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青州黄巾(孫氏からみた三国志56)
2010.10.04.
<<董卓の死(孫氏からみた三国志55)


   前回の予告通り、関東について書く訳だけど、まず『三国志』巻八魏書陶謙伝1)によると、東の端の徐州の刺史である陶謙(字恭祖)は次のような動きを見せる。

   董卓の乱に、州郡は兵を起こし、天子は長安を都にし、四方は断絶し、陶謙は使いを遣り密かに行き貢献に至り、安東將軍・徐州牧に遷り、溧陽侯に封じた。この時、徐州の百姓は盛んで、穀米は多く封じられ、流民は多くこれに帰した。陶謙は道に背を向け情にに任せた。(徐州)広陵太守の琅邪出身の趙昱は徐方の名士であり、忠直を以て上疏に見えた。曹宏等は邪悪で小人であり、陶謙はこれを親しみ任せた。刑政は和を失い、良善は多くその害を被り、是により漸く乱れた。

   一見、前回の「董卓の死」(孫氏からみた三国志55)より前のことが書かれているようだけど、『後漢書』伝六十三陶謙伝2)では次のように書かれている。

   当時、董卓が乃ち誅殺され、李傕・郭汜は関中で乱を起こした。この時に四方は断絶し、陶謙は常に使いを間行で遣わし、西京に奉貢させた。詔が遷り徐州牧になり、安東将軍が加わり、溧陽侯に封じられた。この時、徐方の百姓は盛んで、穀実は甚だ豊かで、流民は多くこれに帰した。陶謙は信用されず、刑政に理はなかった。別駕從事の趙昱は、名士として知られ、忠直を以て上疏に見え、出て廣陵太守になった。曹宏等は邪悪で小人であり、陶謙は甚だこれを親しみ任せ、良善の多くはその害を被った。そのため、ようやく乱が起こった。

   両方とも信じるならば、『三国志』巻八魏書陶謙伝の「董卓の乱」は「天子は長安を都に」するまでの状況説明であって、陶謙が貢献したのは「李傕・郭汜は関中で乱を起こした」時なんだろう。また趙昱については『三国志』巻八魏書陶謙伝注引謝承『後漢書』3)に書かれてある。

   趙昱は年十三の時、母は嘗て病にかかり、三ヶ月に渡った。趙昱は悼み悲しみ衰弱し、目が眠れなくなるに至り、粟を握り卜を出し、祈祷し声を出さず忍び泣き、郷党はその孝を称賛した。処士として(徐州琅邪國)東莞の綦毌君に就き公羊伝を受け、群業を兼備した。歴年に至り専心し、園圃を窺わず、親密と疎遠は希にその面を見える程だった。当時、父母に仕えるために、しばらく還っていた。高絜廉正で、礼を抱き立ち、清英儼恪で、その志しは乱れることが無かった。善行を表彰することで教化を興し、邪を尽きることで風俗を改めた。州郡は招聘を請い、常に病を称し応じなかった。国相は企てを恣にし、従い並び共に招いたが、起こらなかった。或る人が盛んに怒り出したが、意を曲げず終いだった。孝廉に挙げられ、莒長に除され、五教を宣揚し、国のために政を表した。たまたま黄巾が乱が起き、五郡を暴れ回り、郡県は兵を発し、それにより先ず務めとした。徐州刺史の巴祇は功第一を表し、当に賞を受け遷し、趙昱は恥と思い、官を委ね家に還った。徐州牧の陶謙は初め別駕従事として招き、疾で辞し逃れた。陶謙は重ねて揚州従事の会稽の呉範に命令させ、趙昱は意を守り移らなかった。刑罰を以て威しを欲し、しかる後に乃ち起った。茂才に挙げられ、広陵太守に遷った。賊の笮融は臨淮より討伐に見え、ほとばしり郡界に入り、趙昱は兵を引き拒み戦い、敗れ殺害に見えた。

   こうした徐州の動きに対し、西に接した兗州での動きは『三国志』巻一魏書武帝紀4)が詳しい。まずは初平三年(紀元192年)春から始まる。<<「冀州の動乱」(孫氏からみた三国志51)の末に書いているところの続き。

   三年春、太祖(曹操)は(兗州東郡)頓丘に軍し、于毒等は(兗州東郡)東武陽を攻めた。太祖は乃ち兵を率い山へ西に入り、于毒等の本屯を攻めた。于毒はこれを聞き、武陽を棄て還った。太祖は眭固を撃つに要し、また(冀州魏郡)内黄で匈奴の於夫羅を撃ち、皆これを大破した。

   ともかく曹操(字孟徳)の戦いについて注で『魏書』5)が引かれる。以下。

   『魏書』に言う。諸将は皆、まさに還り自らを救おうと思った。太祖は言う。
「孫臏は趙を救い義を攻め、耿弇は西安へ走り臨菑を攻めようと欲した。賊に我が西へ還ると聞かせ、武陽を自ら解かせる。還らないのなら、我はその本屯で敗り得て、虜は必ず武陽を抜けないだろう」
   遂に乃ち行った
   『魏書』に言う。於夫羅は南單于の子だ。中平中、匈奴兵を発し、於夫羅は率いることで漢を助けた。たまたま本国が反し、南單于を殺し、於夫羅は遂にその衆を率い中国に留まる。因りて天下は乱れ、西河白波賊と合わさり、太原・河内を敗り、諸郡をかすめ取り、進寇した。

   続けて『三国志』巻一魏書武帝紀に沿うと前回の董卓殺害の件が出た後、兗州での動きが再び出てくる。以下。

   夏四月、司徒王允と呂布は共に董卓を殺し、董卓の将の李傕・郭汜等は王允を殺し呂布を攻め、名家は敗れ、武關を東へ出た。李傕等は朝政を恣にした。
   青州黄巾衆百万は兗州に入り、(兗州)任城相の鄭遂を殺し、転じ(兗州東郡)東平へ入った。(兗州刺史の)劉岱はこれを撃とうと欲し、鮑信は諫めて言う。
「今、賊衆は百万で百姓は皆震え恐れ、士卒に戦う志しが無く、敵にするべきではありません。賊衆の群輩は互いに随行し、軍に輜重が無いように見え、ただ略奪をもって資とし、今、士衆の力を蓄えるままにせず、まず固守しています。彼は戦いを欲し得られず、攻めるかそうできないか、その勢いは必ず離散し、後に精鋭を選び、その要害に拠し、これを撃ち破るのは可能です」
   劉岱は従わず、遂に戦い、結果、殺されるところとなった。鮑信は乃ち州吏の萬潛等と共に東郡へ至り太祖を兗州牧に迎えた。遂に兵を進め黄巾の于壽を撃ち東へ張った。鮑信は力戦し戦死し、僅かにこれを破った。鮑信の喪(なきがら)を購求したが得られず、衆は乃ち木を刻し鮑信の形状の如くにし、祭り哭した。黄巾を追って(兗州)濟北に至った。降伏を乞うた。冬、降卒三十万余り、男女百万口余りを受け、その精鋭を収め号して青州兵とした。

   ここで出てくる青州黄巾は「<<「界橋の戦い」(孫氏からみた三国志54)に出てくる公孫瓚(字伯珪)が大いに破った黄巾の流れなのだろう。ともかく黄巾賊を撃破してその武威を示し冀州の郡縣を友軍にした公孫瓚とは対照的に、曹操はそれを自軍へ取り込み「青州兵」とした。この『三国志』巻一魏書武帝紀の注6)は以下のようになる。

   『世語』に言う。劉岱は既に死に、陳宮(字公臺)は太祖に言う。
「州は今、主が無く、王命は断絶し、宮(わたし)は州中を説くことを請い、明府(あなた)は尋ね行きこれを牧し、これを資すことで天下を収め、これこそ霸王の業です」
   陳宮は別駕・治中を説いて言う。
「今、天下は分裂し州に主はありません。曹東郡は、命世の才であり、もし迎えることで州を牧させるならば、必ず生民を寧します」
   鮑信等はまたこれを然りと謂った。
   『魏書』に言う。太祖は歩騎千人余りを率い、戦地を行視し、卒は賊営に抵し、戦は不利となり、死者が数百人となり、引き還った。賊は探りつつ前進した。黄巾は賊になり久しく、数々勝ちに乗じ、兵は皆精悍だった。太祖の旧兵は少なく、新兵は習練せず、軍を挙げ皆恐れた。太祖は甲を被り冑を書け、自ら将士を巡り、賞罰を明らかに勧め、衆は乃ち再び奮い、間を承け討撃し、賊は次第に損ない退いた。賊は乃ち太祖に書を移し言う。
「昔、濟南に在り、神壇を壊し、その道は乃ち中黄太乙と同じで、道を知るに似て、今、改めて迷うだろう。漢行は既に尽き、黄家はまさに立ち、天の大運は、君の才力が在る所ではない」
   太祖は檄書を見て、これを罵り、数々、降路を開示した。遂に奇伏(伏兵)を設け、昼夜に開戦し、戦い、乃ち擒にし、賊は乃ち退き走った。

   「漢行は既に尽き、黄家はまさに立ち(漢行已盡、黄家當立)」という辺りは<<「陰謀発覚!」(孫氏からみた三国志15)の光和七年(紀元184年)の所に出てきた「蒼色の天は(蒼天)すでに死んだ   黄色の天(黄天)はまさに立つ(蒼天已死、黄天當立)」を連想させるくだりで、後者がその時期だとすると八年ぐらいも黄巾賊の精神は脈々と保たれていたことになる。
   このことは『後漢書』紀九孝献帝紀7)初平三年夏四月の条では次のように記されている。目新しい情報としては曹操が黄巾を破った地が書かれていることだろうか。

   青州黄巾は(兗州東郡)東平において兗州刺史の劉岱を撃ち殺した。東郡太守の曹操は(兗州東平國)壽張で黄巾を大いに破り、これを降伏させた。

<2012年5月8日追記>
   前述の黄巾、鮑信、曹操に関わる重要人物が居る。それは次のように『三国志』巻十七魏書于禁伝8)にある。

   于禁は文則と字し、(兗州)泰山(郡)鉅平人だ。黄巾が起こり、鮑信は招き徒衆を併せ、于禁は附し従った。太祖が兗州を領するに及び、于禁はその党と共に詣で都伯に為り、將軍の王朗に属した。
<追記終了>
兗州関連
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)



   そして『三国志』巻一魏書武帝紀の続きを見ると、

   袁術(字公路)と袁紹(字本初)に隙が有り、袁術は公孫瓚に援助を求め、公孫瓚は劉備を遣わし(青州平原郡)高唐へ駐屯させ、(青州平原郡)平原に單經を駐屯させ、陶謙を(兗州東郡)發干に駐屯させることで、袁紹に迫った。太祖と袁紹は会撃し、皆これを破った。

となり、「界橋の戦い」(孫氏からみた三国志54)での袁紹対公孫瓚の構図に若干の変化が見て取れる。
   こうして初平三年の関東の動向に、曹操の台頭が著しくあり、これが次の年からの動向に大きく影響を与える。その前に次回、再び長安について触れる。




1)   『三国志』巻八魏書陶謙伝より。

董卓之亂、州郡起兵、天子都長安、四方斷絶、謙遣使閒行致貢獻、遷安東將軍・徐州牧、封溧陽侯。是時、徐州百姓殷盛、穀米封贍、流民多歸之。而謙背道任情:廣陵太守琊邪趙昱、徐方名士也、以忠直見疏;曹宏等、讒慝小人也、謙親任之。刑政失和、良善多被其害、由是漸亂。

2)   『後漢書』伝六十三陶謙伝より。

時董卓雖誅、而李傕・郭汜作亂關中。是時四方斷絶、謙毎遣使閒行、奉貢西京。詔遷為徐州牧、加安東將軍、封溧陽侯。是時徐方百姓殷盛、穀實甚豐、流民多歸之。而謙信用非所、刑政不理。別駕從事趙昱、知名士也、而以忠直見疏、出為廣陵太守。曹宏等讒慝小人、謙甚親任之、良善多被其害。由斯漸亂。

3)   『三国志』巻八魏書陶謙伝注引謝承『後漢書』より。本編のこの先のネタバレあり。

謝承後漢書曰:昱年十三、母嘗病、經涉三月。昱慘戚消瘠、至目不交睫、握粟出卜、祈禱泣血、郷黨稱其孝。就處士東莞綦毌君受公羊傳、兼該群業。至歷年潛志、不闚園圃、親疏希見其面。時入定省父母、須臾即還。高絜廉正、抱禮而立、清英儼恪、莫干其志;旌善以興化、殫邪以矯俗。州郡請召、常稱病不應。國相檀謨・陳遵共召、不起;或興盛怒、終不迴意。舉孝廉、除莒長、宣揚五教、政為國表。會黄巾作亂、陸梁五郡、郡縣發兵、以為先辦。徐州刺史巴祇表功第一、當受遷賞、昱深以為恥、委官還家。徐州牧陶謙初辟別駕從事、辭疾遜遁。謙重令揚州從事會稽吳範宣旨、昱守意不移;欲威以刑罰、然後乃起。舉茂才、遷廣陵太守。賊笮融從臨淮見討、迸入郡界、昱將兵拒戰、敗績見害。

4)   『三国志』巻一魏書武帝紀より。本文のネタバレあり。

三年春、太祖軍頓丘、毒等攻東武陽。太祖乃引兵西入山、攻毒等本屯。毒聞之、棄武陽還。太祖要撃眭固、又撃匈奴於夫羅於内黄、皆大破之。
夏四月、司徒王允與呂布共殺卓。卓將李傕・郭汜等殺允攻布、布敗、東出武關。傕等擅朝政。
青州黄巾衆百萬入兗州、殺任城相鄭遂、轉入東平。劉岱欲撃之、鮑信諫曰:「今賊衆百萬、百姓皆震恐、士卒無鬥志、不可敵也。觀賊衆群輩相隨、軍無輜重、唯以鈔略為資、今不若畜士衆之力、先為固守。彼欲戰不得、攻又不能、其勢必離散、後選精鋭、據其要害、撃之可破也。」岱不從、遂與戰、果為所殺。信乃與州吏萬潛等至東郡迎太祖領兗州牧。遂進兵撃黄巾于壽張東。信力戰鬥死、僅而破之。購求信喪不得、衆乃刻木如信形状、祭而哭焉。追黄巾至濟北。乞降。冬、受降卒三十餘萬、男女百餘萬口、收其精鋭者、號為青州兵。
袁術與紹有隙、術求援於公孫瓚、瓚使劉備屯高唐、單經屯平原、陶謙屯發干、以逼紹。太祖與紹會撃、皆破之。

5)   『三国志』巻一魏書武帝紀注引『魏書』より。

魏書曰:諸將皆以為當還自救。太祖曰:「孫臏救趙而攻魏、耿弇欲走西安攻臨菑。使賊聞我西而還、武陽自解也;不還、我能敗其本屯、虜不能拔武陽必矣。」遂乃行。
魏書曰:於夫羅者、南單于子也。中平中、發匈奴兵、於夫羅率以助漢。會本國反、殺南單于、於夫羅遂將其衆留中國。因天下撓亂、與西河白波賊合、破太原・河内、抄略諸郡為寇。

6)   『三国志』巻一魏書武帝紀注引『世語』『魏書』より。

世語曰:岱既死、陳宮謂太祖曰:「州今無主、而王命斷絶、宮請説州中、明府尋往牧之、資之以收天下、此霸王之業也。」宮説別駕・治中曰:「今天下分裂而州無主;曹東郡、命世之才也、若迎以牧州、必寧生民。」鮑信等亦謂之然。
魏書曰:太祖將歩騎千餘人、行視戰地、卒抵賊營、戰不利、死者數百人、引還。賊尋前進。黄巾為賊久、數乘勝、兵皆精悍。太祖舊兵少、新兵不習練、舉軍皆懼。太祖被甲嬰冑、親巡將士、明勸賞罰、衆乃復奮、承閒討撃、賊稍折退。賊乃移書太祖曰:「昔在濟南、毀壞神壇、其道乃與中黄太乙同、似若知道、今更迷惑。漢行已盡、黄家當立。天之大運、非君才力所能存也。」太祖見檄書、呵罵之、數開示降路;遂設奇伏、晝夜會戰、戰輒禽獲、賊乃退走。

7)   『後漢書』紀九孝献帝紀より。

(初平三年夏四月)青州黄巾撃殺兗州刺史劉岱於東平。東郡太守曹操大破黄巾於壽張、降之。
8)   『三国志』巻十七魏書于禁伝より。

于禁字文則、泰山鉅平人也。黄巾起、鮑信招合徒衆、禁附從焉。及太祖領兗州、禁與其黨俱詣為都伯、屬將軍王朗。

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