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破虜将軍・孫文台(孫氏からみた三国志48)
2008.04.21.
<<遷都(孫氏からみた三国志47)


   実に8回ぶりなんだけど、今回は孫堅(字、文台)の話。以前、孫堅が出た回は「<<長沙太守・孫文台」(孫氏からみた三国志40)。

   というわけでまず『三国志』呉書孫破虜討逆伝1)より。

   霊帝は崩御し、董卓は朝廷をほしいままにし、京城で勝手気ままにした。諸州郡は並んで義兵を興し、董卓を討つことを欲した。孫堅もまた兵を挙げた。


   こういう風に書かれているが、日どころか月もわからない。ともかく初平元年(紀元190年)に義兵を挙げた。
   また董卓に対して孫堅がどう思っていたかは次のように『三国志』呉書孫破虜討逆伝の注に引く『江表伝』2)に載っている。

   孫堅はこれを聞き、悲しみ嘆いて言う。
「張公が昔、吾の言葉に従えば、朝廷は今、この難は無かった」


   張公とは張温のことで、これについては以前、「<<孫堅の進言と進軍」(孫氏からみた三国志33)で触れている。
   この「義兵」をキーワードに『三国志』呉書を見てみると、この時の孫堅関連の人物が浮き彫りになってくる。まず親族から。『三国志』呉書孫破虜討逆伝(孫策伝)3)より。

   孫堅は初めて義兵を興し、孫策は母を率い(揚州廬江郡)舒に移り住み、周瑜と互いに友とし、士大夫を収め合わせ、江・淮間(江水と淮水の間)の人の皆はこれに向いた。


   孫策は以前、「<<長沙太守・孫文台」(孫氏からみた三国志40)で出てきており、孫堅の長男にあたる人物。
   またこの『三国志』呉書孫破虜討逆伝の記述には注が付けられており、『江表伝』4)の記述が以下のように引用されている。

   孫堅は朱儁は上表されるところとなり、佐軍になり、家を留め(揚州九江郡)寿春においた。孫策が年十歳余りで、すでに交わり結び、名が知られ、誉れが聞こえていた。周瑜という者があり、孫策と同年で、同じく英達で早成し、孫策の評判を聞き、舒から来て至った。たやすく推し結び親しみを分け、義を同じくすること金を断つようで、策に舒に移り住むよう勧め、策はこれに従った。


   ここにある周瑜については周瑜の伝にも書かれてある。以下、『三国志』呉書周瑜伝5)の記述。

   周瑜は大きく盛んになると姿貌があった。初め、孫堅が義兵を興し董卓を討つと、家を舒に移した。孫堅の子の孫策は周瑜と同年で、独り善く相い友し、周瑜は道の南の大宅を以て舎を孫策に推し、堂に昇り(孫策の)母に拝し、有無を共に通じた。


   というわけで孫堅の家族はこの時期、寿春から舒に移り住んだことが判る。ついで、この周瑜について。周瑜の従祖父(祖父の兄弟?)に周景という人が居た。さらに周景の中子に周忠(字、嘉謀)という人がいて、さらにその子に周暉が居た。この周暉について、以下のように『後漢書』周忠伝6)に記述がある。

   周忠の子の周暉は、先に洛陽令になり、官を去って帰った。兄弟は賓客を好み、江淮間(江水と淮水の間)で盛んになり、車常百乗余りが従って出入りした。皇帝が崩御するに及び、周暉は京師が安んじてないことを聞き、来て周忠を伺い、董卓は聞きこれを憎み、兵により(周忠の子どもの)その兄弟を殺すと脅かした。


   というように周瑜の親族は中央とも江淮間とも繋がりのあることがわかる。

   話を元に戻し、孫堅の親族で逆に孫堅の元に来る者が居た。『三国志』呉書宗室伝7)より。

   孫賁、字は伯陽だ。父の孫羌は字が聖台で、孫堅の同産の兄だ。孫賁は早くに二親を失い、弟の孫輔は嬰孩(乳飲み子)であり、孫賁はみずから助け育て、友愛は甚だ篤かった。郡の督郵守長になった。孫堅は長沙において義兵を挙げ、孫賁は吏を去り征伐に従った。


   また、黄蓋という人物が配下に加わったことが判る。『三国志』呉書黄蓋伝8)より。

   黄蓋、字は公覆で、零陵泉陵人だ。初め、郡吏になり、孝廉に選び、公府に招かれた。孫堅が義兵を挙げると、黄蓋はこれに従った。


   孫堅はこういった状況で長沙郡(郡府は臨湘県にある)から洛陽に向け、軍事行動を起こす。
   地理的要因もあってか、関東諸将と違い董卓の勢力に遭遇する前に、まず荊州刺史の王叡(字、通耀)と対峙することとなる。
   荊州刺史の州府は『続漢書』郡国志によると荊州武陵郡の漢寿県にある。下の地図を見て貰うとわかるようにちょうど長沙郡の北に位置する。
荊州
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)


   この王叡と孫堅との下記の『三国志』呉書孫破虜討逆伝の注に引く『呉録』9)に詳しい。

   王叡はまず孫堅と共に零・桂賊を撃ち、孫堅を武官とし、言葉でこれをすこぶる軽んじた。王叡が挙兵し董卓を討ちたいと欲するに及び、元より武陵太守の曹寅とは互いに良くせず、まさにまず曹寅を殺すと言葉を揚げた。


   この中にある零・桂賊(零陵郡と桂陽郡の賊)の討伐は「<<長沙太守・孫文台」(孫氏からみた三国志40)と同時期だろうね。先に記したように荊州刺史の州府は武陵郡内にあり、ある意味、郡内でいがみ合っていることになる。続けて『呉録』より。

   曹寅は懼れ、偽って案を作り使者に光祿大夫の温毅の檄を行わせ、孫堅に移させ、王叡の罪と過ちを説き、捕らえ刑を執行し、それにより状上するよう命令した。孫堅は即ち檄を承け兵を治め王叡を襲った。王叡は兵が至ると聞き、楼に登りこれを望み、どうしたいのか問い遣わせ、孫堅は前部で答えて言う。
「兵は久しく戦い苦労し、賞を得るところとなり、衣服が足りないと思い、使君を詣で、その上、直に資材を乞うた」
   王叡は言う。
「刺史に惜しむところがありましょうか?」
   たやすく庫藏を開き、自ら入りこれを見させ、遺るところがないことを知った。兵は楼下に進み及び、王叡は孫堅をみて、驚いて言う。
「兵は自ら賞を求めるというのに、孫府君は何ゆえにその中に有るのでしょうか?」
   孫堅は言う。
「使者の檄の誅を君に被らせる」
   王叡は言う。
「我に何の罪があるのでしょう?」
   孫堅は言う。
「坐して知るところがないことだ」
   王叡は切迫し、金を削りこれを飲んで死んだ。


   普通に見ると、二人の太守による私怨により刺史が殺されたように見えるんだけど、好意的に解釈すれば天下を二分する非常時だというのに、それを名目にその実は刺史が武陵太守に私怨を晴らそうとしたところに長沙太守が裁決したといったところだろうか。
   この様子は『三国志』呉書孫破虜討逆伝1)にも以下のように書かれている。

   荊州刺史の王叡は元より孫堅に無礼に待遇し、孫堅は過ちでこれを殺した。


   また孫堅の軍は北上する。次に対峙したのが南陽太守の張咨(字、子議)。「<<相国の董卓と関東諸将」(孫氏からみた三国志46)で書いたように、周毖と許靖により南陽太守に挙げられた人物。この様子は続けて『三国志』呉書孫破虜討逆伝1)より。

   (荊州)南陽に至り、衆は数万人になった。南陽太守の張咨は軍が至ると聞いたが、おだやかに落ち着いていた。孫堅は牛酒をもって張咨に礼し、張咨は日が明け、また孫堅に答詣した(応じて詣でた)。酒酣(酒宴のまっさかり)で、長沙の主簿は入って孫堅に述べる。
「先に南陽に移り、道路は治らず、軍資は備わらず、主簿(わたし)にその理由を吟味させてください」
   張咨は大いに恐れ去ることを欲し、兵は四周に並び、出ることができなかった。しばしの間、主簿は再び入って孫堅に述べる。
「南陽太守は義兵を滞らせ、賊に適時、討たせないため、軍法に案を出し事を従わさせてください」
   たやすく張咨を軍門に引きこれを斬った。郡中は震撼し、求めず捕らえずだった。


   『三国志』呉書孫破虜討逆伝にはこの部分に注が付けられており、詳しいことや別の話が添えられている。まず『獻帝春秋』10)より。

   袁術は上表し孫堅を仮中郎将にした。孫堅が南陽に到ると、檄を太守に移し軍糧を請うた。張咨は綱紀(法度)に問うことで、綱紀で言う。
「孫堅は隣の郡の二千石であり、調発に応じない」
   張咨は遂に与えなかった。

   次に『呉歴』11)より。

   初め、孫堅が南陽に至り、張咨はすでに軍糧を補給せず、また孫堅をまみえようとしなかった。孫堅は兵を進めることを欲し、後に患いがあることを恐れ、乃ちいつわって急病を得て、軍を挙げて震え恐れ、巫医を呼び迎え、山川を祈り祀った。親しいところの人を遣って張咨を説き、病気で困っていると言い、兵を張咨に付かせることを欲した。張咨はこれを聞き、その兵をむさぼり、即ち歩騎五、六百人を率い、営を詣で孫堅を省こうと思った。孫堅は臥し、互いに見た。何もなく、いきなり起きあがり、剣を抑え張咨を罵って、ついに執ってこれを斬った。


   『獻帝春秋』と『呉歴』共に共通することは張咨が軍糧を補給しなかったという点があげられる。また『三国志』呉書孫破虜討逆伝に比べ『獻帝春秋』では早くに袁術が関わってくることや、『呉歴』では張咨の死に至るまでまったく違っていたりと相反する部分がある。
   ともかく、ここに張咨は孫堅に殺された。このように月日はわからないまでも『後漢書』本紀12)には、

   (初平元年、この年)孫堅は荊州刺史の王叡を殺し、また南陽太守の張咨を殺した。

とあり、この年に荊州の刺史と太守が続けざまに殺されたことは確かのようだ。またおそらく前後関係から同じ年に豫州刺史の孔伷(字、公緒)が亡くなっている。直截な記述は以下のように『三国志』蜀書許靖伝13)にある。

   (孔)伷が卒去し、(許靖は)揚州刺史の陳禕に依った。


   これをこのタイミングで書いたのは実は豫州刺史の後任が書かれているからだ。『三国志』呉書孫破虜討逆伝1)の続きより。

   (荊州南陽郡)魯陽に進み到り、袁術と互いにまみえた。袁術は孫堅を上表し破虜将軍を行わせ、豫州刺吏を領させた。ついに魯陽城において兵を治めた。


   ここに孫堅は長沙から率いた兵卒とさらに孔伷が(豫州)潁川に駐屯し対董卓用に準備していた兵卒を治めたことになる。また袁術が魯陽に居る頃、長沙太守は呉人の蘇代というものが領していた。これが袁術の縁故の者か孫堅の縁故の者かあるいは無関係なのか不明。しかし、それは『三国志』魏書劉表伝の注に引く司馬彪『戦略』に書かれている。まず『三国志』魏書劉表伝14)より劉表について。

   劉表、字は景升で、山陽の高平人だ。若いときから名が知られ、号して八俊とされた。身長八尺余りで姿貌が甚だ立派だった。大将軍掾をもって北軍中候になった。霊帝が崩御し、王叡の代わりに荊州刺史になった。


   次に長沙太守を領した呉人の蘇代が載っている部分と任地に赴く劉表について司馬彪『戦略』14)を見てみる。『後漢書』劉表伝14)でも似たようなことが書かれている。

   劉表の初は荊州になり、江南(江水の南)の宗賊が盛んで、袁術は魯陽に駐屯し、尽く南陽の衆が有った。呉人の蘇代は長沙太守を領し、貝羽は(荊州南郡)華容長となり、おのおの兵で阻み乱を作った。劉表は初めに至り、単馬で(荊州南郡)宜城に入り、(南郡)中廬人の蒯良(字、子柔)、蒯越(字、異度)、襄陽人の蔡瑁を連ね謀りを与えた。劉表は言う。
「宗賊ははなはだ盛んで、集まるが従わず、袁術はこれを頼り、禍は今、至っている。吾は徴兵を欲するが、恐らく集まらず、その策は案出しないか?」
   蒯良は言う。
「集まり従わない者は、仁が不足していて、従うが治めない者は、義が不足しています。まことに仁義の道を行うは、百姓が水が下に赴くが如くこれに帰し、兵と策を問い興しこれに至ることころに従わず何を患うというのですか?」
   劉表は顧みて蒯越に問い、蒯越は言う。
「治め平らげる者はまず仁義があり、乱を治める者はまず権謀があります。兵は多くなく、得る人は在ります。袁術は勇敢ですが決断は無く、蘇代、貝羽は皆、武人で、思慮が不足しています。宗賊の帥(軍)は多く貪欲で凶暴で、下にすると患うところです。越は元より養われるところの者が有り、利をもってこれを示させば、必ず集まり来ます。君はその無道を誅殺し、安んじることでこれを用います。一州の人は、楽存の心が有り、君の盛徳を聞き、必ず帯紐で背に負うことに至ります。兵が集まれば集い従い、南で(南郡)江陵に拠し、北で(南郡)襄陽に守り、荊州八郡は檄を伝えれば平定されます。袁術らは至るといえども、為すことができません」
   劉表は言う。
「子柔の言は雍季の論だ。異度の計は臼犯の謀だ」
   ついに蒯越を使い人を遣り宗賊を誘い、至った者は五十五人(『後漢書』劉表伝では十五人)になり、皆、これを斬った。その衆を襲い取り、ある者は即ち部曲を授けた。ただ江夏賊の張虎、陳生は衆を抱き襄陽に拠し、劉表は乃ち蒯越と龐季を使い単騎で往かせこれを降るように説かせ、江南は遂に尽く平らげられた。


   こうして孫堅が荊州の北の境界付近の魯陽に居る間に荊州の勢力図が大きく塗り代わることとなる。

   次回は中央の話に少し戻る。





1)   『三國志』卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一より。今回のネタバレあり。

靈帝崩、卓擅朝政、橫恣京城。諸州郡並興義兵、欲以討卓。堅亦舉兵。荊州刺史王叡素遇堅無禮、堅過殺之。比至陽南、眾數萬人。南陽太守張咨聞軍至、晏然自若。堅以牛酒禮咨、咨明日亦答詣堅。酒酣、長沙主簿入白堅:「前移南陽、而道路不治、軍資不具、請收主簿推問意故。」咨大懼欲去、兵陳四周不得出。有頃、主簿復入白堅:「南陽太守稽停義兵、使賊不時討、請收出案軍法從事。」便牽咨於軍門斬之。郡中震慄、無求不獲。前到魯陽、與袁術相見。術表堅行破虜將軍、領豫州刺吏。遂治兵於魯陽城。

2)   『三國志』卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一の注に引く『江表伝』より。

堅聞之、拊膺歎曰:「張公昔從吾言、朝廷今無此難也。」

3)   『三國志』卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一(孫策のところ)より。

策字伯符。堅初興義兵、策將母徙居舒、與周瑜相友、收合士大夫、江・淮間人咸向之。堅薨、還葬曲阿。已乃渡江居江都。

4)   『三國志』卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一の注に引く『江表伝』より。

堅為朱雋所表、為佐軍、留家著壽春。策年十餘歳、已交結知名、聲譽發聞。有周瑜者、與策同年、亦英達夙成、聞策聲聞、自舒來造焉。便推結分好、義同斷金、勸策徙居舒、策從之。

5)   『三國志』卷五十四 呉書九 周瑜魯肅呂蒙傳第九より。

瑜長壯有姿貌。初、孫堅興義兵討董卓、徙家於舒。堅子策與瑜同年、獨相友善、瑜推道南大宅以舍策、升堂拜母、有無通共。

6)   『後漢書』袁張韓周列傳より。

中子忠、少歴列位、累遷大司農。忠子暉、前為洛陽令、去官歸。兄弟好賓客、雄江淮閒、出入從車常百餘乘。及帝崩、暉聞京師不安、來候忠、董卓聞而惡之、使兵劫殺其兄弟。忠後代皇甫嵩為太尉、録尚書事、以災異免。復為衛尉、從獻帝東歸洛陽。

7)   『三國志』卷五十一 呉書六 宗室傳第六より。

孫賁字伯陽。父羌字(聖壹)〔聖臺〕、堅同産兄也。賁早失二親、弟輔嬰孩、賁自贍育、友愛甚篤。為郡督郵守長。堅於長沙舉義兵、賁去吏從征伐。

8)   『三國志』卷五十五 呉書十 程黄韓蔣周陳董甘淩徐潘丁傳第十より(黄蓋のところ)。

黄蓋字公覆、零陵泉陵人也。初為郡吏、察孝廉、辟公府。孫堅舉義兵、蓋從之。

9)   『三國志』卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一の注に引く『呉録』より。

叡先與堅共擊零・桂賊、以堅武官、言頗輕之。及叡舉兵欲討卓、素與武陵太守曹寅不相能、楊言當先殺寅。寅懼、詐作案行使者光祿大夫温毅檄、移堅、説叡罪過、令收行刑訖、以状上。堅即承檄勒兵襲叡。叡聞兵至、登樓望之、遣問欲何為、堅前部答曰:「兵久戰勞苦、所得賞、不足以為衣服、詣使君更乞資直耳。」叡曰:「刺史豈有所吝?」便開庫藏、使自入視之、知有所遺不。兵進及樓下、叡見堅、驚曰:「兵自求賞、孫府君何以在其中?」堅曰:「被使者檄誅君。」叡曰:「我何罪?」堅曰:「坐無所知。」叡窮迫、刮金飲之而死。

10)   『三國志』卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一の注に引く『獻帝春秋』より。

袁術表堅假中郎將。堅到南陽、移檄太守請軍糧。咨以問綱紀、綱紀曰:「堅鄰郡二千石、不應調發。」咨遂不與。

11)   『三國志』卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一の注に引く『呉歴』より。

初堅至南陽、咨既不給軍糧、又不肯見堅。堅欲進兵、恐有後患、乃詐得急疾、舉軍震惶、迎呼巫醫、禱祀山川。遣所親人説咨、言病困、欲以兵付咨。咨聞之、心利其兵、即將歩騎五六百人詣營省堅。堅臥與相見。無何、卒然而起、按劍罵咨、遂執斬之。

12)   『後漢書』孝獻帝紀より。

是歳、有司奏、和・安・順・桓四帝無功德、不宜稱宗、又恭懷・敬隱・恭愍三皇后並非正嫡、不合稱后、皆請除尊號。制曰:「可。」孫堅殺荊州刺史王叡、又殺南陽太守張咨。

13)   『三國志』卷三十八 蜀書八 許麋孫簡伊秦傳第八より。

伷卒、依揚州刺史陳禕。

14)   『三國志』卷六 魏書六 董二袁劉傳第六より。

劉表字景升、山陽高平人也。少知名、號八俊。長八尺餘、姿貌甚偉。以大將軍掾為北軍中候。靈帝崩、代王叡為荊州刺史。是時山東兵起、表亦合兵軍襄陽。

15)   『三國志』卷六 魏書六 董二袁劉傳第六の注に引く司馬彪『戰略』より。

劉表之初為荊州也、江南宗賊盛、袁術屯魯陽、盡有南陽之眾。吳人蘇代領長沙太守、貝羽為華容長、各阻兵作亂。表初到、單馬入宜城、而延中廬人蒯良・蒯越・襄陽人蔡瑁與謀。表曰:「宗賊甚盛、而眾不附、袁術因之、禍今至矣!吾欲徴兵、恐不集、其策安出?」良曰:「眾不附者、仁不足也、附而不治者、義不足也;苟仁義之道行、百姓歸之如水之趣下、何患所至之不從而問興兵與策乎?」表顧問越、越曰:「治平者先仁義、治亂者先權謀。兵不在多、在得人也。袁術勇而無斷、蘇代・貝羽皆武人、不足慮。宗賊帥多貪暴、為下所患。越有所素養者、使示之以利、必以眾來。君誅其無道、撫而用之。一州之人、有樂存之心、聞君盛德、必襁負而至矣。兵集眾附、南據江陵、北守襄陽、荊州八郡可傳檄而定。術等雖至、無能為也。」表曰:「子柔之言、雍季之論也。異度之計、臼犯之謀也。」遂使越遣人誘宗賊、至者五十五人、皆斬之。襲取其眾、或即授部曲。唯江夏賊張虎・陳生擁眾據襄陽、表乃使越與龐季單騎往説降之、江南遂悉平。

16)   『後漢書』袁紹劉表列傳より。

劉表字景升、山陽高平人、魯恭王之後也。身長八尺餘、姿貌溫偉。與同郡張儉等俱被訕議、號為「八顧」。詔書捕案黨人、表亡走得免。黨禁解、辟大將軍何進掾。

初平元年、長沙太守孫堅殺荊州刺史王叡、詔書以表為荊州刺史。時江南宗賊大盛、又袁術阻兵屯魯陽、表不能得至、乃單馬入宜城、請南郡人蒯越・襄陽人蔡瑁與共謀畫。表謂越曰:「宗賊雖盛而眾不附、若袁術因之、禍必至矣。吾欲徴兵、恐不能集、其策焉出?」對曰:「理平者先仁義、理亂者先權謀。兵不在多、貴乎得人。袁術驕而無謀、宗賊率多貪暴。越有所素養者、使人示之以利、必持眾來。使君誅其無道、施其才用、威德既行、襁負而至矣。兵集眾附、南据江陵、北守襄陽、荊州八郡可傳檄而定。公路雖至、無能為也。」表曰:「善。」乃使越遣人誘宗賊帥、至者十五人、皆斬之而襲取其眾。唯江夏賊張虎・陳坐擁兵據襄陽城、表使越與龐季往譬之、乃降。江南悉平。諸守令聞表威名、多解印綬去。表遂理兵襄陽、以觀時變。


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