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年表(孫氏からみた三国志22〜27)
040418
<<年表(孫氏からみた三国志15〜21)


   以下は「孫氏からみた三国志」22〜27で取り上げた歴史的出来事を年表にまとめたもの。そのため、「孫氏からみた三国志」本編のネタバレを含む。
   「本当?」って思うような伝説的なことや個人的に事実とは思えないあやしいエピソードやあやふやな事実には()付けにしとく。
紀元年号出来事参照
184光和七年六月荊州南陽郡の宛に駐屯していた張曼成は百日あまりたった後、南陽太守に着任した秦頡により殺される。黄巾側は趙弘がたつ。その黄巾軍の数、十万人あまりにもなる。>>●
184光和七年六月詔を受け、車騎将軍の皇甫嵩えん州東郡、鎮賊中郎将の朱儁は荊州南陽郡に進軍する。>>●
184光和七年六月荊州南陽郡の官軍は鎮賊中郎将の朱儁の軍、荊州刺史の徐きゅう(字、孟玉)の軍、南陽太守の秦頡の軍を合わせて一万八千人になる。その軍で、趙弘のいる宛城を包囲する。>>●
  えん州東郡東阿県で県丞の王度が黄巾に呼応し、倉庫を焼く。上官である県令は城壁を越え逃げ出し、吏(役人)たちと民(住人)たちは老人と幼子を背負い、東の渠丘山へ逃げる。程いく(字、仲コ)の機転で県の城を取り戻し王度の軍を敗走させることができる。>>●
184光和七年八月えん州東郡の倉亭で車騎将軍の皇甫嵩の軍は卜已の軍をやぶる。卜已を生け捕り兵卒七千人あまり首を斬る。また、傅燮は卜已、張伯、梁仲寧の三帥を斬る。>>●
184光和七年冀州鉅鹿郡下曲陽県で東中郎将の董卓が敗れ、帰還する。>>●
184光和七年八月乙巳(三日)車騎将軍の皇甫嵩に張角を討つよう詔が下る。>>●
184光和七年八月荊州南陽郡の官軍は鎮賊中郎将の朱儁の軍は宛城の趙弘の軍を攻め、趙弘を斬る。黄巾は韓忠をたて宛城にこもる。朱儁の軍は西南を攻めると見せかけ、孫堅ら精鋭の兵士五千人で東北から攻め落とす。韓忠らは小城に撤退する。朱儁の軍は韓忠の軍を誘き出し大いに敗り、一万余りの首を斬る。>>●
184光和七年甘陵王の劉忠は黄巾から釈放され、甘陵国へ復帰する。>>●
184光和七年九月安平王の劉續は安平相の李燮(字、コ公)の上言が遠因となり誅される。そのため、安平国が安平郡となる。>>●
184光和七年十月冀州鉅鹿郡広宗(廣宗)県において、車騎将軍の皇甫嵩は張梁の軍と戦い大勝する。病死していた張角の首を京師に送る。>>●
184光和七年十一月冀州鉅鹿郡下曲陽県において、車騎将軍の皇甫嵩は鉅鹿太守の郭典と共に、張寶の軍を攻め、張寶を斬り、十万あまりの首をとり、城の南に京観を築く。この功により皇甫嵩は左車騎将軍となり(今までは兼行)、冀州刺史を領し、槐里侯に封じられ、槐里県と美陽県の土地、合わせて八千戸を食邑としてもらう。>>●
184光和七年冬先零という降羌は、黄巾の乱に乗じ枹罕と河關の群盜とつるんで乱を起こす。湟中羌の義從胡である北宮伯玉と李文侯を将軍にする。また涼州義從の宋建や王國、涼州の宋揚も乱に加わる。護羌校尉のれい徴を殺す。>>●
184光和七年涼州刺史の左昌は軍の調達をやめることで、数千万を着服する。漢陽郡の長史の蓋勳(字、元固)はこれをいさめる。このことが元で左昌は蓋勳を別軍として敵軍を拒むため、阿陽県に駐屯させる。蓋勳は数個の戦功をあげる。>>●
184光和七年冬韓約たち数十人を人質にとった王國は金城太守の陳懿を殺す。涼州は邊允韓約にそれぞれ千戸侯の賞金首をかける。邊允邊章韓約韓遂と改名する。韓遂や邊章は北宮伯玉に脅され、軍帥(もしくは專任軍政)にされる。>>●
184光和七年徐州下ひ国の下ひ王の意が亡くなる。後継者がいないため、国がなくなり、下ひ郡ができる。>>●
184光和七年十二月、己巳(29日) 天下に大赦す。中平と改年する。>>●
185中平二年鎮賊中郎将の朱儁は右車騎将軍となる。また佐軍司馬の孫堅は別部司馬になる。さらに朱儁は京師で光祿大夫となり、食邑が五千に増え、錢塘侯に封じられ、特進の位に加えられる。母親が亡くなったため、朱儁は官を去る。>>●
185中平二年二月〜張牛角とちょ燕は冀州鉅鹿郡えい陶県を攻める。張牛角は死の間際、ちょ燕を後継者にする。ちょ燕は張燕と改名する。>>●




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