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朱儁vs.南陽黄巾(孫氏からみた三国志23)
040104
<<それぞれの道へ(孫氏からみた三国志22)


   宛にこもる趙弘の黄巾軍。それを取り囲む朱儁(字、公偉)の軍。その軍には南陽太守、秦頡、荊州刺史の徐きゅう(字、孟玉)、それに孫堅(字、文台)がいた(官位的には秦頡>朱儁>徐きゅう>孫堅かな)
   六月から朱儁の軍は黄巾のいる宛の城を包囲しそれを落とそうとしていたんだけど、実は八月になっても落とせずにいた。七月、閏七月と続くんで1)、丸々二ヶ月は攻め落とせないでいた2)
   前回、冀州方面担当の董卓(字、仲穎)が失脚した、と書いたんだけど、彼の場合は、六月、七月、の大体、二ヶ月ぐらいでやめさせられている(かなりあいまいな月日の数え方だけど)。それと同じようにか、どうやら、朱儁もやり玉にあがりそうになっていたようだ。

   そういうわけで、司奏(役人)は成果の上がらない朱儁を連れ戻したいと思っていた。
   ところが、司空の張温(字、伯慎)4)は次のように上奏する。
「昔、秦の王朝は白起を用い、燕の王朝は樂毅を任命し、皆、多年・暦年にわたり、よく敵に勝ちました。朱儁は潁川(の黄巾)を討ち、功績があり、軍を率いて行く先を示し、手段をすでにこうじています。軍事にのぞんでいるのに、たやすく動かすのは、兵法家から好まれないことです。仮に月日を(朱儁に)あたえ、その効果を求めましょう」
   この上奏に皇帝は従い、とりあえず、朱儁の帰還は取りやめになった。(例によって著者は白起と楽毅は名前をきいたことありますが、詳しくは知りません)
   董卓のときも皇帝のそばにこういったことをする人がいれば、また話が変わってきたんだろうと思う。まぁ董卓の方面はいわば、黄巾の本隊だから厳しくなるのもわからなくもないんだけど。

   そんな、皇帝と司空のやりとりを知ってか、朱儁は趙弘を急いで攻撃する。
   そんなので、成果が上がるの?   と疑問がわくところだけど、今までの積み重ねがあったのか、朱儁の軍は趙弘を斬った。張温の判断は正しかった。

   ところが、黄巾の軍もしぶとい。
   残された黄巾の人々は韓忠という人を指導者にし、再び、宛の城にこもり、朱儁の軍を拒む。
   朱儁の軍は兵が少なく、対抗できなかったが、また急いで攻めることを望んでいた。おそらく先の張温の上奏の件が伝わっていて、帰還命令が出たら困ると思ったんだろう。ここで朱儁が京師へ連れ戻されたら、朱儁が困るだけじゃすまなく、また荊州の黄巾の反乱が長引いてしまうってことはわかっていただろう。
   そのため、朱儁の軍は兵が少ないながらも包囲をしき、土をかため、土の山を築き、城内に入ろうとしていた。まず攻城の道具(梯子とか?)を修理しているといつわり、そして鼓を鳴らし続け(例によって攻撃の合図)、城の西南を派手に攻めた。
   もちろん、黄巾の人々ほとんどはそこへ集まってくる。城に入られないようにするためだろうね。ところが朱儁自身、甲(よろい)をつけ精鋭の兵士五千人を率い、城の東北にいた。そして城壁を登っていく。敵を別のところへ引きつけ、あいたところを攻める。朱儁の陽動作戦だ。
   三国志の孫堅の伝によると、どうやら、この朱儁の精鋭の兵士五千人に孫堅(字、文台)にいたようだ3)。当時28歳(但し、生年157年説)。文台は城壁へ登り、先んじて城内へ入った。そこにわらわらと味方の兵がアリのように集まっていく。ついに朱儁の軍は城内への進行に成功!   そこから大いに敵を倒すことになる。文台、身をもって大活躍。

   そんな攻勢に出られたもんだから、やはり韓忠の軍はその城に居られなくなり、小城(メインの城にくっついているのかな)に退却し、そこへ籠もる。韓忠はおびえ、朱儁に降伏したい旨を連絡する。朱儁の軍に居た別部司馬の張超(字、子並)、それに荊州刺史の徐きゅう、南陽太守の秦頡はこの降伏を受け入れたがっていた。ところが朱儁はこういう。
「兵は形有るものとしては同じものですが、その状勢は異なるものです。秦や項羽の時代には民衆は主人を定めなかったので、従うことをほめ、来ることをすすめるのみでした。今、海内(てんか)は統一されていますが、ただ黄巾が侵略しており、降伏を受け入れるなど善をすすめること(勧善)ではなく、これを討つことが悪をこらしめること(懲悪)となります。今、降伏を受け入れれば、改めて黄巾の反抗が始まり、戦を進めるでしょうし、その勢いが鈍れば降伏を乞うでしょうから、刃向かうままにし長く略奪されるのは良い計ではありません」
   この言葉通り、降伏を受けず、朱儁の軍は黄巾の軍をまたまた急ぎ攻めた。真っ正面から戦わず、いろんな策を駆使していた、朱儁の初陣とは正反対のやり方だ。こんな強引なやり方でよっぽど勝機があるような感じだけど、小城を攻め抜くことができないでいた。
   朱儁は先の攻城戦でつくった土の山に登って攻めているところを眺めていた。
   そこに張超がいて、朱儁はかえりみて言う。
「私は知る。賊は今、外の包囲からぐるりと守り、内側の陣営は差し迫られ、降伏を乞うも受け入られず、そこから出たいのにかなわなず、死闘を迫られている。黄巾一万人は心を一つにしているが、それでもなお我々に匹敵できない。しかし、やつらは十万人もいる!   その被害は甚大になる。包囲をやりとおし兵を入城させることにいたらない。韓忠への包囲が解かれると、勢いから必ず自ら出てきて、出れば兵は散らばり、韓忠の軍をたやすく破ることとなる」

   そう小城に籠もる黄巾たちはまさに「窮鼠猫を噛む」(追い込まれたネズミはネコでもかむってやつね)の状態だった。
   朱儁の発言どおり、包囲は解かれた。朱儁の予想どおり、韓忠の軍は小城から出撃を果たす。朱儁の軍はこれを迎え撃つ。
   で、気になる行方はというと、土の山の上で言ったとおり、朱儁の軍は韓忠の軍を大いにやぶる
   さらに朱儁の軍は勝ちに乗じ、ついに北数十里まで進み、一万余りの首を斬った。そして韓忠は降伏した。

   お次は黄巾軍の総大将、張角と、官軍のエース、皇甫嵩との戦いの話(官軍のリーダーは何進?)。




1)閏月のこと。脚注031202-8)と同じく、サイト「台湾中央研究院」の「學術資源」→「中央研究院兩千年中西歴轉換」をつかって調べている。もちろん、六月から八月というのは史書によっている2)
2)   今回の南陽攻防戦も後漢書の朱儁の伝と後漢紀が元ネタとなっている(以下、本文のネタバレ)。後漢書の朱儁の伝のところは脚注031202-2)の続き。「儁與荊州刺史徐きゅう及秦頡合兵萬八千人圍弘、自六月至八月不拔。有司奏欲徴儁。司空張温上疏曰:『昔秦用白起、燕任樂毅、皆曠年歴載、乃能克敵。儁討潁川、以有功效、引師南指、方略已設、臨軍易將、兵家所忌、宜假日月、責其成功。』靈帝乃止。儁因急撃弘、斬之。賊餘帥韓忠復據宛拒儁。儁兵少不敵、乃張圍結壘、起土山以臨城内、因鳴鼓攻其西南、賊悉衆赴之。儁自將精卒五千、掩其東北、乘城而入。忠乃退保小城、惶懼乞降。司馬張超及徐きゅう・秦頡皆欲聽之。儁曰:『兵有形同而げい異者。昔秦項之際、民無定主、故賞附以勸來耳。今海内一統、唯黄巾造寇、納降無以勸善、討之足以懲惡。今若受之、更開逆意、賊利則進戰、鈍則乞降、縱敵長寇、非良計也。』因急攻、連戰不剋。儁登土山望之、顧謂張超曰:『吾知之矣。賊今外圍周固、内營逼急、乞降不受、欲出不得、所以死戰也。萬人一心、猶不可當、況十萬乎!其害甚矣。不如徹圍、并兵入城。忠見圍解、げい必自出、出則意散、易破之道也。』既而解圍、忠果出戰、儁因撃、大破之。乘勝逐北數十里、斬首萬餘級。忠等遂降。而秦頡積忿忠、遂殺之。餘衆懼不自安、復以孫夏為帥、還屯宛中。儁急攻之。夏走、追至西鄂精山、又破之。復斬萬餘級、賊遂解散。」(「後漢書卷七十一   皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より。表示されない文字は書き換えている)。な、長い。それと後漢紀は後漢書より記述の量が減る。「朱儁攻黄巾趙弘於南陽、自六月至八月不拔。有司奏徴儁、司空張温議曰:『昔秦用白起、燕信樂毅、亦曠歴年載、乃能剋敵。儁討潁川有效、引師南指、方略已設、臨軍易將、兵家所忌、可以少假日月、責其功效。』上從之、詔切責儁、儁懼誅、乃急撃弘、大破斬之。封儁上虞侯。賊復以韓忠為帥、衆號十萬、據宛拒儁。儁兵力不敵、然欲急攻、乃先結壘、起土山以臨之。因偽修攻具、耀兵於西南、儁身自披甲、將精卒乘其東北、遂得入城。忠乞降、議郎蔡よう・司馬張超皆欲聽之。儁曰:『兵有形同而勢異者。昔秦項之際、民無定主、故有賞以勸來者。今海内一統、惟黄巾造寇、降之無可勸、罰之足以懲惡。今若受之、更開逆意、利則進戰、鈍則降服、縱敵長寇、非良計也。』因勒兵攻之、連戰不剋。儁登土山望之、顧謂よう曰:『吾知之矣、今外圍周固、内營逼急、忠故乞降。降又不受、所以死戰也。萬人同心猶不可當、況十萬人乎?其害多矣。不如徹圍解弛、勢當自出、出則意散、必易破之。』即解圍入城、忠果自出。儁因自撃之、大破斬忠、乘勝逐北、斬首萬餘級。」(「後漢孝靈皇帝紀中卷第二十四」より。表示されない文字は書き換えている)。後漢紀では蔡ようがでているけど、このページの本文では省いている。
3)   孫堅の宛城攻防戦こと。「汝・潁賊困迫、走保宛城。堅身當一面、登城先入、衆乃蟻附、遂大破之。」(「三國志卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一」より)。あっさりと書かれてるけど、後漢書を見るといろんなドラマがあったんだなぁ
4)   (2005年3月6日追記)張温(字、伯慎)。張温の字は後漢書の董卓伝にでている。「(張)温字伯慎、」(「後漢書卷七十二 董卓列傳第六十二」より)。
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