<<
>>
斬司徒、天下乃安。(孫氏からみた三国志30)
040725
<<京師でゴタゴタと(孫氏からみた三国志29)


   「孫氏からみた三国志」では、傅燮(字、南容)が師事していた人としか紹介していないので(<<参照)、実感がわかないだろうけど、重要人物の元太尉劉ェ(字、文饒)が亡くなったとのこと9)
   二月丁卯の日(28日)のことだった。
   亡くなった劉ェには車騎将軍040216-3)の官職が贈られ、昭烈侯と謚(おくりな)が与えられた。

   太尉とは、臣下としての最高位の三人のうちの一人、つまり三公の一人なんだけど(と書きつつ、劉ェは元太尉で、当時の太尉はケ盛。2004年7月25日追記)、もう一人の司徒にも異変が起こる。

   袁隗という人が司徒なんだけど、長いこと病気だったので、辞めさせられる9)(ここらへんの言い回しに何か裏があるかもしれないけど、よくわからない)。

   その代わりとして三月に廷尉の崔烈が司徒となる9)
   後漢書によると、実はこの崔烈は司徒という官位を五百万銭で買ったらしい10)

   少し時代をさかのぼる。
   後漢書本紀によると皇帝が官を売ったのは光和元年(西暦178年)とのこと11)。このときは關内侯から虎賁・羽林まであって、公が千万銭、卿が五百万銭、二千石で二千銭、四百石で四百銭といった有様。
   後漢書の崔寔伝によると、鴻都門(宮城の門の一つ)を開き、立て札で官位や爵位を売っていて、公卿や州郡の官位から黄綬(四百石、三百石、二百石の官位12))まであって、それぞれ(値段に?)差があった。
   金持ちが先にお金を入れ、貧乏人が官位を得ようとすると後で倍支払っていた。そして皇帝は常侍(侍従者。宦官?)や乳母を使ってみずからやりとりをしていた。。
   それより過去に官位を買って三公に就いた人がいたものの、それらは買う以前に功績も名誉もあった人だ。だけど、先にお金を支払って、後でその官位になるといったようだった。
   崔烈の場合、このころかいつの頃かわかんないけど、乳母が五百万の銭を支払い、中平二年三月に司徒になったとのこと。

   崔烈が司徒に拝受する日に、皇帝は軒先にいて、百官がことごとく集まっていた。
   皇帝は親しい者にかえりみて言う。
「もう少し粘らなかったのが残念だ。一千万銭にもできた」

   なにもそんなときに商魂たくましいこと言わなくても良いのにって感じのトホホ発言。
   だけどこれだけではとまらない。

   程夫人13)という人がかたわらでそれに応じる。
「崔公(崔烈のこと)は冀州の名士なのに、どうして官位を買うのを願いましたでしょうか?   自分を頼り正そうとし、それなのに美しさを知らないとは」

   と崔烈は追い打ちをかけられたように蔑まされた。

   これで崔烈の名声が衰え滅ぶ(これ以下、どの時期だかわからないエピソード)。
   しばらく不安だったが、落ち着いて息子の崔鈞に訊く。
「私は三公であるが、議論する人にとってどう考えられているんだろうか?」

   崔鈞はいう。
「大人(父上)には若くしてすぐれた誉れがあり、九卿や太守を歴任しているのに、論者はそれをいわず、三公になるのは道理がないとしてます。そのため、今、その官位になったのは天下が失望しています」

   崔烈はいう。
「どうしてそうなんだ?」

   崔鈞はいう。
「論者はその銅臭(金で官位を買ったこと)が嫌いなのです」

   崔烈は怒って、杖を挙げ崔鈞を撃つ。崔鈞はそのとき虎賁中郎将で武弁(武官の冠)をかつ尾(やまどりの尾)をのせていて、うろたえ退く。

   冠云々の記述はよくわからないけど、とにかく息子にはっきりと言われたことで崔烈は怒って思わず手を出してしまう。今だったらDVとか言われそうだね。

   崔烈はののしっていう。
「父が叩くとしりぞくのが、親孝行か?」

   子どもだったら甘んじて受けろと言わんばかりの言いぐさだ。

   崔鈞はいう。
「舜は父に対し、小さい杖なら受け、大きい杖ならしりぞくので、親不孝ではありません」

   現代の我々にはわかりにくい舜帝の故事を持ち出したんだけど、とにかくこの言葉は効果的だったようだ。
   崔烈は自らを恥じ、叩くのをやめたそうな。

   崔烈が官を買ったことはどうやら家庭でも政界でも物議があったようなんだけど、官職を買った人は崔烈だけじゃなく、張温(字、伯慎040104-4)という人もそうだった。
   何を買ったかというと、これまた三公の一つ、司空の官位。一年前の光和七年四月にその官位に就いている14)。買ったのはそれ以前だろう。

   覚えている方はいると思うけど、張温と言えば、黄巾の乱のおり、朱儁を帰還させようとする動きを止めた人(<<参考)。彼も官を買う以前から功績も名誉もあった。

   崔烈のエピソードをみると、張温にとっても官位を買うということはイメージダウンだったんだろうな。

   崔烈と張温は後々、歴史の中心人物として触れていくんだけど、その前に少し西方の乱の続きに触れていく。


   暦は中平二年三月。一ヶ月ほど前に羌胡vs.皇甫嵩の戦いがあって、今回は北宮伯玉邊章韓遂の軍が数万騎を率い、三輔(この地名に関しては<<ここを参照)に侵入し、園陵(みささぎ、天子の墓)へ迫り、宦官を討つようせまり名をあげようとした1)
   そういえば、以前、韓約だったころに韓遂が京師に行って、大将軍の何進(字、遂高)に閹人(宦官)たちを誅するように言ったんだっけ。今は羌胡の側についているとはいえ、主張は一貫しているようだ(その話は<<ここを参照)。
 
   そんな要求をのむわけはなく、皇帝は董卓(字、仲穎)を中郎将にし、その副将として左車騎将軍の皇甫嵩(字、義真)をつけた1)
   董卓といえば、先の黄巾軍との戦いで、戦勝をあげられなかった人物でこの抜擢は変な感じがする(その話は<<ここを参照)。ただ、董卓の生い立ちを追ってみると、どうやら若い頃、羌族の中で行き来しており、ほとんどの豪帥(旗頭)と通じていたことから、そこらへんを買われていたのかもしれない。対羌人の専門家というか。
   しかも歴戦の勇者、皇甫嵩を従えているので、屈強の体制だといえる。
園陵へ迫る
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)但し、画面上のルートの位置および右扶風の戦マークに根拠はありません


   前線から再び後方、京師へ。
   実は、いつのころかわからないけど、涼州安定郡の都尉になっていた傅燮(字、南容)は病気を理由にやめさせられていたようで(ここらへん、勘ぐってしまうが)、そのとき、京師で議郎をやっていた2)
   京師では涼州からの羌胡の侵攻により、役務や物資を天下から調達するのにキリがなかった。前回、司徒になった崔烈はそんな涼州をすてたがっていた
   そんなことで皇帝から公卿百官が集うよう、命令が下った。もちろん、議郎の傅燮もそれに参加していた。
   司徒の崔烈は先の考え、つまりに涼州を棄てることに固執していた。官位を買いイメージダウンしたからといっても崔烈の発言力はまだまだ強いものだったに違いない。
   そんな中、傅燮は激しい言葉で言う。
「司徒を斬れ。そうすれば天下はおさまる」

   司徒といえば前回、触れたように三公の一人。臣下の最高位の三人のうちの一人。それに対し、いくら天下のためとはいえ、「斬れ」だなんてかなりの暴言だ。それに反応したのは尚書郎の楊贊という人。楊贊は傅燮が大臣(崔烈)を多くの前ではずかしめたということを皇帝に報告した。そのことに関し、皇帝は傅燮に問う(今までだったらいきなり怒り出すってパターンもあったけど)。
   傅燮はこたえる。
「昔、(匈奴の)冒頓が反逆しました。 樊かいは上将になり言うに、『十万の衆をくだされば、匈奴の中を暴れ回ってきましょう』とのことでした。樊かいは憤り気負い、自ら励まし、未だ、臣下の道を失わず、道理と不道理の計をかえりみました。季布はそれでもなお『樊かいを斬るべきです』と言いました。当時の朝廷はこれを採用しました。今、涼州は天下の守りの要(かなめ)であり、国家の守りでもあります。堯舜のときに禹貢がはじまり、殷周の世列が侯伯となりました。高祖は海内(てんか)を平定し、それとは別にれい商に隴右を平定させました。世宗(漢の武帝)は新しい境地を拓き、四郡を置き、議者は匈奴の右の肘を断ったと考えました。今、牧御(州の長官の意?)は和を失い、一つの州の反逆を招き、海内(てんか)を乱し騒がせ、陛下は臥し安らかに眠れません。崔烈を宰相とすると、国を治めることに思い入れがないため、それを滅ぼす策を考え、すなわち、一辺一万里の土地を断ち切ろうと望み、私はひそかにとまどいました。左前の衣の外族はその地を得て、数世代にもわたりわずらいになるでしょう。今、堅固な鎧や鋭利な武器をつけた気節のある人を使い、姦雄はこれに乗じ乱をなし、これは社稷(国家)の深い憂いです。その上、涼州を無くせば、つまり三輔の危機であり、三輔の危機はつまり京都(みやこ)に至るでしょう。もし崔烈がこの憂いを知らなければ、それは最大の弊害です。捨てることを知っていれば、それは忠義のないことです。これをすえることにより、両者どちらかが、崔烈に必ずあるということです」

   毎度、故事が出てきてわかりにくいんだけど、これは漢の王朝ができたばかりのころの話(西暦190年ぐらい?)。史記によると3)、匈奴の王ともいうべき單于の冒頓という人が書物で呂后(漢の高祖の妻、事実上政権を握っていたそうな)を汚した。呂后は怒って、諸将を集め、会議を開いた。その中で上将軍の樊かいは「私に十万の衆をくだされば匈奴の中を暴れ回ってきましょう」と言いそれが採用された。そのとき、季布という人が「樊かいを斬るべきです。高帝(漢の高祖)は兵四十万余りの衆を率いて平城で苦しんだのに、今、樊かいは何ゆえ十万の衆で匈奴の中を暴れ回るなんて、面前で欺くのでしょうか!   秦は胡族とことをかまえたとき、陳勝らが蜂起しました(それが一因で秦が滅んだ)。今、切り傷はまだいえないのに(国内が疲弊している)、樊かいがこび、天下を揺れ動かそうとしてます」と言った。このとき、御殿にいるひとは皆、おそれ、 太后(呂后)は朝廷から出ていったけど、匈奴を撃つことは再び議題にでなかったとのこと。
   話を戻して、傅燮はこういった季布の故事を持ち出し、一人のある意見に従うと、国家自体、危うい状況にするということを示したかったんだろう。もちろん、暗に傅燮→季布、崔烈→樊かい、皇帝→呂后とイメージの重ね合わせを行っているんだろうね。
   故事の後は現在の状況を傅燮は触れる。すなわち涼州の重要性。その涼州を捨てると将来、危険が京師まで及ぶことを傅燮は主張している。
   結局、皇帝は傅燮の言葉に従ったが、崔烈をとがめることはなかった。これにより朝廷はますます傅燮を重んじ、公卿に欠席があるごとに、すぐに傅燮を呼んだという。

   董卓&皇甫嵩の戦う意義は危うく水泡に帰すところだったが、はてさて戦の行方はというと。
   戦の決着がつかなかったようで、董卓&皇甫嵩は北宮伯玉・邊章・韓遂の軍に勝てないでいた。
   この戦いの行方はどうなるかというと、実は数ヶ月、後となる。




1)   北宮伯玉邊章韓遂の軍。この涼州からの侵攻は史書によって誰がボスなのか、まちまち。まず北宮伯玉ってのは後漢書本紀。あ、本文のネタバレ含む。「(中平二年三月)北宮伯玉等寇三輔、遣左車騎將軍皇甫嵩討之、不剋。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)   で、邊章と韓遂は後漢紀ね。「(中平二年三月)邊章・韓約寇三輔、中郎將董卓副皇甫嵩討之」(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)。具体的な話は後漢書の董卓伝から。「明年春、將數萬騎入寇三輔、侵逼園陵、托誅宦官為名。詔以卓為中郎將、副左車騎將軍皇甫嵩征之。」(「後漢書卷七十二   董卓列傳第六十二」より)。後漢書の皇甫嵩伝ではどの時点のことを指しているかわからないけど、ここでは「章等遂復入寇三輔」以降が今回に相当するとしている。「會邊章・韓遂作亂隴右、明年春、詔嵩迴鎮長安、以衛園陵。章等遂復入寇三輔、使嵩因討之。」(「後漢書卷七十一   皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より)
2)   傅燮の話。これ以降、後漢書の傅燮伝と後漢紀のミックス(どっちつかずとも言う・汗)。まず後漢書の傅燮伝から『後拜議郎。會西羌反、邊章・韓遂作亂隴右、徴發天下、役賦無已。司徒崔烈以為宜棄涼州。詔會公卿百官、烈堅執先議。燮詞セ曰:「斬司徒、天下乃安。」尚書郎楊贊奏燮廷辱大臣。帝以問燮。燮對曰:「昔冒頓至逆也、樊かい為上將、願得十萬衆行匈奴中、憤激思奮、未失人臣之節、顧計當從與不耳、季布猶曰『かい可斬也』。今涼州天下要衝、國家藩衛、高祖初興、使れい商別定隴右;世宗拓境、列置四郡、議者以為斷匈奴右臂。今牧御失和、使一州叛逆、海内為之騷動、陛下臥不安寢。烈為宰相、不念為國思所以弭之之策、乃欲割棄一方萬里之土、臣竊惑之。若使左衽之虜得居此地、士勁甲堅、因以為亂、此天下之至慮、社稷之深憂也。若烈不知之、是極蔽也;知而故言、是不忠也。」帝從燮議。由是朝廷重其方格、毎公卿有缺、為衆議所歸。』(「後漢書卷五十八   虞傅蓋臧列傳第四十八」より)
   後漢紀はこれと枝葉の部分で違ってくる。というか州の名が間違ってるし。写し間違え?   それとも執筆段階での間違え?   「於是關隴擾攘、發役不供。司徒崔烈欲棄敘州、議郎傅燮進曰:「斬司徒、天下乃安!」有司奏燮廷辱大臣。有詔問本意、對曰:「昔冒頓至逆也、樊かい為上將、云:『願得十萬衆、行匈奴中。」憤激奮勵、未失臣節也、不顧計之當與不當耳。季布猶廷斥曰:「かい可斬!」前朝是之。今敘州天下之衝要、國家之蕃衛也。堯舜時禹貢載之、殷周之世列為侯伯。高祖平海内、使れい商別定隴右;世宗拓境、列置四郡、議者以為斷匈奴之右臂。今牧御者失理、使一州叛逆、天下騷動、陛下不安寢食。烈為宰相、不念思所以緝之之策、乃欲棄一方萬里之土、臣竊惑之。左衽之虜得此地、為患數世。今以勁士堅甲利兵、姦雄因之為亂、此社稷之深憂也。且無敘州則三輔危、三輔危則京都薄矣。若烈不知憂之、是極弊也;知而欲棄、是不忠也。二者擇而處之、烈必有之。」遂從燮議、亦不罪烈。由是朝廷益重燮、毎公卿缺議、輒歸燮。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)
真・漢楚軍談3)   季布の話。相変わらずこの時代のことはそんなに詳しくないので、おばらさんのサイト「真・漢楚軍談」を参考にしている。右のバナーをクリックしていけるサイト。
   それでだいたいのイメージをつかんで、史記をあたってみた。えーと、『孝惠時、為中郎將。單于嘗為書[女曼]呂后、不遜、呂后大怒、召諸將議之。上將軍樊かい曰:「臣願得十萬衆行匈奴中。」諸將皆阿呂后意、曰「然」。季布曰:「樊かい可斬也!   夫高帝將兵四十餘萬衆、困於平城、今かい奈何以十萬衆行匈奴中、面欺!   且秦以事於胡、陳勝等起。于今創痍未りょうかい又面諛、欲搖動天下。」是時殿上皆恐、太后罷朝、遂不復議撃匈奴事。』(「史記卷一百   季布欒布列傳第四十」より)ってところ。ベストは漢書の該当部分も調べて考察するんだけどね。今回、史記止まり。
8)   面積の単位換算。角川新字源の付録からです(汗) 有効桁数三桁におさえてます。
9)   劉ェの死去、袁隗の罷免、崔烈の就任。えー、全部、後漢紀から。順々に書いとく。「(中平二年)春二月丁卯、故太尉劉ェ薨。贈車騎將軍、謚曰昭烈侯。」、「(二月)司徒袁隗久病罷。」、「三月、廷尉崔烈為司徒。」(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)。「久病罷」の説明ってあんなもんでいいだろうか。なんか不文律がかくされてそう。
10)   買官のこと。もうちょっとで清岡からコント呼ばわりされそうなエピソードなんだけど、オチがなくシリアスなのでそれは無理。複雑な政治状況を感じる。小説の題材に使えそう。話は変わるが、武弁(というよりかつ冠)は以前、<<小説で書いたなぁ。『寔從兄烈、有重名於北州、歴位郡守・九卿。靈帝時、開鴻都門榜賣官爵、公卿州郡下至黄綬各有差。其富者則先入錢、貧者到官而後倍輸、或因常侍・阿保別自通達。是時段けい、樊陵・張温等雖有功勤名譽、然皆先輸貨財而後登公位。烈時因傅母入錢五百萬、得為司徒。及拜日、天子臨軒、百僚畢會。帝顧謂親倖者曰:「悔不小[革斤]、可至千萬。」程夫人於傍應曰:「崔公冀州名士、豈肯買官?頼我得是、反不知[女朱]邪!」烈於是聲譽衰減。久之不自安、從容問其子鈞曰:「吾居三公、於議者何如?」鈞曰:「大人少有英稱、歴位卿守、論者不謂不當為三公;而今登其位、天下失望。」烈曰:「何為然也?」鈞曰:「論者嫌其銅臭。」烈怒、舉杖撃之。鈞時為虎賁中郎將、服武弁、戴かつ尾、狼狽而走。烈罵曰:「死卒、父[木過]而走、孝乎?」鈞曰:「舜之事父、小杖則受、大杖則走、非不孝也。」烈慚而止。烈後拜太尉。』(「後漢書卷五十二   崔[馬因]列傳第四十二」より)
11)   賣官の話。ちなみに本文では、「官位」「官職」「役職」など意味をごっちゃにして書いている(汗)。まず光和元年の話から。これは後漢書本紀から。「(光和元年)是歳、鮮卑寇酒泉。京師馬生人。初開西邸賣官、自關内侯・虎賁・羽林、入錢各有差。私令左右賣公卿、公千萬、卿五百萬。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。ここには公卿の値段が書いてある。それからこの注に引く「山陽公載記」には「時賣官、二千石二千萬、四百石四百萬、其以コ次應選者半之、或三分之一、於西園立庫以貯之。」と書いてあって、官位の具体的な値段が書いてある……ってそこらへんの石高になると、一石、一万銭なのか?! あと後漢紀の記述も参考にしている。「(光和七年夏四月)初賣官、自關内侯以下至虎賁・羽林入錢各有差」(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)
12)   黄綬のこと。賣官の黄綬は脚注10)に触れてある。で、ここでは黄綬(腰から垂らす黄色いリボン)に対応する俸禄(○○石とか)ね。「四百石・三百石・二百石黄綬」(「後漢書志第三十   輿服下」より)
13)   程夫人のこと。次に示すのと同一人物なのかな。この後に黄巾時期だから、時期的にはおかしくはないんだけど。『陽てき黄綱恃程夫人權力、求占山澤以自營植。拂召翊問曰:「程氏貴盛、在帝左右、不聽則恐見怨、與之則奪民利、為之[木/示]何?」』(「後漢書卷八十一   獨行列傳第七十一」より)
14)   張温が司空に就いたとき。とりあえず、後漢書から。「(光和七年)夏四月、太尉楊賜免、太僕弘農ケ盛為太尉。司空張濟罷、大司農張温為司空。」(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)
<<
>>