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▼ノブナガさん:
返信ありがとうございます。
私は民衆大量虐殺はなかったと考えていますが、どうやら、民衆虐殺はあった、という前提で書いていらっしゃるみたいですので、私もその前提で返信いたします。
>まず、曹操が徐州に攻め入ったのは曹操の父を陶謙の部下が殺した為であって、そのことに関しては非難するほどのことではないかと。(当時の中国は恐らく儒教の色が強い国だったので、父のために出陣することはむしろほめられるべきことかと。)
>それにこれは私見ですが、曹操は自分が乱世の奸雄とよばれることに少しもためらいがなかったように思われるのです。そこから思うに、曹操軍にとって徐州の民の大虐殺とはそれほど大きなことではないのではと考えました
私は非難される事だと考えています。現代倫理の立場ではなく、自分が知りうる限りの情報でそう考えました。
ところで、曹操自身は民衆の大量虐殺を何とも思っていない可能性はありえますが、陳寿・晋朝はそんな軽い事とは思っていなかったと思うんですよ。だから、徐州の民衆虐殺を匂わせる記述をしたには、何らかのわけがあるんじゃないかな、という風に考えました。民衆虐殺を意図した記述じゃない、とか、陳寿たちも「そんな過去の話どっちでもいいよ」って考えていたら、別ですが(笑)。
ノブナガさんの考えは、「親に対する「孝」という大義名分があるから、この場合の民への虐殺はある程度容認される」ということだったと思います。そういう考えが当時の士大夫の当たり前のものだったのなら、陳寿、晋朝もそう考えたでしょう。
しかし、後の時代の編纂ではありますが、士大夫が徐州の民衆虐殺を非難しています。『後漢書』陶謙伝の、恵棟による注釈(?)らしきところで、裴松之・孫盛(彼らも士大夫とみらる)が民衆を殺害した事に対して非難しています。
だから、仮に後漢に儒教が浸透していたとしても、民衆虐殺が場合によっては非難されない、と当時の士大夫が考えるかどうかは謎です。むしろ、かなり後の時代であるにせよ、「徐州の民衆虐殺」を批判している士大夫がいる事を考えると、何らかの根拠を他の事例から引っぱり出さない限り、(真相はともかくとして、)説得力がないものになってしまいます。
そこで私も少し考えたのですが、根拠となりそうな事例が思いつきませんでした。なので、ちょっと違うかもなーと考えるようになりました。
少し考えたにすぎませんが、「虐殺OK」を立証する方法を二つ思いつきました。
一つは、民衆を虐殺した事について、賞賛ないし非難がなかった事例がある事。特に三国志の時代より前ならなお良い、と考えます。三国時代の士大夫は歴史(漢以前)の事を引き合いに出し、物事を考える指標にしているフシがあったと考えています。だから、三国志より前の時代に、虐殺OKという事例があったのなら、陳寿たち士大夫もそう考えた可能性が十二分にあります。
もう一つは、より直接的で、実際の曹操の徐州遠征後において、「当時の士大夫は徐州の大量虐殺の評価について、悪い評価ではなかった」、「徐州の民衆は曹操を慕っていた」というような記述がどこかにあれば、何よりも強力な根拠になるでしょう。
しかし、自分が知る限りでは、そういう記述はない筈です。なので、民衆大量虐殺があったとしたら、非難されて然るべき事なんじゃないか、と判断しました。
>それにこれは私見ですが、曹操は自分が乱世の奸雄とよばれることに少しもためらいがなかったように思われるのです。そこから思うに、曹操軍にとって徐州の民の大虐殺とはそれほど大きなことではないのではと考えました
ところで、曹操の関しては、謎多き人物で、当時の士大夫の中でも異端だった可能性はありますね。異端な発想者なら、そう考えるかもしれまんね。こればっかりはよくわかりませんが(笑)。曹操ってのは、超絶な天才なのか、並の知識人なのか、変人なのかさっぱりわからない人物ですね。その謎加減が、日本人の持つ探究心を駆り立て、さらに三国志にのめり込んでしまう要因かもしれませんね。
以上、長々と書いてしまいましたが、ノブナガさんや、皆さんはいかがお考えでしょうか。
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