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許に遷都(孫氏からみた三国志64)
2012.06.30.
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>>孫氏からみた三国志64   掲載日未定
<<目次


   前回、建安と改元され、皇帝が洛陽に戻ったが、そこから視点を同時期の東へ遷す。<<呂布の波及(孫氏からみた三国志61)での『三国志』巻三十二蜀書先主伝1)の記述の続きに当たる。

   袁術(字公路)は来て先主(劉備字玄徳)を攻め、先主はこれを(徐州下邳國)盱眙、(徐州下邳國)淮陰で拒んだ。曹公(曹操字孟徳)は先主を表し鎮東將軍と為し、(荊州南郡)宜城亭侯に封じ、この歳は建安元年(紀元196年)だった。

   おそらく時系列を追うと鎮東將軍は曹操が後の建安元年六月に就く官職なので(<<前回参照)、何やら想像力が刺激されるが、ともかくこの時、袁術は別の策を講じており、それは次のように、『三国志』巻七魏書呂布伝注所引『英雄記2)に書かれており、さらに『後漢書』列伝六十五呂布伝3)に「当時、劉備は徐州を領し、(徐州)下邳に居り、袁術と淮上と相拒んだ。袁術は呂布(字奉先)を引き劉備を撃つのを欲し、そこで呂布と書で言う。」という出だしで似たような記述がある。

   呂布が徐州に初めに入り、袁術と書する。袁術は報いて書いて言う。
「昔、董卓(字仲穎)が乱を作り、王室を破壊し、禍は術(わたし)の門戸を害し、術は兵を関東で兵を挙げ、未だ董卓を屠裂し得ずでした。將軍は董卓を誅し、その頭首を送り、術の讐恥を掃滅し、術に当世へ明目し(見通し)、死生は辱めず、それが功の一です。昔、將の金元休が兗州に向い、初め(兗州陳留郡)封丘に詣で、曹操の逆に拒み破る所と為り、流離し迸走し、幾つも滅亡に至りました。將軍は兗州を破り、術は再び遐邇(遠近)に明目し、それが功の二です。術は生年以来、天下に劉備があると聞かず、劉備はそこで兵を挙げ術と対戦しました。術は將軍の威霊に憑くことで、劉備を破り得て、それが功の三です。將軍は術に在って三大功を有し、術は賢くないと雖も、生死を以て奉じます。將軍は連年、攻め戦い、軍糧は苦く少なく、今、米二十万斛を送り、道路で迎え逢い、此に当たって止まらず、当に駱驛(うちつづく)として再び致るべきです。もし兵器戦具が、余所で乏しく少なければ、大小を唯、命じて下さい。」
   呂布は書を得て大いに喜び、遂に下邳に至った。

   こうして呂布は行動に移す。前述の『三国志』巻三十二蜀書先主伝1)の続きで次のようにある。

   先主と袁術は相い持ち月が経ち、呂布は虚に乗じ(徐州下邳國)下邳を襲った。下邳の守將の曹豹は反し、密かに呂布を迎えた。呂布は先主の妻子を虜にし、先主は軍を(徐州廣陵郡)海西に転じた。楊奉、韓暹は徐、揚の間を寇し、先主は迎え撃ち、尽くこれ(両者の兵卒?)を斬った。先主は呂布に和と呂布のその妻子を求めた。先主は関羽(字雲長)に下邳を守らせた。

   この「海西」に注が付き、『英雄記』4)が次のように引かれる。

   劉備は張飛を留まらせ下邳を守り、兵を引き袁術と(徐州下邳國)淮陰の石亭で闘い、更に勝負があった。陶謙の故(もと)の將の曹豹は下邳に在り、張飛はこれを殺すのを欲した。曹豹の衆は営を堅め自ら守り、人に呂布を招かせた。呂布は下邳を取り、張飛は敗走した。劉備はこれを聞き、兵を引き還り、下邳に至り、兵は潰れた。散卒を収め(徐州)廣陵を東取し、袁術と戦い、また敗れた。

   この詳細は、前述の『三国志』巻七魏書呂布伝注所引『英雄記』に続いて『英雄記』5)の別の記述にある。以下。

   呂布は水陸で東下し、軍は下邳の西四十里に到った。劉備の中郎將の(揚州)丹楊の許耽は夜に司馬章に欺き来させ、呂布へ詣でさせて、言う。
「張益徳と下邳相の曹豹は共に争い、益徳は曹豹を殺し、城中は大いに乱れ、互いに信じません。丹楊兵は西の白門の城内に屯する千人有り、將軍が東に来ると聞けば、再び生まれ変わった如く、大小が踊躍するでしょう。將軍の兵は城の西門に向かえば、丹楊軍は乃ち門を開け將軍を内に入れるでしょう」
   呂布は遂に夜に進み、晨(あさ)に城下に到った。天が明るく、丹楊兵は尽く開門し呂布の兵を内にした。呂布は門の上で座し、歩騎は火を放ち、益徳の兵は大破し、劉備の妻子と軍資及び部曲の將吏士の家口を獲った。建安元年(紀元196年)六月夜半時、呂布の將の(司隸)河内の郝萌は反し、兵を率い呂布の治める所の下邳府に入り、廳事の閤外を詣で、声を同じくして大いに呼び閤を攻め、閤は堅く入り得なかった。呂布は反者が誰と為すか知らず、直に婦を牽き、科頭(冠を付けず)し衣を肩脱ぎし、相い率い溷(便所)の上より壁を押し出て、都督の高順の営に詣で、直に高順の門を押し入った。高順は問う。
「將軍に隠す所は有りません」
   呂布が言う。
「河内の児(ガキ)が声を出している」
   高順は言う。
「これは郝萌です」
   高順は厳しい兵に付き府に入り、弓弩を並び郝萌の衆を射した。郝萌の衆は乱れ走り、天が明るくなり故(もと)の営に還った。郝萌の将の曹性は郝萌に反し、それと対戦し、郝萌は曹性を刺し傷付け、曹性は郝萌の一肘を切った。高順は郝萌の首を切り、曹性を床輿し(輿の床に座らせ)、呂布に送り詣でさせた。呂布は曹性に問うて、言う。
「郝萌は袁術の謀を受けた。尽くした謀者は誰か」
   曹性は言う。
陳宮(字公臺)が謀を同じくしました」
   その時、陳宮は坐上に在り、面を赤らめ、傍人は尽くこれを覚った。呂布は陳宮を大將とし、問わなかった。曹性は言う。
「郝萌は常にこれを問うて、性(わたし)は呂將軍の大將に神が有り、撃てることができず、郝萌を狂惑させる意はなく、止めないと言いました。」
   呂布は曹性に言う。
「卿(あなた)は健兒だ。」
   これを善く養い視た。創(きず)は癒え、郝萌の故(もと)の営を安撫させ、その衆を領させた。

   この続きはこの注に対する本文に当たる『三国志』巻七魏書呂布伝6)に書かれてある。以下。

   劉備は袁術を東に撃ち、呂布は下邳を襲い取り、劉備は還り呂布に帰した。呂布は劉備に小沛を屯させた。呂布は自ら徐州刺史と称した。袁術は將の紀靈等、歩騎三万で劉備を攻めさせ、劉備は呂布に救いを求めた。呂布の諸將は呂布に言う。
「將軍は常に劉備を殺そうと欲し、今、袁術に手を仮すべきでしょう。」
   呂布は言う。
「そうではない。袁術がもし劉備を破れば、太山の諸將と北に連なり、吾は袁術の囲中に在ることに為り、得られず救えずになるだろう」
   さらに強い歩兵千、騎二百が、馳せ往き劉備に赴いた。紀靈等は呂布が至ったのを聞き、皆、兵(武器)を収め敢えて再び攻めようとしなかった。呂布は(豫州沛國)沛の西の南一里に安屯し、鈴下(侍従)に紀靈等を請わせ、紀靈等はまた呂布と共に飲食するよう請うた。   呂布は紀靈等に言う。
「玄徳は、布(わたし)の弟だ。弟は諸君の困る所と為り、そのため来て之を救う。布は生まれつき合い闘うことを悦ばないが、戦いを解くのみ喜ぶ」
   呂布は門候に営門の中で一隻戟を挙げさせるよう命じ、呂布は言う。
「諸君は布が戟の小支を射するのを観て、一発中るならば諸君は当に解き去るべきであり、中らなければ留まり決闘してもよい。」
   呂布は弓を挙げ戟を射し、正に小支に中った。諸將は皆驚き、言う。
「將軍は天威だ」
   明日、再び歓び会い、その後、各々帰った。

   劉備が呂布に帰した経緯は次のように『後漢書』列伝六十五呂布伝3)が少し詳しい

   呂布は(袁術からの)書を得て大きく悦び、即ち兵を治め下邳を襲い、劉備の妻子を獲った。劉備は(徐州廣陵郡)海西に敗走し、飢困し、呂布に降るのを請うた。呂布はまた袁術が糧を運ぶのを怨み再び至らず、そこで車馬を備え劉備を迎え、そこで豫州刺史にし、小沛に駐屯させた。呂布は自ら徐州牧を号した。

   この時の劉備の動向は『三国志』巻三十二蜀書先主伝注所引『英雄記』7)に詳しい。

   劉備の軍は(徐州)廣陵に在り、飢餓で困り慎み、吏士の大小は自ら相い噛み食し、飢え迫り、小沛に還るのを欲し、遂に吏に呂布へ降るのを請わせた。呂布は劉備に州へ還らせ、勢を併せて袁術を撃った。

   ここで前回の洛陽に視点を戻し、皇帝を迎え豫州潁川郡許を都とする件はどうなったかというと、次のように『後漢書』紀九孝献帝紀8)の記述にある。もちろん<<前回の続きに当たる。

   (建安元年八月)庚申(二十七日)、許に遷都した。(九月)己巳(七日)、曹操の営に行幸した。
   九月、太尉楊彪、司空張喜は罷免した。冬十一月丙戌(二十五日)、曹操は自ら司空、行車騎將軍事になり、百官全ては自ら受け入れた。

   こうして許に遷都されたのだが、同時期の『三国志』巻一魏書武帝紀9)の続きを追う。

   九月、車駕は轘轅に出て東行し、太祖を以て大將軍とし、武平侯に封じた。天子の西遷により、朝廷は日々乱れ、正しく宗廟社稷制度を立て始めるに至った。

   ここで注が入り、次のような張璠『漢紀』10)の記述が引かれる。どちらかというと<<前回の時期が主要となる。

   以前、天子は(司隸弘農郡弘農縣)曹陽(亭)で敗れ、(司隸)河東の下に漂うことを欲した。侍中太史令の王立は言う。「去春より太白が牛斗に於いて鎮星を犯し、天津を過ぎ、熒惑も又、逆行し北河を守り、犯すことができません」
   これより天子は遂に北に渡河せず、将に自ら軹し關東に出た。王立は又宗正の劉艾に言う。
「前の太白は天關を守り、熒惑と会い、つまり金は火と交じ会い、革命の象です。漢祚は終わり、晉、魏は必す興ります」
   王立は後に帝に数言あって言う。
「天命に去就が有って、五行は常に盛んにあらず、火者は土に代わり、漢を承ける者は魏であり、よく天下を安んじる者は、曹姓であり、ただ曹氏のみに委任するでしょう」
   公(曹操)はこれを聞き、人に王立と語らせて言う。
   「公に朝廷への忠を知らしめ、しかるに天道は深遠であり、多言無きよう願う」

   <<前回の続きで『後漢書』伝六十荀彧伝11)の記述は次のようになる。

   帝が許に都するに及び、荀彧(字文若)を侍中、守尚書令と為した。

   それに対し、同じく<<前回の続きで『三国志』巻十魏書荀彧伝12)では次のようになる。

   天子は太祖を大將軍に拝し、荀彧を進んで漢の侍中、守尚書令と為した。

   ここに注が入り次のように『典略』13)の記述が引かれる。

   荀彧は節を折り士に下り、座せば席を重ねなかった。その臺閣に在り、私を以て意を乱すのを欲しなかった。荀彧は群従一人を有し、才行は実が薄く、或る人は荀彧に言う。
「君を以て事に当たるのに、誰かを議郎に為さないのはできないのでしょうか」
   荀彧は笑って言う。
「官者が才を表する所以であり、来て言うように、衆人が我に何を言うでしょうか」
   その心持ちは平正で、皆此の類だった。

   次のようにこの時期の記述が『三国志』巻十四魏書程昱伝14)にある。<<「呂布の波及」(孫氏からみた三国志61)の同伝の記述の続きとなる。

   天子は許に都し、程昱を尚書と為した。兗州はなお未だ安まり集まらず、再び程昱を東中郎將に為し(兗州)濟陰太守を領させ、兗州事を都督させた。

   同じく次のように、この時期における<<「董卓の死」(孫氏からみた三国志55)の『三国志』巻十魏書荀攸伝15)の記述の続きが書かれてある。

   太祖は天子を迎え許に都し、(荊州に駐する)荀攸(字公達)に書を遺し言う。
「まさに今、天下は大乱し、智士の労心の時であり、蜀漢を変えるのを顧みれば、すでに久しくない」
   これにおいて荀攸を徴し汝南太守と為し、入れば尚書と為した。太祖は元より荀攸の名声を聞き、語って大いに喜び、荀彧と鍾繇に言う。
「公達は、非常の人で、吾はこの計事を得て与えて、天下はまさに何の憂いがあるべきか」
   これにより軍師と為した。

   同じく次のように、この時期における<<「呂布の波及」(孫氏からみた三国志61)の『三国志』巻九魏書曹仁伝16)の記述の続きが書かれてある。

   太祖は黄巾を平定し、天子を迎え許を都し、曹仁(字子孝)は数々功が有り、(幽州)廣陽太守を拝した。太祖はその勇略を用い、この郡に使わず、議郎として騎を督させた。

   さらに同じく次のように、この時期における<<「呂布の波及」(孫氏からみた三国志61)の『三国志』巻九魏書曹洪伝17)の記述の続きが書かれてある。

   天子は許に都し、曹洪(字子廉)は諫議大夫を拝した。

   曹操と無関係な外側では、次のようにその様子を伺う者が居た。『三国志』巻二十三魏書趙儼伝18)より。

   趙儼は伯然と字し、(豫州)潁川の陽翟人だ。乱を荊州に避け、杜襲、繁欽と与し財を通じ計を同じくし、合わせて一家と為した。太祖は献帝を迎え始め許に都し、趙儼は繁欽に言う。
「曹鎮東(鎮東將軍の曹操)は期に応じ世に命じ、必ず華夏を匡濟でき、吾は帰するのを知るだろう」

   許に遷都したことで、袁紹字本初が動いたことが次のように『三国志』巻六魏書袁紹伝19)にある。<<「劉虞の死」(孫氏からみた三国志58)の同伝の記述の続きとなる。

   たまたま太祖(曹操)は天子を迎え許に都し、(司隸)河南の地を収め、關中は皆従った。袁紹は悔い、太祖に天子を遷させ自らの密着した近くへ(兗州濟陰郡)鄄城に都させるよう欲したが、太祖はこれを拒んだ。

   さらに劉表字景升も動き、次のように<<「孫賁、孫策、動く」(孫氏からみた三国志59)での『三国志』巻六魏書劉表伝20)の記述の続きに記される。

   天子は許に都し、劉表は使に貢献させたと雖も、然るに袁紹と北に与し相結した。治中鄧羲は劉表を諫めたが、劉表は聴かず、鄧羲は病で辞め退き、劉表の世代が終わった。

   この「劉表は聴かず」に注が付き、次の『漢晋春秋』21)の記述が引かれる。

   劉表は鄧羲に答えて言う。
「内に職に貢ぐのを失わず、外に盟主に背かず、これ、天下の達義だ。治中(鄧羲)は独りで何を怪しむのか」

   再び『三国志』巻一魏書武帝紀9)の記述を追う。

   天子が東に行き、(曹操は司隸河南尹)梁より奉じこれを欲したが、及ばなかった。冬十月、公は征し奉じ、袁術を南奔に奉じ、遂にその梁屯を攻めこれを抜いた。これにより袁紹を以て太尉とし、袁紹は公(曹操)の下に班在(ならんであること)するのを恥じ、受けなかった。公は乃ち固辞し、大將軍を袁紹に譲った。天子は公に司空、行車騎將軍を拝した。この歳、棗祗、韓浩等の議を用い、屯田を興し始めた。

   この「屯田」に注があり、次の『魏書』22)の記述が引かれる。

   荒乱に遭ってから、糧穀をしぼりつくし乏しい。諸軍は並起し、一年間の計に終わらず、飢えれば寇略し、飽きれば余りを棄て、瓦解し流離し、敵せず自ら敗れる者は何度も勝ち得ない。袁紹は河北に行き在り、軍人は桑椹(故郷?)に頼り暮らした。袁術は江、淮に在り、蒲蠃を十分に取った。民人は互いに食し、州里は蕭條(ものさびしく)になった。公は言う。
「それ定国の術であり、強兵においては食が足ることにあり、秦人は農を急くことを以て天下を兼ね、孝武は屯田を以て西域を定め、この先代の良式だ」
   この歳、そこで許の下に民屯田を募り、穀百万斛を得た。これにより州郡は皆、田官を置き、穀物を在積する所となった。四方を征伐し、運糧の労は無く、遂に群賊を兼ね滅し、天下を克平した。

   袁紹の話は先の『三国志』巻六魏書袁紹伝19)の記述の続きとその注に詳しく、次のようになる。

   天子は袁紹を太尉に為し、大將軍に転じ為し、鄴侯に封じたが、袁紹は侯を譲り受けなかった。

   注で次の『献帝春秋』23)の記述が引かれる。

   袁紹は太祖の下に班在(つらねある)するのを恥じ、怒って言う。
「曹操は当に数度、死んでいたが、我はたちまちこれを救い存命させ、今乃ち恩に背し、天子をかかえ我に命令するのか」
   太祖は聞き、大將軍を袁紹に譲った。

   そして先の『三国志』巻一魏書武帝紀9)の記述は前述した劉備と呂布の記述に次のように追い付く。

   呂布は劉備を襲い、(徐州)下邳を取った。劉備は(曹操の下へ)逃げてきた。程昱は公(曹操)に説いて言う。
「劉備は雄才を有し衆心を甚だ得るように見え、人の下に為らない終いで、曹操にこれを図る如くではありません」
公は言う。
「まさに今、英雄を収める時で、一人を殺し天下の心を失うべきではない」

   もちろんこのことは『三国志』巻三十二蜀書先主伝1)にも記述があり、劉備側ではより詳しくなり、前述の続きとなる。以下。

   先主は小沛に還り、再び兵を合わせ一万人余りを得た。呂布はこれを憎み、自ら兵を出し先主を攻め、先主は敗走し曹公(曹操字孟徳)に帰した。曹公はこれを厚く遇し、それにより豫州牧と為した。将に(豫州沛國)沛に至り散卒を収め、その軍糧を給し、兵を増し与え呂布を東撃させた。呂布は高順にこれを攻めさせ、曹公は夏侯惇に往かせ、救えず、高順の敗る所と為り、再び先主の妻子を虜にし呂布に送った。

   前述の通り、一度、呂布により劉備は豫州刺史に為っているが、皇帝の傍にいる曹操による豫州牧への就任は正式なものだろう。
   こうして建安元年は終わろうとしていたが、これらの続きを追う前に、揚州の孫策に視点を移す。




1)   『三国志』巻三十二蜀書先主伝より。本文のネタバレあり。

袁術來攻先主、先主拒之於盱眙・淮陰。曹公表先主為鎮東將軍、封宜城亭侯、是歳建安元年也。先主與術相持經月、呂布乘虚襲下邳。下邳守將曹豹反、閒迎布。布虜先主妻子、先主轉軍海西。楊奉・韓暹寇徐・揚閒、先主邀撃、盡斬之。先主求和於呂布、布其妻子。先主遣關羽守下邳。
先主還小沛、復合兵得萬餘人。呂布惡之、自出兵攻先主、先主敗走歸曹公。曹公厚遇之、以為豫州牧。將至沛收散卒、給其軍糧、益與兵使東撃布。布遣高順攻之、曹公遣夏侯惇往、不能救、為順所敗、復虜先主妻子送布。

2)   『三国志』巻七魏書呂布伝注所引『英雄記』より。

布初入徐州、書與袁術。術報書曰:「昔董卓作亂、破壞王室、禍害術門戶、術舉兵關東、未能屠裂卓。將軍誅卓、送其頭首、為術掃滅讎恥、使術明目于當世、死生不愧、其功一也。昔將金元休向兗州、甫詣(封部)〔封丘〕、為曹操逆所拒破、流離迸走、幾至滅亡。將軍破兗州、術復明目於遐邇、其功二也。術生年已來、不聞天下有劉備、備乃舉兵與術對戰;術憑將軍威靈、得以破備、其功三也。將軍有三大功在術、術雖不敏、奉以生死。將軍連年攻戰、軍糧苦少、今送米二十萬斛、迎逢道路、非直此止、當駱驛復致;若兵器戰具、它所乏少、大小唯命。」布得書大喜、遂造下邳。

3)   『後漢書』列伝六十五呂布伝より。

時劉備領徐州、居下邳、與袁術相拒於淮上。術欲引布撃備、乃與布書曰:「術舉兵詣闕、未能屠裂董卓。將軍誅卓、為術報恥、功一也。昔金元休南至封丘、為曹操所敗。將軍伐之、令術復明目於遐邇、功二也。術生年以來、不聞天下有劉備、備乃舉兵與術對戰。憑將軍威靈、得以破備、功三也。將軍有三大功在術、術雖不敏、奉以死生。將軍連年攻戰、軍糧苦少、今送米二十萬斛。非唯此止、當駱驛復致。凡所短長亦唯命。」布得書大悦、即勒兵襲下邳、獲備妻子。備敗走海西、飢困、請降於布。布又恚術運糧不復至、乃具車馬迎備、以為豫州刺史、遣屯小沛。布自號徐州牧。術懼布為己害、為子求婚、布復許之。

4)   『三国志』巻三十二蜀書先主伝注所引『英雄記』より。

備留張飛守下邳、引兵與袁術戰於淮陰石亭、更有勝負。陶謙故將曹豹在下邳、張飛欲殺之。豹衆堅營自守、使人招呂布。布取下邳、張飛敗走。備聞之、引兵還、比至下邳、兵潰。收散卒東取廣陵、與袁術戰、又敗。

5)   『三国志』巻七魏書呂布伝注所引『英雄記』より。

布水陸東下、軍到下邳西四十里。備中郎將丹楊許耽夜遣司馬章誑來詣布、言「張益德與下邳相曹豹共爭、益德殺豹、城中大亂、不相信。丹楊兵有千人屯西白門城内、聞將軍來東、大小踊躍、如復更生。將軍兵向城西門、丹楊軍便開門内將軍矣」。布遂夜進、晨到城下。天明、丹楊兵悉開門内布兵。布于門上坐、歩騎放火、大破益德兵、獲備妻子軍資及部曲將吏士家口。建安元年六月夜半時、布將河内郝萌反、將兵入布所治下邳府、詣廳事閤外、同聲大呼攻閤、閤堅不得入。布不知反者為誰、直牽婦、科頭袒衣、相將從溷上排壁出、詣都督高順營、直排順門入。順問:「將軍有所隱不?」布言「河内兒聲」。順言「此郝萌也」。順即嚴兵入府、弓弩並射萌衆;萌衆亂走、天明還故營。萌將曹性反萌、與對戰、萌刺傷性、性斫萌一臂。順斫萌首、床輿性、送詣布。布問性、言「萌受袁術謀。」「謀者悉誰?」性言「陳宮同謀。」時宮在坐上、面赤、傍人悉覺之。布以宮大將、不問也。性言「萌常以此問、性言呂將軍大將有神、不可撃也、不意萌狂惑不止。」布謂性曰:「卿健兒也!」善養視之。創愈、使安撫萌故營、領其衆。

6)   『三国志』巻七魏書呂布伝より。

備東撃術、布襲取下邳、備還歸布。布遣備屯小沛。布自稱徐州刺史。術遣將紀靈等歩騎三萬攻備、備求救于布。布諸將謂布曰:「將軍常欲殺備、今可假手於術。」布曰:「不然。術若破備、則北連太山諸將、吾為在術圍中、不得不救也。」便嚴歩兵千・騎二百、馳往赴備。靈等聞布至、皆斂兵不敢復攻。布於沛西南一里安屯、遣鈴下請靈等、靈等亦請布共飲食。布謂靈等曰:「玄德、布弟也。弟為諸君所困、故來救之。布性不喜合鬥、但喜解鬥耳。」布令門候于營門中舉一隻戟、布言:「諸君觀布射戟小支、一發中者諸君當解去、不中可留決鬥。」布舉弓射戟、正中小支。諸將皆驚、言「將軍天威也」!明日復歡會、然後各罷。

7)   『三国志』巻三十二蜀書先主伝注所引『英雄記』より。

備軍在廣陵、飢餓困踧、吏士大小自相啖食、窮餓侵逼、欲還小沛、遂使吏請降布。布令備還州、并勢撃術。具刺史車馬童僕、發遣備妻子部曲家屬於泗水上、祖道相樂。魏書曰:諸將謂布曰:「備數反覆難養、宜早圖之。」布不聽、以状語備。備心不安而求自託、使人說布、求屯小沛、布乃遣之。

8)   『後漢書』紀九孝献帝紀より。

庚申、遷都許。己巳、幸曹操營。
九月、太尉楊彪・司空張喜罷。冬十一月丙戌、曹操自為司空、行車騎將軍事、百官總己以聽。

9)   『三国志』巻一魏書武帝紀より。

九月、車駕出轘轅而東、以太祖為大將軍、封武平侯。自天子西遷、朝廷日亂、至是宗廟社稷制度始立。
天子之東也、奉自梁欲要之、不及。冬十月、公征奉、奉南奔袁術、遂攻其梁屯、拔之。於是以袁紹為太尉、紹恥班在公下、不肯受。公乃固辭、以大將軍讓紹。天子拜公司空、行車騎將軍。是歳用棗祗・韓浩等議、始興屯田。

10)   『三国志』巻一魏書武帝紀注所引張璠『漢紀』より。

初、天子敗於曹陽、欲浮河東下。侍中太史令王立曰:「自去春太白犯鎮星於牛斗、過天津、熒惑又逆行守北河、不可犯也。」由是天子遂不北渡河、將自軹關東出。立又謂宗正劉艾曰:「前太白守天關、與熒惑會;金火交會、革命之象也。漢祚終矣、晉・魏必有興者。」立後數言于帝曰:「天命有去就、五行不常盛、代火者土也、承漢者魏也、能安天下者、曹姓也、唯委任曹氏而已。」公聞之、使人語立曰:「知公忠于朝廷、然天道深遠、幸勿多言。」

11)   『後漢書』伝六十荀彧伝より。

及帝都許、以彧為侍中、守尚書令。

12)   『三国志』巻十魏書荀彧伝より。

天子拜太祖大將軍、進彧為漢侍中、守尚書令。常居中持重

13)   『三国志』巻十魏書荀彧伝注所引『典略』より。

彧折節下士、坐不累席。其在臺閣、不以私欲撓意。彧有群從一人、才行實薄、或謂彧:「以君當事、不可不以某為議郎邪?」彧笑曰:「官者所以表才也、若如來言、衆人其謂我何邪!」其持心平正皆類此。

14)   『三国志』巻十四魏書程昱伝より。

天子都許、以昱為尚書。兗州尚未安集、復以昱為東中郎將、領濟陰太守、都督兗州事。

15)   『三国志』巻十魏書荀攸伝より。

太祖迎天子都許、遺攸書曰:「方今天下大亂、智士勞心之時也、而顧觀變蜀漢、不已久乎!」於是徴攸為汝南太守、入為尚書。太祖素聞攸名、與語大悦、謂荀彧、鍾繇曰:「公達、非常人也、吾得與之計事、天下當何憂哉!」以為軍師。

16)   『三国志』巻九魏書曹仁伝より。

太祖平黄巾、迎天子都許、仁數有功、拜廣陽太守。太祖器其勇略、不使之郡、以議郎督騎。

17)   『三国志』巻九魏書曹洪伝より。

天子都許、拜洪諫議大夫。

18)   『三国志』巻九魏書曹洪伝より。

趙儼字伯然、潁川陽翟人也。避亂荊州、與杜襲・繁欽通財同計、合為一家。太祖始迎獻帝都許、儼謂欽曰:「曹鎮東應期命世、必能匡濟華夏、吾知歸矣。」

19)   『三国志』巻六魏書袁紹伝より。

會太祖迎天子都許、收河南地、關中皆附。紹悔、欲令太祖徙天子都鄄城以自密近、太祖拒之。
天子以紹為太尉、轉為大將軍、封鄴侯、紹讓侯不受。

20)   『三国志』巻六魏書劉表伝より。

天子都許、表雖遣使貢獻、然北與袁紹相結。治中鄧羲諫表、表不聽、羲辭疾而退、終表之世。

21)   『三国志』巻六魏書劉表伝注所引『漢晋春秋』より。

表答羲曰:「内不失貢職、外不背盟主、此天下之達義也。治中獨何怪乎?」

22)   『三国志』巻一魏書武帝紀注所引『魏書』より。

表答羲曰:「内不失貢職、外不背盟主、此天下之達義也。治中獨何怪乎?」

23)   『三国志』巻六魏書袁紹伝注所引『献帝春秋』より。

紹恥班在太祖下、怒曰;「曹操當死數矣、我輒救存之、今乃背恩、挾天子以令我乎!」太祖聞、而以大將軍讓于紹。

24)   『三国志』巻六魏書袁紹伝注所引『献帝春秋』より。

紹恥班在太祖下、怒曰;「曹操當死數矣、我輒救存之、今乃背恩、挾天子以令我乎!」太祖聞、而以大將軍讓于紹。


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