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西華の忠馬物語(孫氏からみた三国志21)
031128
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   孫堅(字、文台)が佐軍司馬として従軍する朱儁(字、公偉)の軍。朱儁は右中郎将という役職。
   その朱儁の軍と行動をともにするのが皇甫嵩(字、義真)の軍。皇甫嵩は左中郎将兼車騎将軍に就いている。つまり、官位的には朱儁の上司にあたる。

   豫州潁川郡波才率いる黄巾の軍に荒らされていたんだけど、京師からやってきた皇甫嵩と朱儁の軍(+騎都尉の曹操の軍)によりどうやら平定されたようだ。
   光和七年の五月から六月にかけて、皇甫嵩と朱儁の軍は、波才の軍に勝った勢いで、潁川郡のとなり、汝南郡や陳国へと進む。そこにも黄巾の軍はいたようだ。

   以前、ふれたように、四月に汝南郡の太守の趙謙は、汝南郡の邵陵において黄巾の軍に破れている。
   実は趙謙の話には続きがある。このとき、趙謙の配下に、功曹の封觀、主簿の陳端、門下督の范仲禮、賊曹の劉偉コ、主記史の丁子嗣、記室史の張仲然、議生の袁祕(字、永寧)の七人がいて、身をもって黄巾の攻撃を防ぎ、死んでしまったとのこと1)
   敗戦で趙謙は太守をやめさせられたんだけど、亡くなった七人を「七賢」と呼ぶよう、詔(皇帝の命令)が下った。
   命を落としてまで黄巾と戦う姿勢が皇帝をも感動させたんだろう

   潁川郡、汝南郡、陳国、これらに共通することは豫州に所属するってこと。
   ここで豫州の刺史に王允(字、子師)という人が選ばれている。もちろん、揚州刺史だった臧旻>>参照)、交州刺史だった朱儁(>>参照)、賈j(>>参照)の例と同じく、この地を平定することと豫州の刺史になるというのがセットだったようだ。
   王允は部下に荀爽(字、慈明)と孔融(字、文舉)という人を招き、従事とした2)。前者の荀爽は黨人(党人)だったらしいので、ちょうど、「黨禁(党禁)」が解かれての仕官となった。    こんなところに呂強や皇甫嵩たちの努力(>>参照)がみのった一角がみえて妙に嬉しい。


   これらの軍はどうだったかわからないが、皇甫嵩と朱儁の軍は勢いに乗ってたようで、西華という地まで軍を進める。対する黄巾の将は彭脱という人だったらしい3)
豫州、汝南郡&陳国の戦い
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版) 但し、画面上のルートの位置に根拠はありません

   黄巾との戦い、ここでようやく孫堅(字、文台)の名が史書(韋昭撰「呉書」)に出てくる4)
   皇甫嵩と朱儁の軍の全体がそうだったように、文台は勝ちに乗じて攻めていた。
   ところが、文台は調子に乗りすぎたのか、深入りしすぎて、この西華の地で負けていた
   それだけではない。
   文台自身、傷を受け、馬から落ち、草の中で倒れた
   誰が助け出せばいいものの、そうはいってられないようで、戦に負けたんだから、文台の軍はちりぢりになって助けるどころか、誰も文台がどこにいるのかも知らなかった。

   文台がここであっさり戦場で野垂れ死んで、「孫氏からみた三国志」終わり!……なんてことは、もちろんならない

   あるとき、そう馬(青白い毛の混じる馬)が軍営に単独で帰ってきた。軍営にいた人々がどこかで見た馬だな、と思ったか知らないが、その馬は間違いなく文台が乗っていた馬
   そのそう馬は文台が倒れた地で叫び鳴く。将士たち(軍での指揮官たち?)はその馬についていったようで、試しにそう馬が鳴いたところの草むらを調べてみる。
   そうすると、そこには文台が倒れていた。どうやら息はまだあるようだ。

   自分のご主人の所在を教える馬なんて賢くてそれに忠義心抜群!
   おかげで文台の命はたすかった(そして「孫氏からみた三国志」は続く・笑)

   文台は軍営に連れ戻された。自力で帰れないぐらいなんで、やっぱり重傷だったようで、戦に出ずに、十数日、軍営にいた。
   それだけいたら、傷も少しは癒えるんだけど、全快まではほど遠い。
   ところが文台はそれだけ待ってすぐに戦に出かけてしまう。元気なお兄さんだなぁ……(このとき、二十代後半)

   結構、史書に情けないことを書かれてしまった文台だけど、この西華の戦い全体は結局、皇甫嵩と朱儁の軍が彭脱の汝南黄巾軍を大いに破り終結することになる。
   このとき、皇甫嵩と朱儁の軍、それに豫州刺史の王允の勝利によって、降伏した敵兵は数十万にものぼったそうだ5)

   こういうような戦により、豫州の、潁川郡、汝南郡、陳国の三郡はことごとく平定される。
   皇甫嵩は朱儁の活躍を書状にしたため、中央へ報告して、その功績で、朱儁は「鎮賊中郎将」になったそうな6)

   こうして豫州の対黄巾戦は一段落ついたんだけど、文台、公偉、それに義真にはまだまだ戦いが待ち受けていた。




1)   七賢のこと。まず後漢書。「忠子祕、為郡門下議生。黄巾起、祕從太守趙謙撃之、軍敗、祕與功曹封觀等七人以身扞刃、皆死於陳、謙以得免。詔祕等門閭號曰『七賢』」(「後漢書卷四十五   袁張韓周列傳第三十五」より)。その中にあった中に七人の名がそれぞれの役職とともに連なっている。「祕字永寧。封觀與主簿陳端・門下督范仲禮・賊曹劉偉コ・主記史丁子嗣・記室史張仲然・議生袁祕等七人擢刃突陳、與戰並死」(「謝承後漢書」より)。結果的に、「陳」を「陣」と同等として訳したんだけど、はじめは地名の「陳」として訳していた。汝南郡のお隣だし。どっちだろ?
2)   王允と黄巾。ご存じの方はご存じだろうけど、王允は後のエピソードで有名な人。さらりと流してみる(あ、史書をみると、武術の鍛錬も忘れずやっていたようで)。あと部下のお二人も有名。「允少好大節、有志於立功、常習誦經傳、朝夕試馳射。三公並辟、以司徒高第為侍御史。中平元年、黄巾賊起、特選拜豫州刺史。辟荀爽・孔融等為從事、上除禁黨。」(「後漢書卷六十六   陳王列傳第五十六」より)。ところで、部下のお二人の荀爽の伝、孔融の伝をみると、このときのエピソードが全然、書かれてない。王允を引き立てるために創ったのか? なんてちょっと疑ってしまう。
3)   立ちはだかる彭脱(今回のネタバレ含む)。「嵩・儁乘勝進討汝南・陳國黄巾、追波才於陽てき、撃彭脱於西華、並破之。餘賊降散、三郡悉平。」(「後漢書卷七十一   皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より)。ここで場所と黄巾の将の名がわかるんだけど、時期は後漢書本紀にたよっている。「(六月)皇甫嵩・朱儁大破汝南黄巾於西華。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。
4)   文台の記述(今回のネタバレ含む)。「堅乘勝深入、於西華失利。堅被創墮馬、臥草中。軍衆分散、不知堅所在。堅所騎そう馬馳還營、踣地呼鳴、將士隨馬於草中得堅。堅還營十數日、創少愈、乃復出戰。」(「三國志卷四十六   呉書一   孫破虜討逆傳弟一」の注に引く「呉書」より) 全体としては勝っている状況なのに、なぜか文台は瀕死の状態パート1。いやパート2も有り(笑)
5)   豫州黄巾戦の行方。脚注2)の直後の文。「討撃黄巾別帥、大破之、與左中郎將皇甫嵩・右中郎將朱儁等受降數十萬。」(「後漢書卷六十六   陳王列傳第五十六」より)
6)   朱儁、「鎮賊中郎将」になる。「及黄巾起、公卿多薦儁有才略、拜為右中郎將、持節、與左中郎將皇甫嵩討潁川・汝南・陳國諸賊、悉破平之。嵩乃上言其状、而以功歸儁、於是進封西郷侯、遷鎮賊中郎將。」(「後漢書卷七十一   皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より)。今まで皇甫嵩のところからが元ネタだったけど、同じ「皇甫嵩朱儁列傳」でもここは朱儁のところからの引用。
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