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むじんさん
問題を整理していただいてありがとうざいます。
>ここで着目すべきは虐殺が行われた日付ではなくて「場所」です。
>虐殺現場となったのは明らかに彭城とその周辺です(『後漢書』が5県と言っているのは彭城、傅陽、取慮、スイ陵、夏丘を指している)。曹操がこの地方に攻めこんだのは初平4年であり、それは「武帝紀」とも一致しています。つまり「武帝紀」が殺戮の記述を興平1年に挿入していることを除けば、諸書の記述は日付も含めてまったく一致しているので、それをことさらに疑う必要はないのです。
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>『建康実録』という編年史料がありまして、この史料では延康1年と黄初1年を別の年として記述しているんですね(延康1年の途中で禅譲改元があっただけで同じ年を指している)。なので、それ以降『建康実録』の記録はすべて1年づつずれてしまっています(また『後漢紀』という編年史料でも袁術の称帝を建安3年とし以降1年づつずれている)。それでも、そのくらいの年代のずれでは史料内で互いの記述に矛盾は発生しないんです。しかし、場所のずれとなればそうはいかない。虐殺のあった場所ではなかったとされ、なかった場所であったとされれば、なにより現地の人からそれはおかしいと指摘されるでしょう。
>
彭城やその周辺での虐殺については、私も異論ありません。また、改元があったりすると、1年ズレたりする事がよくあるので、「年」でアプローチするよりは、「場所」という観点で考えた方がよさそうだって事ですね。確かにそっちの方が混乱も少なそうですね。
で、以上を踏まえた上で、私が以前質問した三点の現状を整理しますと…
1、「所過多所残戮」の文意はどういう意味でしょうか?
→ほぼ解決。
むしろ彭城やその周辺の虐殺の方をつめた方が良さそう、という事でこの質問自体、あまり意味がなくなってきました。また、これらの文字だけでは(真相はともかくとして)、民衆虐殺を意味すると判断できないので、そういう意味でも解決といえます。他の箇所では、対象が「男女」や「民」と断定してあったり、「董卓の乱の流民」を匂わす記述があると比較して、「所過多所残戮」は文字自体からしても民衆を含んだ表現とはいえないですし。
2、魏武帝紀以外に、大量虐殺の根拠となりそうな典拠は他にありますか?
→三国志や後漢書にいくつかあり。ある程度解決したものと思われる。
対象を民衆と断定していないが、大量虐殺に関連する箇所の記述あり
・三国志武帝紀本文
・三国志陶謙伝本文
・三国志荀イク伝本文
・後漢書荀イク伝本文(注釈にもそれらしき記述がない模様)
対象を民衆と断定している
・三国志武帝紀注釈(孫盛曰:「夫伐罪弔民…」)
・三国志陶謙伝注釈(呉書曰:「…多殺人民…」)
・三国志荀イク伝注釈(曹マン伝云「…坑殺男女数万口於泗水…」)
・後漢書陶謙伝本文(「…凡殺男女数十万人,鶏犬無余,泗水為之不流…」)
このほかに典拠はどれくらいあるのかは、よくわかりませんが、ひとまず上に挙げた典拠については、もう少し時間をかけて信憑性を考えていかないといけなそうですね。そうすれば、対象を判断できるかもしれません。
3、晋朝や陳寿はどういう風に三国志をどういう風に描こうとしていたか?
→解決不能?
私自身がこんな質問しておいて、ナンですが、解決不能かもしれません。私は割と陳寿は事実重視かなって思ったりするんですが、荀イクの孔融との袁紹陣営評価の箇所にあるように、多少の修正はあるんじゃないかなって思っています。もしかしたら、徐州における大量虐殺も何らかの修正がかかっているのか、と思い質問でのですが、今のところ解決不能です。虐殺の価値観について、目覚ましい進展があれば、突破口の一つになりうるかもしれませんが…。
いずれにしても、ペテン師さん、ノブナガさん、むじんさんが貴重なお時間を割いてご意見をいただいたおかげで、私にはなかった視点が加わったので、非常に感謝しております。
>また、曹操による大量虐殺の例として、官渡の戦いの戦後処理において袁軍兵士を穴埋めにした史実が挙げられると思います。こちらは捕虜の虐殺であり被害対象は異なりますが、わたしは徐州における事件とセットで考えていくべきだと思っています
官渡の件と徐州の件をセットで考えるとは、今までになかった視点がありそうな感じですね。
お手数をおかけして申し訳ないのですが、もしよろしければ、
むじんさんのご意見をうかがってもよろしいでしょうか?
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