<<
>>
年表(孫氏からみた三国志15〜21)
040314
<<年表(孫氏からみた三国志0〜14)


   以下は「孫氏からみた三国志」15〜27で取り上げた歴史的出来事を年表にまとめたもの。そのため、「孫氏からみた三国志」本編のネタバレを含む。
   「本当?」って思うような伝説的なことや個人的に事実とは思えないあやしいエピソードやあやふやな事実には()付けにしとく。
紀元年号出来事参照
 光和國皇星」が観測される。>>●
 光和自らを「大賢良師」と称し、「黄老道」というのをおさめていた張角は、弟子八人を四方へ送り込み、十年あまりの間、善道により天下を教化した。そのため、青州、徐州、幽州、冀州、荊州、楊州、えん州、豫州の郡や国で人が数十万人ほど集まる。やがて、「蒼い天はもはや死んだ 黄色の天(黄天)が必ずはじまる その年は甲子(西暦184年)にある 天下は大いに幸せとなる」という流言が広める。>>●
184光和七年張角の信者、「大方」の馬元義が荊州と楊州で数万人、集めた。馬元義は京師へ数回、行って、中常侍(宦官の役職)の封しょや徐奉たちと内応する。三月五日に京師の内外(内が京師、外が冀州魏郡のぎょうから)で一斉に蜂起する計画。>>●
184光和七年張角の弟子、濟南國出身の唐周が馬元義のことを上書し告発する。そのため馬元義は京師で捕らえられる。>>●
184光和七年皇帝は三公太尉司徒司空の三つの役職。最高位)や司隸に命令し、 鉤盾令という役職の周斌という人に三府(三公の役所)の属官を率いらせ、宮中の衛兵や禁中の人々が張角を信仰しているかどうか、証拠をあげ調べ、その結果、千人あまり、殺される。さらに冀州を探り、張角たちを追い捕らえようとする。>>●
184光和七年二月張角の指令により、各地の「方」で一斉に挙兵する。その一人一人が黄色の巾をかぶっていたので、「黄巾」または「蛾賊」と呼ばれる。張角は「天公将軍」と自称し、張角の弟、張寶は「地公将軍」、張寶の弟、張梁は「人公将軍」と自称し官府(役所)を焼き、まちを攻め取り、州や郡はよりどころを失い、長官の多くは逃亡する。十日の間に天下はすぐに反応した。>>●
184光和七年冀州の安平國と甘陵國の人々はそれぞれの國の王(安平王の劉續と甘陵王の劉忠)をとらえ、黄巾に呼応する。>>●
184光和七年三月戊申(三日)河南尹の何進(字、遂高)が大将軍に任じられる。何進は都亭(公設の亭)に将や兵を駐屯させ、八つの関、函谷、大谷、廣城、伊闕、かん轅、旋門、孟津、小平津に都尉をおく。>>●
184光和七年三月壬子(七日)皇甫嵩(字、義真)や呂強(字、漢盛)の考えにより、張角以外の天下の「黨人」は許される。>>●
184光和七年盧植(字、子幹)を北中郎将にし(副将に護烏桓中郎将の宗員、その他、北軍五校士)、皇甫嵩(字、義真)を左中郎将、朱儁(字、公偉)を右中郎将にする。>>●
184光和七年皇甫嵩朱儁は五つの校、三河(京師のある河南尹、その隣にある、河内郡、河東郡、この三つ)の騎兵、さらに精鋭を募集し軍を編成し、四万人余りの軍勢にする。>>●
184光和七年皇甫嵩傅燮(字、南容)を護軍司馬にする。>>●
184光和七年朱儁は張超(字、子並)を別部司馬し、孫堅(字、文台)を佐軍司馬にする。孫堅は旅の商人や淮水や泗水流域(ともに川の名前)の精兵を募集し、合わせて千人になる。また、家族の居を寿春に移す。>>●
184光和七年孫堅28歳と呉夫人の間に孫翊(孫儼)が生まれる。 >>●
184光和七年四月朱儁の軍が潁川郡で波才が率いる黄巾の軍に敗れる。>>●
184光和七年四月庚子(二日)荊州南陽郡において黄巾の張曼成は「神上使」と自称し数万人を集めていた。南陽太守・ちょ貢は張曼成に殺される。>>●
184光和七年黄巾の軍が汝南郡邵陵で汝南太守・趙謙をやぶっている。并州廣陽郡では黄巾の軍が幽州刺史・郭勳と太守・劉衛を殺している>>●
184光和七年五月乙卯(七日)馬元義は車裂きの刑に処される。>>●
184光和七年五月皇甫嵩の軍が豫州潁川郡長社で波才の軍に包囲される。皇甫嵩の軍は火計と夜襲を駆使し、波才の軍を敗走させる。たまたま京師から派遣された曹操(字、孟徳)の軍、朱儁の軍と共同で、波才の軍を大いにやぶり、数万の首を斬る。その功績で皇甫嵩は都郷侯に封じられ、車騎将軍040216-3)を兼行し、朱儁は西郷侯に封じられる。>>●
184光和七年皇甫嵩朱儁の軍は陽てきで波才の軍をたおす。>>●
184光和七年盧植の軍は張角の軍に連戦連勝で、冀州鉅鹿郡の廣宗に追いつめる。攻める準備をしていたところ、小黄門の左豐により偽りの報告をされる。そのため、盧植は京師へ連れ戻され死罪一等を減じられる。盧植の代わりに董卓(字、仲穎)が東中郎将となり派遣される。>>●
184光和七年六月荊州南陽郡の宛に駐屯していた張曼成は百日あまりたった後、南陽太守に着任した秦頡により殺される。黄巾側は趙弘がたつ。>>●
184光和七年六月交阯郡に駐屯する兵が刺史および合浦太守をとらえ、「柱天将軍」と自称する。交阯刺史として派遣された賈j(字、孟堅)に平定される。>>●
184光和七年豫州の黄巾に対し、王允(字、子師)が豫州刺史に任命され派遣される。王允荀爽(字、慈明)と孔融(字、文舉)という人を招き、従事とする。>>●
184光和七年皇甫嵩朱儁の軍は豫州汝南郡の西華まですすみ、彭脱率いる黄巾の軍と戦う。>>●
184光和七年孫堅の軍は勝ちに乗じ攻めるが、敗北する。孫堅は負傷し、草むらの中で倒れる。後、孫堅の乗っていた馬に発見される。>>●
184光和七年皇甫嵩朱儁の軍は彭脱の軍を大いに敗る。王允の軍の勝利と合わせ、降伏した敵兵は数十万にものぼる。豫州の潁川郡、汝南郡、陳国の三郡は平定される。この功績により朱儁は鎮賊中郎将になる。>>●




<<
>>