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年号が変わり世代も移り(孫氏からみた三国志27)
040216
<<訪問者(孫氏からみた三国志26)


   光和七年or中平元年、つまり西暦184年の、この年、文台の古巣の下ひ国(徐州、<<参照)では大きな動きがあった。
   下ひ王の「意」という人が亡くなった1)。だけど、子が、つまり後継者が居なかったので、国がなくなり、下ひ郡ができた。
   誅されてなくなった安平国<<参照に比べたら地味なんだけど(不謹慎)。


   年があけて中平二年(西暦185年)。
   まだ、朱儁(字、公偉)や孫堅(字、文台)は荊州の南陽郡にいたようだ。戦後処理に追われていたのかねぇ。

   そこに京師から使者がきた。その使者は節(皇帝からの割り符)を携えている。
   節は朱儁にさずけられるもの。

   朱儁は右車騎将軍となる2)

   皇甫嵩(字、義真)がすでに左車騎将軍になっているから、これで左右揃い踏みだ。ちなみに車騎将軍は将軍の中で、大将軍(当時、何進)、驃騎将軍に続く三番目の地位とのこと3)

   また、朱儁は文台の手柄を書状で報告しているようで、おそらくこのときに文台は別部司馬になっている11)。もとの佐軍司馬から出世しているかどうか判別しにくいが、非常時(「黄巾の乱」時)の役職が常時(平和時)でも似たような役職(司馬)というのは大きい。それと言葉から勝手に著者がイメージするに、佐軍司馬が「軍」を補「佐」するような司馬という印象がある。それに対し、別部司馬が「別部」隊の司馬だ4)

   ともかく、朱儁は軍を整え、京師へと帰った。

   朱儁は京師で「光祿大夫」となる。「光祿大夫」は比二千石の俸禄で大夫や議郎を仕切っていて、あと、国の跡継ぎも仕切るらしい5)。右車騎将軍が軍事的な役職だったけど、こちらはどうやら政治的な役職らしい。
   そして食邑が五千、ふえ、錢塘侯に封じられ、特進の位に加えられる(ちなみに潁川戦の勝利後には西郷侯になっている)。
   この「特進」というのは功業仁徳のあるものに授けられる位で、車騎将軍に次ぐらしい(ここらへんあっているのかな?)12)

   皇甫嵩と並ぶ勢いで出世した朱儁だけど、思わぬ訃報が舞い込んでくる。

   朱儁の母親が亡くなった、とのこと。

   朱儁は若いときから母親と二人暮らしだったので(<<参照)、よほどショックが大きかったことだろう。

   その喪に服すため、朱儁は官を去ることとなる。


   黄巾を討伐する方にはそういう話があったんだけど、黄巾の方はというと、根こそぎ討伐されたんではなくて、地域を変え、世代交代が行われていたようだ。

   冀州の常山国真定県6)というところにちょ燕という人がいた7)
   光和七年の三月ごろ、黄巾が兵をあげたときに、このちょ燕は少年を集め、群盗(強盗団、ちびっ子ギャング?←違う!)にした。下の地図を見てもらえばわかるように、下曲陽に近い。下曲陽といえば、董卓(字、仲穎)軍対張角軍(<<参照)や、皇甫嵩(字、義真)軍対張寶(<<参照)の戦場となった県。だから、そういった黄巾本隊の影響をかなり受けていたんだろう。
   そして、ちょ燕の群盗は、山の沢にいて、転戦し、真定県にもどるころには、その集団は一万人あまりになっていた。もう、いわば一つの「大方」(<<参照)ともいうべき規模だ。
   一方、そこから東の冀州の博陵郡(延熹元年、西暦158年六月に中山国から分立。下の地図では中山国に属したまま)8)では張牛角という人が兵をあつめており、将兵従事と自称し、ちょ燕と行動を共にしていた。ちょ燕は張牛角を帥(大将)とし、共に鉅鹿郡のえい陶県9)というところを攻めた。ちなみにこの時期は、後漢書本紀によると中平二年の二月から四月の間らしい。それによると張牛角たち十あまりのグループが侵入し略奪したとのこと9)
   黄巾の乱がすでに平定されたとし年号を中平と改めたのだから(<<参照)、張牛角はいわば「黄巾第二世代」ともいうべき勢力だろう。
牛角と燕
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)但し、画面上のルートの位置に根拠はありません

   その戦闘中、張牛角は矢にあたる。張牛角は傷をおい、その死の間際に、ちょ燕に仕えるよう、配下たちに命令する。「必ずちょ燕を帥(大将)にするんだ」と。その言葉どおり、張牛角が死ぬと、その配下はちょ燕に仕えた。そのせいか、ちょ燕は姓を変え、「張」とした。

   張燕の誕生だ

   張燕は人より強く素早いため、軍の中では「飛燕」と呼ばれていた。彼らの軍は幅広く居を構えていて、常山郡、趙郡、中山国、上黨郡、河内郡などの山や谷で互いに通じており、その小帥(小規模な将)に孫軽や王當などがいて、それぞれの集まりは張燕に従っており、その集まりは全部で百万人に達し、それらを総称して、「黒山」と呼んでいた。

   そういった感じで、いろんな地域で、後に続く黄巾が出てきていたようだ。
   後漢書や九州春秋ではそれらの集団の名前もしくは指導者の名前が列挙されている10)

   黒山、黄龍、白波、左校、郭大賢、于てい根、青牛角、張白騎、劉石、左髭丈八、平漢、大計、司隸、掾哉、雷公、浮雲、飛燕、白雀、楊鳳、于毒、五鹿、李大目、白繞、畦固、苦しゅう

   で、さらにそれを補足するみたいな文があって、大きな声の者は「雷公」(雷のような大きな声?)と呼ばれ、白馬に乗る者を「張白騎」とし、身軽な者を「飛燕」と言い(張燕のこと?)、多くの髭のある者を「于てい根」と号し、大きな眼の者を「大目」とし、こういったようにそれぞれ称号があったということ。大きな集団だと2、3万人、小さな集団だと6、7千人ということ。
   こういうのを見ると、「百万」人という三国志の記述を信じるなら、「黒山」(張燕の集団)はこれらのいわば、「第二世代黄巾」の中でもトップクラスだといえる……というか、「第一世代黄巾」の「三十六方」(<<参照)を凌駕している(汗)

   詳しい期間はわからないけど、皇帝は「黒山」を征伐することができず、河北(河水の北)の諸郡は被害をこうむっていた。


   というわけで、張角らが討たれたといっても、黄巾自体、場所と世代をかえ、しぶとく生き残っていた。

   それらの「第二世代黄巾」は「孫氏からみた三国志」でこれから先、少しは紹介するだろうけど、次回以降、話の本筋は黄巾から離れ、前々回、紹介した涼州の乱にうつる。
(というわけで、「黄巾との戦い」編、終わり




1)   下ひ王の「意」という人が亡くなった話。「(光和七年or中平元年)是歳、下王意薨、無子、國除。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。あっさりと国がなくなるってのはびびりるな……当時は国を減らしがっていた方だっけ?
2)   朱儁、右車騎将軍となる(本文およびそれ以降のネタバレ含む)。脚注040104-2)の後漢書朱儁伝の続き。「明年春、遣使者持節拜儁右車騎將軍、振旅還京師、以為光祿大夫、摎W五千、更封錢塘侯、加位特進。以母喪去官、起家、為將作大匠、轉少府・太僕。」(「後漢書卷七十一   皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より)。喪に服した関係で、これ以降、朱儁の歴史上の空白期間が来る。
3)   車騎将軍の地位。「將軍、不常置。本注曰:掌征伐背叛。比公者四:第一大將軍、次驃騎將軍、次車騎將軍、次衛將軍。又有前・後・左・右將軍。」(「後漢書志第二十四   百官一」より)。というわけで、大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、前将軍、後将軍、左将軍、右将軍と続く。
4)   別部司馬のこと。前後関係をあまり見ずに引用している。「其別營領屬為別部司馬、其兵多少各隨時宜。」(「後漢書志第二十四   百官一」より)。
5)   光祿大夫のこと。「光祿大夫、比二千石。本注曰:無員。凡大夫・議皆掌顧問應對、無常事、唯詔令所使。凡諸國嗣之喪、則光祿大夫掌弔。」(「後漢書志第二十五   百官二」より)。
6)   真定県のこと。例によって「後漢書志第二十   郡國二」より。そこの記述によると、昔、真定国ってのがあったそうだけど、建武十三年(西暦37年)に県になったとのこと。
7)   ちょ燕について(本文のネタバレ)。実は伝がたてられている。「張燕、常山真定人也、本姓ちょ。黄巾起、燕合聚少年為群盜、在山澤間轉攻、還真定、衆萬餘人。博陵張牛角亦起衆、自號將兵從事、與燕合。燕推牛角為帥、倶攻えい陶。牛角為飛矢所中。被創且死、令衆奉燕、告曰:「必以燕為帥。」牛角死、衆奉燕、故改姓張。燕剽捍捷速過人、故軍中號曰飛燕。其後人衆寢廣、常山・趙郡・中山・上黨・河内諸山谷皆相通、其小帥孫輕・王當等、各以部衆從燕、衆至百萬、號曰K山。靈帝不能征、河北諸郡被其害。」(「三國志卷八   魏書八   二公孫陶四張傳第八」より)
8)   博陵郡のこと。「(延熹元年六月)丙戌、分中山置博陵郡、以奉孝崇皇園陵。」(「後漢書卷七孝桓帝紀第七」より)。例の後漢書郡国志に博陵ないなぁと思って、晋書とか調べてた。そしたら、意外なところにあった。そう、後漢書本紀にね。
9)   張牛角の侵略。「(中平二年二月or三月)K山賊張牛角等十餘輩並起、所在寇鈔。」(「後漢書卷七孝桓帝紀第七」より)。でも、これがえい陶県への侵略と同時期かどうかわかんないんだけど。
10)   黄巾の類の名称の列挙。まず後漢書朱儁伝から。
「自黄巾賊後・復有K山・黄龍・白波・左校・郭大賢・于てい根・青牛角・張白騎・劉石・左髭丈八・平漢・大計・司隸・掾哉・雷公・浮雲・飛燕・白雀・楊鳳・于毒・五鹿・李大目・白繞・畦固・苦しゅう之徒、並起山谷間、不可勝數。其大聲者稱雷公、騎白馬者為張白騎、輕便者言飛燕、多髭者號于てい根、大眼者為大目、如此稱號、各有所因。大者二三萬、小者六七千。
賊帥常山人張燕、輕勇きょう捷、故軍中號曰飛燕。善得士卒心、乃與中山・常山・趙郡・上黨・河内諸山谷寇賊更相交通、衆至百萬、號曰K山賊。」(「後漢書卷七十一   皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より)。
   次、三国志張燕伝の注に引く九州春秋より。
「張角之反也、K山・白波・黄龍、左校・牛角・五鹿・羝根・苦しゅう・劉石・平漢・大洪・司隸・緑城・羅市・雷公・浮雲・飛燕・白爵・楊鳳・于毒等各起兵、大者二三萬、小者不減數千。靈帝不能討、乃遣使拜楊鳳為K山校尉、領諸山賊、得舉孝廉計吏。後遂彌漫、不可復數。」(「三國志卷八   魏書八   二公孫陶四張傳第八」の注に引く「九州春秋」より)
いまいち、集団名と個人名の区別がつかないや。
11)   別部司馬・孫文台。脚注040104-3)の続き。「儁具以状聞上、拜堅別部司馬。」(「三國志卷四十六   呉書一   孫破虜討逆傳弟一」より)。どの時期まで別部司馬だったのかいまいちわからんなぁ
12)   特進。「中興以來、唯以功コ賜位特進者、次車騎將軍(「後漢書志第二十八   百官五」より)」
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