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境界を越えて
2011.05.11.
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   どこにも掲載予定のない三国志小説をサンプルとして、期間限定で公に晒し作者のモチベーションを高めるページです。冒頭部分です。


   男の両眼に草木の無い乾いた大地の上で集う人馬の大群が映っていた。
   その見慣れぬ群像は未だ小さく遠くに在る。
   しかし、若く猛る男は背に走る冷たい何かを感じている。
「退避だ」
   左右に言い放った後に、手綱を引き馬首を翻す。
   二つの耳で数十に上る蹄の音を認めつつ、二つの目は行く先を着々と探る。
   首を後へ振り一瞥すると、配下の人馬の向こう側に、粛々と異様な騎馬の集団が迫っている。
   心の内より沸き上がる恐怖を奥へと抑え込み、前に気を向ける。
「あれだ」
   後続の仲間に指し示すと言うより、自らを叱咤する声を放った。右手の先には小さな城壁が在り、その中央には無造作に開いた門が在る。
   若い男を先頭に城壁の内側へと駆け込む。
「後什長は今、通った北門、前什長は南門、左伍長は東門、右伍長は西門を閉じろ。残りは敵襲に備え亭内から武器を掻き集めろ」
   街路を疾走したまま、男は怒号を飛ばした。「唯(はい)」と方々から飛び返り、遅れて分かれた蹄の音が続く。
   先を導いた若き男は元来た道を駆け、城門前で馬から降り、楼へと掛け登る。城壁の上から外を視野に入れると、数百もの騎馬の大群がこちらを飲み込もうと押し寄せる。
   動悸を抑え込み、それを冷静に見据えようと努める。
「敵勢は鮮卑(せんぴ)族の騎馬で五百以上は迫りつつ在る。我等の数十倍だ」
   欄檻に寄りかかり城内楼下に集いつつある配下を見下ろしている。
「今、ここから逃げ出さなければ、乃ち全滅するだろう。これよりこの公孫伯圭(こうそんはくけい)が敵勢へ突っ込み道を切り開き、我等漢人の塞内へ還る。命が惜しければ、我に続け」
   溢れんばかりの内成る活力を声に乗せ吐き出した。公孫伯圭を名乗る男は楼から街路へと降りる。門を背に、集いつつ在る自軍の騎兵に目を向ける。視界に入るどの顔も死を覚悟した緊迫した物だった。
「矛を二つ寄越せ」
   公孫伯圭の命令に対し、直ぐに「唯」と声が返り、続けて二本の棒状の武器が手渡される。伯圭は立ち止まり、一方の武器の先で堅く縛られた縄を腰に帯びる刀で切り落とし、刃を解き取る。地に置いたもう一方の武器を持ち上げ、刃のない方の棒の先端に新たな刃を差し込み縄で固定する。総じて棒の両端に刃のある矛を伯圭は作り上げていた。
   その武器を携え、自らの馬に登り、深い一呼吸を行う。
「扃(かんぬき)を取り去り門を開けろ」
   良く通る声で発すると、後什長と呼ばれる男が門に架かる横木を取り去り、慌てつつも重々しく門を開く。
   門を通じ城壁の向こう側が見え、そこには鮮卑の騎兵が横へ大きく広がる。
「行くぞ」
   覇気を込めた声で自らをも奮い立たせた。
   自らの馬を前へ馳せさせる。上体を両腿で支え、両刃にした矛を両手に持ち構える。
   前へ進むたびに、左右から迫り来る鮮卑の騎兵の影が目に入り、急激に胸が高鳴る。
   やがて互いの武器が届く距離に入る。
「やっ」
   大声と共に伯圭は右斜めに矛を突いた。敵がそれを武器で払うより早く胸を刺し、鈍い呻き声を伴い落馬させる。勝利の余韻も無く、続け様に矛の逆端を左横に押し付ける。今度は狙いが外れたが敵の喉元に当たり致命傷を負わせる。通常で有れば、武器の両端に刃を付ければ自軍の兵卒を傷付ける危険が有るが、突撃で敵勢の中を縫う場合、こちらの方が効率的だと伯圭の狙い通りだった。
   背後へ聞き慣れた声の悲鳴が届くが、後ろ髪を引かれる思いを振り払い、気を前へ突破する動きに向ける。失速無く次々と左右の敵卒を戦闘不能にしつつ、やがて三方に誰も見えなくなった。
   達成感に満たされながら、馬の速さを緩めず己の成果を確かめ様と背後に目を遣る。視界の奥には猛る鮮卑の騎兵に拠る大群が蠢き、そこから手前まで途切れ途切れの馬の列が在り、それぞれの馬には辛うじて乗る漢人の姿が在った。漢人の中には明らかに絶命した者も居る。自軍の騎兵を密集させなかったばかりに、逆に敵軍の騎兵からその隙に入り込まれ列を分断させられていた。
   伯圭は前へ向き直り奥歯を噛み締めた。
「塞の内側へ帰還するまでが我の任務だ。暫し北へ向かった後、大きく迂回し南へ行く」
   目の前には荒涼とした平野が広がっていた。

   雲の無い青空の下、四方を帳幔で囲まれた中に、官吏五十人余りが杯を交わす。
   中でも二十代半ばの端正な顔立ちの男に人気が集まる。座するその男は、その頭を覆う黒い幘の上の前面で直角より鋭く折れ曲がった針金状の鉄の一本が出ており、つまり一梁進賢冠を戴いており、全身を覆う紺の単衣の腰元には黒色の綬を身に着けており、宴会に集う官吏の中でも最高位から二番目だと辺りへ告げる。
   人が途切れた後に、爽やかな音色が近付くのを耳にする。それは官吏で有れば必ず腰に佩びる玉が衝牙に当たる音だと判りそれに目を遣る。耳杯を片手に持った同程度の年齢で痩せ気味だが骨張った中背の男が近付く。その男は一梁進賢冠を戴き、より下位を示す黄綬を腰から垂らす。
   黒綬の男はそれに気付き、地に敷いた席から立ち上がり、跪き胸の前で左手を上に両手を組み、腰と水平に頭を下げ、所謂、拝礼を行う。それに対し黄綬の男も同じ動作を行い返拝を行う。互いに頭を上げた時、黄綬の男が謁と呼ばれる木簡を差し出す。それを黒綬の男が手に取り書かれた文字を目で追う。
「足下が遼東屬國(りょうとうぞくこく)の門下書佐と為る田楷(でんかい)か。知っていると思うが我は遼東屬國の長史と為る公孫瓚、伯圭と字す者だ」
   田楷と言う姓名の黄綬の男が地に座するのを見計らい、黒綬の公孫伯圭は語りかけた。田楷は応じる。
「勿論、存じております。卿が鮮卑との戦いで功を挙げておられる事実も存じています」
   楷の発言に伯圭は表情を引き締め両目を据える。
「では昨年の惨事も知るのだな」
「卿が数十騎を引き連れ塞外を視察した際、鮮卑数百騎に遭遇し包囲されましたが、卿の奮闘により鮮卑数十人を倒し、塞内へと帰還致し戦功を得ました。その後、卿はそれを教訓とし防衛する軍の強化に尽力致しました」
   楷の回答に伯圭は眉間に皺を寄せる。
「然。だが、肝心な事実が抜けている。昨年の惨事で我と共に偵察に行った騎卒の半分は帰らぬ人と為った。その後、己の無力を恥じたため、軍備を増強し、鮮卑が攻め寄せる度に撃退したまでだ」
「多くの人が犠牲に為ったのは仕方が無いと存じます。昨年の鮮卑は檀石槐(だんせきかい)と言う強烈な渠師により一つに纏まり強大な勢力を築きつつ在りましたが、当時、それが遼東屬國に届く程だとは塞内で誰も知らない事実でした」
   楷は慎重に語句を選びつつ反論した。それに対し一笑し、杯に残る酒を口にしてから声を出す。
「足下のその気遣いには感謝するが、我はそれを忘れようとは思わない。しっかりと心に刻みつけ、鮮卑にも比肩する騎卒を組織立てようと考えていて、いよいよそれを実現できそうだ」
   安心させ様と段々と表情を緩めていた。それを見た相手は顔よりも発言の内容に気が向き表情が固まる。
「騎卒ですか」
「然、騎卒だ。鮮卑は我等漢人と違い、騎馬に優れるのは明白だ。だからこそ、我は漢人による特別な騎兵隊を設けたい」
   煌めく双眸を向けた。対する楷は目を伏し一考する。
「陛下より遼東屬國を預かる一臣下としてそれは頼もしい限りです。では、卿の目下の任務として遼東屬國の長官である都尉の前任を宴で見送る今の祖道を楽しみ、卿の前途も祝いましょう」
   皇帝を「陛下」と尊称した楷の呼び掛けに伯圭は「諾」と応じ、近くの瓶から酒を勺で掬った。
   差し出された杯に伯圭はなみなみと注いだ。
   互いに杯を両手で持ち上げ、口に持っていく。

   北の辺境近くと為る涿縣(たくけん)と雖も、漸く陽射しが暖かく為った頃だった。
   鮮卑との戦いの功により公孫伯圭は涿縣の長官に当たる涿令と為っていた。着任より四回目の春を迎え、縣府の正堂で職務に励む伯圭は小吏より意外な報告を受ける。
   急ぎ榻から立ち上がり、腰に佩びる玉と衝牙の音と共に、履に足を入れ歩み出し堂を降り廷を横切り幾つかの門を潜る。前門の外へと出ると、年十五程のあどけない顔だが背丈は八尺と大柄な男が立っていた。
   その大きな身体は下に落ち込み、冠が無く黒幘が載る頭が下がり、拝礼の動作が為される。
   それを目の当たりにしても、辺りを窺ってから声を掛ける。
「隣國の常山國(じょうさんこく)真定縣(しんていけん)から吏卒の一団が来たと聞いたが、汝はそうではないのか。汝は何者だ」
   若い男の頭が拝礼から挙がったのを見計らい、質問を投げた。強い猜疑から声を荒らげていたが相手は動揺する素振りも見せない。
「趙雲(ちょううん)と申します。仰る通り常山國真定縣の一団百二十人が涿縣へ詣で上がりましたが、途中、黄巾賊の襲撃に遭い、長を含めた二割の者が害されました。そのため、皆の推挙により愚(わたし)が一団を率いていました」
   あからさまに思わず伯圭は眉を顰める。その惨事に向けてと言うより、趙雲と姓名を自称する若者が指導者に推挙された事実に疑念を抱いている。
「それは傷ましい。お悔やみ申す。その中で申し訳無い質問だが、百人近く居る一団で何故、汝が推挙されたのか」
   その質問に雲は若いが威厳が漂う顔に悲痛な表情を浮かべる。
「常山國の領内で行軍中、黄巾賊(こうきんぞく)に奇襲を受け、自隊は混乱に陥りました。しかし、愚は全滅を恐れ、声を張り上げ混乱する吏卒に指示し、陣形を築きその場を凌ぎました。もはや一団を統率できる者は無く、その主従の関係のまま、涿縣に上がりました。そのため、愚の本意と言う訳ではございません。常山國の吏卒は向こうの大街に待機させております」
   雲による悲しみの表情が凄惨な襲撃の記憶による物だと伯圭は理解し、同情を感じる。
「汝には辛い体験だった様だ。だが、暫し一団の代表を務めて貰う。先ずは正堂へ同行願いたい」
   胸の前で左を上に両手を組み伯圭は手で門内へ導く意を見せる。それに応じ、二人は並び中へと歩む。
   伯圭は左への横目で雲の未だ幼き顔を窺う。そこには行く先を見落とすまいとする眼差しが在った。それに吊られ前へ向き直る。雲の言及した「黄巾賊」は昨年二月に反乱を起こした百姓の集団であった。その数は数十万人に昇り、六州に及ぶ広い範囲に拡大していたが、官軍に各個撃破され、同年十二月にほぼ鎮圧され、そのため、元号が「光和」から平穏の意味で「中平」に変わった。しかし完全な鎮圧には到らず、返って涿郡涿縣に南接する常山國では次世代の黄巾賊が跋扈する程だった。
   幾つかの門を通り抜け、やがて二人は正堂前の廷へと出て、共に東の階から堂上へ昇る。伯圭は南面し榻へ座り、雲は北面し敷かれる席へ座る。左右の席には縣丞の田楷を始め官吏数人が座し、厳粛な場を醸し出す。
「常山國の吏卒が危険を冒してまでこの涿縣へ何の用だ」
   一段高い場の北から話を切り出した。
「半月程前に常山國の國相より所属する各縣の令や長へ命令が下ったと聞きます。それは各縣の吏卒を北接する涿郡の所定の縣へ合流させる命でした。ご存知の様に、常山國は褚燕と呼ばれる黄巾賊の渠師により蹂躙されており、官の輸送はほぼ分断されていると聞きます…」
   明確に語句を紡ぎながらも雲は顔に悲痛の色を浮かべていた。
「そこで常山國の國相は隣郡で再起を図るため、自軍を官吏ごと涿郡へ託したと言う訳か」
   意を察し、口を挟み伯圭は途中で発言を受け継いだ。「然」と答えが返ってくる。
「では、我の主導で責任を持って真定縣からの官吏や兵卒を我の縣で再編成し、常山國へ軍勢を向けると約束しよう。ご苦労であった。汝はもう責任を背負う事は無い。これからは一人の使男(こども)だ。だから、そう緊張するな。楽にし給え」
   安心させようと声に優しさを込めた。それが効いてか、雲の頬に涙が伝わり落ちるが、背筋を屈せず、その身体の大きさと気丈さを示したままだった。
「では常山國真定縣より来た吏卒はこちらから報せておく」
   その声は東側に座する田楷から出ていた。雲は涙をそのままで右へ向き直る。
「お気遣い感謝致します。しかしながら、吏卒への報告は仮の長としての愚の最後の任務だと心得ています。その後に一兵卒としてどこなりと配属させてください」
   そう言い残すと、雲は立ち上がり拝礼の動作を行おうとした。
「待て…」
   伯圭の一言で、既に跪いていた雲は立ち上がり席に座り直す。それを認め話を続ける。
「未だ加冠していないとは言え、真定縣の吏卒をここまで導くと言う大功を挙げた汝をそのまま一兵卒にする道理は無い」
   それを聞き頬を濡らしたままの雲の顔を強張る。
「では愚は何を」
   暫しの沈黙の後、雲の口から疑問の言が出た。
「十年程前に強大な勢力だった鮮卑に対抗すべく、当時、遼東屬國で長史を担当していた我は屬國内の者から騎射に優れた者を選りすぐり、我の門下に数十人の兵卒と白馬から成る騎兵隊を作った。それを我等は『白馬義從(はくばぎじゅう)』と称している。是非ともこの白馬義從に入って貰う」
   伯圭の熱意とは裏腹に、雲の表情は晴れない。
「愚はとても鮮卑に敵うとは思えません。それに愚は故郷の真定縣を蹂躙する黄巾賊を一掃しようと願い、この地まで来ました。それなのに…」
「早とちりするで無い。渠師である檀石槐が死んでからと言うのも、塞外に於いて鮮卑は一枚岩でなくなり内部で互いに潰し合いをしており、既に漢人の敵でなくなって久しい。一方、塞内では本来、辺郡へ徴発され戍卒や田卒として鮮卑等の異族から塞内を守るはずの百姓も巻き込み黄巾賊となって反乱を起こしている。そのため、今は黄巾賊を常山國から駆逐するのが白馬義從や涿縣の役目だ。汝には白馬義從の一員として黄巾賊討伐の先頭に立って貰う。無論、勝つために我等と共に訓練を受けて貰うがな」
   話を進める程、雲の顔に覇気が戻りつつあった。
「それならば、喜んで白馬義從に加わりましょう」
   再び立ち上がり同意と服従の意を込め拝礼した。
「では仮の長としての汝の最後の任務を終わらせた後、ここに戻って来るのだ」
   雲は「唯(はい)」と応じ、立ち上がり正堂を降り歩を進めた。
「時代は未だ白馬義從を必要としている様だ」
   行き去る背を視野に入れつつ伯圭は未だ厳粛さを崩さない田楷に零した
「力を尽くす余地が在ると言うのは幸福な事です」
   しみじみと返した。
   暖かい陽光の中で、二人は門から出る若い男を頼もしい思いで眺めていた。

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