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戦いの果てに(孫氏からみた三国志24)
040112
<<朱儁vs.南陽黄巾(孫氏からみた三国志23)


   黄巾の乱がはじまった当初、冀州安平国(安平國)と冀州甘陵国(甘陵國)の住民たちが乱に呼応し、自分たちの国の王をとらえたって話は以前、したんだけど(<<参照)、その話の続きがある。

   まず甘陵国。
   すぐに黄巾から釈放され、皇帝は親戚や旧友の親しさをもって、甘陵王の劉忠を甘陵国へ復帰させた1)

   一方、安平国はこれとは対照的2)
   まず、安平国の王(安平王の劉續)がとらえられた後、その国の相(王の代わりに國の政治を取り仕切る。郡太守に相当)は李燮(字、コ公)という人がなった。
   王は奪還され、朝廷(中央の政治)は甘陵王のときのように(前後関係は不明だけど)、王を国に返そうとなったんだけど、そのとき、李燮は次のように上奏する。
「劉續がいた国に政治がなかったため、妖賊(黄巾につられた住民たちのこと?)にとらえられ、守備は不適切で、朝廷をはずかしめました。国に返すのはよろしくありません」
   この上奏に評議する人たちは同意しなかったので、結局、劉續を安平国に返すことにした。そして、李燮は宗室(皇帝の一族という意味?)をそしりはずかしめたということで、左遷されてしまう
   ところが、一年にも満たないうちに、劉續はそのとらえられたことを罪にとわれ、誅される(処刑される)。そして、王が誰かに継承されるとかじゃなく、国自体がなくなり、安平国が安平郡となってしまう。それは光和七年九月のことだった3)
   そんなことで、先の上奏が正当化されたのか、李燮は左遷から復帰し、中央の役職、議郎になった。

   甘陵王と安平王の二人の何がちがってこうも処遇が違うのかわからない。甘陵王はちゃんと国を治めていたんだろうか…


   もちろん、甘陵国と安平国の王をとらえられた発端である黄巾の乱はまだ続いている。

   黄巾の乱が始まって、豫州潁川郡の黄巾軍は皇甫嵩(字、義真)、朱儁(字、公偉)、曹操(字、孟徳)の軍により撃破され、続けて、豫州汝南郡の黄巾軍は皇甫嵩、朱儁の軍に撃破された。
   この勝利で勢いにのるは皇甫嵩の軍と朱儁の軍はぞれぞれ別の地域に派遣される。
   皇甫嵩の軍は北進し、えん州東郡の黄巾軍を撃破し、それに続き西進した朱儁の軍は秦頡の軍とともに荊州南陽郡の黄巾軍を撃破した。
   京師を脅かす、主要な黄巾軍は残るところ、冀州鉅鹿郡の黄巾軍、つまり張角の軍だけだった。
   すでに張角の軍を討つよう、皇甫嵩に命令が下っている。


   皇甫嵩の軍はえん州東郡からさらに北進し、冀州鉅鹿郡入りする。

   まず皇甫嵩の軍は張角の弟、張梁(自称「人公将軍」ね、<<参照)の軍に鉅鹿郡の広宗(廣宗)県で遭遇し、戦闘を開始した4)
   ちなみにこの広宗は北中郎将の盧植(字、子幹)が張角の軍と戦ったところだ。
   張梁の軍は精鋭で(さすが、本拠地!)、皇甫嵩の軍は勝つことができないでいた。
   次の日、皇甫嵩の軍は陣営に閉じこもり、兵士を休ませ、戦況の変化を静観していた。そのとき、皇甫嵩の軍は賊がわずかに油断していたことを知り、夜に隠れ、兵を配置し、鶏鳴(夜明けの時間)に黄巾の陣へ進み、戦いはほ時(夕方)まで続き、ついに皇甫嵩の軍は黄巾の軍を大いにやぶり(皇甫さん、歴戦の勇者とも思えぬ芸の細かい戦い・笑)、張梁を斬り、三万の首をとり、河に逃げた五万人が死に、荷者三万台余りを焼き、ことごとくそれらの女・子どもをとらえ、多くの人々を束縛した。
   皇甫嵩は、張角、張寶、張梁の黄巾三兄弟のうち、一人は撃破!   それも大勝だ。
   残りあと二つの軍、というところで、皇甫嵩は意外なことを知る(※実際はどの段階で知ったか、わからないけど)

   張角は病死していた

   皇甫嵩は遺体になった張角と対面した。
   なんともあっけない対面だった。
   兵乱は終わったとアピールしたかったのか、皇甫嵩はあえて棺をあけ、屍をさらし、張角の首を京師に送った

   光和七年、冬の十月のことだった5)


   総大将ともいうべき、張角(自称「天公将軍」)が亡くなって、これで兵乱が終わったかというと、まだ終わらなかった。
   そう、黄巾三兄弟のうち、張寶(張宝)が残っていた。

   皇甫嵩は鉅鹿郡の太守、馮翊(地名。司隷に属す。京兆尹、左馮翊、右扶風の三つの官名、地名で「三輔」と呼ばれる)出身の郭典とともに鉅鹿郡の下曲陽というところで、張寶の軍を攻めた6)
鉅鹿郡での黄巾戦
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版) 但し、画面上のルートの位置に根拠はありません

   上の地図を見ると、同じ鉅鹿郡でも北の端だし、張角とは別のところに居たということは、やっぱり「残党」なのかな。
   でもこの下曲陽は以前、東中郎将の董卓(字、仲穎)が張角の軍と戦ったところだから実は重要拠点なのかな…
   話、戻して、戦の行く末。    やはり勢いに乗る皇甫嵩の軍。張寶の軍をやぶり、張寶を斬った。十万あまりの首をとり、城の南に京観を築いたとのこと。
   (しかし、さらっと流しているけど、さっきからすごい死者の数・汗)
   光和七年、十一月のこと7)

   にしても豫州潁川郡の波才、汝南郡の彭脱、えん州東郡の卜已、冀州鉅鹿郡の張梁、張寶を連覇するなんて、皇甫嵩、強い!


   今まで、車騎将軍を兼行していた皇甫嵩だけど(<<参照)、正式に左車騎将軍になる。やはり、張角たちの軍をはじめとする黄巾軍を壊滅させたことは誰もが認める大功績だったのだ。
   さらに冀州刺史を領し、槐里侯に封じられ、槐里県と美陽県の土地、合わせて八千戸を食邑(税をもらえる領地)としてもらった(ちなみに、前回の豫州戦では都郷侯。<<参照)。

   ようやく、戦が終了…

 
…と思われたが、実は冀州から遠く南に離れたところ、南陽太守の秦頡朱儁(字、公偉)や孫堅(字、文台)のいる荊州南陽郡で一つの事件がおきる

   南陽太守の秦頡は、つもりつもる怒りから降伏した黄巾の将、韓忠を殺してしまう(<<ここの話の続き)。そりゃ、前太守を殺した黄巾が憎いのはわかるんだけど……

   南陽黄巾の残党は、おのおの次は自分が殺される番と思ったのか、おそれ不安になり、孫夏という人を再び指導者にあげ、宛へ帰り、そこ駐屯する。せっかく、黄巾を降伏させたのに元の木阿弥。

   もちろん、朱儁の軍は急いでこれを攻撃。(というか、やすやすと宛でまた黄巾を集結させてしまうなんて……作戦?)
   孫夏の軍は敗走。そして、西鄂という県(宛の北)にある精山040104-2)に追いつめられ、朱儁の軍にまける。
   ふたたび、一万余りの首が斬られ、これで南陽郡の黄巾は解散することになった。
南陽郡
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版) 但し、画面上のルートや戦マーク(西鄂とケの部分)の位置に根拠はありません

   こうして、黄巾の「神上使」張曼成が南陽郡でことを起こし、南陽太守のちょ貢を殺し、さらに張曼成はちょ貢の代わりに南陽太守に着任した秦頡に殺され、張曼成の代わりに南陽黄巾の大将になった趙弘は朱儁に殺され、さらに趙弘の代わりに南陽黄巾の大将になった韓忠は秦頡に殺され、その後、孫夏が南陽黄巾の大将になったものの敗れ、南陽黄巾の乱は一応の終結を示した(な、長い・汗)。
   光和七年十一月、癸巳の日(21日)のことだった8)

   それと余談。
   三国志の程普の伝に、宛とケで黄巾を討つ、とあるけど(>>参照)、宛というのはこのときの戦いのことなんだろうか。
   この戦いのことだとすると、実はケの方面(宛からみて南方9))も戦場になっていたんだろうか。

   ともあれ、これで黄巾の主要軍は壊滅したことになる。

   ……まだ「黄巾との戦い」編、続く…
(例によって、文台はしばらく出てこないので、お急ぎの方は>>こちら




1)甘陵国の王の話。「定立四年薨、子獻王忠嗣。黄巾賊起、忠為國人所執、既而釋之。靈帝以親親故、詔復忠國。」(「後漢書卷五十五 章帝八王傳第四十五」より)。脚注031004-03)と同じぐらい短い(汗)。書き手としてはドラマがほしい。。。
2)   安平国の王の話(以下、本文のネタバレ)。「靈帝時拜安平相。先是安平王續為張角賊所略、國家贖王得還、朝廷議復其國。燮上奏曰:『續在國無政、為妖賊所虜、守藩不稱、損辱聖朝、不宜復國。』時議者不同、而續竟歸藩。燮以謗毀宗室、輸作左校。未滿歳、王果坐不道被誅、乃拜燮為議郎。京語曰:『父不肯立帝、子不肯立王。』」(「後漢書卷六十三李杜列傳第五十三」より)。本文では紹介しなかったけど、一番最後の「京語」の部分。親子そろってそんな感じなのでしょうかね(汗)
3)   光和七年九月。「(光和七年)九月、安平王續有罪誅、國除。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。ほんと、なんで、安平王だけ誅されるんだろ?
4)   皇甫嵩vs.張梁(本文のネタバレ)。脚注031202-7)の後漢書皇甫嵩伝部分の続き。「嵩與角弟梁戰於廣宗。梁しゅう精勇、嵩不能剋。明日、乃閉營休士、以觀其變。知賊意稍かい、乃潛夜勒兵、鶏鳴馳赴其陳、戰至ほ時、大破之、斬梁、獲首三萬級、赴河死者五萬許人、焚燒車重三萬餘兩、悉虜其婦子、けい獲甚しゅう。角先已病死、乃剖棺戮屍、傳首京師。」(「後漢書卷七十一         皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より)。「赴河死者五萬許人」のところがうまく訳せてない(汗)。張角が病死しているなんてあっけないが、だからこそリアリティを感じてしまう。それにしても万単位で死者がでるなんて……って誇張があるって考えるのが普通なのかな。それにしても芸の細かい勝ち方。
5)   皇甫嵩vs.張梁の行く末の月。脚注3)の続き。「(光和七年)冬十月、皇甫嵩與黄巾賊戰於廣宗、獲張角弟梁。角先死、乃戮其屍。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。さすが、武官のサラブレッド! 勢いに乗ってる。あと、後漢紀だと。「冬十月、皇甫嵩攻張角弟良於廣宗、大破之、斬首數萬級。角先病死、破棺戮尸。拜嵩為車騎將軍、封槐里侯。」(「後漢孝靈皇帝紀中卷第二十四」より)。脚注040104-2)の続き。後漢書と月が同じ。但し、黄巾の将の名前が違う。
6)   皇甫嵩vs.張寶(本文のネタバレ)。脚注4)の続き。「嵩復與鉅鹿太守馮翊郭典攻角弟寶於下曲陽、又斬之。首獲十餘萬人、築京觀於城南。即拜嵩為左車騎將車、領冀州牧、封槐里侯、食槐里・美陽兩縣、合八千戸。」(「後漢書卷七十一         皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より)。ちなみに「京觀」とは、「CD−ROM版   字通」(白川静/著   平凡社/刊   ISBN4-582-63601-2)によると、「戦場の遺棄屍体を塗りこんだアーチ状の門」とのこと……うげっ
7)   皇甫嵩vs.張寶の行く末の月。脚注5)の続き。「(光和七年)十一月、皇甫嵩又破黄巾于下曲陽、斬張角弟寶。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。さすが、武官のサラブレッド! 返す刀で連覇! あと、後漢紀。「十一月、嵩又進兵撃張ェ於下曲陽、斬之。於是黄巾悉破、其餘州所誅、一郡數千人。」(「後漢孝靈皇帝紀中卷第二十四」より)。脚注040104-2)の続き。後漢書と月が同じ。但し、こちらも黄巾の将の名前が違う。
8)   朱儁vs.孫夏の行く末の月。「(光和七年十 一 月)癸巳、朱儁拔宛城、斬黄巾別帥孫夏。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。日付は例によって脚注040104-1)と同じ。
9)   西鄂&ケ。これが県であるってことは後漢書志第二十二郡國四より。位置関係は譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)より。
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