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西方からの進軍(孫氏からみた三国志28)
040229
<<年号が変わり世代も移り(孫氏からみた三国志27)


   新しいシリーズの始まりなんだけど、実は以前の回から引きずっている話。
   今回は<<「西方から新たな脅威」(孫氏からみた三国志25)の続き。
   というわけで時代はまだ光和七年(西暦184年)。

   黄巾の乱はそれだけでもやっかいなのに、民衆たちによる乱(<<参考)、県丞による乱(<<参考)、大小様々な乱を引き起こしていたけど、その中でもより大きなものになろうとしていたのが、北宮伯玉らによる西方の乱。その西方の乱もまた新たな乱を引き起こしていたようだ。

   金城郡金城県出身の麹勝という人が武威郡の祖厲県の長、劉儁を襲い殺してしまう1)
   やっぱり、北宮伯玉率いる湟中義從胡や先零羌の勢力に挟まれていたし(かなり下の方の地図参照)、麹勝の出身地は反乱軍に占拠されるし、えらく影響を受けたのかな、と想像してしまう。

   このとき、県吏(県の役人)の中に、事件の起こった県出身の張繍という人がいた。
   彼はこっそりうかがって、麹勝を殺す。みごと、主君(というか上官)の仇を討ったのだった。
   そんな張繍の行動を県の人々だけじゃなく武威郡の人々は義の行動とした。

   その話には続きがあって、張繍は少年たちを招き、邑(むら)の豪傑になったそうな。

   まぁ、こういうふうに乱がすぐおさまるのはまれなんだろう。
   乱の主流はまだ拡大しているようだ。

   獻帝春秋によると金城郡の太守の陳懿が王國たち(後漢書蓋勳伝では邊章たち)に殺されたというのは、以前、書いた(<<参照)。後漢書蓋勳伝によると2)、そのとき、実は蓋勳(字、元固)は涼州刺史の左昌にこれを助けるようにすすめたが、左昌はそれに従わなかった

   その流れで、今度は左昌たちが邊章たちに攻められることになる。あ、こう書くと語弊があるんだけど、後漢書蓋勳伝ではもう「邊章たち」になっていて、「王國」の名は出ていない。もうそろそろ、邊章が反乱軍たちに担がれ名前が知れ渡っている時期かなぁ。

   ともかく乱の主流は太守が殺された金城郡より東の漢陽郡に移っている。

   左昌たちは邊章たちの軍に漢陽郡の冀県というところで包囲されることになる。ちなみに冀県は漢陽郡の郡都3)。左昌は怖がり、阿陽県にいる蓋勳の軍を呼ぼうと思い、檄(緊急の軍書)をとばす。蓋勳は従事の辛曾という人と孔常という人と一緒に居て、そこへ左昌の檄(緊急の軍書)が届く。だけど、辛曾は疑い、その檄を承知しないでいた。
   そのため、蓋勳は怒っていう。
「昔、莊賈の後期に、穰苴は剣をふるった。今の従事(辛曾のこと?)は、どこが古の監軍(軍の目付)と違う?」
 
   莊賈とは史記に出てくるような昔の人4)。春秋時代の人。彼は斉の景公の寵臣。景公は司馬穰苴(春秋時代の兵法家らしい)を将にし、寵臣の莊賈を監軍という役目につける。穰苴は明日の昼に会合を開くと約束したんだけど、莊賈はもとよりおごって分が過ぎていて、夕方にきた。穰苴は軍正(軍律の官)を呼んで、訊いた。
「軍法では遅れたものをどうする?」
そうすると
「斬刑にあたります」
と答える。穰苴は軍法の通り、莊賈を斬った。主君の寵臣までもあっさりと斬るだなんて、軍法に忠実なところをみせたせいか、三軍をしたがえたそうな。
   ※ここらへんの故事の説明はいい加減なので、興味のある方は別のサイトをあたってくだされ。

   つまり、蓋勳は左昌の檄にすぐ従わないでどうする?   てめぇ、昔でいうところの監軍だろ?   って言いたかったんだろう。
   辛曾はおそれて、檄に従った
   蓋勳はすぐに兵をひきい、左昌を助けに行く。ちょっと前に左昌から蓋勳は意地悪されたのに健気だねぇー(単にいじめられたのを気付かなかっただけだったりして…)

   到着すると、蓋勳の軍は邊章たちの軍を攻め、反逆の罪を責めた。そう邊章たちは元々、官の人間だった。
   邊章たちみんなが蓋勳に言う
「左使君(刺史の左昌のこと。刺史の尊称が「使君」)がもし、兵をもってわれらにあたるというあなたの言葉に早く従っていれば、大いに我ら、改心したでしょう。今、罪はすでに重く、降伏できません」
   そういった後、邊章たちは泣き恥じて5)包囲をとき、その場を去った。蓋勳の訴えは彼らの心に届いたようだ。
   いつ頃の話かはわからないけど、この後、左昌は軍への調達を盗んだこと(<<参照)でやめさせられ、その代わりに扶風郡出身の宋梟が刺史となった。誰か告げ口したのかなぁ(笑)

   蓋勳はこうやって、邊章たちの軍をしのいだんだけど、実は邊章たちの軍はそれぞれ引き返したわけじゃなかった。


   邊章たちの軍の行方を追う前に、その他、涼州情報をお一つ。

   黄巾討伐のとき、傅燮(字、南容)が中常侍の趙忠のせいで、諸侯に封じられなかったということは以前、書いた(<<参照)。実は黄巾討伐が一段落した後でも、それは変わらず、皇甫嵩の元で黄巾の三帥を斬ったのにも関わらず(<<参照諸侯に封じられなかった11)
   そして、いつの時期か詳しくはわからないけど、南容は涼州安定郡の都尉になる(ちなみに安定郡は皇甫嵩の出身郡)。郡の都尉は俸禄(給料)が二千石で主な仕事は盗賊の取り締まりとのこと12)。涼州安定郡といえば、下の地図を見てもらえばわかるように、乱が起こっている郡に隣接しているので、また変な入れ知恵を使った趙忠に意地悪されたのかなぁ、なんて想像力を駆使してしまう(笑)


   地方はこうだったんだけど、このとき、中央は何していたかというと…

   黄巾討伐の英雄、皇甫嵩(字、義真)が動き始めていた6)。ちなみにすでに暦は中平二年(西暦185年)になっている。
   中央はこの侵攻を地方の軍事だけですましていたわけじゃなく、詔(皇帝の命令)により皇甫嵩を長安へ派遣した。陵(陵墓)をまもらせるためだ。この長安はらく陽以前に今で言う、京兆と呼ばれる首都だったので、陵が多いんだろうかね(←すみません、適当なこと、書いてます)。皇甫嵩の軍は長安のまわりの地域を巡回し、麹勝のときのように、別の乱が起こらないようにか、その地域をしずめ守っていた。
   韋昭撰の呉書をあわせみると7)、この皇甫嵩の配下には、陶謙(字、恭祖)という人がいたようだ。但し、この史書では皇甫嵩の官職が征西将軍となっているが、他の史書では車騎将軍なので、まったく見当違いかもしれない。
   この陶謙、この年、54歳8)で、幽州刺史もしくは議郎をしていた。
   皇甫嵩が武将を中央へ要請したときに白羽の矢がたったのがこの陶謙。招いて揚武都尉にする。

   乱の起こった涼州と司隷は西と東に位置し接している(以下、下の地図参照)。司隷の中でも涼州と接している西の地域を「三輔」という。何が「三」なのかというと、京兆尹、左馮翊、右扶風の三つ。行政区域は郡に相当する。はじめの京兆尹に「長安」が含まれるってわけ。
   長安のまわりの治安は皇甫嵩がいたから大丈夫だったんだけど、涼州は前述のように、乱が東へ東へ拡大されていた。
三輔へ侵入
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)但し、画面上のルートの位置および右扶風の戦マークに根拠はありません


   ついに中平二年(西暦185年)二月、羌胡が三輔へ侵入する9)

   戦の詳細はわからないが、皇甫嵩や陶謙の軍はこれを大いに破ったようだ7)6)10)


   この前後で、少しでも兵力を増やそうとしたのか、皇甫嵩は烏桓という異民族の兵、三千人を呼ぶよう、中央へ要請している10)
   この戦いは中央の政治を巻き込み、まだまだ続く。




1)   祖厲県の事件(本文のネタバレ含む)。張繍っていう人は三国志ファンの間では結構、有名人。その史書デビューともいうべき出来事。ただ、この後、「孫氏からみた三国志」で張繍が登場するかどうか未定。「張繍、武威祖厲人、驃騎將軍濟族子也。邊章・韓遂為亂涼州、金城麹勝襲殺祖厲長劉儁。繍為縣吏、間伺殺勝、郡内義之。遂招合少年、為邑中豪傑。」(「三國志卷八   魏書八   二公孫陶四張傳第八」より)。
2)   蓋勳伝の邊章のところ(本文のネタバレ含む)。左昌と蓋勳の上官&部下コント後編……じゃなくて、上官&部下ドラマ後編。私の無知さのせいか、ホントに蓋勳についてはノーマークだったので、今回、新たな発見して、嬉しい。ちなみに「宋梟」は続漢書では「宋泉」とのこと。「邊章等遂攻金城、殺郡守陳懿、勳勸昌救之、不從。邊章等進圍昌於冀、昌懼而召勳。勳初與從事辛曾・孔常倶屯阿陽、及昌檄到、曾等疑不肯赴。勳怒曰:『昔莊賈後期、穰苴奮劍。今之從事、豈重於古之監軍哉!』曾等懼而從之。勳即率兵救昌。到、乃誚讓章等、責以背叛之罪。皆曰:『左使君若早從君言、以兵臨我、庶可自改。今罪已重、不得降也。』乃解圍而去。昌坐斷盜徴、以扶風宋梟代之。梟患多寇叛、謂勳曰:『涼州寡於學術、故る致反暴。今欲多寫孝經、令家家習之、庶或使人知義。』勳諫曰:『昔太公封齊、崔杼殺君;伯禽侯魯、慶父簒位。此二國豈乏學者?今不急靜難之術、遽為非常之事、既足結怨一州、又當取笑朝廷、勳不知其可也。』梟不從、遂奏行之。果被詔書詰責、坐以虚慢徴。」(「後漢書卷五十八   虞傅蓋臧列傳第四十八」より)
3)   地理関連。えー例によって「後漢書志第二十三   郡國五」を参考にしている。県の中で最初にでてくるのが郡都と思っているけど、違っていたら、ここの文は成り立たない。
4)   司馬穰苴の話。本文にしめした元ネタは史記にある。清岡はその部分をちゃんと読んでいないので間違っているかも(汗)。「司馬穰苴者、田完之苗裔也。齊景公時、晉伐阿・甄、而燕侵河上、齊師敗績。景公患之。晏嬰乃薦田穰苴曰:『穰苴雖田氏庶げつ、然其人文能附衆、武能威敵、願君試之。』景公召穰苴、與語兵事、大説之、以為將軍、將兵扞燕晉之師。穰苴曰:『臣素卑賤、君擢之閭伍之中、加之大夫之上、士卒未附、百姓不信、人微權輕、願得君之寵臣、國之所尊、以監軍、乃可。』於是景公許之、使莊賈往。穰苴既辭、與莊賈約曰:『旦日日中會於軍門。』穰苴先馳至軍、立表下漏待賈。賈素驕貴、以為將己之軍而己為監、不甚急;親戚左右送之、留飲。日中而賈不至。穰苴則仆表決漏、入、行軍勒兵、申明約束。約束既定、夕時、莊賈乃至。穰苴曰:『何後期為?』賈謝曰:『不佞大夫親戚送之、故留。』穰苴曰:『將受命之日則忘其家、臨軍約束則忘其親、援枹鼓之急則忘其身。今敵國深侵、邦内騷動、士卒暴露於境、君寢不安席、食不甘味、百姓之命皆懸於君、何謂相送乎!』召軍正問曰:『軍法期而後至者云何?』對曰:『當斬。』莊賈懼、使人馳報景公、請救。既往、未及反、於是遂斬莊賈以徇三軍。三軍之士皆振慄。久之、景公遣使者持節赦賈、馳入軍中。穰苴曰:『將在軍、君令有所不受。』問軍正曰:『馳三軍法何?』正曰:『當斬。』使者大懼。穰苴曰:『君之使不可殺之。』乃斬其僕、車之左ふ、馬之左驂、以徇三軍。」(「史記卷六十四   司馬穰苴列傳第四」より)。
5)   「泣き恥じて」の部分。他は後漢書蓋勳伝が元ネタなんだけど、ここは後漢紀から。だって、単に包囲を解いて、去るより「泣き恥じて」って入れた方がよりドラマチックだもん。「皆泣涕而去。」(「後漢孝獻皇帝紀卷第二十六」より)。
6)   皇甫嵩参戦(本文のネタバレあり)。「會邊章・韓遂作亂隴右、明年春、詔嵩迴鎮長安、以衛園陵。章等遂復入寇三輔、使嵩因討之。」(「後漢書卷七十一   皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より)
7)   陶謙登場(本文のネタバレあり)。陶謙っていう人は三国志ファンの間では有名人。張繍と違ってこの後も「孫氏からみた三国志」で何度か出てくる予定。「會西羌寇邊、皇甫嵩為征西將軍、表請武將。召拜謙揚武都尉、與嵩征羌、大破之。」(「三國志卷八   魏書八   二公孫陶四張傳第八」の注に引く韋昭撰「呉書」より)
8)   54歳(これから先のネタバレも含む)。よくある死亡年と歳から逆算する方法。「(興平元年)是歳、謙病死。」(「三國志卷八   魏書八   二公孫陶四張傳第八」より)で死亡年(西暦194年)がわかり、「謙死時、年六十三」(「三國志卷八   魏書八   二公孫陶四張傳第八」の注に引く韋昭撰「呉書」より)で歳がわかるので、ここから西暦185年の歳をわりだす。しかし、韋昭撰「呉書」は何かしら載っているなぁ
9)   羌胡が三輔へ侵入する話。ここらへん、後漢書を読むと時期が曖昧だったり首謀者がごっちゃになってたりしてたので(もしくは私の読解力がない・汗)、後漢紀を軸に話をすすめている。「(中平二年二月)羌胡寇三輔、車騎將軍皇甫嵩征之。」(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)
10)   烏桓兵、三千人を要請。なんか、話が長そうだったのでちゃんと読まず次回まわし(汗)。「中平二年、漢陽賊邊章・韓遂與羌胡為寇、東侵三輔、時遣車騎將軍皇甫嵩西討之。嵩請發烏桓三千人。」(「後漢書卷四十八   楊李てき應霍爰徐列傳第三十八」より)
11)   (3月4日追加。本文の該当部分も同じ)南容の受難、そして新生活。本文では話をごっちゃにしたけど、黄巾討伐の途中で南容のこの話が出たのは後漢紀で(<<参照)、張角三兄弟が倒されてからこの話が出てきたのが後漢書傅燮伝。「及破張角、燮功多當封、忠訴譖之、靈帝猶識燮言、得不加罪、竟亦不封、以為安定都尉。」(「後漢書卷五十八   虞傅蓋臧列傳第四十八」より)。ちなみに安定都尉になったってのは後漢紀では書いてない。
12)   (3月4日追加。本文の該当部分も同じ)都尉…というか郡都尉について。各郡に都尉は一人か二人(東部、西部とか)いるってイメージがあったんだけど、「中興建武六年、省諸郡都尉、并職太守、無都試之役。省關都尉、唯邊郡往往置都尉及屬國都尉、稍有分縣、治民比郡。」(「後漢書志第二十八 百官五」より。軽く要点を訳すと「中興建武六年に郡都尉をなくし、太守に兼職させて、辺境の郡や屬國都尉を残した」てな感じになるのかな)を読むと、要所だけ都尉をもうけているのかなぁ()。安定郡は辺境ちゃー辺境だけど。東部こと、張紘は「東部」と称されるけど、これは会稽東部都尉からきている。会稽も辺境ちゃー辺境だけど……。あと、本職は「中尉一人、比二千石。本注曰:職如郡都尉、主盜賊。」(「後漢書志第二十八 百官五」より)から。直接的な表現は私の目には見あたらなかった(節穴だったりして・笑)。給料は「校尉・中郎將・諸郡都尉・諸國行相・中尉・内史・中護軍・司直秩皆二千石」(後漢書志第三十 輿服下」の注に引く「東觀書」より)より。太守に匹敵するんだね。
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