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対黄巾防衛戦(孫氏からみた三国志16)
031004
<<陰謀発覚!(孫氏からみた三国志15)


   馬元義の悪事がバレて、その親玉である張角が追われることになったんだけど、逃げながらも、張角は反撃の手はうっていた。
   「方」へ指令を出していたのだ。その指令というのは何か?   すぐに答えが現れる。

   張角の弟子たちは各地で、一斉に兵をあげた

   それは、後漢書本紀031003-3)後漢紀によると1)、光和七年(西暦184年)二月のこと。結果的に馬元義がかかげた約束の日の三月五日より早まってしまう。(この三月五日は張角サイド共通の認識だったんあろうか?)
   で、その兵卒たちはどんな格好をしているかというと、皆、黄巾(黄色い頭巾?   黄色いえりかけ?   黄色い布?)を身につけ、旗印としていた。そんなんだから、当時の人はこれを「黄巾」または「蛾賊」(色的に?   性質的に?)と呼んだ。以後、張角の集団を「黄巾」と呼ぶ。この黄巾、人を殺すことで天にまつるとのこと。もう危険きわまりない天への祭り方!   張角の動きははっきりしてくる。というわけで、今回も後漢書皇甫嵩伝から主に引用2)

   張角は「天公将軍」と自称し、張角の弟、張寶は「地公将軍」、張寶の弟、張梁は「人公将軍」と自称し(後漢紀だと、角良寶という順の兄弟1))、官府(役所)を焼き、まちを攻め取り、州や郡(後漢紀だと「州郡倉卒」州や郡の倉を守る兵卒?1))はよりどころを失い、長官(後漢紀だと、二千石長吏、つまり郡の太守や國の相1)のこと)の多くは逃亡した。「将軍」と自称するってことは明らかに軍事活動を起こそうとしていたことがわかる。
   十日の間に天下はすぐに反応し、京師(みやこ)は驚き騒いだ。馬元義による直後の騒ぎは京師にとどまっていたんだけど、張角が大規模なものにしてしまう。

   そりゃもう大変なもので、特例だとは思うけど、地域の住民の中には黄巾に呼応するところもあったようだ。それは、安平國と甘陵國の出来事。その國(行政区域で郡レベル)の人々はそれぞれの國の王(安平王の劉續と甘陵王の劉忠)をとらえ、黄巾に呼応したようだ3)。下の地図を見るとやはり張角のいる鉅鹿郡に両方とも接しているから、黄巾への恐怖が大きかったんだろうか。

   もちろん、これに政府が対抗していくことになる。
   三月の戊申(旧暦でいう三日)のこと4)
   まず、対抗する軍のリーダーを決めると言うことで、選ばれたのは、 河南尹の何進(字、遂高)。河南尹とは、みやこの長官みたいなもので、その役職から何進がなったのは、「大将軍」という何ともわかりやすい役職。将軍の中では一番、偉いらしい7)
   何進は、都亭(公設の亭)に将や兵を駐屯させ、八つの関に都尉をおいた。八つの関とは函谷、大谷、廣城、伊闕、かん轅、旋門、孟津、小平津のこと。ちょうど、洛陽をぐるりと囲むように配置されている。まず、皇帝をすむところ、政府の本拠地を守ろうということなのかな?   そして、詔(皇帝からの命令)がくだり、州郡の武器を修理し、訓練が行われた。
   さらに皇帝の臣下が集められ、会議が開かれた。皇甫嵩(字、義真)という人は、「黨禁(党禁)」を解き、宮中の倉の銭と西園の厩(うまや)の馬を出し(防衛にあてるってこと?)、兵士を連ねるべきだと考えた。

   「黨禁」を説明すると、時代をさかのぼって長くなるので、簡単に言うと、延熹九年(西暦166年)に、李膺ら二百人あまりが逮捕され8)、それ以後、その流れをくむ者たち、つまり黨人(党人)が官吏(役人)になることが禁止されたことをさす。李膺は仲間と政治的な党を組んだり、太学の遊士を養ったり、いろんな郡にいる学生と通じたりと一大勢力を築いていた9)。どうも元々は司隸の李膺と道術士の張成のいざこざだったようだけど、これに李膺らの政敵である一部の宦官030406-3)ら(あるいは、一部の中常侍031026-12))が乗じて、政権を脅かす勢力として黨人(党人)をとらえ彼らを弾圧するように「黨禁」が続いたということなのだろう(こんなテキトーな説明で恥ずかしいけど・汗)。

   話を戻して、とにかく、皇甫嵩は人材と物資を充実させることが先決と考えたんだろう。
   また、後漢紀によると5)、宮中や禁中で数千人、亡くなるなど、悲劇的なことがあったせいか、皇帝は、掖庭令という役職の呂強(字、漢盛)という人にこの事態をどうするか訊いた。そうすると、「左右のずるい者を誅して(斬って)ください。中常侍の丁肅、徐演、李延、趙裕、郭耽の朝廷の五人は忠義があり清らかで、任用に足る人物です。黨人をゆるし、そこから選んで、さらに刺史や二千石の役職(太守や相)の才能の有無を調べれば、賊の何をおそれましょうか!」

   後漢書本紀によると、皇帝はこれらの考えに従い、天下の「黨人」をゆるした。三月壬子のこと(三月七日)。この日付を信じるなら、大将軍を任命してから4日後のことだ。もちろん、張角はゆるさなかったとのこと。さらに公卿(高官の方々)に馬や弩(いしゆみ)を出すように命令し、天下の精兵をつかわし、広く将帥(指揮官)を選んだ。八つの関の都尉が「守る」ための将にたいして、今度は「攻める」ための将ってわけ。
   それで選ばれたのが、まず、盧植(字、子幹)。北中郎将という役職になったそうな。彼の担当するのは、ズバリ、張角のいる冀州方面。副将に護烏桓中郎将の宗員、その他、北軍五校士というのを従えている6)
   次に、皇甫嵩(字、義真)。そう、兵乱討伐に際して、人材と物資を捻出するアイディアを持っていた人だ。こちらは左中郎将という役職をさずけられた。担当するのは南の潁川郡方面。

   さらにこの潁川郡方面担当に選ばれた人がもう一人いる。それは朱儁(字、公偉)。右中郎将という役職。ん?   どこかで聞いたことある名前だな   って思った方はお目が高い。この人は「孫氏からみた三国志」で二回ほど、準主役にした人。
官軍対黄巾、開始時点
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版) 但し、画面上のルートの位置に根拠はありません

   で、勘のいい人なら想像つくと思うけど、なんで、今までこの人を準主役に取り上げたかというと、実は、今回、孫堅(字、文台)と関わってくることになるから。

   次回、いよいよ、文台の登場となる。




1)   後漢紀、黄巾挙兵のところ。「二月、角等皆舉兵、往屯聚數十百輩、大者萬餘人、小者六七千人。州郡倉卒失據、二千石長吏皆棄城遁走、京師振動。角黨皆著黄巾、故天下號曰『黄巾賊』」(後漢孝靈皇帝紀中卷第二十四より)。
2)   後漢書皇甫嵩伝の黄巾挙兵のところ。今回もこれが元ネタで大活躍。ただ、前回より他の部分やら史書やらからミックス度合いが大きいの注意が必要。脚注031003-2)からの続きの部分。またまた長い。「角等知事已露、晨夜馳敕諸方、一時倶起。皆著黄巾為ひょう幟、時人謂之『黄巾』、亦名為『蛾賊』。殺人以祠天。角稱『天公將軍』、角弟寶稱『地公將軍』、寶弟梁稱『人公將軍』、所在燔燒官府、劫略聚邑、州郡失據、長吏多逃亡。旬日之閨A天下嚮應、京師震動。
   詔敕州郡修理攻守・簡練器械・自函谷・大谷・廣城・伊闕・かん轅・旋門・孟津・小平津諸關、並置都尉。召群臣會議。嵩以為宜解黨禁、益出中藏錢・西園厩馬、以班軍士。帝從之。於是發天下精兵、博選將帥、以嵩為左中郎將、持節、與右中郎將朱儁、共發五校・三河騎士及募精勇、合四萬餘人、嵩・儁各統一軍、共討潁川黄巾。」(後漢書卷七十一   皇甫嵩朱儁列傳第六十一より)。
3)   捕らえられた王たち。「安平・甘陵人各執其王以應之。」(後漢書卷八孝靈帝紀第八より)。実は脚注031003-3)からの続きの部分。黄巾が叛乱を起こしただけでも大変なのに、こんなことが地方であったら、さぞかし、精神的にまいってしまったことだろう。
4)   後漢書本紀のところ。脚注3)からの続き。今回のネタバレ含んでる。「戊申」や「壬子」はサイト「台湾中央研究院」の「學術資源」→「中央研究院兩千年中西歴轉換」をつかって調べている。「三月戊申、以河南尹何進為大將軍、將兵屯都亭。置八關都尉官。壬子、大赦天下黨人、還諸徙者、唯張角不赦。詔公卿出馬・弩、舉列將子孫及吏民有明戰陣之略者、詣公車。遣北中郎將盧植討張角、左中郎將皇甫嵩・右中郎將朱儁討潁川黄巾。」(後漢書卷八孝靈帝紀第八より)
5)   脚注1)からの後の後漢紀の記述。「於是考諸與角連反、宮省左右死者數千人。上内憂黄巾、問掖庭令呂強何以靜寇、對曰:『誅左右姦猾者。中常侍丁肅・徐演・李延・趙裕・郭耽、朝廷五人、號為忠清、誠可任用。赦黨人、簡選舉、何憂於賊!』上納其言。」(後漢孝靈皇帝紀中卷第二十四より)。セリフ部分は微妙に「強欲先誅左右貪濁者、大赦黨人、料簡刺史・二千石能否。」(「後漢書卷七十八   宦者列傳第六十八」より)が混ざっている(笑)
6)   盧植の記述。はい、後漢書の盧植伝の記述から。「中平元年、黄巾賊起、四府舉植、拜北中郎將、持節、以護烏桓中郎將宗員副、將北軍五校士、發天下諸郡兵征之。」(「後漢書卷六十四   呉延史盧趙列傳第五十四」より)。文中の「四府」とは太尉、司徒、司空、司隸の公府(役所)だろうかね。
7)   (10/7追記)大将軍。そういや、前回と今回、役職の脚注を入れてなかったなと気づく。気づいたら後の祭り。まぁ、前回&今回はダイジェストな気分なので、あまりいらないかな、なんて考えてたのかなぁ。とりあえずこれはかく。「將軍、不常置。本注曰:掌征伐背叛。比公者四:第一大將軍、次驃騎將軍、次車騎將軍、次衛將軍。又有前・後・左・右將軍」(「後漢書志第二十四   百官一」より)。この記述の後に大将軍の歴史が語られる。。。
8)   (10/25追記)西暦166年の李膺らが捕まる事件。「(延熹九年冬十二月)司隸校尉李膺等二百餘人受誣為黨人、並坐下獄、書名王府」(「後漢書卷七   孝桓帝紀第七」より)。後漢書だとこうだけど後漢紀はというと…「(延熹九年)九月、詔收膺等三百餘人、其逋逃不獲者、懸千金以購之、使者相望於道、其所連及死者不可勝數、而黨人之議始於此矣。」(「後漢孝桓皇帝紀下卷第二十二」より)というように、日付、人数が違う。
9)   (10/25追記)ここらへんは「後漢書卷六十七   黨錮列傳第五十七」によっている。党人について「時河内張成善説風角,推占當赦、遂教子殺人。李膺為河南尹、督促收捕、既而逢宥獲免、膺愈懷憤疾、竟案殺之。初、成以方伎交通宦官、帝亦頗誶其占。成弟子牢脩因上書誣告膺等養太學遊士、交結諸郡生徒、更相驅馳、共為部黨、誹訕朝廷、疑亂風俗。於是天子震怒、班下郡國、逮捕黨人、布告天下、使同忿疾、遂收執膺等。其辭所連及陳寔之徒二百餘人、或有逃遁不獲、皆懸金購募。使者四出相望於道。明年、尚書霍しょ・城門校尉竇武並表為請、帝意稍解、乃皆赦歸田里、禁錮終身。而黨人之名、猶書王府。」
   党人の歴史について調べてたら、はまりそうなので、調べるのはこの程度まで(笑)。あと、「道術士の張成」と書いているのは「後漢孝桓皇帝紀下卷第二十二」より。脚注8)の前の記述。「初、河内張成、道術士也、知當大赦、使女殺人。李膺之為司隸、收成殺之。是秋、覽等教成弟子牢順上書曰:「司隸李膺、御史中丞陳翔・汝南范滂・潁川杜密・南陽岑[日至]等 相與結為黨、誹謗朝廷、迫脅公卿、自相薦舉。三桓專魯、六卿分晉、政在大夫、春秋所譏。」
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