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その他の地域情報(孫氏からみた三国志20)
031124
<<皇甫嵩vs.波才(孫氏からみた三国志19)


   京師司隷にある)より南の豫州潁川郡戦線については前回、話したとおりなんだけど、京師より北、つまり、黄巾の総大将、張角のいる、冀州鉅鹿郡方面はどうなってんだろう?
   この方面は以前、話したとおり(>>参照)、北中郎将の盧植(字、子幹)3)が担当している。というわけで以下、後漢書盧植伝が元ネタ1)
州それぞれ
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)

   ようやく皇甫嵩が潁川郡で勝ち始め、それ以外の官軍は負け続けていると思いきや、盧植の軍は、諸郡の兵を率い、張角の黄巾の軍に対し、連戦連勝をし続け、一万人あまりを斬ったり捕まえたりしていた。こちらの軍も強い!(盧植は文武に優れたエリートさんなのだ)
   たまらず、張角たちは逃走し、廣宗というところで守っていた。
   盧植は囲いを築き、堀をきずき(じっくり攻めるってこと?)、梯子をつくり、それをつかって攻め落とそうとしているところだった。

   そのとき、皇帝は小黄門2)(宦官030406-3)かの役職)の左豐という人をやって戦の様子を見に行かせていた。そして何を思ったか、左豐は盧植に賄賂を出すようすすめた。盧植はそれを承知しなかった
   左豐は皇帝のもとに帰ったんだけど、皇帝には次のように告げる。
「廣宗の賊は簡単にたおせると聞いています。盧中郎(北中郎将の盧植)は堅固な陣営で軍を休ませており、天誅が下るのを待っています」
   左豐は賄賂をもらえない逆恨みか、あたかも盧植が怠惰であると偽りの報告をしたようだ。
   皇帝はこれを疑いもせず、怒りだし、ついに盧植を罪人扱いにし京師へ連れ戻した(こんな簡単に盧植を連れ戻すなんて、史書には書かれていないような、あることないことを吹き込まれたのかな?)。そして、死罪一等を減じられた……これは本来なら死罪一等になるところを免除されたってことなのでしょうか。
   こうして、せっかく張角の軍を壊滅一歩手前まで追い込んだのに、それは中断されてしまう4)
   その代役として京師から派遣されたのは、董卓(字、仲穎)という人。役職は東中郎将。黄巾の本軍ともいうべき張角軍の討伐は、おそらくふりだしに戻ってしまう。
盧植の失脚
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版) 但し、画面上のルートの位置に根拠はありません

   暦が変わって六月。
   京師より北の方ではこんな内憂みたいなかたちで官軍不利といった状況だったけど、南はどうだったかというと…
   以前、話したように荊州南陽郡では、自称「神上使」、黄巾の張曼成が居て、南陽郡の太守、ちょ貢を殺している(>>参照)。その前から張曼成は宛(宛県)というところ(南陽郡の郡都)に駐屯していたようで、百日あまりたったとき、ちょ貢の代わりに南陽太守に着任した秦頡張曼成は殺される5)
   まさに因果応報というか血みどろの戦いなんだけど、黄巾側は次に趙弘という人を南陽郡での自分たちの大将にし、次第に盛り返してきていた。
南陽黄巾
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)

   黄巾とは関係ないかもしれないけど、はるか南の交阯郡に駐屯する兵が刺史および合浦太守をとらえ、「柱天将軍」と自称していた6)。どうもろくな政治が行われていなかったようで、多分、黄巾で中央が大変になっていることをいいことに、辺境まで手が回らないとふんで、独立しようとしていたんだろう。これより前にせっかく朱儁(字、公偉)が平和をもたらしたというのに(>>参照)、このざま。
   なんとか、交阯刺史として賈j(字、孟堅)という人が派遣され、これを平定されたんだけど。
<2008年2月23日追記>
   後漢書賈j伝6)からもう少し詳しく書く。
   旧の交阯の土には多く珍産があり、明[王幾]・翠羽・犀・象・玳瑁・異香・美木の属が出ないことはなかった。前後の刺史は、多く率い、清行が無く、上では権貴を承け、下では賄賂を積んでおり、財計が満ちており、たちまち再び代を遷し表すことを求め、故の吏民は怨み叛した。
   中平元年(=光和七年、西暦184年)、交阯の屯兵は反し、刺史および合浦太守を執り、「柱天將軍」を自称した。霊帝は特別に勅令し、三府から有能な官吏を精選し、有司は賈jを交阯刺史に挙げた。賈jは部に至り、その反状を訊き、咸言で加重に租税を課し取り立て、百姓はすべて空にし、京師は遙かに遠く、咎めるところがなく、民は頼めず、故に集まり盗賊となったことを知った。賈jは即座に書を移し告示し、おのおのその資業を安んじ、荒れ乱れるのを帰順させ、清め再び搖役をし、渠帥を誅殺し大害者とし、簡易に良吏を選び諸県の守りを試させ、一年間で平定し、百姓を安んじた。巷でこれのために歌い言う。
「賈父は晩に来て、我をまず反させた。今、清平が表れ、吏は敢えてくらわず」
   三年つかえ、十三州でも第一となり、徴集され議郎を承けた。
<追記終了>

 
   京師のまわりでは、ざっとこのような状況だったが、京師ではある出来事が起こっていた。
   後漢紀によると7)、中郎将(後漢書8)だと「郎中」)の張均(後漢書だと「張鈞」)という人が上書する(皇帝にお手紙)。おそらく、先に書いた盧植の失脚で悪い宦官について腹に据えかねていたんだろう。ここらへんは状況が似ている数ヶ月前の傅燮(字、南容)の上書と比較すると面白い。張均の上書の内容は以下のようなものだった。
「張角は万民をなつかせる者であり、よく兵をおこし乱をおこしている理由は、もとは皆、中常侍031026-12)が親子兄弟・姻戚賓客を多く放ち、州郡の役職を占拠し、百姓の財産と利益を独占し百姓が屈しているからです。百姓は屈し訴えず、張角に従いその道を学ぶことで、相談し謀り不法を働き、互いにあつまり賊になります。今すぐ、中常侍をことごとく斬り、その頭を南郊にかけることで天下に謝ってくだされば、すぐ兵は自然と消え、この一戦は勝利となります」
   ここでいう中常侍は後漢書8)によると張讓趙忠、夏ツ、郭勝、孫璋、畢嵐、栗嵩、段珪、高望、張恭、韓かい、 宋典の十二人とのこと。趙忠、夏ツは以前、呂強の事件で出てきているし(>>参照)、特に趙忠は傅燮と何かといざこざをおこしている>>参照)。こんな狡猾なやつらがあと、十人もいるなんて、大丈夫、なんスか?
   とにかく黄巾の乱の原因をズバリ言い放っている張均。傅燮の上書のときと比べて、具体的に、そして過激になっている。そのせいか、皇帝の動きも早かった。
   上書を読んで、すぐに皇帝は中常侍の張讓たちに見せた。そうすると、中常侍はみな屈み頭を垂れ、自ら、らく陽(京師)の牢獄に入り、家財を兵糧の助けにし、子弟を先鋒にすることを願った。
   そうすると、皇帝は言う。
「これはつまり(張均が)ただの狂った人ってことだ。中常侍のうち、一人として、善人じゃない者なんていない!」
   そう、中常侍たちが急に改心したかのようなことになって、それに感動したのか、皇帝はすっかり中常侍たちのことを信じちゃったんだけど、これはもしかして中常侍たちの作戦?   パフォーマンス?   だとしたら我々の考える以上に中常侍たちは狡猾だった。そして、皇帝はさっそく行動を起こす。
   皇帝は、御史に誰が張角の信者なのか調べさせた。そうすると、御史は張均が黄巾の道を学んでいると報告した(御史までグルなのか!?)。
   張均は獄中で死んでしまう。

   傅燮は出世できなくなり、張均は命まで落としてしまう。
   天下のいろんなところで兵乱を起こしている黄巾。しかし、真の敵は京師に居ながら天下で利益をむさぼる一部の中常侍たちなのかもしれない。

   まさに外患内憂の状況だった。




1)   後漢書盧植伝の黄巾関連(今回のネタバレ含む)。「中平元年、黄巾賊起、四府舉植、拜北中郎將、持節、以護烏桓中郎將宗員副、將北軍五校士、發天下諸郡兵征之。連戰破賊帥張角、斬獲萬餘人。角等走保廣宗、植築圍鑿塹、造作雲梯、垂當拔之。帝遣小黄門左豐詣軍觀賊形ぜい、或勸植以賂送豐、植不肯。豐還言於帝曰:『廣宗賊易破耳。盧中郎固壘息軍、以待天誅。』帝怒、遂檻車徴植、減死罪一等。」(「後漢書卷六十四   呉延史盧趙列傳第五十四」より)。くだらない内憂がなければ歴史は変わっていてたかもしれないと想像すると楽し。
2)   小黄門のこと。「小黄門、六百石。本注曰:宦者、無員。」(「後漢書志第二十六   百官三」より)。宦者つまり宦官030406-3)
3)   盧植(字、子幹)のこと。実は「>>涼州の将と良い宦官・悪い宦官」のときのように盧植のことを詳しく書こうと思ったけど、あまりにも文台と関係しない人物なので、やめる。だけど、せっかく途中まで書いたので、途中までの分を以下に載せる。

   彼は[シ豕]郡[シ豕]県出身で身長は八尺二寸、声は鐘のようだったそうな。後漢紀によると、扶風郡の馬融(字、季長)を師とし、北海郡の鄭玄(字、康成)を友とし、その学ぶ姿勢は一章一句の読み方や解釈で終わらず、その主旨をみな、詳しく研究していた。気性がすぐれていて強く、大事の際の節度があり、ため息をつき世を救う志を持ち、人に気に入られるようなことには迎合せず、言論を厳しく正し、文詞を好まなかった(実務を重んじた?)。酒を一石(26.7kg→26.7リットル?!)、飲んでも乱れることはなかった。
   馬融の家(皇族の外戚とのこと)で、音楽を演奏する人、歌う人、踊る人たちは絶えることがなく、そこに子幹が数年、仕えていた。馬融はこれをうやまっていた。
   子幹は学び終え、故郷へ帰り、門を閉め、教え授けていて(私塾講師がお仕事?)、州や郡の命令に応じなかった。建寧年間(西暦168年〜172年)に博士(比六百石の官職)になった。
   後漢書によると、熹平四年(西暦175年)のとき、九江郡の「蠻」(異民族)が反乱を起こしたとき、四つの府(大将軍、太尉、司徒、司空の役所)から子幹がその担当に選ばれる。彼の文武をかねた才能がその理由だ。
   子幹は九江太守(九江郡の太守)になり、蠻を服従させる。こんな功績があったんだけど、病で職をやめてしまう。
   その後、南夷(異民族)が反乱をおこしたとき、九江郡で子幹に恩義と信頼があるということで彼を廬江太守にした。その政務は清いものだった。

4)   盧植の失脚。まず後漢紀から。「(五月)植既受命、累破黄巾、角等保廣宗、植圍塹修梯。垂當拔之、上遣小黄門左豐觀賊形勢。或勸植以賂送豐、植不從、豐言於上曰:『廣宗賊易破耳、盧中郎固壘息軍、以待天誅。』上怒、植遂抵罪。」(「後漢孝靈皇帝紀中卷第二十四」より)。そして後漢書本紀は。「(六月)盧植破黄巾、圍張角於廣宗。宦官誣奏植、抵罪。遣中郎將董卓攻張角、不剋。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。一ヶ月ズレていて、後漢書本紀の方は次回あたりに語る皇甫嵩の戦いの後の記述になっている。「孫氏からみた三国志」の話の流れ的にここは後漢紀に合わせた方がよかったので五月の出来事ということにする。
5)   張曼成、死す。「六月、南陽太守秦頡撃張曼成、斬之。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。これは後漢書本紀なんだけど、朱儁伝では。「時南陽黄巾張曼成起兵、稱『神上使』、衆數萬、殺郡守ちょ貢、屯宛下百餘日。後太守秦頡撃殺曼成、賊更以趙弘為帥、衆浸盛、遂十餘萬、據宛城」(「後漢書卷七十一   皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より)。
6)   自称「柱天将軍」。「(六月)交阯屯兵執刺史及合浦太守來達、自稱『柱天將軍』、遣交阯刺史賈j討平之。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。ちょうど脚注5)の続きとなる。本紀にしか出てこないんだろうな、って思っていたら、後漢書に賈j伝というのがあって、そこに載っていた。「前後刺史率多無清行、上承權貴、下積私賂、財計盈給、輒復求見遷代、故吏民怨叛。中平元年、交阯屯兵反、執刺史及合浦太守、自稱『柱天將軍』。靈帝特敕三府精選能吏、有司舉j為交阯刺史。」(「後漢書卷三十一   郭杜孔張廉王蘇羊賈陸列傳第二十一」より)。続きもあるし、詳しく読むと面白そうなんだけど、時間、かかりそうなので、これはこのままにしておこう。
7)   張均のこと(本文のネタバレ)。「六月、中郎將張均上書曰:「張角所以能興兵作亂、萬民樂附之者、原皆由十常侍多放父子兄弟・昏親賓客、典據州郡、辜かく財利、侵冤百姓。百姓之冤無告訴、因起從角學道、謀議不軌、相聚為賊。今悉斬十常侍、懸其頭於南郊、以謝天下、即兵自消、可一戰而克也。」上以章示十常侍、皆免冠頓首、乞自致らく陽獄、家財助軍糧、子弟為前鋒。上曰:『此則直狂子也、十常侍内有一人不善者耳!』天子使御史考諸為角道者、御史奏均學黄巾道、收均死獄中。」(「後漢孝靈皇帝紀中卷第二十四」より)。それまで「中常侍」って記述なのに、こと張均の記述になると「十常侍」で統一されてしまう感がある(他にもあるのかな?)。後漢書でも同じ。このページの本文中では「中常侍」に書き改めている。はじめの方の段階で、「十常侍」と記録に書いてしまい、後の世の人が忠実に訂正せず守っているのかなぁ、なんて清岡は思ってしまう。「中」と「十」は字面が似てるし、「十」だと意味不明だし。(「中」は宮中の「中」)。
8)   張鈞のこと(本文のネタバレ)。まず本紀から。「(夏四月)侍中向栩・張鈞坐言宦者、下獄死。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。これも脚注4)同様、後漢紀の方を採用している。話の流れ的にそちらの方がかきやすかったもんで。続いて、列伝の方。「是時讓・忠及夏ツ・郭勝・孫璋・畢嵐・栗嵩・段珪・高望・張恭・韓かい・宋典十二人、皆為中常侍、封侯貴寵、父兄子弟布列州郡、所在貪殘、為人蠹害。黄巾既作、盜賊糜沸、郎中中山張鈞上書曰:『竊惟張角所以能興兵作亂、萬人所以樂附之者、其源皆由十常侍多放父兄・子弟・婚親・賓客典據州郡、辜かく財利、侵掠百姓、百姓之冤無所告訴、故謀議不軌、聚為盜賊。宜斬十常侍、縣頭南郊、以謝百姓、又遣使者布告天下、可不須師旅、而大寇自消。』天子以鈞章示讓等、皆免冠徒跣頓首、乞自致洛陽詔獄、並出家財以助軍費。有詔皆冠履視事如故。帝怒鈞曰:『此真狂子也。十常侍固當有一人善者不?』鈞復重上、猶如前章、輒寢不報。詔使廷尉・侍御史考為張角道者、御史承讓等旨、遂誣奏鈞學黄巾道、收掠死獄中。」(「後漢書卷七十八   宦者列傳第六十八」より)。「中常侍」として十二人あげられているけど、「十常侍は誰?」とかいうクイズがあったらこの十二人をあげるといいのかなぁ。多分、それ引っかけ問題のつもりだから。相変わらず、微妙に後漢紀7)と後漢書は記述が違う。
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