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▼ペテン師さん:
返信ありがとうございます。
>自分の所で考えて書いたりはしてるけど、ここでは思いっきり割愛して、小出し気味にw
ペテン師さんの考えはどちらに書いていらっしゃいますか?
そちらを見てみていない段階で、1年ずれたという仮説を
私が一方的にどうこういうのは、フェアではない気がしますので(笑)。ただ、見ていない段階での考えも、とりあえず載せないと、話が進まなさそうですので、下に書きます(冷や汗)。
>但し、ボクは陳寿が書くときに1年ずれているのではないかと思っていたりします。
>つまり、この194年の大虐殺は193年の彭城の大会戦をさしているのではないかという事です。
なるほど、二回ある徐州遠征の中身を陳寿は混同していた、という事ですね。
また、「所過多所残戮」は、民衆ではない可能性があると。
そして、それを前提にすると、陳寿や晋王朝にとって特別修正を加えたい箇所でもない、
文字通り「所過多所残戮」を載せればいい、という判断ですね。
確かにその前提があっているなら、筋が通りますね。
陳寿とて人間ですからね、単に勘違いによって、混同していた可能性すらありえますね。
それを支える根拠として、193年と194年の二回の遠征があった点、
そして、陳琳の檄文で虐殺については触れていない事を挙げていますね。
ただ、前提である1年ずれた事の根拠については、若干しっくりこないですね。別に、「所過多所残戮」は、1年ずれてなくても、問題なさそうですし。ただ単に194年の戦果を言いたかっただけ、それでも通りそうだからです。
あと、すいませんが、質問をしていいですか?
>193年の彭城での大会戦で死者数万単位にのぼり、流れがせき止められたという記述があります。
>恐らく陳寿はこれの事を書きたかったのではないかと思うのです。
上の記述は、どこに載ってますか?
『後漢書』陶謙伝ですか?
『三国志』陶謙伝ですか?
あるいは、他の伝や資料ですか? 魏志武帝紀ではないようですが…。
他に193年の徐州遠征について、武帝紀以上に詳しく書かれた箇所があれば、内容いかんによっては、1年ずれた根拠としてしっくりいく可能性がありますし、逆もありえます。
>また、他の所で見てみると陳琳の檄文でも、武帝紀では2回徐州に攻め込んでいるハズが、檄文では194年の呂布・張邈らの反旗の事には触れていても前年の徐州大会戦の事には一切触れていません。
>これが、曹操主導であれば、泗水の流れをせき止めるぐらいの大虐殺を陳琳が檄文に書かないでいるわけありません。
あと、陳琳の檄文というのは、三国志の董二袁劉伝『袁紹伝』の注釈である、
「魏氏春秋載紹檄州郡文曰」で始まり、「此陳琳之辞」で終わっている箇所の事ですか?
魏氏春秋は確か孫盛著のヤツですよね?孫盛の書の信憑性があるのか、ないのかよくわかりませんよね。人物の悪評を言う時は何か信用できそうですが(笑)。
ただ、陳琳の檄文というのはおもしろいアプローチですね。
a、陳琳の檄文の信憑性を問うた上で、
b、当時の価値観的に、虐殺はどう評価されるのか、
仮に虐殺OKなら、虐殺があっても檄文に載せる意味がなくなり、私のスレの疑問は解決されませんが、虐殺は許されないなら、「檄文に書いてない」=「なかった」と推量する事が可能で、私の疑問は解決します。
いずれにしても、当時の価値観を知る手がかりがあれば、私の疑問解決は進展しそうですが…。
それと、ちょっと話の本題とずれそうですが、下記の箇所についてもちょっとだけ。
>
>しかし、個人的にはコノ大会戦は曹操の力ではなく、袁紹陣営の力だと思っています。
>というのも、武帝紀や陶謙伝には『陶謙の陣営を10余城攻め落とした』という記述はあるのですが、魏の武将を見ていると、一体どの城を落としたのかということもわからなければ、この時参加して各城を陥落さして大金星を挙げて官爵を貰った人間が曹操陣営からは1人もいないのです。(記憶間違いでなければ…)
おっしゃる通りだと思います。
徐晃伝に、「朱霊が袁紹の援軍として曹操に与力し、袁紹の他の将軍は帰還したが、朱霊だけはそのまま曹操に従った」という風な記述があったと思います。つまり、朱霊が袁紹の援軍として派遣された事、朱霊以外にも、袁紹から派遣された軍があったような記述がありますから、徐州征討戦において、袁紹がかなり力をかした事は明白です。
これは憶測の域を脱しませんが、徐州遠征は、袁紹の部下の誰か(仮に沮授とする)が総大将で、曹操は朱霊などとほぼ同格の一軍の将として、陶謙と戦ったのかもしれませんね。更にひどい憶測ですが、張郃とかもいたかもしれませんね。
ペテン師さんの考えを見ていない段階では、こんな感じでしょうか。
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