<<
>>
涼州の将と良い宦官・悪い宦官(孫氏からみた三国志18)
031026
<<佐軍司馬・孫文台(孫氏からみた三国志17)


   はりきって、潁川郡での黄巾戦を書き出そう……とする前に、まだ書き足りないことがある。
   それは、黄巾討伐軍を指揮する公偉の軍には、張超や文台がいるってことは以前、書いたんだけど、公偉の相方(?)、皇甫嵩(字、義真)についてはあまり触れていない。今回は皇甫嵩陣営について、さらっと触れていく……つもりだったけど、話が脱線していく(汗)
(というわけで、文台は今回、出ない。お急ぎの方は>>こちら

   皇甫嵩(字、義真)はこの「黄巾との戦い」編がはじまってからちょくちょく出てきている主要人物の一人。その生まれところは涼州の安定郡の朝那県1)(下の地図参照)。曾祖父が度遼将軍だった皇甫りょう、祖父が扶風都尉だった皇甫旗、父親の弟はこれまた度遼将軍だった皇甫規(字、威明)、父親は鴈門太守3)だった皇甫節と、何だか武官を代々、輩出している家なのだ。
   そんな武官のサラブレッドというべき、義真は若いときから、文武の節操があり、詩経と書経を好み、弓と馬を習っていた。孝廉にあげられ030201-14)、郎中となり2)、やがて、霸陵県、臨汾県の県令030406-7)となる。まぁ、一度、孝廉に選ばれたら、郎中→県令と、トントン拍子に行きそうだね。
   ところがこのとき、父親の皇甫節が亡くなったため、「喪に服す」とのことで、県令をやめることになる。これが中国の「礼」の考えなのかな。
   その後、茂才に推挙され4)、太尉の陳蕃(字、仲舉)や大将軍の竇武(字、游平)はともにまねいたんだけど、両方とも行くことはなかったようだ。
   それで、皇帝の公車(都で上書や貢ぎ物を受け取る役所)から呼び寄せられ、議郎5)になり、その後、北地郡の太守6)となった。
皇甫嵩と傅燮の出身地
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)


   この北地郡出身の者で、後に義真の部下となる者がいる。

   涼州の北地郡靈州県に姓名は傅燮、字(あざな)は南容という人がいた7)。元々の字(あざな)は幼起っていうんだけど、論語に出てくる「南容」という人物にあこがれて、改名ならぬ改字をしたとのこと。ちなみにその論語に出てくる「南容」は白圭(白い圭玉)を磨く如く三回も読み込んで、孔子がそれに感動したのか、孔子は自らの兄の子(姪)を「南容」の妻にしようとしたことで有名8)。そのことは「圭復」という言葉になっているほど。ちなみに「圭復」の意味は現代日本では「人から来た手紙を何度もくり返して読む」という意味らしい9)

   その「南容」にあこがれて、字を南容に変えたインテリっぽい人の見た目は、身長が八尺(184.32cmらしい9))あり、立派な見た目だったそうだ。厳かで慎み深く、節操があり、剛直で正道を行うが、権威におぼれることはなかったとのこと10)
   そんな傅南容。若いとき、太尉という職(最高職の一つ)の劉ェ(字、文饒)に師事していて孝廉にあげられて030201-14)(ここらへんは皇甫嵩と同じ)、官職についたんだけど、郡の将が亡くなったので、喪にふくしたのか、その官職をすてた。
   その後、黄巾の乱が起こる。その乱をしずめるため、南容は護軍司馬11)という役職に任命され、左中郎将となった皇甫嵩(字、義真)と共に黄巾を討伐することになる(明確な時期が書かれていないので、途中参加かも)。どこに南容と義真に接点があったのかなぁとあれこれ想像してしまう。義真がこの黄巾討伐をする前に、南容の故郷の北地郡の太守だったり、義真が同じ涼州の安定郡朝那県の出身だったから、親しみを感じたのか、というような想像だ。

   南容は義真の元で黄巾討伐の軍事に参加しながらも、中央のことも気にかけていたようだ。
   というのも、ある事件が起きたからだ。

   その事件の渦中の人は、少し前、黨人をゆるしてください、と皇帝に上言した呂強(字、漢盛)。黨人は歴史的経緯(>>参照)から一部の宦官030406-3)から目の敵にされていたし、呂強の上言で、「左右のずるい者を誅して(斬って)ください」なんて、暗に標的にされたこともあってか、皇帝の身近にいる宦官は呂強を恨んでいたらしい。
   宦官の役職に「中常侍12)」と呼ばれるものがあったんだけど、その役職に夏ツと趙忠という人がいた。
   後漢紀によると、夏ツと趙忠は共にはかって、人の集まるところで、呂強に言う13)
「呂強は黨人と一緒にはかりごとがあり、『霍光伝』を数回、読んでいます。呂強の兄弟はところどころで、皆それぞれ利益をむさぼっています」
   霍光という人のことを私はあまりよくわからないけど注釈を見ると、この伝を読むということは、はかりごとをして皇帝を別に立て替えるということを画策していることらしい。呂強にとっては、とんだ濡れ衣。
   皇帝は呂強が霍光伝を読んでいることをきいて、不機嫌となり、中黄門という役職に兵を持たせ、呂強を連れてこさせた。呂強は皇帝の命で連れてこられたことを聞き、怒った。
「私が死ぬと、乱の兵が起こる。立派な人物は正しい自国の歴史を書きたがり、何もせずとも繰り返し裁判官と向き合うものだ」
   そういい残し、呂強は自殺する。呂強にとって、正しく生きていても、世間であらぬ疑いをかけら、そのたびに裁かれることをわかっていたが、今回ばかりは怒りの限度を通り越したようだ。
   夏ツと趙忠はまた呂強をそしる14)。「呂強が連れてこられ、こちらが調べたいことは判らず仕舞いになったが、外の野草の中で自殺したので、はっきりとよこしまな考えを持っていたからだ」
   ついに呂強の親族が捕らえられ、財産が没収された。


   この事件に関連してか、南容は黄巾の乱について上奏し、皇帝をいさめた。南容もこういった宦官を恨んでいたこと16)も関係したかもしれない。後漢紀より15)

「臣(私)は天下の禍が外で起こる原因はすべて内より興ると聞きます。そこで虞舜が出仕し、まず四凶をのぞき、その後、十六相を用いました。悪人が去らないことが明らかだと、すなわち善人に進む手だてはありません。今、張角は趙、魏で蜂起し、六州において黄巾が反乱しており、これはみな、門の内側からきざしが起こっており、そして、四海(天下)にわざわいが広がりました。臣(私)は軍務を受け、悪者どもを討伐することをうったえ、潁川へ到達し、戦に負けることはないでしょうが、それでも黄巾に勢いがあり、内からのきざしは作られるばかりでしょう。陛下の仁愛の徳は寛容で、耐えることをしなくてもよく、そのため、宦官は権力をもてあそび、忠実な臣下の憂いはますます深くなるばかりです。今はどういう状況でしょうか?   この邪悪と正義のある国は、氷と炭を同じ器で共存させることはできないようなものです。彼らは善人の功績を知っていますが、危急に滅亡するきざしが見えており、みな、ほとんど言葉をあやつり、説明をかざりつけ、共にいつわりをやしなています。孝行な子はますますきわまって疑い、市の虎は三人により惑わされ、陛下はこれを詳しく察しようとしませんと、臣(私)は白起が杜郵において死を賜るようなことをおそれてしまい、節をつくし命をつくし忠義を明らかにすることはありません。虞舜が四つの罪を挙げたのを陛下が考え、言葉巧みにいつわったものに流罪の罰を受けさせれば、万国が邪臣を誅したことを知るでしょう。忠義と正義の時に従い、その誠実さがきわまると、善人は動き、討たずとも悪人は自滅するでしょう。臣(私)は、忠臣は君主に仕えると聞きますし、いまだ、孝行な子は父に仕えるというのに、言葉をもってその情を尽くせないということがありましょうか!   臣(私)が刑罰により伏しても、陛下がその言葉を少しでも用いると、國の幸福です」
と故事などを織り交ぜた長い文なんだけど(清岡自身、「虞舜」が伝説の舜帝だということはわかるけど、「白起」とかは知らない)、要するに南容は皇帝の身近を取り巻いている一部の宦官たちが災いの元なので、それをやめさせて忠臣を重宝しろって言いたいのだろう。目の敵にされた宦官、特に中常侍の趙忠は当然、南容を恨むこととなる。

   幸い、そのとき、南容は謀略にかけられることはなかったのだが……
   まぁ、それは後の話となるんだけど。
   それより潁川郡の黄巾に新たな動きが起こる。

   四月、朱儁の軍は潁川郡の黄巾の波才という者の軍にやぶれる17)




1)   皇甫嵩の血筋と出身地と生い立ちと。「皇甫規字威明、安定朝那人也。祖父りょう、度遼將軍。父旗、扶風都尉。」(後漢書卷六十五   皇甫張段列傳第五十五)。←まずは皇甫嵩の叔父の伝から。で、終わりに、皇甫嵩の伝。「皇甫嵩字義真、安定朝那人、度遼將軍規之兄子也。父節、鴈門太守。嵩少有文武志介、好詩書、習弓馬。初舉孝廉・茂才。太尉陳蕃・大將軍竇武連辟、並不到。靈帝公車徴為議郎、遷北地太守。」(後漢書卷七十一   皇甫嵩朱儁列傳第六十一)。
2)   郎中。後漢書を見ると、いろんな部署(五官中郎将、左中郎将、右中郎将)にあるけど、どんな役割か不明。給料はだいたい比三百石
3)   鴈門太守。鴈門の場所は「舞台はひとまず北へ(孫氏からみた三国志12)」参照(下記リンク)。結構、辺境だから、武官めいたことをしていたのかな?
4)   茂才。よくわからないけど孝廉030201-14)が郡の推挙なのに対し、この茂才は州の推挙だと思う。ちなみに、後漢の創始者、光武帝・劉秀の諱(いみな)をさけて、「秀才」だったのを「茂才」と呼びかえたと小耳に挟んだことがある。「建武十二年八月乙未詔書、三公舉茂才各一人、廉吏各二人;光祿歳舉才四行各一人、察廉吏三人;中二千石歳察廉吏各一人、廷尉・大司農各二人;將兵將軍歳察廉吏各二人;監察御史・司隸・州牧歳舉茂才各一人。」(「漢官目録より」)というように、建武十二年(西暦36年)八月乙未の日に詔書(皇帝からの命令書)が出て、いろんな部署で「茂才」や、「廉吏」をあげろってことになったらしい。茂才は三公太尉司徒司空の三つの役職。最高位)のそれぞれや、監察御史、司隸、州牧(本文中の時代では州刺史)から毎年一人とのこと。
5)   議郎。よく見かける役職だけど、どういった役割をするか、私はわからない。「議郎、六百石。」(「後漢書志第二十五   百官二」より)というように、給料は六百石とのこと。
6)   太守。郡の一番、偉い人。 「凡州所監都為京都、置尹一人、二千石、丞一人。毎郡置太守一人、二千石、丞一人。」(「後漢書志第二十八   百官五」より)。俸禄(給料)は二千石。
7)   傅燮の記述。「傅燮字南容、北地靈州人也。本字幼起、慕南容三復白珪、乃易字焉。身長八尺、有威容。少師事太尉劉ェ。再舉孝廉。聞所舉郡將喪、乃棄官行服。後為護軍司馬、與左中郎皇甫嵩倶討賊張角。」(「後漢書卷五十八   虞傅蓋臧列傳第四十八」より)。
8)   論語に出てくる「南容」。「南容三復白圭。孔子以其兄之子妻之。」(「論語 先進」より)
9)   「圭復」の意味とか単位換算とか。「角川新字源」325版から。もちろん、角川書店発行。古本屋で買って以来、かなり重宝している。
10)   南容の記述。ここは後漢紀から。「燮字南容、北地靈州人。身長八尺、嚴恪有志操、威容、性剛直履正、不為權貴改節。」(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)。これは総括的なもので、もしかして、まだ出始めの南容の記述としてふさわしくないかも…
11)   護軍司馬。文台がなった佐軍司馬と同じく詳細不明。武官とは思うけど。給料も予想では千石ぐらいかな。
12)   中常侍。よく十常侍ってきくけど、「中」を「十」と写し間違えたのかなぁと清岡の想像。話戻して…「中常侍、千石。本注曰:宦者、無員。後搨#苴千石。掌侍左右、從入内宮、贊導内衆事、顧問應對給事。」(「後漢書志第二十六   百官三」より)。俸禄(給料)は千石。注によると、後に比二千石になったそうな。続きの文を読むと、定員がなく、左右のおつきの者をつかさどり、内宮に入り従事していて、内々の多くのことを導き、使えることに相談・応対する、って感じでしょうか。つまり、皇帝にべったりで、これだけだと政治には関わりがなさそうなんだけど、この黄巾の戦いの時代を見ると、どうも政治にも影響がありそう。
13)   後漢紀の記述。「及赦黨人、中官疾之、於是諸常侍人人求退。忠・ツ共構會強云:『與黨人謀、數讀霍光傳。強兄弟所在、亦皆貪穢。』上聞強讀霍光傳、意不ス、使中黄門持兵召強。強聞上召、怒曰:『吾死、亂兵起矣。大丈夫欲書忠國史、無為復對獄吏也。』遂自殺。」(「後漢孝靈皇帝紀中卷第二十四」より)もちろん、後漢書にもこれに該当する記述があるけど、細部が微妙に違う。で、それは脚注14)
14)   夏ツ&趙忠。次に引用する最後のセリフ部分を本文中につかう。あいかわらずちゃんと訳せてない(汗) 「中平元年、黄巾賊起、帝問強所宜施行。強欲先誅左右貪濁者、大赦黨人、料簡刺史・二千石能否。帝納之、乃先赦黨人。於是諸常侍人人求退、又各自徴還宗親子弟在州郡者。中常侍趙忠・夏ツ等遂共搆強、云『與黨人共議朝廷、數讀霍光傳。強兄弟所在並皆貪穢』。帝不ス、使中黄門持兵召強。強聞帝召、怒曰:『吾死、亂起矣。丈夫欲盡忠國家、豈能對獄吏乎!』遂自殺。忠・ツ復譖曰:『強見召未知所問、而就外草自屏、有姦明審。』遂收捕宗親、沒入財産焉。」(「後漢書卷七十八   宦者列傳第六十八」より)
15)   南容の上奏、黄巾バージョン。こちらもちゃんと訳せていないので、要注意。「護軍司馬傅燮討賊形勢、燮上書諫曰:『臣聞天下之禍、所由於外、皆興於内。是故虞舜昇朝、先誅四凶、然後用十六相。明惡人不去、則善人無由進。張角起於趙・魏、黄巾亂於六州、此皆釁發蕭牆、而禍延四海。臣受戎任、奉辭伐罪、始到潁川、戰無不克、黄巾雖遏、其釁由内作耳。陛下仁コェ容、多所不忍、中官弄權、忠臣之憂逾深耳。何者?夫邪正之在國、猶冰炭不可同器而并存也。彼知正人之功顯、而危亡之兆見、皆將巧詞飾説、共長虚偽。孝子疑於る至、市虎惑於三人、陛下不詳察之、臣恐白起復賜死於杜郵、而盡節效命之臣、無所陳其忠矣。唯陛下察虞舜四罪之舉、使讒佞受放きょく之罰、萬國知邪臣之為誅。首忠正時、得竭其誠、則善人思進、姦凶不討而自滅矣。臣聞忠臣之事君、猶孝子之事父、焉得不盡情以言!使臣伏[金夫]鉞之戮、陛下少用其言、國之福也。』書奏、中常侍趙忠見而怨焉。」(「後漢孝靈皇帝紀中卷第二十四」より)
16)   南容が宦官を恨んでいたこと。「燮素疾中官、既行、」(「後漢書卷五十八   虞傅蓋臧列傳第四十八」より)
17)   朱儁vs波才、第一戦。「(夏四月)朱儁為黄巾波才所敗。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。あ、黄巾戦が本格的になる次回への予告です(笑)
<<
>>