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孫策創業(孫氏からみた三国志62)
2011.09.10.
<<呂布の波及(孫氏からみた三国志61)


   三回前に予告したように<<「孫賁、孫策、動く」(孫氏からみた三国志59)の続きとなる。そこを参考にすれば興平元年(紀元194年)以降の話だ。まず『三国志』巻四十六呉書孫策伝1)より以下。

   後に袁術(字公路)は徐州を攻めるのを欲し、(揚州)廬江太守の陸康(字季寧)より米三万斛を求めた。陸康は与えず、袁術は大いに怒った。孫策(字伯符)は昔、陸康を詣で重ね、陸康は見えず、主簿にこれを接させた。孫策は嘗て遺恨があった。袁術は孫策に陸康を攻めさせ、言う。
「前に陳紀を誤って用い、常に本意が遂げなかったと悔いる。今、もし陸康を得るならば、廬江は誠に卿が有する」
   孫策は陸康を攻め、これを抜き、袁術は再びその故吏の劉勳を太守にし用い、孫策は益々失望した。

   ここにある徐州は、年代から考えて<<徐州からの波紋(孫氏からみた三国志57)にあるように曹操(字孟徳)が陶謙(字恭祖)の徐州を攻めている頃なので、袁術は以前、曹操に追い立てられるように揚州九江郡寿春に入った経緯があるため、陶謙に加勢したのか、漁夫の利を狙ったのだろう。一方、孫策は<<破虜将軍・孫文台(孫氏からみた三国志48)にあるように、以前、廬江太守の郡府のある(揚州廬江郡)舒に住んだことがあるので、その時の話かもしれない。
   攻められた陸康にも伝があるのでそちらも参考にする。<<長沙太守・孫文台(孫氏からみた三国志40)の続きとなる。『後漢書』列伝二十一陸康伝2)より以下。

   献帝は即位し、天下は大乱で、陸康は険しさを被り孝廉計吏に朝廷へ奉貢させ、詔書は労を記し、忠義將軍を加え、秩中二千石とした。当時、袁術は(揚州九江郡)壽春に屯兵し、部曲は飢餓し、使いに兵甲を送るのを求め委ねさせた。陸康はその叛逆で、門を閉じ通じず、内で戦備を修め、まさにこれを守ろうとした。袁術は大いに怒り、その將の孫策に陸康に攻めさせ、(郡府のある揚州廬江郡舒)城を数重に囲んだ。陸康は固く守り、吏士は先ず休假を受ける者を有し、皆、遁伏し還り赴き、暮夜に城に巡り入った。敵を二年、受け、城は落ちた。一ヶ月余りで、発病し卒去し、年七十だった。宗族百人余りは、難に遭い飢厄し、死者はほとんど半数となった。朝廷はその守節を哀れみ、子の雋を郎中と為した。

   ここで戦ったのは「二年」となっており、足掛け二年だとしても戦いを終えた頃には早くて興平二年(紀元195年)になったことを示している。
   一方、下記の『後漢書』紀九孝献帝紀3)興平元年の最後の記述に、

この歳(興平元年)、楊州刺史の劉繇(字正禮)と袁術の将の孫策は曲阿において戦い、劉繇の軍は敗績し、孫策は遂に江東に拠した。太傅の馬日磾(字翁叔)は(揚州九江郡)壽春にて薨去した。

とあるため、矛盾無く考えようとすると、孫策は陸康を攻めている途中で、劉繇と戦ったと思われる。
   これに関連し、孫策の母の弟である呉景について見ていく。『三国志』巻五十呉書呉景伝4)によると

   たまたま劉繇に迫られる所となり、呉景は再び袁術の北へ依り、袁術はそれを以て督軍中郎将にし、孫賁と共に横江において樊能、于麋を討ち、また(揚州丹陽郡)秣陵において笮融、薛禮を撃った。

となる。これは先に挙げた『三国志』巻四十六呉書孫策伝1)の続きにも次のようにある。

   これより先、劉繇は揚州刺史に為り、州の旧治は(揚州九江郡)壽春だった。壽春は、袁術が既にこれを拠し、劉繇はそこで江を渡り(揚州呉郡)曲阿を治めた。当時、呉景は尚も丹楊に在り、孫策の従兄の孫賁(字伯陽)もまた丹楊都尉と為り、劉繇が至り、皆迫りこれを追った。呉景と孫賁は(揚州九江郡)歷陽を退き捨てた。劉繇は樊能、于麋に橫江津へ東屯し、張英に當利口に屯させ、それにより袁術を隔てた。袁術は自ら故吏の琅邪郡出身の惠衢を用い揚州刺史にし、更に呉景を督軍中郎將にし、孫賁と共に兵を率い張英等を撃ち、連年勝てなかった。

   つまり<<「孫賁、孫策、動く」(孫氏からみた三国志59)で触れたように呉景は丹陽太守だったため、それは空位となった。そこに入ったのが次のように『三国志』巻五十四呉書周瑜伝5)にある周尚だ。ちょうど<<「破虜将軍・孫文台」(孫氏からみた三国志48)の続きとなる。

   周瑜(字公瑾)の父の周尚は丹楊太守になり、周瑜は往きこれを見た。たまたま孫策は将に東渡し、歴陽に至り、書を馳せ周瑜に報せ、周瑜は兵を率い孫策を迎えた。孫策は大いに喜び言う。
「吾は卿を得て、整った。」
   遂に横江、当利に従い攻め、皆これを抜いた。渡るに及び(揚州丹陽郡)秣陵を撃ち、笮融、薛禮を破り、転じて(揚州丹陽郡)湖孰、江乘を下し、(揚州呉郡)曲阿へ進入し、劉繇は奔走し、孫策の衆はすでに数万だった。

   これらの戦いの様子はやはり鍵となる人物の劉繇の伝に詳しく書かれている。『三国志』巻四十六呉書孫策伝1)にある「連年」は次の「一年間余り」に相当するのだろう。『後漢書』紀九孝献帝紀を信じれば、興平元年からであるため、興平二年(紀元195年)になっても呉景・孫賁は劉繇配下の張英、樊能等に勝てずに居たのだろう。『三国志』巻四十九呉書劉繇伝6)より。

   たまたま司空掾として招き、侍御史に除し、付かなかった。(徐州下邳國)淮浦に乱を避け、詔書を以て揚州刺史になった。当時、袁術は淮南に在り、劉繇は畏れ憚り、敢えて州に行こうとしなかった。江を南へ渡ると欲し、呉景、孫賁は迎えて(揚州呉郡)曲阿に置いた。袁術は図り僭逆を為し、諸郡県を攻め落とした。劉繇は樊能、張英を遣わし江辺に駐屯させることでこれを拒んだ。呉景と孫賁を以て袁術の授用する所となって、乃ち追逐させ去らせた。これにおいて袁術は乃ち自ら揚州刺史を置き、呉景、孫賁と与し力を併せ張英、樊能等を攻め、一年間余り下せなかった。

   この孫策と劉繇の戦いの行方がどうなったかは少し棚上げし、まず次のように『三国志』巻四十六呉書孫策伝1)の続きより。

   孫策はそこで袁術を説き、呉景等の江東平定を助けるのを乞うた。袁術は上表し孫策を折衝校尉、行殄寇將軍とし、兵財は千余りで、騎は数十匹で、賓客で従うのを願う者は数百人だった。

   ここに次のような注が入り『江表伝』7)が引かれる。

   孫策は袁術に説いて言う。
「家は東に在って旧恩を有し、願わくば舅(呉景のこと)の橫江を討つのを助けたいと存じます。橫江は抜かれ、本土に向かい招き募るのに頼れば、三万兵を得ることができ、明使君を助けることで漢室を正し救います」
   袁術はその恨みを知り、劉繇が(揚州九江郡)曲阿に拠し、王朗は(揚州)會稽に在るため、策に未だよく平定できず、そのためこれを許すと言った。

   地理的に時期的にこのあたりで廬江太守の陸康が拠する郡府のある揚州廬江郡舒城を孫策が攻め落としたのだろう。
   また先に示した『三国志』巻四十六呉書孫策伝の末に次のように注があり、『江表伝』7)が引かれる。

   孫策は江を渡り劉繇の(揚州丹陽郡秣陵の南)牛渚の営を攻め、邸閣の糧穀、戦具を得て尽くし、この歳は興平二年(紀元195年)だ。当時、(徐州)彭城相の薛禮、(徐州)下邳相の笮融は劉繇に依り盟主にし、薛禮は(揚州丹陽郡)秣陵城に拠し、笮融は県南に屯した。孫策は先ず笮融を攻め、笮融は兵を出し交戦し、首五百級余りを斬り、笮融は即ち門を閉じ敢えて動かなかった。江を渡り薛禮を攻めるのに頼り、薛禮は突き走り、樊能、于麋等は再び衆を合わせ牛渚屯を襲い奪った。孫策はこれを聞き樊能等を攻め破り還り、男女一万人余りを獲った。再び笮融を下し攻め、流矢の当たる所と為り、股を傷付け、よく馬に乗れず、そのため自ら牛渚営に輿で還った。ある叛は笮融に告げて言う。
「孫郎は箭(矢)を被り既に死んだ」
   笮融は大いに喜び、即ち將の于茲を孫策に向かわした。孫策は歩騎数百を挑み戦わせ、後に伏せるのを設け、賊は出てこれを撃ち、鋒刃が未だ接せず偽に走り、賊は追い伏す中に入り、そこでこれを大いに破り、首千級余りを斬った。孫策は往き笮融の営の下に到るのに頼り、左右に大きく呼ばせ言う。
「孫郎はどうして尽きると言うか」
   賊はこれに於いて驚き怖れ夜に遁走した。笮融は孫策が尚在ると聞き、深い溝と高い塁に改め、繕治し守り備えた。孫策は笮融の屯する所の地勢が険固であることで、返って捨て去り、劉繇の別将を海陵で攻め破り、転じて(揚州丹陽郡)湖孰、江乘を攻め、皆これを下した。

   孫策が傷を負った件は他の箇所でも見られる。但しより簡素になっている。
   まず『三国志』巻五十呉書呉景伝4)の先程の続き。

   当時、孫策は(揚州丹陽郡秣陵の南)牛渚で傷を被り、降った賊は再び反し、呉景は攻め討ち、尽くこれを擒にした。従って劉繇を討ち、劉繇は(揚州)豫章へ奔り、孫策は呉景と孫賁を(揚州九江郡)寿春へ至らせ、袁術に報せた。

   また『三国志』巻五十一呉書孫賁伝8)だと、

   揚州刺史の劉繇により迫られ追われ、将士衆に頼り(揚州九江郡)歴陽へ還り往った。この頃、袁術は再び孫賁と呉景に樊能、張英等を撃たせ、未だ抜けなかった。孫策が東渡に及び、孫賁と呉景を助け張英、樊能等を破り、遂に進んで劉繇を撃った。劉繇は豫章へ走った。

となり、前述で興平二年(紀元195年)になっても呉景・孫賁が勝てずにいた劉繇配下の張英、樊能等に孫策の加勢で勝てて居る。前述の笮融部分については、時代が少し戻るがまず次のように『後漢書』列伝六十三陶謙伝9)より。

   以前、同郡人(揚州丹陽郡)の笮融は、数百を集め、陶謙(字恭祖)へ往き依り、陶謙は(徐州)廣陵、下邳、彭城の糧を運ぶのを督させた。ついに三郡の輸を委ね決め、浮屠寺(仏教寺)が大いに起こった。上は金盤を累し、下は重楼と為し、また堂閣は遍く巡り、三千許人を容れられ、黄金塗像、錦綵での衣を作った。仏を清める毎に、たやすく多くの飲飯を設け、路に席を布き、そこに食に就き及び観る者、その上一万人余りが有った。(初平四年-興平元年、紀元193-194年)曹操(字孟徳)が陶謙を撃つに及び、徐方(徐州)は安んじず、笮融はそこで男女一万口、馬三千匹を率い廣陵へ走った。廣陵太守の趙昱は賓禮により待った。笮融は廣陵の資貨を貪り、遂に酒酣に乗じて趙昱を殺し、兵を放ち大いにかすめ取り、江を過ぎることで、(揚州)豫章へ南に奔り、郡守の朱皓(字文明)を殺し、その城に入り拠した。後に楊州刺史の劉繇の破る所と為り、山中へ走り入り、人の殺す所と為った。
孫策周辺
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)

   話の本筋からずれるが、この豫章太守の朱皓は、<<「皇帝東帰」(孫氏からみた三国志60)のにある『後漢書』列伝六十一朱儁伝10)の続きに当たる、次の記述に

   (朱儁の)子の朱皓は、また才行を有し、官は豫章太守に至る。

とある。このことについては次に続けて記すように『三国志』巻三十五蜀書諸葛亮伝11)やその注に引く『献帝春秋』12)に詳しい。

   諸葛亮(字孔明)は早くに父を亡くし、従父の諸葛玄は袁術の署す所の(揚州)豫章太守に為り、諸葛玄は諸葛亮及び諸葛亮の弟の諸葛均、この官を率いた。偶々、漢朝はさらに朱皓を選び、諸葛玄を代えた。諸葛玄は元より荊州牧の劉表(字景升)と与し、旧交が有り、往きこれに依った。

   以前、豫章太守の周術は病卒し、劉表は諸葛玄を上表し豫章太守に為し、(揚州豫章郡の郡府の在る)南昌を治めさせた。漢朝は周術の死を聞き、朱皓に諸葛玄を代わらせた。朱皓は揚州太守(刺史?)の劉繇に従い兵を求め諸葛玄を撃ち、諸葛玄は退き西の城に駐屯し、朱皓は南昌に入った。

   笮融についての話に戻し、前述の続きに当たる『三国志』巻四十九呉書劉繇伝6)によると、

   漢命は劉繇に加え牧、振武將軍に為し、数万人を集め、孫策は東渡し、張英、樊能等を破った。劉繇は(揚州呉郡)丹徒に奔り、泝江の南へ行き(揚州)豫章を保ち、(揚州豫章郡)彭澤に駐した。笮融が先ず至り、太守の朱皓を殺し、入り郡中に居した。劉繇は進み笮融を討ち、笮融の破る所と為り、さらに再び招き属県を合わせ、笮融を攻め破った。笮融は敗走し山に入り、民の殺す所と為り、劉繇は間もなく病卒、当時、年四十二だった。

となる。時を戻し、先の『三国志』巻四十六呉書孫策伝1)の続きは次のようになる。

   (揚州九江郡)歷陽に至り、衆は五六千だった。孫策の母は先ず(揚州呉郡)曲阿より歷陽に移り、孫策もまた母を(揚州九江郡)阜陵に移し、江を渡り闘いを転じ、向かう所、皆破り、敢えてその鋒に当たらず、軍令は整粛であり、百姓はこれに懐いた。

   ここにある曲阿は依然、劉繇の支配下に在るときで、孫策の母は危険な状態だったが、次の『三国志』巻五十六呉書朱治伝13)の記述でどのように救い出したか詳しい。

   この時、呉景は既に(揚州)丹楊に在り、孫策は袁術のために(揚州)廬江を攻め、これにおいて劉繇は袁、孫に合わさる所を恐れ、遂に構え仲違いした。そして孫策の家門は尽く州下に在り、朱治は乃ち人を曲阿へ使わし太妃及び孫権兄弟を迎えさせ、所以に供に奉じ輔護し、甚だ恩紀を有した。

   このように孫策が率先し動いていた時期に、その下に多くの者が集っており史書にその動向が記される。まず<<「孫賁、孫策、動く」(孫氏からみた三国志59)での『三国志』巻五十二呉書張昭伝14)の続き。

   孫策は創業し、張昭(字子布)に命じ長史、撫軍中郎将にし、堂に昇り母に拝し、旧に比肩する如くで、文武の事は、一を以て張昭に委ねた。張昭は北方の士大夫の書疏を得る毎に、専ら張昭へ美に帰り、張昭は黙ることを望み懼れに則り私に有ることを明らかにせず、これを恐れに則り良くないと明らかにし、進退を安んじなかった。孫策はこれを聞き、喜び笑って言う。
「昔、管仲は斉を見て、一に仲父に則り、二に仲父に則り、桓公を霸者の宗とした。今、子布は賢く、我はこれを良く用い、その功名は独りで我にはありません」

   ここで「一を以て張昭に委ねた」に注が入り、次のように『呉書』15)の記述が引かれる。

   孫策は張昭を得て甚だ喜んで、言う。
「吾はまさに四方に事が有り、士人賢者を以て上げ、吾は子(あなた)に対し軽んじ得ないだろう」
   乃ち上げ校尉とし、師友の礼を以て持てなした。

   次に『三国志』巻五十六呉書呂範伝16)より。

   後に孫策に従って(揚州)廬江を攻め破り、還り共に東渡し、橫江、當利に至り、張英、于麋を破り、小丹楊、(揚州丹陽郡)湖孰を下し、湖孰相を領した。孫策は(揚州丹陽郡)秣陵、(揚州呉郡)曲阿を定し、笮融、劉繇の余衆を収め、呂範の兵二千、騎五十匹に増した。後に宛陵令を領し、丹楊賊を討ち破り、呉に還り、都督に遷った

   ここに次のように注で『江表伝』17)が引かれる。

   孫策は従容し(くつろぎ)呂範と一人、棋をし、呂範は言う。
「今、将軍の事業は日々大きくなり、士衆は日々盛り上がり、範(わたし)は遠くに在り、綱紀(法度)を聞くに、ちょうど不整者のようなのが有って、範は暫く都督を領し、將軍を助けこれを分かつのを願います。」
   孫策は言う。
「子衡、卿は士大夫を尽き、加えて手下に既に大衆を有し、外で功を立てたのに、どうして再び小職に屈し、軍中の細碎事を知った方が良いとするのか」
   呂範は言う。
「そうではありません。今、本土を捨てた上で將軍に託す者は、妻子のためではなく、世の務めを救うのを欲します。ちょうど同じ舟で海を渡るようなものであり、一事は囲まず、即ち共にその敗れを受けます。これはその上、範の計が、将軍を肩脱がせるものではありません」
   策は笑い、答えなかった。呂範は出て、さらに褠を解き、袴褶を著し、鞭を執り、閤の下に詣で啓事(上の人にものを言い)し、自ら領都督を称し、孫策はそこで傳を授け、衆事を委ねた。これにより軍中は和らぎ慎み、大行を威し禁じた。

   次に『三国志』巻五十三呉書張紘伝18)より。

   孫策が創業し、遂に委質(尊上に初見のときに献ずる礼物19))した。上表し(張紘字子綱は)正議校尉に為り、(揚州)丹楊へ討伐に従った。孫策は自ら陣に行くに臨み、張紘は諫めて言う。
「それ主将は乃ち籌謨(謀略)の所から自ら出て、三軍の所で命を繋ぎ、軽く脱し自ら小寇に敵対するべきではありません。願わくば麾下で天授の姿を重んじ、四海の望を副し、国内の上下を危ぶみ懼れさせないで下さい。」

   次に『三国志』巻五十五呉書程普伝20)より。

   孫堅が薨去し、(程普字徳謀は)再び孫策に随い淮南に在り、従い(揚州)廬江を攻め、これを抜き、還って供に東渡した。孫策は横江、當利に到り、張英、于麋等を破り、転じて(揚州丹陽郡)秣陵、湖孰、句容、(揚州呉郡)曲阿を下し、程普は皆、功を有し、兵二千、騎五十匹に増やした。進んで石木、波門、陵傳、餘亢を破り、程普の功は多くなった。

   次に『三国志』巻五十五呉書韓當伝21)より。

   孫策が東渡に及び、(韓當字義公は)従い三郡(丹陽郡、呉郡、豫章郡?)を討ち、先登校尉に遷り、兵二千、騎五十匹を授かった。

   次に『三国志』巻五十五呉書蔣欽伝22)より。

   孫策が東渡に及び、(蔣欽字公奕は)別部司馬を拝し、兵を授かった。孫策と与し周旋し、三郡を平定し、また従い豫章を定めた。

   次に『三国志』巻五十五呉書陳武伝23)より。

   (陳武字子烈は)渡江に因りて随い、征討し功を有し、別部司馬を拝した

   こうして江水を東に渡り戦い続ける孫策にまだまだ戦いが止まないが、それを追う前に皇帝の行方を追う。




1)   『三国志』巻四十六呉書孫策伝より。本文のネタバレあり。

後術欲攻徐州、從廬江太守陸康求米三萬斛。康不與、術大怒。策昔曾詣康、康不見、使主簿接之。策嘗銜恨。術遣策攻康、謂曰:「前錯用陳紀、每恨本意不遂。今若得康、廬江真卿有也。」策攻康、拔之、術復用其故吏劉勳為太守、策益失望。先是、劉繇為揚州刺史、州舊治壽春。壽春、術已據之、繇乃渡江治曲阿。時吳景尚在丹楊、策從兄賁又為丹楊都尉、繇至、皆迫逐之。景・賁退舍歷陽。繇遣樊能・于麋〔東〕〔屯橫江津〕、張英屯當利口、以距術。術自用故吏琅邪惠衢為揚州刺史、更以景為督軍中郎將、與賁共將兵撃英等、連年不克。策乃說術、乞助景等平定江東。術表策為折衝校尉、行殄寇將軍、兵財千餘、騎數十匹、賓客願從者數百人。比至歷陽、衆五六千。策母先自曲阿徙於歷陽、策又徙母阜陵、渡江轉鬥、所向皆破、莫敢當其鋒、而軍令整肅、百姓懷之。

2)   『後漢書』列伝二十一陸康伝より。

會廬江賊黄穰等與江夏蠻連結十餘萬人、攻沒四縣、拜康廬江太守。康申明賞罰、撃破穰等、餘黨悉降。帝嘉其功、拜康孫尚為郎中。獻帝即位、天下大亂、康蒙險遣孝廉計吏奉貢朝廷、詔書策勞、加忠義將軍、秩中二千石。時袁術屯兵壽春、部曲飢餓、遣使求委輸兵甲。康以其叛逆、閉門不通、内修戰備、將以禦之。術大怒、遣其將孫策攻康、圍城數重。康固守、吏士有先受休假者、皆遁伏還赴、暮夜縁城而入。受敵二年、城陷。月餘、發病卒、年七十。宗族百餘人、遭離飢厄、死者將半。朝廷愍其守節、拜子雋為郎中。

3)   『後漢書』紀九孝献帝紀より。

是歳(興平元年)、楊州刺史劉繇與袁術將孫策戰于曲阿、繇軍敗績、孫策遂據江東。太傅馬日磾薨于壽春。

4)   『三国志』巻五十呉書呉景伝(実際は妃嬪伝)より。

會為劉繇所迫、景復北依術、術以為督軍中郎將、與孫賁共討樊能・于麋於橫江、又撃笮融・薛禮於秣陵。時策被創牛渚、降賊復反、景攻討、盡禽之。從討劉繇、繇奔豫章、策遣景・賁到壽春報術。

5)   『三国志』巻五十四呉書周瑜伝より。

瑜從父尚為丹楊太守、瑜往省之。會策將東渡、到歷陽、馳書報瑜、瑜將兵迎策。策大喜曰:「吾得卿、諧也。」遂從攻橫江・當利、皆拔之。乃渡撃秣陵、破笮融・薛禮、轉下湖孰・江乘、進入曲阿、劉繇奔走、而策之衆已數萬矣。

6)   『三国志』巻四十九呉書劉繇伝より。

會辟司空掾、除侍御史、不就。避亂淮浦、詔書以為揚州刺史。時袁術在淮南、繇畏憚、不敢之州。欲南渡江、呉景・孫賁迎置曲阿。術圖為僭逆、攻沒諸郡縣。繇遣樊能・張英屯江邊以拒之。以景・賁術所授用、乃迫逐使去。於是術乃自置揚州刺史、與景・賁并力攻英・能等、歳餘不下。

7)   『三国志』巻四十六呉書孫策伝注所引『江表伝』より。

策説術云:「家有舊恩在東、願助舅討橫江;橫江拔、因投本土召募、可得三萬兵、以佐明使君匡濟漢室。」術知其恨、而以劉繇據曲阿、王朗在會稽、謂策未必能定、故許之。

策渡江攻繇牛渚營、盡得邸閣糧穀・戰具、是歳興平二年也。時彭城相薛禮・下邳相笮融依繇為盟主、禮據秣陵城、融屯縣南。策先攻融、融出兵交戰、斬首五百餘級、融即閉門不敢動。因渡江攻禮、禮突走、而樊能・于麋等復合眾襲奪牛渚屯。策聞之、還攻破能等、獲男女萬餘人。復下攻融、為流矢所中、傷股、不能乘馬、因自輿還牛渚營。或叛告融曰:「孫郎被箭已死。」融大喜、即遣將于茲郷策。策遣歩騎數百挑戰、設伏於後、賊出撃之、鋒刃未接而偽走、賊追入伏中、乃大破之、斬首千餘級。策因往到融營下、令左右大呼曰:「孫郎竟云何!」賊於是驚怖夜遁。融聞策尚在、更深溝高壘、繕治守備。策以融所屯地勢險固、乃舍去、攻破繇別將於海陵、轉攻湖孰・江乘、皆下之。

8)   『三国志』巻五十一呉書孫賁伝より。

為揚州刺史劉繇所迫逐、因將士衆還住歷陽。頃之、術復使賁與呉景共撃樊能・張英等、未能拔。及策東渡、助賁・景破英・能等、遂進撃劉繇。繇走豫章。

9)   『後漢書』列伝六十三陶謙伝より。

初、同郡人笮融、聚衆數百、往依於謙、謙使督廣陵・下邳・彭城運糧。遂斷三郡委輪、大起浮屠寺。上累金盤、下為重樓、又堂閣周回、可容三千許人、作黄金塗像、衣以錦綵。毎浴佛、輒多設飲飯、布席於路、其有就食及觀者且萬餘人。及曹操撃謙、徐方不安、融乃將男女萬口・馬三千匹走廣陵。廣陵太守趙昱待以賓禮。融利廣陵資貨、遂乘酒酣殺昱、放兵大掠、因以過江、南奔豫章、殺郡守朱皓、入據其城。後為楊州刺史劉繇所破、走入山中、為人所殺。

10)   『後漢書』列伝六十一朱儁伝より。

(朱儁)子皓、亦有才行、官至豫章太守。

11)   『三国志』巻三十五蜀書諸葛亮伝より。

亮早孤、從父玄為袁術所署豫章太守、玄將亮及亮弟均之官。會漢朝更選朱皓代玄。玄素與荊州牧劉表有舊、往依之。

12)   『三国志』巻三十五蜀書諸葛亮伝注所引『曹瞞伝』より。

初、豫章太守周術病卒、劉表上諸葛玄為豫章太守、治南昌。漢朝聞周術死、遣朱皓代玄。皓從揚州太守劉繇求兵撃玄、玄退屯西城、皓入南昌。

13)   『三国志』巻五十六呉書朱治伝より。

是時吳景已在丹楊、而策為術攻廬江、於是劉繇恐為袁・孫所并、遂搆嫌隙。而策家門盡在州下、治乃使人於曲阿迎太妃及權兄弟、所以供奉輔護、甚有恩紀。

14)   『三国志』巻五十二呉書張昭伝より。

孫策創業、命昭為長史・撫軍中郎將、升堂拜母、如比肩之舊、文武之事、一以委昭。昭每得北方士大夫書疏、專歸美於昭、昭欲嘿而不宣則懼有私、宣之則恐非宜、進退不安。策聞之、歡笑曰:「昔管仲相齊、一則仲父、二則仲父、而桓公為霸者宗。今子布賢、我能用之、其功名獨不在我乎!」

15)   『三国志』巻五十二呉書張昭伝注所引『呉書』より。

策得昭甚悦、謂曰:「吾方有事四方、以士人賢者上、吾於子不得輕矣。」乃上為校尉、待以師友之禮。

16)   『三国志』巻五十六呉書呂範伝より。

後從策攻破廬江、還俱東渡、到橫江・當利、破張英・于麋、下小丹楊・湖孰、領湖孰相。策定秣陵・曲阿、收笮融・劉繇餘衆、增範兵二千、騎五十匹。後領宛陵令、討破丹楊賊、還吳、遷都督

17)   『三国志』巻五十六呉書呂範伝注所引『江表伝』より。

策從容獨與範棋、範曰:「今將軍事業日大、士衆日盛、範在遠、聞綱紀猶有不整者、範願蹔領都督、佐將軍部分之。」策曰:「子衡、卿既士大夫、加手下已有大衆、立功於外、豈宜復屈小職、知軍中細碎事乎!」範曰:「不然。今捨本土而託將軍者、非為妻子也、欲濟世務。猶同舟渉海、一事不牢、即俱受其敗。此亦範計、非但將軍也。」策笑、無以答。範出、更釋褠、著蔥褶、執鞭、詣閤下啟事、自稱領都督、策乃授傳、委以衆事。由是軍中肅睦、威禁大行。

18)   『三国志』巻五十三呉書張紘伝より。

孫策創業、遂委質焉。表為正議校尉、從討丹楊。策身臨行陳、紘諫曰:「夫主將乃籌謨之所自出、三軍之所繫命也、不宜輕脱、自敵小寇。願麾下重天授之姿、副四海之望、無令國内上下危懼。」

19)   『CD-ROM版 字通』より。

20)   『三国志』巻五十五呉書程普伝より。

堅薨、復隨孫策在淮南、從攻廬江、拔之、還俱東渡。策到橫江・當利、破張英・于麋等、轉下秣陵・湖孰・句容・曲阿、普皆有功、增兵二千、騎五十匹。進破烏程・石木・波門・陵傳・餘亢、普功為多。

21)   『三国志』巻五十五呉書韓當伝より。

及孫策東渡、從討三郡、遷先登校尉、授兵二千、騎五十匹。

22)   『三国志』巻五十五呉書蔣欽伝より。

及策東渡、拜別部司馬、授兵。與策周旋、平定三郡、又從定豫章。

23)   『三国志』巻五十五呉書陳武伝より。

因從渡江、征討有功、拜別部司馬。


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