇所ですが、1部抜粋でかきますと
>『陶謙が死んでしまったとはいえ、徐州は簡単には滅ぼせません。向うは、先年の敗戦に懲りておりますから、恐れおののいて誰かと同盟し、内外相呼応して当りましょう。将軍がコレを攻撃しても攻め落とせず、略奪しようにも収穫がなければ、十日もたたないうちに、10万の軍勢は戦いをまじえる前に、自分が苦しむ事になりますぞ。 先の徐州討伐の際、厳格な処分を実施されておりますから罰されたものの子弟や父兄の恥辱を思い、必ず各人自分から守りにつき、降伏する気持ちなど持たないでありましょう。 例えコレを撃破したとしても保持し続けることは不可能ですぞ』
>
これを見て、なるほどなーと思っいました。
そのあと、ふと武帝紀やら荀イク伝を見ていたら、
気になったところがあったので、以下に抜粋します。
○武帝紀本文より(本文に載っている順)
本初四年
「秋、陶謙征討、十余城陥落」
興平元年
「春、太祖徐州より帰還」、「夏、再び陶謙征討、五城陥落」、
「襄賁攻略。通過した地域では多数の者を虐殺した」、
「太祖帰還。呂布と戦い青州兵が崩される」、
「再び呂布と戦い、百余日対峙し両軍引き揚げる」、
「秋九月太祖帰還」、「冬十月太祖東阿へ」、「この年の飢饉の記述と陶謙死」、
興平二年
「春、定陶襲撃」、「夏、李封・薛蘭撃破」、「定陶陥落」、「八月、雍丘包囲」
○荀イク伝本文より(本文に載っている順)
初平二年
「袁紹の下を去る」
初平三年
「太祖の司馬として随行」
(明年、太祖領兗州牧、後為鎮東將軍、讃鎔併頁v呂箸△襪里如⊇虔浸闇C販狄筺ヒ
初平四年
*荀イク伝には記載事項なし
興平元年
「太祖陶謙遠征」
興平二年
「飢饉の記述」
の順に記載されている。その次の記載が荀擦鈴欷世任△襦」
<荀イクの諫言>
「李封・薛蘭撃破」、「呂布・陳宮がまだ健在」、「陶謙の死」、
「陶謙の先の敗北」、「前の討伐で厳格な処罰をした」と諫言に記載がある。
そして、諫言後の本文は、
「太祖は麦を取り込んだ」、「呂布を敗走させた」、「兗州を平定した」とある。
そして注釈として、
「男女数万人を泗水に投げて殺害」、「取慮・スイ陵・夏丘の諸県を攻撃」、
「鶏や犬まで絶えた」、「荒れ果てた村里に通りかかる人もいなかった」
と続き、そのあとの本文は「建安元年」という始まり方をしている。
これらから察するに、荀イクの発言の時期は興平二年だと予想されます。
興平2年といえば、195年のはずなので(暦は正直、自信なし…)、
諫言内の内容は194年を指す可能性があります。
ただ、原文ではそれぞれ、「往年之敗」、「前討徐州」
という表現をしているので、1年前とは限りませんが…。
基本的にペテン師さんに考え方は間違えではないと考えていますが、
荀イク伝の文脈からは、194年を指す可能性も同様に高いように思えるのです。
というのも、荀イク伝では、初平四年の徐州遠征には触れていない
(初平三年の後、いきなり興平元年の遠征の記述になっている)からです。
となると興平元年の事を言っているとも取れます。
と、194年に大量虐殺があったと思っている人の代弁をしてみる…。
反論というより、こういう風に考える人もいるんじゃないか、
というぐらいの雑談以上の他意はなので、あまり気にしないでください。
暦とか、あるいはもっと基本的なところで間違いがあったら、
恐れ入りますが、ツッコミをお願いいたします。
|
|