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冀州の動乱(孫氏からみた三国志51)
2009.02.12.
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   時は遡り初平元年
   『三国志』魏書武帝紀1)によると、(兗州陳留郡)酸棗に駐屯していた兗州刺史の劉岱(字、公山)と東郡太守の橋瑁(字、元瑋)とに事件が起こる。

   劉岱と橋瑁は互いに憎み、劉岱は橋瑁を殺し、王肱をもって東郡太守を領した。

   『後漢書』袁紹伝の注に引く『魏氏春秋』にも劉岱が橋瑁を殺したことが書かれているが、その他、詳細は見あたらない。

   こういった関東諸将の不穏な動きはまだ続く。
今回の関連図
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)


   その前に天体情報。『後漢書』孝獻帝紀2)によると

   (初平元年、紀元190年)冬十一月庚戌の日(14日)、鎮星・熒惑・太白が尾において合わさった。

とのことで、素人目に見て、何のことがさっぱりわからないんだけど、恐らくこれと同じ占星のことで動く人が関東に居た。以下、『三国志』魏書公孫瓚伝の注に引く『呉書』3)より。

   韓馥(字、文節)は書で袁術(字、公路)に言う。
「帝は孝靈の子ではなく(今の皇帝は霊帝の子でなく)、絳・灌が少主を誅し廃し、代王を立て迎える故事に依りましょう。劉虞(字、伯安)の功德と治行をたたえ、華夏が二つにおとしめられ、まさに今、公室(劉虞の族)が遠い親戚であるため、誰も及ぶことがありません」
また言う。
「昔、光武が去り、王五世を定め、大司馬をもって河北を領し、耿弇と馮異は尊号につくことを勧めました。今、劉公は恭王よりの子孫で、それもまた五世を数え、大司馬をもって幽州牧を領し、これとそれは光武と同じです」
   この時、箕尾に四星が会い、韓馥は讖に適い、神人がすなわち燕分にあると言う。また濟陰男子が王に定まり玉印を得ると言い、文では劉虞を天子とすると言う。また代郡において二つの日の出が現れ、劉虞がまさに代わりに立つと言う。袁紹はまた別の書で袁術に報告した。この時、袁術はひそかに不臣の心があり、国家を不利にする長主があり、外で公義により答えこれを拒んだ。


   この袁紹と袁術とのやりとりは、以下の『三国志』魏書袁術伝の注に引く『呉書』14)に詳しい。

当時、議者は霊帝を指して道を失い天下を叛乱させているとし、若い帝は幼弱で、賊臣に立てられるところであり、また、知らない母氏から出るところだった。幽州牧の劉虞は宿り徳謀が有り、袁紹らはこれを立てることで当時を安んずることを欲し、人を使い袁術に報告した。袁術は漢室は次第に衰えると見ており、ひそかに異志を抱いており、故(ゆえ)に外で公義に託すことで袁紹を拒んだ。袁紹はふたたび袁術に書を与えて言う。
「以前、韓文節と共に永世の道を建て、海内(てんか)に再興の主を表すことを欲しました。今、西の名に幼君があり、血脈の属が無く、公卿以下は皆、董卓に媚び仕え、たやすく何度も敬うでしょう。しかしまさに兵を行かせ関要に駐屯させ、皆、自ら西において死を迫りました。東には聖君が立ち、太平は願うことができ、どのようにに疑うことがあるでしょうか。また家族は殺戮されているのに、(伍)子胥を思わず、再び北面(臣従)できるでしょうか? 天を違いよくはならず、これを詳しく考えることを願います」
 袁術は答えて言う。
「聖主はさとくかしこく、周成の質があります。賊の董卓は危乱の際によって、百官をおそれ従わせ、これは乃ち漢家の小厄の会であります。乱はなお飽きたらず、ふたたびこれを興そうと欲しています。乃ち今の主を『血脈の属が無く』と言うのは、欺くことにならないでしょうか。先人以来、代々相承し、忠義は先をなしています。太傅公(劉虞)は仁慈がありあわれみ悼む心があり、賊の董卓を知ったといえども必ず禍害をなし、義のために命を棄て、忍ばず去るでしょう。門戸が滅し絶えて、死に亡び乱れ、幸蒙は遠近でこのかた相互にゆき助け、この時によらず、上は国賊を討ち、下は家の恥をぬぐい、ここにおいて図っているため、聞くところではありません。また『家族は殺戮されているのに、再び北面(臣従)できるでしょう』と言うのは、これは董卓の所為であり、国家の所為でしょうか。君命は天であり、天に報いることができないのであれば、いわんや君命ではないでしょう。誠意は、志に董卓を滅ぼすことがあり、その他をしるしたくありません」


   袁術に断られた韓馥だけど、それで諦めない。それは下記の『三国志』魏書公孫瓚伝の注に引く『九州春秋』4)で判る。

   袁紹(字、本初)と韓馥により故(もと)の樂浪太守の甘陵出身の張岐は議をもたらし劉虞を詣で、尊号につかせようとした。劉虞は声をはりあげて張岐を叱り言う。
「卿(あなた)はこの言葉を出すのを慎め!   忠孝の道はすでに救うことができない。孤(わたし)は國恩を受け、天下は乱れ、未だ命を尽くし国の恥を除き、諸州郡の烈義の士を望み力を併せ西面し、幼主を助け迎えることができず、すなわち逆謀をみだりに造り、忠臣を汚そうと望むのか」


   同じ事が以下に示す『後漢書』劉虞伝5)にも記載がある。

   (初平二年、冀州刺史の韓馥と勃海太守の袁紹および山東諸将ははかり、朝廷が幼少で董卓(字、仲穎)に脅され、遠隔で関が塞がれ、存否がわからないため、劉虞が宗室の長者であることもあり、立て主にすることを欲した。すなわち故(もと)の楽浪太守の張岐らが議をもたらし、劉虞を尊号に上げた。劉虞は張岐らを見て、厳しい顔色を見せ、これを叱り言う。
「今、天下は崩乱し、主上は塵を被り、吾は重恩を被り、未だ国の恥を清く雪ぐことができない。諸君は各々州郡に拠し、よろしく共に力を併せ、王室に心を尽くしているが、互いに汚れ誤っているため、反造逆謀しているぞ!」
   これを固く拒んだ。


   劉虞が天子になるよう勧められたことは、この『後漢書』劉虞伝では初平二年になっているが、下記の『三国志』魏書武帝紀1)では初平二年以前から始まり、初平二年春に拒絶したことになっている。

   袁紹と韓馥は謀り幽州牧の劉虞を立て帝にしようとしたが、太祖(曹操字孟徳)はこれを拒んだ。袁紹はまたかつて一つの玉印を得て、太祖が座っている中、挙げその肘を向け、太祖はこのため笑ったが憎んでいた。
   (初平二年春   袁紹と韓馥はついに劉虞を立て皇帝としたが、劉虞はついに敢えて当たろうとしなかった。


   この記述での曹操関連の記述は『三国志』魏書武帝紀の注6)によく載っている。以下、続けて。

   魏書に載る、太祖が袁紹に答えて言う。
「董卓の罪、四海(てんか)において暴れ、吾らは大衆を合わせ、義兵を興し遠近で饗応しないことはなく、これは義をもって動く故です。今、幼主は微弱で、姦臣において制され、未だ栄える邑に亡国の血が有ったことはなく、ひとたび改めれば、天下はそのいずれがこれを安んじるでしょうか?   諸君が北面し(臣従し)、我は自ら西に向かいましょう」

   魏書に言う。
   太祖は大笑いして言う。
   「吾は汝を受け入れません」
   袁紹は再び人を使い、太祖を説いて言う。
「今、袁公の勢いは盛んで、兵は強く、二子は既に成長し、天下の群英はいずれがこれを過ぎるでしょうか?」
   太祖は応じなかった。このため、ますます袁紹に向かわず、これを誅滅しようと図った。


   再び『後漢書』劉虞伝5)に移り、劉虞に関する事の続きを見ると、

   韓馥らはまた劉虞に尚書事を領するように請い、制を承け封拝し、再び受け入れなかった。ついに使人を捕らえ斬った。これにより右北平の田疇、従事の鮮于銀を掾に選び、険しさをこうむり密かに行き、長安へ奉使した。


となり、前半部分の同じ様なことが下記に示す『三国志』魏書公孫瓚伝7)にもある。というより、後が正反対になっている気がするが。

   袁紹らは再び尚書事を領するよう劉虞に制を承け封拝するよう勧め、劉虞はまた受け入れず、しかし、なお袁紹らと連和した。


   一方、後半部分は『三国志』魏書に田疇伝8)がありそれに詳しく、少し時が戻るが、以下に抜粋。

   田疇、字は子泰で右北平無終人だ。読書を好み、撃剣を善くした。初平元年、義兵が起こり、董卓は帝を長安へ遷した。幽州牧の劉虞は嘆いて言う。
「賊臣は乱を作り、朝廷は流離し、四海(てんか)はにわかに、固い志が無くなっている。身(わたし)は宗室の長寿に備え、自ら衆をなそうとしない。今、奉使が臣節をあきらかにすることを望み、どうして命を辱めない士を得ないのか」
   議をあつめ皆言う。
「田疇は年少といえども、そのぬきんでるところは多くが賞賛しています」
   田疇はそのとき、年二十二だった。劉虞はすなわち礼を備え互いに見えることを請い、これを大いに喜び、ついに従事にすることを著し、その車騎を備えた。将に行き、田疇は言う。
「今、道路は阻み絶え、寇虜は縦横し、官奉使を称し、衆により指名されました。私行をもって願い、到達のみを成すことを約束します」
   劉虞はこれに従った。
   田疇はすなわち帰り、自らその家客と年少の勇壮を選び、従者二十騎をを募り、共に行った。劉虞は自ら出て祖道を催し、これを遣った。すでに道が取られ、田疇はすなわちさらに西関へ上り、塞を出て、北方に寄り、直ちに朔方に赴き、ひそかに巡りすみやかに去り、ついに長安に至り、命をつくした。詔により騎都尉を拝した。田疇は天子がまさに塵を蒙り(出奔しており)未だ安住していないと思い、君主からの慈しみを有り難くおもったため不可とし固辞し承けなかった。朝廷はその義を貴んだ。三府は並んで辟(め)したが、皆、就かなかった。


   この田疇と劉虞とのやりとりに注がついており、『先賢行状』9)から引かれている。以下。

   田疇はまさに行き、劉虞を引きひそかに議を与えた。田疇は劉虞に寄り説いて言う。
「今、帝主は幼弱で姦臣が勝手に命じ、表上しすべからく報じ、懼れ、時機を失います。その上、公孫瓚(字、伯珪)は兵をたのみ、安んじ抑えているため、早くこれを図らなければ、必ず後悔があるでしょう」
   劉虞は受け入れなかった。


   話を戻し以下、『後漢書』劉虞伝5)の続き。

   獻帝は既に東へ帰ることを思っていたので、田疇らを見て大いに喜んだ。その時、劉虞の子の劉和を侍中とし、これに頼って劉和をやって武関より潜ませ出て、劉虞の将兵が来て迎えることを告げた。南陽への道にあり、後将軍の袁術はその状況を聞き、ついに劉和を人質にとり、共に劉虞に西へ遣兵させることで報いさせた。劉虞はすなわち数千騎を使って劉和に就かせ天子に奉迎させようとしたが、袁術はついにこれを遣らなかった。
   以前、公孫瓚は袁術の欺きを知り、劉虞の遣兵を固く止めたが、劉虞は従わず、公孫瓚はすなわち密かに袁術に劉和を捕らえることを勧め、その兵を奪わせ、これにより(劉虞は)公孫瓚を仇としてますます深く怨んだ。劉和は探り、袁術から逃げ得て北へ還ったが、ふたたび袁紹に留められることとなった。


   一方、同じところは『三国志』魏書公孫瓚伝7)でどう書かれているかというと下記。同じ『三国志』魏書に田疇伝があるせいか、前述と合わせてみても、特に田疇のことには触れられていない。

   劉虞の子の劉和が侍中となり長安に在った。天子は東に帰ることを思い、劉和を偽らせ董卓から逃げさせ、潜伏し武関から出て劉虞を詣でさせ、兵を率い迎えに来るよう命じた。劉和は袁術へ通り経て、天子の意を説いた。袁術は劉虞を利し援助し、劉和を留め遣らず、兵を従わせ共に西へ至り、劉和の書を劉虞へ与えさせた。劉虞は劉和の書を得て、すなわち数千騎を遣って劉和に詣でさせた。公孫瓚は袁術に異志が有ると知り、兵を遣ることを望まず、劉虞を止め、劉虞は(派兵を)行えなかった。公孫瓚は袁術が聞いてこれを恨むことを恐れ、またその従弟の公孫越を遣って千騎を率い、袁術を詣でさせたことで自ら結し、ひそかに袁術に劉和を捉え、その兵を奪うようさせた。これにより劉虞と公孫瓚にますます隙ができた。劉和は袁術から逃げ、北に来て、再び袁紹により留まらされた。


   以上のように、『後漢書』劉虞伝と『三国志』魏書公孫瓚伝とは大きな流れは同じとなる。後者にある公孫越派遣が後々の大きな事へと発展する。

   それで前述でも少し出てきた袁紹の話に移る。袁紹についてのことは『三国志』魏書袁紹伝と『後漢書』袁紹伝に載っており、袁紹と同じ盟下にある韓馥のことが詳しく触れられている『後漢書』袁紹伝10)から引く。

   明年(初平二年、紀元191年)、韓馥の将の麴義は背き、韓馥と戦い、利を失った。袁紹は既に韓馥を怨んでおり、すなわち麴義と互いに結んだ。袁紹の客の逢紀(字、元圖)は袁紹に言う。
「それ大事を挙げ、一州に拠すことになく、自立によることではありません。今、冀州の部は強く実りますが、韓馥は凡才であり、密かに公孫瓚が兵を率い南下することを求めるべきであり、韓馥が聞き必ず驚き恐れます。併せて戦陣の幸不幸のために弁士を遣り、韓馥が倉卒に迫れば、必ずその位に頼ることでしょう」
   袁紹はこれをその通りだとし、逢紀と親しみを増し、即ち書をもって公孫瓚と与した。公孫瓚はついに兵を引き至り、外では董卓を討つことに託(かこつ)け、韓馥を襲うことを陰で謀った。袁紹は乃ち外の甥の(兗州)陳留の高幹および(豫州)潁川の荀諶(荀彧の弟)らを使い、韓馥に説いて言う。
「公孫瓚は勝ちに乗じ南に来て、諸郡がこれに応じました。袁車騎(袁紹)は軍を率い東に向かい、その意は未だ量るべきにありません。ひそかに将軍(韓馥)はこれを危ぶんでいます」
   韓馥は恐れ言う。
「そうすれば、これをどうする?」
   荀諶は言う。
「君主は自ら寬仁を比べ衆を受け、天下が付すところとなりますが、(将軍と)袁氏とはどちらが優れているでしょうか」
   韓馥は言う。
「及ばない」
「危機に臨み決断を吐き、知勇は人において過ぎ去り、また袁氏とはどちらが優れているでしょうか?」
   韓馥は言う。
「及ばない」
   荀諶は言う。
「勃海は郡といえども、その実は州です。今、将軍は三回を費やし、これに及ばないとし、その上に久しく落ち着き、袁氏は一時の傑であり、必ず将軍の下にはつきません。その上、公孫は燕・代の兵卒をひっさげており、その鋒に当たるべきではありません。それ冀州は天下の重資であり、もし両軍が力を並べれば、城下で兵を交え、危亡が成立することが待ち受けてます。それ袁氏は将軍の旧であり、その上、同盟を為しています。今の計に当たり、もし冀州を挙げることなく、袁氏に譲れば、必ず将軍を徳で重んじ、公孫瓚が再び争いを与えることをできなくするでしょう。これ将軍に讓賢の名があり、太山において身を安んずるでしょう。疑いの無きよう願います」
   韓馥は元より性格が憶病で、その計をしかりとした。韓馥の長史の耿武、別駕の閔純、騎都尉の沮授は聞き、諫めて言う。
「冀州は田舎といえども、帯甲は百万で、穀物は十年を支えます。袁紹の独りの客は軍を苦しめ、譬えるならば幼児が股と掌の上に在るような(自由に扱える)もので、その哺乳を断てば、飢え殺すことができるでしょう。州をもって何をほしがりこれを与えるというのでしょうか」
   韓馥は言う。
「吾は袁氏の故吏で、その上、才は本初のごとくではない。徳を比べ、譲ることは、古人の貴ぶところで、諸君は独り何を病むというのだ」
   この先、韓馥の従事の趙浮と程渙は強弩一万人を率い孟津に駐屯し、これを聞き、兵を率い馳せ還り、袁紹を拒絶することを求めたが、韓馥もまた聞き入れなかった。乃ち位を退き、出て中常侍の趙忠の故(もと)の舍に居住し、子を遣り印綬を送ることで袁紹に譲った。


   これと同様のことは『三国志』魏書袁紹伝とその注に引く『英雄記』との記述を合わせたものにちょうど相当する。
   末尾の趙浮と程渙について、これより詳しいことは『三国志』魏書袁紹伝の注に引く『九州春秋』11)にある。以下。

   韓馥は都督従事の趙浮、程奐をやって強弩万張を率い河陽へ駐屯させた。趙浮らは韓馥が冀州を袁紹に与えると欲していると聞き、孟津から東へ下り馳せた。その時、袁紹はなお、(司隷河内郡)朝歌清水口に在り、趙浮らは後から来て、船数百艘で一万人余りを集め、兵(武器)を整え夜に鼓を叩き、袁紹の営を通過し、袁紹は甚だこれを憎んだ。趙浮らは至り韓馥に言う。
「袁本初の軍は斗糧が無く各々、自ら離散し、張楊・於扶羅が新たに付いたといえども、未だ用をなさず、適うに足りません。小従事(吾)らは自ら兵を表し旬日(十日)の間これを拒むことを請い、そうすれば必ず土崩瓦解するでしょう。明将軍(あなた)はいたずらにまさに閤を開け枕を高くし、何を憂い、何を恐れるでしょうか」
   韓馥は従わず、乃ち位を退き、出て趙忠の故舍に居した。子の韓齎を遣って冀州の印綬を黎陽で袁紹に与えた。


   こうして袁紹は公孫瓚の勢いを利用し、韓馥の冀州を得ることとなった。

<2011年3月20日追記>
   ここでの「張楊・於扶羅が新たに付いた」について、ちょうど<<「皇帝崩御」(孫氏からみた三国志44)にある『三国志』巻八魏書張楊伝10)の記述の続きで次のような記述がある。

   進んで破れ、董卓が乱を作った。張楊は遂にそれから壺關で上黨太守を攻めようとする所によって、下らず、諸県をかすめ取り、数千人に集め至った。山東は兵起し、董卓を誅するのを欲した。袁紹は河内に至り、張楊と袁紹は合わさり、再び匈奴單于の於夫羅と与し漳水に屯した。

<追記終了>

   下記に示す『三国志』魏書武帝紀1)ではその時期は初平二年秋七月となっている。

   (初平二年、紀元191年)秋七月、袁紹は韓馥を脅かし冀州を取った。


   これで袁紹と韓馥とが丸く治まった訳ではなく、以下、『後漢書』袁紹伝15)より(黒山賊に関しては<<年号が変わり世代も移り(孫氏からみた三国志27)参照)。

   袁紹はついに冀州牧を領し、制を受け韓馥を奮威將軍にしたが、治めるところがなかった。沮授を引き別駕にし、頼って沮授に言う。
「今、賊臣が乱を作り、朝廷は遷移した。吾は代々、寵愛を受け、志は力と命を尽くし再び漢室を興そうとする。すなわち斉の桓は夷ではなく、吾は覇を為すことができず、句踐は范蠡が居なければ国を保つことは無い。今、卿(あなた)に力を合わせ心を同じにし共に社稷を安んじてもらうと欲し、まさにこれを正し救うにどのようにすればよいか?」
   沮授は進んで言う。
「将軍は弱冠で朝に登り、海内(てんか)で名声を播きました。廃立の際に当たり、忠義を奮い発し、単騎で出奔し、董卓は恐れを抱き、済河より北、勃海はひれ伏しました。一郡の兵卒を擁し、冀州の衆を取り、河朔(河北)の陵をおごそかにし、天下に名声を重ねました。もし軍を挙げ東に向かえば、則ち黃巾を払うことができます。還って黒山(賊)を討てば、則ち張燕を滅することができます。帥を回し北へ向かえば、則ち公孫を必ず擒にできます。戎狄に脅しを奮えば、則ち匈奴を安定させ得ます。大河の北に横たわり、四州の地を合わせ、英雄の士を収めれば、百万の衆を擁し、長安より大駕を迎え、洛邑により宗廟を復興し、天下へ號令し、服さない者を誅討しましょう。この争いの鋭さをもって、誰がこれを御することができるでしょう!   乃ち数年に比しても、その功は難しくないでしょう」
   袁紹は喜び言う。
「これは吾の心だ」
   則ち上表し沮授を奮武將軍にし、諸将を監護をさせた。

   (冀州)魏郡の審配(字、正南)、(冀州)鉅鹿の田豐(字、元皓)は並んで正直をもってしても韓馥の元で志を得なかった。袁紹は則ち田豐をもって別駕とし、審配を治中としはなはだ任用の才を表した。韓馥は猜疑を抱いたため、袁紹に去るよう求め告げ、張邈に依って行った。後に袁紹は使いを遣って張邈を詣で、議を計る所があり、そのため、共に耳元でささやいた。韓馥がその時、座に在って、謀を図っているように見えると言って、何もなく、廁におよび自殺した。


   こうして韓馥は卒去したわけだが、この様子はさらに『後漢書』袁紹伝の注に引く文献に詳しい。まず『英雄記』12)より。

   袁紹は(司隷)河内の朱漢を都官従事にした。朱漢は以前、韓馥により礼遇されず、内心、怨恨を抱いており、その上、袁紹の意を迎え求めており、ほしいままに城郭に兵を発し、守る韓馥の第を包囲し、刃を抜いて屋に登り、韓馥は上の楼に走り、韓馥の大きな子を収め得て、両脚を打ち折った。袁紹はまた朱漢をたちどころに捉え、これを殺した。韓馥はなお憂い怖れ、故に袁紹に去るよう求め告げた。


   そして『九州春秋』13)によると、書刀(※文字ごと簡牘を削るもの)で自殺したという。
   『三国志』魏書袁紹伝およびその注でも同様のことが書かれている。
   こうして勢力図が大きく塗り替えられたんだけど、同じく冀州で動きがある。正確な月は記載はないものの、初平二年秋七月以降のところに書いている。以下、『三国志』魏書武帝紀1)より。

   黒山賊の于毒、白繞、眭固らは十万人余りの衆で(冀州)魏郡・(兗州)東郡を侵略し、(東郡太守の)王肱は守ることができず、太祖(曹操)は兵を引き東郡へ入り、(東郡)濮陽で白繞を撃ち、これを破った。袁紹は上表することで太祖を東郡太守にし、(東郡)東武陽を治めさせた。

<2011年4月4日追記>
   <<「動き出した関東諸将」(孫氏からみた三国志49)の続きで、韓馥の下に居た荀彧(字文若)について、次のように『三国志』巻十魏書荀彧伝16)に書かれている。

   袁紹は既に韓馥の位を奪い、荀彧を上賓の礼で迎えた。荀彧の弟の荀諶及び同郡の辛評、郭圖、は皆袁紹の任じる所となった。荀彧は袁紹がよく大事を成さないで終わると度し、当時太祖(曹操)は奮武将軍と為り、東郡に在り、初平二年、荀彧は袁紹を去り太祖に従った。太祖は大いに喜び言う。
「吾の子房(張良)だ」
   それにより司馬にし、当時、年二十九だった。この時、董卓は陵天下を脅し、太祖は荀彧を問うことで、荀彧に言う。
「董卓の暴虐はすでに甚大で、必ず乱を終わらせることを、よく為すことができない。」
   董卓は李傕等に關東に出させ、過ぎるところを虜略させ、(豫州)潁川、陳留に至り還らせていた。郷人の留まる者は多く殺略に見えた。

   また<<「動き出した関東諸将」(孫氏からみた三国志49)で触れた夏侯惇についてもこの時期の記述がある。次のように時間を遡り、『三国志』巻九魏書夏侯惇伝17)の記述を書く。

   夏侯惇は元讓と字し、夏侯嬰の後だ。年十四で、師学に就き、人に其の師を辱める者があり、夏侯惇はこれを殺し、これにより烈気(激しい気性)で聞かれた。太祖は初めて起き、夏侯惇は常に裨將と為し、征伐に従った。太祖は奮武将軍を行い、夏侯惇を司馬とし、白馬に別屯させ、折衝校尉に遷り、東郡太守を領した。

<2012年5月16日追記>
   曹操が将軍で兗州に居て、張邈が兗州の陳留太守だった時期のこの時期に、以下のような『三国志』巻二十四魏書高柔伝18)の記述がある。

   高柔は文惠と字し、(兗州)陳留圉人だ。父の高靖は、(益州)蜀郡都尉と為った。高柔は郷里に留まり、邑中に言う。
「今は英雄が並び起き、陳留は四戦の地です。曹將軍は兗州を拠したといえども、本来、四方の図りが有り、未だ坐守を安んじ得ません。張府君(張邈)は先ず陳留への志を得て、吾は乗間(隙につけこむこと)し作ることに恐れ乱れ、諸君と共にこれを避けるのを欲します。」    衆人は皆、張邈と太祖とを善いとしたが、高柔はまた年少で、その言を然りとしなかった。

   さらに明確な時期は不明ながら、曹操が将軍と呼ばれる時期の記述として、『三国志』巻六魏書袁術伝19)に次のようなのがある。

   当時、(豫州)沛相の(徐州)下邳出身の陳珪は、故(もと)の太尉の陳球の弟の子だ。袁術と陳珪は共に公族の子孫であり、若い頃に共に交遊し、陳珪と書で言う。
「昔、秦が先ずその政を失い、天下の群雄は争いこれを取り、知勇を兼ねる者は卒しその帰順を受けた。今、世事は紛擾し(乱れ)、また瓦解の勢いが有り、誠に英乂は有為の時だ。足下と旧交があり、どうして左右にこれを許さないのか。大事が集まるように、子(あなた)は誠に吾の心膂(股肱の臣)に為れる」
   陳珪の中子は応じ、当時、下邳に在り、袁術は皆、質にとり応ずるよう脅し、必ず陳珪に致ように図った。陳珪は書で答えて言う。
「昔、秦末世に、暴虐を恣にし情を恣にし、天下を虐流し、生民が毒に被り、下は命を堪えられず、故に遂に土崩した(一気に崩れた)。今、季世と雖も、未だ亡秦苛暴の乱はない。曹將軍の神武は期に応じ、典刑(不変の法)を再び興し、まさに凶慝を平定し、海内を清定しようとし、誠に徴が有る。思うに足下は力を併せ心を同じくし、漢室を助けるべきであり、陰謀が軌を一つにせず、自らを以て禍を試みて、どうして痛くないのか。もし迷い反を知れば、さらに免じるべきだ。吾は旧知を備え、故に至情を並べ、逆らうのみと雖も、骨肉の恵みだ。吾の営を欲しえこひいきに附けば、犯が有っても死すのはできない。」

<2012年6月14日追記>
   諸将が各地で勢力を広げるこの時期に、以下のような『三国志』巻九魏書曹仁伝20)の記述がある。

   曹仁は子孝と字し、太祖の従弟だ。若いときから弓馬弋猟を好んだ。後に豪傑が並起し、曹仁もまたひそかに少年と結び、千人余りを得て、淮、泗の間(淮水と泗水の間)を周旋し、遂に太祖に従い別部司馬、行厲鋒校尉と為った。

   さらに「太祖の従弟」に注が付き次の『魏書』21)の記述が引かれる。
   曹仁の祖父は曹褒で、潁川太守だった。父の曹熾は、侍中、長水校尉だった。

<追記終了>


   こうして関東諸将の和に亀裂が入り、なおかつ淘汰される段階に入ったんだけど、これだけでは終わらず、さらに事件は起こる。それは次回以降で。



1)   『三国志』卷一 魏書一 武帝紀第一より。本文のネタバレあり。

劉岱與橋瑁相惡、岱殺瑁、以王肱領東郡太守。

袁紹與韓馥謀立幽州牧劉虞為帝、太祖拒之。紹又嘗得一玉印、於太祖坐中舉向其肘、太祖由是笑而惡焉。

二年春、紹・馥遂立虞為帝、虞終不敢當。

夏四月、卓還長安。

秋七月、袁紹脅韓馥、取冀州。

黑山賊于毒・白繞・眭固等十餘萬眾略魏郡・東郡、王肱不能禦、太祖引兵入東郡、擊白繞于濮陽、破之。袁紹因表太祖為東郡太守、治東武陽。

2)   『後漢書』孝獻帝紀より。

冬十一月庚戌、鎮星・熒惑・太白合於尾。

3)   『三國志』卷八 魏書八 二公孫陶四張傳第八の注に引く『呉書』より。

馥以書與袁術、云帝非孝靈子、欲依絳・灌誅廢少主、迎立代王故事;稱虞功德治行、華夏少二、當今公室枝屬、皆莫能及。又云:「昔光武去定王五世、以大司馬領河北、耿弇・馮異勸即尊號、卒代更始。今劉公自恭王枝別、其數亦五、以大司馬領幽州牧、此其與光武同。」是時有四星會于箕尾、馥稱讖云神人將在燕分。又言濟陰男子王定得玉印、文曰「虞為天子」。又見兩日出于代郡、謂虞當代立。紹又別書報術。是時術陰有不臣之心、不利國家有長主、外託公義以答拒之。紹亦使人私報虞、虞以國有正統、非人臣所宜言、固辭不許;乃欲圖奔匈奴以自絶、紹等乃止。虞於是奉職脩貢、愈益恭肅;諸外國羌・胡有所貢獻、道路不通、皆為傳送、致之京師。

4)   『三國志』卷八 魏書八 二公孫陶四張傳第八の注に引く『九州春秋』より。

紹・馥使故樂浪太守甘陵張岐齎議詣虞、使即尊號。虞厲聲呵岐曰:「卿敢出此言乎!忠孝之道、既不能濟。孤受國恩、天下擾亂、未能竭命以除國恥、望諸州郡烈義之士戮力西面、援迎幼主、而乃妄造逆謀、欲塗污忠臣邪!」

5)   『後漢書』劉虞公孫瓚陶謙列傳より。

●劉虞のところ
獻帝既思東歸、見疇等大悅。時虞子和為侍中、因此遣和潛從武關出、告虞將兵來迎。道由南陽、後將軍袁術聞其状、遂質和、使報虞遣兵倶西。虞乃使數千騎就和奉迎天子、而術竟不遣之。
初、公孫瓚知術詐、固止虞遣兵、虞不從、瓚乃陰勸術執和、使奪其兵、自是與瓚仇怨益深。和尋得逃術還北、復為袁紹所留。

●公孫瓚伝のところ。
二年、冀州刺史韓馥・勃海太守袁紹及山東諸將議、以朝廷幼沖、逼於董卓、遠隔關塞、不知存否、以虞宗室長者、欲立為主。乃遣故樂浪太守張岐等齎議、上虞尊號。虞見岐等、厲色叱之曰:「今天下崩亂、主上蒙塵。吾被重恩、未能清雪國恥。諸君各據州郡、宜共戮力、盡心王室、而反造逆謀、以相垢誤邪!」固拒之。馥等又請虞領尚書事、承制封拜、復不聽。遂收斬使人。於是選掾右北平田疇・從事鮮于銀蒙險閒行、奉使長安。獻帝既思東歸、見疇等大悅。時虞子和為侍中、因此遣和潛從武關出、告虞將兵來迎。道由南陽、後將軍袁術聞其状、遂質和、使報虞遣兵倶西。虞乃使數千騎就和奉迎天子、而術竟不遣之。

6)   『三国志』卷一 魏書一 武帝紀第一の注より。

魏書載太祖答紹曰:「董卓之罪、暴于四海、吾等合大眾・興義兵而遠近莫不響應、此以義動故也。今幼主微弱、制于姦臣、未有昌邑亡國之釁、而一旦改易、天下其孰安之?諸君北面、我自西向。」

魏書曰:太祖大笑曰:「吾不聽汝也。」紹復使人説太祖曰:「今袁公勢盛兵彊、二子已長、天下群英、孰踰於此?」太祖不應。由是益不直紹、圖誅滅之。

7)   『三國志』卷八 魏書八 二公孫陶四張傳第八より。

關東義兵起、卓遂劫帝西遷、徴虞為太傅、道路隔塞、信命不得至。袁紹・韓馥議、以為少帝制於姦臣、天下無所歸心。虞、宗室知名、民之望也、遂推虞為帝。遣使詣虞、虞終不肯受。紹等復勸虞領尚書事、承制封拜、虞又不聽、然猶與紹等連和。虞子和為侍中、在長安。天子思東歸、使和偽逃卓、潛出武關詣虞、令將兵來迎。和道經袁術、為説天子意。術利虞為援、留和不遣、許兵至倶西、令和為書與虞。虞得和書、乃遣數千騎詣和。瓚知術有異志、不欲遣兵、止虞、虞不可。瓚懼術聞而怨之、亦遣其從弟越將千騎詣術以自結、而陰教術執和、奪其兵。由是虞・瓚益有隙。和逃術來北、復為紹所留。

8)   『三國志』卷十一 魏書十一 袁張涼國田王邴管傳第十一より。

田疇字子泰、右北平無終人也。好讀書、善擊劍。初平元年、義兵起、董卓遷帝于長安。幽州牧劉虞歎曰:「賊臣作亂、朝廷播蕩、四海俄然、莫有固志。身備宗室遺老、不得自同於眾。今欲奉使展效臣節、安得不辱命之士乎?」眾議咸曰:「田疇雖年少、多稱其奇。」疇時年二十二矣。虞乃備禮請與相見、大悅之、遂署為從事、具其車騎。將行、疇曰:「今道路阻絶、寇虜縱橫、稱官奉使、為眾所指名。願以私行、期於得達而已。」虞從之。疇乃歸、自選其家客與年少之勇壯慕從者二十騎倶往。虞自出祖而遣之。既取道、疇乃更上西關、出塞、傍北方、直趣朔方、循閒徑去、遂至長安致命。詔拜騎都尉。疇以為天子方蒙塵未安、不可以荷佩榮寵、固辭不受。朝廷高其義。三府並辟、皆不就。

9)   『三國志』卷十一 魏書十一 袁張涼國田王邴管傳第十一の注に引く『先賢行状』より。

疇將行、引虞密與議。疇因説虞曰:「今帝主幼弱、姦臣擅命、表上須報、懼失事機。且公孫瓚阻兵安忍、不早圖之、必有後悔。」虞不聽。

10)   『後漢書』袁紹劉表列傳より。本文のネタバレあり。

明年、馥將麴義反畔、馥與戰失利。紹既恨馥、乃與義相結。紹客逢紀謂紹曰:「夫舉大事、非據一州、無以自立。今冀部強實、而韓馥庸才、可密要公孫瓚將兵南下、馥聞必駭懼。并遣辯士為陳禍福、馥迫於倉卒、必可因據其位。」紹然之、益親紀、即以書與瓚。瓚遂引兵而至、外託〔討〕董卓、而陰謀襲馥。紹乃使外甥陳留高幹及潁川荀諶等説馥曰:「公孫瓚乘勝來南、而諸郡應之。袁車騎引軍東向、其意未可量也。竊為將軍危之。」馥懼、曰:「然則為之柰何?」諶曰:「君自料寬仁容眾、為天下所附、孰與袁氏?」馥曰:「不如也。」「臨危吐決、智勇邁於人、又孰與袁氏?」馥曰:「不如也。」「世布恩德、天下家受其惠、又孰與袁氏?」馥曰:「不如也。」諶曰:「勃海雖郡、其實州也。今將軍資三不如之埶、久處其上、袁氏一時之傑、必不為將軍下也。且公孫提燕・代之卒、其鋒不可當。夫冀州天下之重資、若兩軍并力、兵交城下、危亡可立而待也。夫袁氏將軍之舊、且為同盟。當今之計、莫若舉冀州以讓袁氏、必厚德將軍、公孫瓚不能復與之爭矣。是將軍有讓賢之名、而身安於太山也。願勿有疑。」馥素性恇怯、因然其計。馥長史耿武・別駕閔純・騎都尉沮授聞而諫曰:「冀州雖鄙、帶甲百萬、穀支十年。袁紹孤客窮軍、仰我鼻息、譬如嬰兒在股掌之上、絶其哺乳、立可餓殺。柰何欲以州與之?」馥曰;「吾袁氏故吏、且才不如本初。度德而讓、古人所貴、諸君獨何病焉?」先是、馥從事趙浮・程渙將強弩萬人屯孟津、聞之、率兵馳還、請以拒紹、馥又不聽。乃避位、出居中常侍趙忠故舍、遣子送印綬以讓紹。

紹遂領冀州牧、承制以馥為奮威將軍、而無所將御。引沮授為別駕、因謂授曰:「今賊臣作亂、朝廷遷移。吾歷世受寵、志竭力命、興復漢室。然齊桓非夷吾不能成霸、句踐非范蠡無以存國。今欲與卿戮力同心、共安社稷、將何以匡濟之乎?」授進曰:「將軍弱冠登朝、播名海内。值廢立之際、忠義奮發、單騎出奔、董卓懷懼、濟河而北、勃海稽服。擁一郡之卒、撮冀州之眾、威陵河朔、名重天下。若舉軍東向、則黃巾可埽;還討黑山、則張燕可滅;回師北首、則公孫必禽;震脅戎狄、則匈奴立定。橫大河之北、合四州之地、收英雄之士、擁百萬之眾、迎大駕於長安、復宗廟於洛邑、號令天下、誅討未服。以此爭鋒、誰能御之!比及數年、其功不難。」紹喜曰:「此吾心也。」即表授為奮武將軍、使監護諸將。

魏郡審配、鉅鹿田豐、並以正直不得志於韓馥。紹乃以豐為別駕、配為治中、甚見器任。馥自懷猜懼、辭紹索去、往依張邈。後紹遣使詣邈、有所計議、因共耳語。馥時在坐、謂見圖謀、無何、如廁自殺。

11)   『三國志』卷六 魏書六 董二袁劉傳第六の注に引く『九州春秋』より。

馥遣都督從事趙浮・程奐將彊弩萬張屯河陽。浮等聞馥欲以冀州與紹、自孟津馳東下。時紹尚在朝歌清水口、浮等從後來、船數百艘、眾萬餘人、整兵鼓夜過紹營、紹甚惡之。浮等到、謂馥曰:「袁本初軍無斗糧、各己離散、雖有張楊・於扶羅新附、未肯為用、不足敵也。小從事等請自以見兵拒之、旬日之間、必土崩瓦解;明將軍但當開閤高枕、何憂何懼!」馥不從、乃避位、出居趙忠故舍。遣子齎冀州印綬於黎陽與紹。

12)   『後漢書』袁紹劉表列傳の注に引く『英雄記』より。

紹以河内朱漢為都官從事。漢先時為馥所不禮、内懷忿恨、且欲徼迎紹意、擅發城郭兵圍守馥第、拔刃登屋、馥走上樓、收得馥大兒、搥折兩腳。紹亦立收漢殺之。馥猶憂怖、故報紹索去。

13)   『後漢書』袁紹劉表列傳の注に引く『九州春秋』より。

至厠、因以書刀自殺。
14)   『三國志』卷六 魏書六 董二袁劉傳第六(袁術傳)の注に引く『呉書』より。

時議者以靈帝失道、使天下叛亂、少帝幼弱、為賊臣所立、又不識母氏所出。幽州牧劉虞宿有德望、紹等欲立之以安當時、使人報術。術觀漢室衰陵、陰懷異志、故外託公義以拒紹。紹復與術書曰:「前與韓文節共建永世之道、欲海内見再興之主。今西名有幼君、無血脈之屬、公卿以下皆媚事卓、安可復信!但當使兵往屯關要、皆自蹙死于西。東立聖君、太平可冀、如何有疑!又室家見戮、不念子胥、可復北面乎?違天不祥、願詳思之。」術答曰:「聖主聰叡、有周成之質。賊卓因危亂之際、威服百寮、此乃漢家小厄之會。亂尚未厭、復欲興之。乃云今主『無血脈之屬』、豈不誣乎!先人以來、奕世相承、忠義為先。太傅公仁慈惻隱、雖知賊卓必為禍害、以信徇義、不忍去也。門戸滅絶、死亡流漫、幸蒙遠近來相赴助、不因此時上討國賊、下刷家恥、而圖於此、非所聞也。又曰『室家見戮、可復北面』、此卓所為、豈國家哉?君命、天也、天不可讎、況非君命乎!慺慺赤心、志在滅卓、不識其他。」

15)   『三国志』巻八魏書張楊伝より。

進敗、董卓作亂。楊遂以所將攻上黨太守于壺關、不下、略諸縣、衆至數千人。山東兵起、欲誅卓。袁紹至河内、楊與紹合、復與匈奴單于於夫羅屯漳水。

16)   『三国志』巻十魏書荀彧伝より。

而袁紹已奪馥位、待彧以上賓之禮。彧弟諶及同郡辛評・郭圖、皆為紹所任。彧度紹終不能成大事、時太祖為奮武將軍、在東郡、初平二年、彧去紹從太祖。太祖大悦曰:「吾之子房也。」以為司馬、時年二十九。是時、董卓威陵天下、太祖以問彧、彧曰:「卓暴虐已甚、必以亂終、無能為也。」卓遣李傕等出關東、所過虜略、至潁川・陳留而還。郷人留者多見殺略。

17)   『三国志』巻九魏書夏侯惇伝より。

夏侯惇字元讓、沛國譙人、夏侯嬰之後也。年十四、就師學、人有辱其師者、惇殺之、由是以烈氣聞。太祖初起、惇常為裨將、從征伐。太祖行奮武將軍、以惇為司馬、別屯白馬、遷折衝校尉、領東郡太守。

18)   『三国志』巻二十四魏書高柔伝より。

高柔字文惠、陳留圉人也。父靖、為蜀郡都尉。柔留郷里、謂邑中曰:「今者英雄並起、陳留四戰之地也。曹將軍雖據兗州、本有四方之圖、未得安坐守也。而張府君先得志於陳留、吾恐變乘閒作也、欲與諸君避之。」衆人皆以張邈與太祖善、柔又年少、不然其言。

19)   『三国志』巻六魏書袁術伝より。

時沛相下邳陳珪、故太尉球弟子也。術與珪俱公族子孫、少共交游、書與珪曰:「昔秦失其政、天下群雄爭而取之、兼智勇者卒受其歸。今世事紛擾、復有瓦解之勢矣、誠英乂有為之時也。與足下舊交、豈肯左右之乎?若集大事、子實為吾心膂。」珪中子應時在下邳、術並脅質應、圖必致珪。珪答書曰:「昔秦末世、肆暴恣情、虐流天下、毒被生民、下不堪命、故遂土崩。今雖季世、未有亡秦苛暴之亂也。曹將軍神武應期、興復典刑、將撥平凶慝、清定海內、信有徴矣。以為足下當戮力同心、匡翼漢室、而陰謀不軌、以身試禍、豈不痛哉!若迷而知反、尚可以免。吾備舊知、故陳至情、雖逆于耳、骨肉之惠也。欲吾營私阿附、有犯死不能也。」

20)   『三国志』巻九魏書曹仁伝より。

曹仁字子孝、太祖從弟也。少好弓馬弋獵。後豪傑並起、仁亦陰結少年、得千餘人、周旋淮・泗之間、遂從太祖為別部司馬、行厲鋒校尉。

21)   『三国志』巻九魏書曹仁伝注所引『魏書』より。

仁祖褒、潁川太守。父熾、侍中・長水校尉。


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