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皇甫嵩vs.波才(孫氏からみた三国志19)
031122
<<涼州の将と良い宦官・悪い宦官(孫氏からみた三国志18)


   どうやら、先に朱儁(字、公偉)の軍(含む、文台?)が波才(おそらく姓+名表記かと)という人が率いる黄巾の軍と潁川郡で遭遇したようで、それだけじゃなく、戦に敗れたらしい。どうやら交阯の兵乱で公偉が見せたような政治力を戦にいかすという間もなかったようだ(>>参照)。
(ちなみに後漢紀では、皇甫嵩と朱儁の軍が連敗していることになっている1)。)

   黄巾の軍の勢いはそれだけじゃなく、他の地域でも官軍が負けている。まず、潁川郡の南となりの汝南郡では、黄巾の軍が邵陵というところで、汝南の太守の趙謙をやぶっている。またそんな近場だけじゃなく、遠く北の并州の廣陽郡では黄巾の軍が 幽州刺史の郭勳と太守(廣陽郡?)の劉衛を殺している8)
   公偉の敗戦はそんな全国的な官軍の敗戦を象徴するかのようだった。

   一方、相方の皇甫嵩(字、義真)の軍(含む、傅燮)は、長社と言うところまで進み、そこを守っていた(今回は後漢書皇甫嵩伝2)中心の記述です)。そこに公偉の軍を破った波才登場。義真の軍がいる長社を大軍で囲んだ(朱儁の軍は一緒だったのか不明)。兵力が充分であれば、撃って出て追い払うなり返り討ちにするなりすれば良いんだけど、どうやら、義真の軍は波才の軍より少ないみたい。あと、大軍を目の前にしてか、公偉の敗戦を耳にしたのか、皆、怖がっていた。

   司隷からその南にある豫州潁川郡へ進んだ義真と公偉の軍。おそらく潁川郡から司隷へ攻め込もうとしている波才の黄巾軍。この両者がぶつかった初戦は公偉の軍が敗退し、さらに義真が長社というところで包囲されている。波才の狙いは、義真の軍と公偉の軍が力を一つにして向かってくる前に、個別に撃破しようとするものだったのだろうか。義真の軍がこのままやられてしまえば、そのまま、潁川軍から司隷、ひいては皇帝のいる京師がおそわれてしまう。義真の軍はなんとしても波才の軍に勝たなければならなかったんだろう。

   だけど、長社の城に釘付けにされている義真の軍。しかも、軍中は誰もがおびえている。そんな中で義真は軍吏(部下?)を呼び寄せて言い放つ。
「兵は奇変であって、その多い少ないではない。今、賊は草にいて、陣営を築いていて、簡単に風で火がひろがるだろう。つまり、夜陰に乗じ放火すれば、必ず大いに取り乱すだろう。私が兵を出しこれを攻撃し、それと同時に四方から攻撃すれば、田單の功績を成し遂げられるだろう」
   義真はこんなふうに部下たちへ反撃の作戦を述べた。その内容は火計であり、理屈で部下たちが抱いていた恐怖心を消し去ろうとしたんだろう。そうでなくては、義真の軍どころか、京師ですら危うい。
   セリフの最後の「田單」という人は史記に載っている人だそうな3)。なんでも、田單は齊という国の将で、墨城を守っていたらしい。そこに燕の国の軍から攻められたんだけど、田單は牛千頭に五色の衣をつけ、その角に矛と盾をつけ、その尾に火をつけ、城壁をとおし外に出し、城壁の上で騒ぐと、燕の国の軍は大敗したとのこと(どういう発想でこういうシュールなことを思いつくんだろう…)。
   その田單と自分たちの軍のイメージを重ね合わせることで、軍の強さはその数の大小じゃなく、奇変(奇襲?)だぞと、部下たちを勇気づけたんだろう。

   作戦を遂行するため、義真は機会をうかがう。

   その夕方、大きな風が吹き始めた
   これは義真が軍吏の前で言ったことの好条件。風があれば火が燃え広がる。もちろん、武官サラブレッド(清岡が勝手に命名>>参照)の義真はそのチャンスを見過ごすわけはない。
   義真は指示する。兵士みんなに、たいまつを束ねさせる。そして、城壁の上に登らせる。
   一方、それとは別に義真は精鋭を集め、別行動をさせる。精鋭たちを敵の包囲の外へひそかに出るようにさせた。
   そう義真が言ったように、そこから精鋭たちは火を放ち、大声を出した。大声を出すのは、敵の混乱を誘うことと、味方への合図なのだろうか。
   とにかく、それに対し、城の上にいた兵士たちはかがり火で呼応した。そして、義真は鼓をたたき(「進め」の合図4))、兵士たちを引き連れ、敵の陣営へおもむいた。
   当然、波才の軍はおどろき、軍を整えることもできず乱れた。

   波才の軍は反撃の糸口を見つけることもできず、逃走する。

   見事、義真の作戦は成功した


   運がいいことに、たまたま(時間レベルなのか日にちレベルかわからないけど)、京師から義真と公偉の軍をたすけるようと、騎都尉9)という役職の曹操(字、孟徳)という人が兵を率いて来ていた。
   ピンチを脱した後にチャンスあり!   義真は自分の軍、公偉の軍、それに新たに参じた曹操の軍を合わせ、波才の軍を追撃する。
   皇甫嵩・朱儁・曹操の連合軍は長社にて、波才の軍を大いに破った。それは数万の首を斬るほどの大勝利だった。
   後漢書、後漢紀とも、それは光和七年(西暦184年)五月のことだったという5)
対波才戦
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版) 但し、画面上のルートや戦マークの位置に根拠はありません

   後漢書皇甫嵩伝によると、この功績で、皇甫嵩は都郷侯に封じられることになる。(つまり、都郷国(県レベル)の税をもらえるってことで)
   また、後漢紀によると6)、皇甫嵩は車騎将軍040216-3)を兼行することになり都郷侯に封じられ、朱儁は西郷侯に封じられている。皇甫嵩の軍中にいた傅燮(字、南容)も功績が大きく、同じように諸侯に封じられそうだったんだけど、そのとき、中常侍趙忠からうったえられていたもんだから(その内容は不明)、事情がちがってきている。結局、趙忠の訴えで傅燮は罪になることはなかったけど、諸侯に封じられることもなかった。これって前回、触れた、傅燮の上奏に対する趙忠の仕返し?(>>参照)。うーん、逆恨みもいいところだ。もし趙忠の思惑通り、ことが運んでいたら、諸侯に封じられないどころか、下手をすると、傅燮は失脚する羽目になっていたかも。
(このときの軍中に居ただろう我らが孫堅(字、文台)の出世は後でまとめて書かれる)

   ちなみに、援軍に来た騎都尉の曹操は今後、黄巾戦に名前が見えないので、多分、このときの功績が関係し、濟南国の相になっている。騎都尉が比二千石で、騎都尉の前に着任していた議郎031026-5)が六百石、で濟南国の相030421-15)が二千石だから順調な出世ってことだろう7)

   話を戦場に戻す。
   そして、勢いに乗る、皇甫嵩・朱儁軍は陽てきというところで、ついに波才の軍を倒した

   黄巾の一角、潁川郡の波才の軍を倒した皇甫嵩・朱儁軍の前にはまだまだ黄巾の軍がいた。
   戦場はさらに京師から離れた汝南郡や陳国に移るのだけど。
   それは次々回まわし。
(あ、文台の動きだけみたい方はこちら→>>参照



1)   皇甫嵩と朱儁の軍の連敗(ネタバレ含む)。「(四月)皇甫嵩・朱儁連戰失利。遣騎都尉曹操將兵助嵩等。」(「後漢孝靈皇帝紀中卷第二十四」より)。この後漢紀を基準にするか、後漢書を基準にするかで、無敗かどうか違ってくる。
2)   後漢書皇甫嵩伝の波才戦記述(ネタバレ含む)。「儁前與賊波才戰、戰敗、嵩因進保長社。波才引大衆圍城、嵩兵少、軍人皆恐、乃召軍吏謂曰:『兵有奇變、不在衆寡。今賊依草結營、易為風火。若因夜縱燒、必大驚亂。吾出兵撃之、四面倶合、田單之功可成也。』其夕遂大風、嵩乃約敕軍士皆束苣乘城、使鋭士闖o圍外、縱火大呼、城上舉燎應之、嵩因鼓而奔其陳、賊驚亂奔走。會帝遣騎都尉曹操將兵適至、嵩・操與朱儁合兵更戰、大破之、斬首數萬級。封嵩都郷侯。嵩・儁乘勝進討汝南・陳國黄巾、追波才於陽てき、撃彭脱於西華、並破之。」(「後漢書卷七十一皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より)。いつもながら列伝は詳細に書いてるなぁ
3)   田單の戦。実は本文は後漢書皇甫嵩伝の注を訳したもの。実際、史記を見てみると、それよりは詳しく書いてある。どちらにせよ、絵的にはかなり変。「田單乃收城中得千餘牛、為絳処゚、畫以五彩龍文、束兵刃於其角、而灌脂束葦於尾、燒其端。鑿城數十穴、夜縱牛、壯士五千人隨其後。牛尾熱、怒而奔燕軍、燕軍夜大驚。牛尾炬火光明R燿、燕軍視之皆龍文、所觸盡死傷。五千人因銜枚撃之、而城中鼓譟從之、老弱皆撃銅器為聲、聲動天地。燕軍大駭、敗走。」(「史記卷八十二田單列傳第二十二」より)
4)   鼓を叩く。「起譟鼓而進、則以鐸止之。」(「司馬法嚴位第四」より)。てな感じで、鼓を叩き始めると進んで、鐸(おおすず)で止まれの合図。
5)   後漢紀&後漢書に記された時期。「(五月)皇甫嵩・朱儁撃黄巾波才於潁川、大破之、斬首數萬級。」(「後漢孝靈皇帝紀中卷第二十四」より)。「五月、皇甫嵩・朱儁復與波才等戰於長社、大破之。」(後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)。この2つの史書は結構、時間がずれたりするけど、珍しくあってる。
6)   みなさん、報酬はもらっているのね、後漢紀編。「詔嵩行車騎將軍、封都郷侯;儁、西郷侯。於是傅燮功多應封、為趙忠所譖。上識燮、不罪之、然不得封。」(「後漢孝靈皇帝紀中卷第二十四」より)。この後も戦が続くから、そのときの功績も含むのかなぁ、と思うんだけど、後漢紀ではこのタイミングで出てきている。傅燮と趙忠の宿命の対決はこの後も続く。
7)   曹操の出世。久しぶりに三国志から。「年二十、舉孝廉為郎、除洛陽北部尉、遷頓丘令、徴拜議郎。光和末、黄巾起。拜騎都尉、討潁川賊。遷為濟南相、」(「三國志卷一   魏書一   武帝紀第一」より)。この後、有名になる人だから、もっと詳しく書いていいもんだけど、「孫氏からみた三国志」なのでお許しを。
8)   いろんなところの黄巾の兵乱。公偉の敗戦031026-17)の直後の記述となる。「(夏四月)汝南黄巾敗太守趙謙於邵陵。廣陽黄巾殺幽州刺史郭勳及太守劉衛。」(後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)。
9)   騎都尉のこと。「騎都尉、比二千石。本注曰:無員。本監羽林騎。」(「後漢書志第二十五   百官二」より)。というように給料、比二千石で、本注によると、定員はないとのこと(この訳であっているのかな)。羽林騎とは皇帝の御所を守る騎馬隊のことかな。これを監督するのかな。
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