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建安の始まり(孫氏からみた三国志63)
2012.05.25.
<<孫策創業(孫氏からみた三国志62)


   前回、予告したように皇帝の行方を追う。そのため、<<「呂布の波及」(孫氏からみた三国志61)の続きと言った方が正確なのかもしれない。まずはその続きの『三国志』巻一魏書武帝紀1)興平二年(紀元195年)冬十月を見ていく

(興平二年)冬十月、天子(皇帝)は太祖(曹操字孟徳)を兗州牧に拝した。十二月、(兗州陳留郡)雍丘は潰れ、張超は自殺した。張邈(字孟卓)の三族を皆殺しにした。張邈は袁術(字公路)を詣で救いを請い、その衆の殺す所と為り、兗州は平定され、遂に陳の地を東略した。

   冬十月の件は、「呂布の波及」(孫氏からみた三国志61)で触れたように初平三年からそれまで兗州牧を領していた曹操が皇帝から正式に任命されたということだろう。
   十二月の件は「呂布の波及」(孫氏からみた三国志61)と重複する所があるが、分かりやすいように、再び『三国志』巻七魏書呂布伝20110531-6)から引くと、

   呂布(字奉先)は劉備(字玄徳)へ東奔した。張邈は呂布に従い、張超の将と家屬を(兗州陳留郡)雍丘に留めた。太祖は数月攻め囲み、これを屠り、張超及び其の家を斬った。張邈は袁術を詣で救いを請うたが未だ至らず、自ら其の兵の殺す所となった。

となり、「自殺」と「張超及び其の家を斬った」と記述の違いはあるものの、張超が亡くなったことは確かのようだ。また張邈も兵に殺された点で共通している。
   この時期での他の記述についてまず『三国志』巻十七魏書樂進伝2)から触れる。この時期の記述が少なくこの前後の記述も多く含まれるが次のようになる。

   樂進は文謙と字し、陽平衛國人(兗州東郡衛公國、『晋書』巻十四地理志上によると「陽平郡、魏置」なので後の呼称)だ。容貌は短小で、胆が烈しいことで太祖に従い、帳下の吏と為った。本郡へ還らせ、兵を募らせ、千人余りを得て、還ると軍の假司馬、陷陳都尉と為った。(兗州東郡)濮陽で呂布、雍丘で張超、(豫州陳國)苦で橋甤(橋蕤)を撃つのに従い、皆、先んじて登り功があり、(冀州中山國)廣昌亭侯に封じられた。

   次に『三国志』巻十七魏書于禁伝3)の記述の中で、<<「呂布の波及」(孫氏からみた三国志61)の続きに下記のがある。

   (于禁字文則は)(兗州東平國)壽張、(兗州濟陰郡)定陶、(兗州濟陰郡)離狐を攻めるのに従い、雍丘で張超を囲い、皆、これを抜いた。

   この張超と深く関わっていた人物に臧洪(字子源)が居る。<<「劉虞の死」(孫氏からみた三国志58)の続きの『後漢書』列伝四十八臧洪伝4)の記述で次のようにある。

   (臧洪は)二年、仕え在ったが、袁紹(字本初)はその能力を憚って、(兗州)東郡太守に遷し為し、東武陽を(郡の)都とした(元は濮陽)。当時、曹操は雍丘において張超を囲み、はなはだ危急だった。張超は軍吏に言う。
「今日の事は、ただ臧洪が必ず来て我を救うのがあるだけだ」
   或る者は言う。
「袁と曹は方々で実り、臧洪は袁紹の用いる所であり、恐らく敗れ得ず好んで遠くから来ず、福を違え禍を取らないでしょう」
   張超は言う。
「子源は天下の義士であり、本を背かず終いの者であり、或るいは強力に見え制し、相い及ばないだけだ。」
   臧洪は張超の包囲を聞くと、素足で号泣するに及び、轡を並べ領するところで、まさにその難へ赴こうとした。自ら衆弱を以て、袁紹に従い兵を請い、袁紹はこれを聞き入れず終いで、張超の城は遂に陥落し、張氏は族滅した。臧洪はこれにより袁紹を恨み、この上なく交流を与えなかった。

   記述は省略するが、同じような記述が『三国志』巻七魏書臧洪伝5)にも見える。一方、先に『三国志』巻七魏書呂布伝の記述で挙げたように、張邈が袁術を詣で救いを請う流れがあるが、これに注6)があり、次のような記述となる。

   『献帝春秋』に言う。
   袁術は尊号を称する議を行い、張邈は袁術に言う。
「漢は火徳に拠り、絶え再び揚がり、徳沢は豊かな流れで、明公(あなた)が誕生しました。公は中心人物であり中正を保ち、入れば上席においてまつり、出れば衆目の属する所と為り、華や霍でさえその高みを増やせず、淵泉はその量を同じくできず、巍巍蕩蕩と言うべきで、二つと与えません。どうしてこれを捨て称制しよう(天子に代わって政務をとる)とするのでしょうか。恐らく福はまなじりに満たず、禍は将に世に溢れるでしょう。莊周の称は郊祭犧牛し、養い飼うのに年を経て、衣は文で縫い取り、鸞刀(祭祀の犠牲を割く刀)を宰執し、廟門に入ることで、まさにこの時、孤児の犢(こうし)を求めることはできません」
   本伝を按ずるに、張邈は袁術を詣でるも、未だ至らず死んだ。そのためこれに言う尊号を称するのを諫めるのは、未だこれを詳しくつまびらかではない。

   また曹操は同じ頃、兗州だけでなく西の司隸へも気を向け行動を起こしていた。司隸の状況は<<「皇帝東帰」(孫氏からみた三国志60)にある頃で、またそこにある『三国志』巻十四魏書董昭伝7)の続きとなる。以下。

   当時、太祖は兗州を領し、使者に(司隸の河内太守の)張楊(字稚叔)を詣でさせ、道を借らせて(司隸京兆尹)長安へ西に至らせようと欲し、張楊は聞き入れなかった。董昭(字公仁)は張楊に説いて言う。
「袁、曹は一つの家を為したと雖も、勢いは群れて久しくありません。曹は今、弱いと雖も、然るに天下の英雄を実り、そのためこれと結するべきでしょう。いわんや今、縁が有り、その上事を通じ、併せてこれを表し薦めるが良いでしょう。もし事に成功があれば、永らく深い分かちと為すでしょう。」
   張楊はこれにより太祖の上事と通じ、太祖を表し薦めた。董昭は太祖の作る書を為し長安諸將の李傕、郭汜等に与え、各々は輕重に随い殷勤(ねんごろ)し至った。張楊もまた使を太祖に詣でさせた。太祖は張楊に犬馬金帛を遺し、遂に西方と往来した。天子は(司隸河東郡)安邑に在り、董昭は河内より往き、議郎に詔拝した。

   この天子が安邑に在る件は、先の『三国志』巻一魏書武帝紀1)の続きにもあり、それは次のようになる。その詳細は<<「皇帝東帰」(孫氏からみた三国志60)で触れた通りだ。

   この歳、長安は乱れ、天子は東へ還り、(司隸弘農郡弘農県)曹陽で破れ、渡河し安邑に行幸した。

   この流れを<<「皇帝東帰」とは別の角度で記述したのが次の『後漢書』紀十皇后紀下伏皇后紀8)だ。

   献帝(皇帝)の伏皇后は壽と諱し、(徐州)琅邪東武人であり、大司徒の伏湛の八世の孫だ。父の伏完は、落ち着いて思慮深く大きな度量が有り、爵を踏襲したがその侯にならず、桓帝の女(むすめ)の(徐州汝南郡)陽安公主を娶り、侍中と為った。
   初平元年、大駕が長安へ西遷するに従い、后は時に掖庭(後宮)に入り貴人と為った。興平二年、皇后に立ち為し、伏完は執金吾に遷った。帝は探り東帰し、李傕、郭汜等は曹陽で乗輿を追い負かし、帝はそこで夜に潜み河を渡り走り、六宮は皆、歩行し営を出た。后は縑数匹を手に持ち、董承は符節令の孫徽に刃を以てこれを脅し奪わせ、傍侍者を殺させ、血が后衣にかかった。既に安邑に至り、御服は破れ、ただ棗栗を糧にした。

   さらに「曹陽で破れ」たことを聞き、行動を起こした者が居た。それは袁術であり、次のように『三国志』巻六魏書袁術伝9)に記載がある。

   興平二年の冬、天子は曹陽で敗れた。袁術は群下に会い言う。
「今、劉氏は微弱で、海内は鼎沸する。吾の家の四世は公輔し、百姓の帰する所であり、天が応じ民を順うのを欲し、諸君の意に於いては如何であろうか」
   衆は敢えて対しなかった。主簿の閻象は進んで言う。
「昔、周は后稷より文王に至り、徳を積み功を重ね、三分の天下に其の二が有り、ちょうど殷に服し仕えるようでした。明公は奕世(代々)克昌(盛ん)と雖も、未だ周の盛の如くではなく、漢室は微と雖も、未だ殷紂の暴の如くではありません」
   袁術は溜まり喜ばなかった。

   これらの流れは『後漢書』列伝六十五袁術伝10)でも触れられており、次のようにより詳しくなっている。

   興平二年冬、天子は播越(本地を離れ)し、曹陽で敗れた。袁術は群下と大会し、それにより言う。
「今、海内は鼎沸し、劉氏は微弱だ。吾の家は四世で公輔し、百姓は帰す所にあり、天に応じ民を順わせるのを欲するが、諸君は如何か」
   衆は敢えて対しなかった。主簿の閻象は進んで言う。
「昔、周は后稷より文王に至り、徳を積み功を重ね、天下を三分し、なお殷に服し使えました。明公は世々、盛んとなり、周の盛ほどでしょうか。漢室は微力と雖も、未だ殷紂の敝に至っていません」
   袁術は黙り、張範を召しせせた。張範は病気で辞し、弟の張承に往かせこれに応じさせた。袁術は問うて言う。
「昔、周室は次第に緩やかとなれば、桓文の霸が有った。秦はその政を失い、漢は接しこれを用いた。今、孤(わたし)は土地の広さ、士人の衆を以て、齊桓に徼福(他国の祖霊の祐助を求める)を欲し、高祖に跡をなぞるべきか。」
   張承は対して言う。
「徳が在り衆が在りません。かりそめにも良く徳を用いて天下を同じくすると欲するならば、匹夫と云った雖も、霸王というべきです。もし際限なく次第に衰えるならば、時を守り動き、衆の棄てる所であり、誰がこれを興すでしょうか」
   袁術は悦ばなかった。

   ここで「吾の家は四世で公輔し」に注11)が付き、「袁安が司空となり、子の袁敞および袁京、袁京の子の袁湯、袁湯の子の袁逢が並んで司空と為った」とある。また「張承は対して言」った所にも注11)があり、

   『魏志』に言う。張範は公儀と字する。張承は公先と字し、河内人で、司徒張歆の孫だ。

とある。この『魏志』は『三国志』巻十一魏書張範伝12)のことで、<<「動き出した関東諸将」(孫氏からみた三国志49)の該当列伝の続きの記述にも似たような張承と袁術との会合が書かれる。

<2012年6月14日>
   また「曹陽で破れ」たことを聞いたが行動に起こせない人物も居た。それは袁紹字本初であり、<<「劉虞の死」(孫氏からみた三国志58)にある『後漢書』列伝六十四上袁紹伝23)の続きの記述で次のようになる。

   興平二年(紀元195年)、袁紹は右將軍を拝した。その冬、車駕(皇帝)は曹陽で李傕等の追う所と為り、沮授は袁紹に説いて言う。

   この後のやりとりは次の『三国志』巻六魏書袁紹伝24)の記述およびその注に引く『献帝伝』25)と似たようになる。

   以前、天子の立つのは袁紹の意ではなく、(皇帝が)河東に及び在ると、袁紹は潁川の郭圖を使いに出させた。郭圖は還り袁紹に天子を迎え鄴を都するよう説き、袁紹は従わなかった。

   『献帝伝』に言う。
   沮授は袁紹に説いて言う。
「將軍は葉(世代)を重ね輔弼し、忠義で世を救いました。今、朝廷は播越(本地を離れ)し、宗廟は毀壞し(こぼち)、諸州や郡外を観るに義兵を託し、内で相滅を図り、未だ主に民を哀れむ者は在りません。その上、今の州城はほぼ定まり、宜しく大駕(皇帝)を迎え、宮を安んじ鄴を都し、天子を挟み諸侯に令し、士馬を蓄えることで不庭を討ち、誰がこれを守り得るでしょうか」
   袁紹は喜び、まさにこれに従おうとした。郭圖、淳于瓊は言う。
「漢室は次第に緩やかとなり、久しく、今、これを興すのを欲しても、大しては難しくないでしょう。その上、今、英雄は州郡に拠し有り、衆は動き万に計り、所謂、秦がその鹿を失い、王を先ず得たことでしょう。もし天子を近くに迎えれば、動いてただちに表聞し、これに従えば権力を軽んじ、これを違えば命を拒み、この善者を計らないでしょう」
   沮授は言う。
「今、朝廷を迎えるのは、至義であり、またこの時に宜しく大いに計りましょう。もし早く図らなければ、必ず先人者が有るでしょう。それは権が機を失わず、功は速捷に在り、それ、將軍はこれを図ります」
   袁紹は用いることができなかった。
   此の書を案ずるに、沮授の計を称え、則ち本伝と違う。
<追記終了>

   話を袁術と袁紹から離し、『後漢書』紀九孝献帝紀13)のこの興平二年の最後の項目を見ると、

   (興平二年)この歳、袁紹は将の麴義を鮑丘で公孫瓚と戦わせ、公孫瓚の軍は大敗した。

となっており、「鮑丘」について注14)が付き、

   鮑丘、川の名で、北塞の中を出て、南に流れ、九莊嶺の東を経て、俗にこれを大榆河と言う。又、東南で(幽州漁陽郡)漁陽縣の故城の東を経て、これは公孫瓚の戦処だ。『水經注』に見える。

とある。ここをさらに詳しく見るために『後漢書』列伝六十三公孫瓚伝15)を見る。ちょうど<<「劉虞の死」(孫氏からみた三国志58)の該当列伝の続きに当たる。

   烏桓峭王は(殺された)劉虞(字伯安)の恩徳を感じ、種人及び鮮卑七千騎余りを率い、鮮于輔と共に南に劉虞の子の劉和を迎え、袁紹の将の麴義と合わせて兵十万で共に公孫瓚を攻めた。興平二年、鮑丘で公孫瓚を破り、首二万級余りを斬った。公孫瓚は遂に(冀州河閒國)易京を守り、屯田を開き置き、次第に自らを支え得た。

   ここで年が変わり、『後漢書』紀九孝献帝紀13)の記述に戻る。以下。

   建安元年(興平三年、紀元196年)、春正月癸酉(七日)、(司隸河東郡)安邑で上帝を郊祀し、天下に大赦し、建安に改元した。
   二月、韓暹は衛將軍の董承を攻めた。

   <<「皇帝東帰」(孫氏からみた三国志60)で触れた記述を信じるならば(日付の整合性が取れていないのでどこかで誤りはあるのだろうが)、この二日後の九日に安邑を都にするのだが、年号を興平から建安へ改めた。
   また二月の件については次のように『後漢書』列伝六十二董卓列伝16)が詳しい。

   以前、帝が入関し、三輔の戸口は尚、数十万あり、李傕と郭汜が相い攻めたことより、天子が東帰した後、(司隸京兆尹)長安城は四十日余り空になり、強者は四散し、羸者は相い食い、二、三年間で、関中は人の跡が復すことは無かった。建安元年春、諸将は権を争い、韓暹は遂に董承を攻め、董承は張楊に奔り、張楊はそこで董承に先ず洛宮を修繕させた。

   話を改号に戻し、その前後で年号はともに「平」と「安」といった争いとは真逆の文字が使われているが、曹操はというと、先の『三国志』巻一魏書武帝紀1)の続きにもあり、それは次のようになる。

   建安元年春正月、太祖の軍は(豫州陳國)武平に臨み、袁術の置く所の陳相の袁嗣が降った。
   太祖は将に天子を迎えようとし、諸將の或る者は疑い、荀彧、程昱はこれを勧め、そこで曹洪に兵を率いらせ西に向かわせ、衛將軍の董承と袁術の将の萇奴は要害で拒み、曹洪は進み得なかった。
   (豫州)汝南、(豫州)潁川の黄巾の何儀、劉辟、黄邵、何曼等の、衆は各数万で、以前、袁術に応じ、また孫堅に附した。二月、太祖は進軍しこれを討ち破り、劉辟、黄邵等を斬り、何儀及びその衆を皆下した。

   この状況を詳しく追おうと列伝を当たる。二月のことについて、先に挙げた『三国志』巻十七魏書于禁伝3)の記述の続きに詳しい。以下。

   (于禁は)黄巾の劉辟、黄邵等を征するのに従い、版梁に屯し、黄邵等は太祖の営に夜襲した。帥の麾下にこれを撃破するのを止め、黄邵等を斬り、尽くその衆を下した。平虜校尉に遷った。

   再び『三国志』巻一魏書武帝紀1)の記述を追っていく。以下。

   天子は太祖に建德將軍を授け、夏六月に、鎮東將軍に遷し、費亭侯に封じた。秋七月、楊奉と韓暹は天子を以て洛陽に還らせ、別に梁に駐屯し奉じた。太祖は遂に洛陽に至り、京都を守り、韓暹は遁走した。天子は太祖に節鉞、録尚書事を仮した。洛陽は残破し、董昭等は太祖に許に都すのを勧めた。

   これに対する『後漢書』紀九孝献帝紀13)の記述は次のように皇帝側の詳しい記述となる。曹操の記述に「仮した」と「自ら領した」との違いがある。

   夏六月乙未(一日)、(司隸河東郡)聞喜に行幸した。秋七月甲子(一日)、車駕は(司隸河南尹)洛陽に至り、故(もと)の中常侍の趙忠の宅に行幸した。丁丑(十四日)、上帝に郊祀し、天下に大赦した。己卯(十六日)、太廟を謁した。八月辛丑(八日)、南宮の楊安殿に行幸した。癸卯(十日)、安國將軍の張楊は大司馬に為り、韓暹は將軍に為り、楊奉は車騎將軍に為った。
   この時、宮室は焼き尽くされており、百官は荊棘を拓き、牆壁の間に依った。州郡は各々、強兵を擁し、委輸し(貨物を運び)至らず、群僚は飢乏し、尚書郎以下は自ら出て稆を採り、或る者は牆壁の間で飢えて死に、或る者は兵士の殺される所と為った。
   辛亥(十八日)、鎮東將軍の曹操は司隸校尉、録尚書事を自ら領した。曹操は侍中の臺崇、尚書の馮碩等を殺した。衛將軍の董承を輔國將軍、伏完等十三人を列侯に為し封じ、沮雋を弘農太守に為し贈った。
洛陽へ
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)

   皇帝が洛陽に着いた際に次のようなエピソードがある。『後漢書』列伝五十四趙岐伝17)からの記述で、ちょうど<<「劉虞の死」(孫氏からみた三国志58)の同伝の記載の続きになる。

   興平元年、詔書で趙岐(字邠卿)は徴され、(建安元年)たまたま帝は当に洛陽に還り、先ず衛將軍の董承に宮室を修理させた。趙岐は董承に言う。
「今、海内は分かれ崩れ、唯、荊州の境の広い地に優れたのが有り、巴蜀へ西に通じ、交阯は南に当たり、年穀はただ登り、兵人は次第に全うします。岐(わたし)は大命に迫ると雖も、ちょうど志が国家に報いるように、自ら牛車に乗り、劉表に南へ説くように欲し、その身に自ら兵を率い朝廷を来衛させ、将軍と与し心を併せ力を同じくし、共に王室を奨めるべきです。これは上を安んじ人を救う策です」
   董承は即ち上表し趙岐を荊州に使わし、租糧を督させた。趙岐が至ると、劉表(字景升)は即ち兵を洛陽に詣でさせ宮室を修めるのを助け、軍資は運ばれ、前後を絶たなかった。当時、孫嵩はその上、劉表に寄せ、劉表は礼を示さず、趙岐はそこで孫嵩の素行の篤烈を称し、共に上げることで青州刺史に為した。趙岐は老病で、遂に荊州に留まった。

   <<「皇帝東帰」(孫氏からみた三国志60)の続きとして、次のように皇帝が洛陽に着いた際の『三国志』巻八魏書張楊伝18)での記述がある。

   建安元年、楊奉、董承、韓暹は天子を挟み舊京(洛陽)に還り、食糧が乏しかった。張楊は糧を以て道路に迎え、遂に洛陽に至った。諸將に言う。
「天子は当に天下とこれを共にすべきで、行幸すれば公卿大臣が有って、楊(わたし)は当に外難からまもるべきなのに、どうして京都に仕えるか」
   遂に野王に還った。即ち拝して大司馬に為った。

   さらにこの詳しい記述が<<「皇帝東帰」(孫氏からみた三国志60)の続きとして、次のように皇帝が洛陽に着いた際の『三国志』巻六魏書董卓伝19)での記述がある。

   (建安元年)楊奉、韓暹、董承はかえって天子を洛陽に帰した。箕関を出て、軹道を下り、張楊は食で道路に迎え、大司馬を拝した。語は張楊伝に在る。天子は洛陽に入り、宮室は焼き尽くされ、街陌は荒れて草が生え、百官は荊棘を分け、丘牆の間に依った。州郡は各々兵を擁し自衛し、至者の有るのは無かった。飢窮は次第に甚大になり、尚書郎以下は自ら出て薪を取り、或る人は牆壁の間で飢え死にした。

   それに対応する『後漢書』列伝六十二董卓列伝16)は次のようになり(前述の同伝続き)、『三国志』巻八魏書張楊伝と似た記述が含まれる。また曹操が洛陽に至った頃の記述がある。

   七月、帝は還り洛陽に至り、楊安殿に行幸した。張楊は己の功と思って、そのため「楊」を殿に名付けた。そこで諸將に言う。
「天子は当に天下とこれを共にすべきで、朝廷は自ら公卿大臣を有し、楊(わたし)は当に出て外難を防ぐべきで、どうして京師に仕えるのでしょうか」
   遂に(司隸河内郡)野王に還った。張楊もまた奉じ出て(司隸河南尹)梁に屯した。そこで張楊を大司馬と為し、楊奉を車騎將軍と為し、韓暹を大將軍と為し,司隸校尉を領させ、皆、節鉞を仮した。韓暹は董承と並んで宿衛に留まった。
   韓暹は功を誇り惰性のまま行動し、政事を乱し、董承はこれを患い、密かに兗州牧の曹操を召し、曹操はそこで闕に詣で貢献し、公卿以下を与えることで、韓暹、張楊の罪を上奏した。韓暹は誅を懼れ、単騎で奔り張楊は奉じた。帝は韓暹、張楊に車駕を翼する功が有りとし、詔で一切で問う無かれとした。これに於いて衛將軍の董承、輔國將軍の伏完等十人余りを封じ列侯と為し、沮雋に贈り弘農太守と為した。

   この「列侯」の部分に注20)があり『袁宏紀』つまり袁宏『後漢紀』から次のように引かれ、より詳しく書かれる。

   議郎の侯祈、尚書の馮碩、侍中臺崇を誅し、討ち罪を有した。衛將軍の董承、輔國將軍の伏完、侍中の丁沖、种輯、尚書僕射の鍾繇、尚書の郭溥、御史中丞の董芬、彭城相の劉艾、馮翊の韓斌、東郡太守の楊衆、議郎の羅邵、伏德、趙蕤を封じ列侯と為し、賞し功を有した。射聲校尉沮雋に贈り弘農太守に為し、死節を表した。

   また夏六月に曹操が鎮東將軍になった経緯が次の『三国志』巻十四魏書董昭伝7)に詳しい。先の同伝の続きに当たる。

   建安元年、太祖は黄巾を(豫州潁川郡)許に於いて正し、使者を河東に詣でさせた。たまたま天子が洛陽に還り、韓暹、楊奉、董承および楊各は違い不和に戻った。(議郎の)董昭は兵馬を最強にし奉じて少ない党が助け、太祖に書を作り奉じて言う。
「吾と將軍とは名を聞き義を慕い、更に赤心を推します。今、將軍は万乗の艱難(苦しみ)を抜き、この旧都に反し、この功を翼佐し、世代を超し境が無いのに、どうしてそれを休ませるのでしょうか。まさに今、群凶は中夏を乱し、四海は未だ安らかにならず、神器は至重であり、事は繋ぎ助けることに在ります。賢を集めるのに清い王軌は必須であり、独りで建てることのできる所は誠に一人も居ません。心腹(まごころ)と四支(手足)は、実に互いに頼りとし、一物を備えなければ、不足があるでしょう。將軍は正に内主と為るべきで、吾は外援と為ります。今、吾は糧を有し、將軍は兵を有し、有無を互いに通じ、互いに救えるに足れば、死生を共に苦労し、互いに与えこれを共にします」
   悦んで書を奉じ得て、諸將軍に語って言う。
「兗州の諸軍は近くに在り任せるのみで、兵を有し糧を有し、国家は当に依って仰ぐ所です」
   遂に共に太祖を表し鎮東將軍にし、父の爵の費亭侯を踏襲した。董昭は符節令に遷った。

   こうして天子の居る洛陽には糧や軍資などの救援や修繕による復興がもたらされたものの、そこに関わる各勢力が拮抗している不安定な状況だった。先の『三国志』巻一魏書武帝紀の「董昭等は太祖に許に都すのを勧めた」という記述の他、次のように『三国志』巻十魏書荀彧伝21)からの記述がある。これと似た記述のある『後漢書』列伝六十荀彧伝22)から欠けた文を追加する。<<「呂布の波及」(孫氏からみた三国志61)の続きに当たる。

   建安元年、太祖は黄巾を撃破した。漢の献帝は河東より洛陽に還った。太祖は奉じ迎え許を都にすることを議し、或る人は山東を未だ平定されず、韓暹、楊奉は新たに天子を率い洛陽に到り、張楊を北に連なり、未だにわかに制することができないとした。荀彧(字文若)は太祖に勧めて言う。
「昔、晋の文王は周の襄王を納め諸侯は景從(影が付き従うように従う)し、高祖は東伐し縞素(明らか?)に義帝と為り天下は帰心しました。天子がさすらってから、將軍は真っ先に義兵を唱え、いたずらに山東を乱し、未だ関右(関西)へ遠く赴くことができず、しかるに猶分けて將帥を遣わし、険しさを蒙り使を通じ、外で難を防ぐと雖も、乃ち心は王室に在らずことはなく、これは將軍が天下の素志を正すことです。今、車駕は車を巡らし、東京は荒れ果て、義士は存本の思いを有し、百姓は旧を感じ哀しさを増しています。誠にこの時に因り、民の臨みに従うことで主上に奉じるならば、大順になります。雄傑を服することで執り公に至るならば、大略となります。英俊に致ることで弘義を守れば、大徳になります。天下は逆節を有すると雖も、必ず重ねられないのは明かです。韓暹、楊奉はそれ敢えて害を為しています。時に正さなければ、四方で異心があり、後にこれを慮ると雖も及びません。」
   太祖は遂に洛陽に至り、天子を迎え許を都とするよう奉じた。

   こうして建安の年号が始まり皇帝が洛陽に帰ったものの未だ安んじず、皇帝が再び動く機運がにわかに出てきたが、それについては次回以降となる。




1)   『三国志』巻一魏書武帝紀より。本文のネタバレあり。

冬十月、天子拜太祖兗州牧。十二月、雍丘潰、超自殺。夷邈三族。邈詣袁術請救、為其衆所殺、兗州平、遂東略陳地。
是歳、長安亂、天子東遷、敗于曹陽、渡河幸安邑。
建安元年春正月、太祖軍臨武平、袁術所置陳相袁嗣降。
太祖將迎天子、諸將或疑、荀彧・程昱勸之、乃遣曹洪將兵西迎、衛將軍董承與袁術將萇奴拒險、洪不得進。
汝南・潁川黄巾何儀・劉辟・黄邵・何曼等、衆各數萬、初應袁術、又附孫堅。二月、太祖進軍討破之、斬辟・邵等、儀及其衆皆降。天子拜太祖建德將軍、夏六月、遷鎮東將軍、封費亭侯。秋七月、楊奉・韓暹以天子還洛陽、奉別屯梁。太祖遂至洛陽、衛京都、暹遁走。天子假太祖節鉞、録尚書事。洛陽殘破、董昭等勸太祖都許。

2)   『三国志』巻十七魏書樂進伝より。

樂進字文謙、陽平衛國人也。容貌短小、以膽烈從太祖、為帳下吏。遣還本郡募兵、得千餘人、還為軍假司馬・陷陳都尉。從撃呂布於濮陽、張超於雍丘、橋甤於苦、皆先登有功、封廣昌亭侯。

3)   『三国志』巻十七魏書于禁伝より。

從攻壽張・定陶・離狐、圍張超於雍丘、皆拔之。從征黄巾劉辟・黄邵等、屯版梁、邵等夜襲太祖營、禁帥麾下撃破之、斬(辟)邵等、盡降其衆。遷平虜校尉。

4)   『後漢書』列伝四十八臧洪伝より。

在事二年、袁紹憚其能、徙為東郡太守、都東武陽。時曹操圍張超於雍丘、甚危急。超謂軍吏曰:「今日之事、唯有臧洪必來救我。」或曰:「袁曹方穆、而洪為紹所用、恐不能敗好遠來、違福取禍。」超曰:「子源天下義士、終非背本者也、或見制強力、不相及耳。」洪始聞超圍、及徒跣號泣、並勒所領、將赴其難。自以衆弱、從紹請兵、而紹竟不聽之、超城遂陷、張氏族滅。洪由是怨紹、絶不與通。

5)   『三国志』巻七魏書臧洪伝より。

太祖圍張超于雍丘、超言:「唯恃臧洪、當來救吾。」衆人以為袁・曹方睦、而洪為紹所表用、必不敗好招禍、遠來赴此。超曰:「子源、天下義士、終不背本者、但恐見禁制、不相及逮耳。」洪聞之、果徒跣號泣、並勒所領兵、又從紹請兵馬、求欲救超、而紹終不聽許。超遂族滅。洪由是怨紹、絶不與通。

6)   『三国志』巻七魏書呂布伝注より。

獻帝春秋曰:袁術議稱尊號、邈謂術曰:「漢據火德、絶而復揚、德澤豐流、誕生明公。公居軸處中、入則享于上席、出則為衆目之所屬、華・霍不能增其高、淵泉不能同其量、可謂巍巍蕩蕩、無與為貳。何為捨此而欲稱制?恐福不盈眥、禍將溢世。莊周之稱郊祭犧牛、養飼經年、衣以文繡、宰執鸞刀、以入廟門、當此之時、求為孤犢不可得也!」按本傳、邈詣術、未至而死。而此云諫稱尊號、未詳孰是。

7)   『三国志』巻十四魏書董昭伝より。

時太祖領兗州、遣使詣楊、欲令假塗西至長安、楊不聽。昭説楊曰:「袁・曹雖為一家、勢不久群。曹今雖弱、然實天下之英雄也、當故結之。況今有縁、宜通其上事、并表薦之;若事有成、永為深分。」楊於是通太祖上事、表薦太祖。昭為太祖作書與長安諸將李傕・郭汜等、各隨輕重致殷勤。楊亦遣使詣太祖。太祖遺楊犬馬金帛、遂與西方往來。天子在安邑、昭從河内往、詔拜議郎。
建安元年、太祖定黄巾于許、遣使詣河東。會天子還洛陽、韓暹・楊奉・董承及楊各違戾不和。昭以奉兵馬最彊而少黨援、作太祖書與奉曰:「吾與將軍聞名慕義、便推赤心。今將軍拔萬乘之艱難、反之舊都、翼佐之功、超世無疇、何其休哉!方今群凶猾夏、四海未寧、神器至重、事在維輔;必須衆賢以清王軌、誠非一人所能獨建。心腹四支、實相恃賴、一物不備、則有闕焉。將軍當為内主、吾為外援。今吾有糧、將軍有兵、有無相通、足以相濟、死生契闊、相與共之。」奉得書喜悅、語諸將軍曰:「兗州諸軍近在許耳、有兵有糧、國家所當依仰也。」遂共表太祖為鎮東將軍、襲父爵費亭侯;昭遷符節令。

8)   『後漢書』紀十皇后紀下伏皇后紀より。

獻帝伏皇后諱壽、琅邪東武人、大司徒湛之八世孫也。父完、沈深有大度、襲爵不其侯、尚桓帝女陽安公主、為侍中。
初平元年、從大駕西遷長安、后時入掖庭為貴人。興平二年、立為皇后、完遷執金吾。帝尋而東歸、李傕・郭汜等追敗乘輿於曹陽、帝乃潛夜度河走、六宮皆步行出營。后手持縑數匹、董承使符節令孫徽以刃脅奪之、殺傍侍者、血濺后衣。既至安邑、御服穿敝、唯以棗栗為糧。

9)   『三国志』巻六魏書袁術伝より。

興平二年冬、天子敗於曹陽。術會群下謂曰:「今劉氏微弱、海内鼎沸。吾家四世公輔、百姓所歸、欲應天順民、於諸君意如何?」衆莫敢對。主簿閻象進曰:「昔周自后稷至于文王、積德累功、三分天下有其二、猶服事殷。明公雖奕世克昌、未若有周之盛、漢室雖微、未若殷紂之暴也。」術嘿然不悅。

10)   『後漢書』列伝六十五袁術伝より。

興平二年冬、天子播越、敗於曹陽。術大會群下、因謂曰:「今海内鼎沸、劉氏微弱。吾家四世公輔、百姓所歸、欲應天順民、於諸君何如?」衆莫敢對。主簿閻象進曰:「昔周自后稷至于文王、積德累功、參分天下、猶服事殷。明公雖奕世克昌、孰若有周之盛?漢室雖微、未至殷紂之敝也。」術嘿然、使召張範。範辭疾、遣弟承往應之。術問曰:「昔周室陵遲、則有桓文之霸;秦失其政、漢接而用之。今孤以土地之廣、士人之衆、欲徼福於齊桓、擬跡於高祖、可乎?」承對曰:「在德不在衆。苟能用德以同天下之欲、雖云匹夫、霸王可也。若陵僭無度、干時而動、衆之所棄、誰能興之!」術不説。

11)   『後漢書』列伝六十五袁術伝注より。二箇所を続けて記す。

袁安為司空、子敞及京、京子湯、湯子逢並為司空。

魏志曰、範字公儀。承字公先、河内人、司徒歆之孫也。

12)   『三国志』巻十一魏書張範伝より。

袁術備禮招請、範稱疾不往、術不彊屈也。遣承與相見、術問曰:「昔周室陵遲、則有桓・文之霸;秦失其政、漢接而用之。今孤以土地之廣、士民之衆、欲徼福齊桓、擬跡高祖、何如?」承對曰:「在德不在彊。夫能用德以同天下之欲、雖由匹夫之資、而興霸王之功、不足為難。若苟僭擬、干時而動、衆之所棄、誰能興之?」術不悅。

13)   『後漢書』紀九孝献帝紀より。

是歳、袁紹遣將麴義與公孫瓚戰於鮑丘、瓚軍大敗。
建安元年春正月癸酉、郊祀上帝於安邑、大赦天下、改元建安。
二月、韓暹攻衛將軍董承。
夏六月乙未、幸聞喜。秋七月甲子、車駕至洛陽、幸故中常侍趙忠宅。丁丑、郊祀上帝、大赦天下。己卯、謁太廟。八月辛丑、幸南宮楊安殿。
癸卯、安國將軍張楊為大司馬、韓暹為將軍、楊奉為車騎將軍。
是時、宮室燒盡、百官披荊棘、依牆壁閒。州郡各擁彊兵、而委輸不至、群僚飢乏、尚書郎以下自出採稆、或飢死牆壁閒、或為兵士所殺。
辛亥、鎮東將軍曹操自領司隸校尉、録尚書事。曹操殺侍中臺崇・尚書馮碩等。封衛將軍董承為輔國將軍伏完等十三人為列侯、贈沮雋為弘農太守。

14)   『後漢書』紀九孝献帝紀注より。

鮑丘、水名、出北塞中、南流經九莊嶺東、俗謂之大榆河。又東南經漁陽縣故城東、是瓚之戰處。見水經注。

15)   『後漢書』列伝六十三公孫瓚伝より。

烏桓峭王感虞恩德、率種人及鮮卑七千餘騎、共輔南迎虞子和、與袁紹將麴義合兵十萬、共攻瓚。興平二年、破瓚於鮑丘、斬首二萬餘級。瓚遂保易京、開置屯田、稍得自支。

16)   『後漢書』列伝六十二董卓列伝より。

初、帝入關、三輔戸口尚數十萬、自傕汜相攻、天子東歸後、長安城空四十餘日、強者四散、羸者相食、二三年閒、關中無復人跡。建安元年春、諸將爭權、韓暹遂攻董承、承奔張楊、楊乃使承先繕修洛宮。
七月、帝還至洛陽、幸楊安殿。張楊以為己功、故因以「楊」名殿。乃謂諸將曰:「天子當與天下共之、朝廷自有公卿大臣、楊當出扞外難、何事京師?」遂還野王。楊奉亦出屯梁。乃以張楊為大司馬、楊奉為車騎將軍、韓暹為大將軍、領司隸校尉、皆假節鉞。暹與董承並留宿衛。
暹矜功恣睢、干亂政事、董承患之、潛召兗州牧曹操。操乃詣闕貢獻、稟公卿以下、因奏韓暹・張楊之罪。暹懼誅、單騎奔楊奉。帝以暹・楊有翼車駕之功、詔一切勿問。於是封衛將軍董承・輔國將軍伏完等十餘人為列侯、贈沮雋為弘農太守。
暹矜功恣睢、干亂政事、董承患之、潛召兗州牧曹操。操乃詣闕貢獻、稟公卿以下、因奏韓暹・張楊之罪。暹懼誅、單騎奔楊奉。帝以暹・楊有翼車駕之功、詔一切勿問。於是封衛將軍董承・輔國將軍伏完等十餘人為列侯、贈沮雋為弘農太守。

17)   『後漢書』列伝五十四趙岐伝より。

興平元年・詔書徴岐・會帝當還洛陽・先遣衛將軍董承修理宮室。岐謂承曰:「今海内分崩・唯有荊州境廣地勝・西通巴蜀・南當交阯・年穀獨登・兵人差全。岐雖迫大命・猶志報國家・欲自乘牛車・南説劉表・可使其身自將兵來衛朝廷・與將軍并心同力・共獎王室。此安上救人之策也。」承即表遣岐使荊州・督租糧。岐至・劉表即遣兵詣洛陽助修宮室・軍資委輸・前後不絶。時孫嵩亦寓於表・表不為禮・岐乃稱嵩素行篤烈・因共上為青州刺史。岐以老病・遂留荊州。

18)   『三国志』巻八魏書張楊伝より。

建安元年、楊奉・董承・韓暹挾天子還舊京、糧乏。楊以糧迎道路、遂至洛陽。謂諸將曰:「天子當與天下共之、幸有公卿大臣、楊當捍外難、何事京都?」遂還野王。即拜為大司馬。

19)   『三国志』巻六魏書董卓伝より。

奉・暹・承乃以天子還洛陽。出箕關、下軹道、張楊以食迎道路、拜大司馬。語在楊傳。天子入洛陽、宮室燒盡、街陌荒蕪、百官披荊棘、依丘牆閒。州郡各擁兵自衛、莫有至者。飢窮稍甚、尚書郎以下、自出樵采、或飢死牆壁閒。

20)   『後漢書』列伝六十二董卓列伝注所引『後漢紀』より。

誅議郎侯祈・尚書馮碩・侍中(壺)〔臺〕崇、討有罪也。封衛將軍董承・輔國將軍伏完・侍中丁沖・种輯・尚書僕射鍾繇・尚書郭溥・御史中丞董芬・彭城相劉艾・馮翊韓斌・東郡太守楊衆・議郎羅邵・伏德・趙蕤為列侯、賞有功也。贈射聲校尉沮雋為弘農太守、旌死節也。

21)   『三国志』巻十魏書荀彧伝より。〔〕内は『後漢書』列伝六十荀彧伝22)より補った箇所。

建安元年、太祖撃破黄巾。漢獻帝自河東還洛陽。太祖議奉迎都許、或以山東未平、韓暹・楊奉新將天子到洛陽、北連張楊、未可卒制。彧勸太祖曰:「昔〔晉文納周襄王而諸侯景從〕、高祖東伐為義帝縞素而天下歸心。自天子播越、將軍首唱義兵、徒以山東擾亂、未能遠赴關右、然猶分遣將帥、蒙險通使、雖禦難于外、乃心無不在王室、是將軍匡天下之素志也。今車駕旋軫、〔東京榛蕪〕、義士有存本之思、百姓感舊而增哀。誠因此時、奉主上以從民望、大順也;秉至公以服雄傑、大略也;扶弘義以致英俊、大德也。天下雖有逆節、必不能為累、明矣。韓暹・楊奉其敢為害!若不時定、四方生心、後雖慮之、無及。」太祖遂至洛陽、奉迎天子都許。

22)   『後漢書』列伝六十荀彧伝より。

建安元年、獻帝自河東還洛陽、操議欲奉迎車駕、徙都於許。衆多以山東未定、韓暹・楊奉負功恣睢、未可卒制。彧乃勸操曰:「昔晉文公納周襄王、而諸侯景從;漢高祖為義帝縞素、而天下歸心。自天子蒙塵、將軍首唱義兵、徒以山東擾亂、未遑遠赴、雖禦難於外、乃心無不在王室。今鑾駕旋軫、東京榛蕪、義士有存本之思、兆人懷感舊之哀。誠因此時奉主上以從人望、大順也;秉至公以服天下、大略也;扶弘義以致英俊、大德也。四方雖有逆節、其何能為?韓暹・楊奉、安足恤哉!若不時定、使豪桀生心、後雖為慮、亦無及矣。」操從之。

23)   『後漢書』列伝六十四上袁紹伝より。

興平二年、拜紹右將軍。其冬、車駕為李傕等所追於曹陽、沮授説紹曰:「將軍累葉台輔、世濟忠義。今朝廷播越、宗廟殘毀、觀諸州郡、雖外託義兵、内實相圖、未有憂存社稷卹人之意。且今州城粗定、兵強士附、西迎大駕、即宮鄴都、挾天子而令諸侯、蓄士馬以討不庭、誰能禦之?」紹將從其計。潁川郭圖・淳于瓊曰:「漢室陵遲、為日久矣、今欲興之、不亦難乎?且英雄並起、各據州郡、連徒聚衆、動有萬計、所謂秦失其鹿、先得者王。今迎天子、動輒表聞、從之則權輕、違之則拒命、非計之善者也。」授曰:「今迎朝廷、於義為得、於時為宜。若不早定、必有先之者焉。夫權不失幾、功不猒速、願其圖之。」帝立既非紹意、竟不能從。

24)   『三国志』巻六魏書袁紹伝より。

初、天子之立非紹意、及在河東、紹遣潁川郭圖使焉。圖還説紹迎天子都鄴、紹不從。

25)   『三国志』巻六魏書袁紹伝注所引『献帝伝』より。

獻帝傳曰:沮授説紹云:「將軍累葉輔弼、世濟忠義。今朝廷播越、宗廟毀壞、觀諸州郡外託義兵、内圖相滅、未有存主恤民者。且今州城粗定、宜迎大駕、安宮鄴都、挾天子而令諸侯、畜士馬以討不庭、誰能禦之!」紹悅、將從之。郭圖・淳于瓊曰:「漢室陵遲、為日久矣、今欲興之、不亦難乎!且今英雄據有州郡、衆動萬計、所謂秦失其鹿、先得者王。若迎天子以自近、動輒表聞、從之則權輕、違之則拒命、非計之善者也。」授曰:「今迎朝廷、至義也、又於時宜大計也、若不早圖、必有先人者也。夫權不失機、功在速捷、將軍其圖之!」紹弗能用。案此書稱(郭圖)〔沮授〕之計、則與本傳違也。


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