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【720】陸康と孫策について。 ムゼ 2004/3/9(火) 14:24

【722】Re:陸康と孫策について。 孫ぽこ 2004/3/9(火) 18:58
┗ 【726】郡都 清岡美津夫 2004/3/10(水) 23:32
┗ 【728】[無題] ムゼ 2004/3/11(木) 22:17 感謝♪
┗ 【729】Re:横やり 白崎ゆきと 2004/3/12(金) 1:31
┗ 【730】Re:横やり 孫ぽこ 2004/3/12(金) 18:30
┗ 【738】Re:横やり ムゼ 2004/3/14(日) 14:46
┣ 【739】Re:横やり ニセクロ 2004/3/15(月) 0:52 ハロ〜☆
┗ 【742】後漢紀の注にある「孫策の渡江年」 清岡美津夫 2004/3/15(月) 19:28 紹介
┗ 【743】Re:後漢紀の注にある「孫策の渡江年」 ニセクロ 2004/3/15(月) 22:21
┗ 【749】Re:後漢紀の注にある「孫策の渡江年」 清岡美津夫 2004/3/17(水) 20:31 感謝♪
┗ 【759】Re:後漢紀の注にある「孫策の渡江年」 乍融 2004/3/21(日) 2:07
┗ 【816】「孫策の渡江年」 ムゼ 2004/4/2(金) 17:36 感謝♪

【722】Re:陸康と孫策について。
 孫ぽこ WEB  - 2004/3/9(火) 18:58 -

引用なし
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   ▼ムゼさん:
>こんにちは。はじめまして。ムゼと申します。
>陸遜の話題に便乗してしつもんです。
>呉の孫氏と陸氏の関係の複雑さはわたくしごときでは???なのですが、一番今頭を悩ませているのは、孫策が陸康を袁術の命で盧江を攻めた際のことです。
> 
>「このときの陸康のいた郡の役所はどこか?」
> 
>なのです。
>わたしは舒なのでは?と思っているのですが、記述が(捜索が未熟なせいか)
>見つかりません。後漢書で盧江太守になった人で舒に役所を置いていた記述もあったので
>陸康の時もそうだったかな?と思っているわけですが、この時代の太守が乱立している状態では自信がもてません。
>それと、もし郡役所が舒だったら、同所在住と思われる周瑜はどこでなにをしていたのかという疑問も出てきます。まったく?です。(皖って書いていた方もいたような気も・・・)
>おねがいいたします。

舒だと私も思うのですが自信は・・・・。
後漢書郡国史の廬江を見ると、確かに舒が最初に記されるので郡都だったのでは?と思います。

周瑜は確かに舒在住ですが、陸康と袁術の争いが起こった頃にはすでに叔父の周尚が袁術指名による丹楊太守となっており、明らかに袁術軍閥影響下にあったと思われます。ですから、むしろ陸康の敵の側だったのでは?

【726】郡都
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2004/3/10(水) 23:32 -

引用なし
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   ▼孫ぽこさん:
>舒だと私も思うのですが自信は・・・・。
>後漢書郡国史の廬江を見ると、確かに舒が最初に記されるので郡都だったのでは?と思います。

私も後漢書(司馬彪の続漢書)郡国志の郡のところで、最初に出てくる県に郡府があるのかなって思っています(どうなんでしょ?)
ちなみに、譚其驤/主編「中国歴史地図集」第二冊 秦・西漢・東漢時期の東漢時期によると、「州級駐所」(郡府がある?)が舒県になっていて、
同じ地図集の第三冊 三国・西晋時期の三国時期になると([#424]参照)、魏の方の「州級駐所」が六安、呉の方の「州級駐所」が皖になっています。
晋の時代だと、晋書地理志の廬江郡の最初は陽泉で、上記の本の西晋時期の「州級駐所」は舒県です。

と、これだけ能書きたれても、孫策の時期は一概に言えず、ややこしいのですが(汗)

ちなみに州府のあるのは「刺史治」と書かれている県だと思ってます。

【728】[無題]
感謝♪  ムゼ  - 2004/3/11(木) 22:17 -

引用なし
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   >舒だと私も思うのですが自信は・・・・。
>後漢書郡国史の廬江を見ると、確かに舒が最初に記されるので郡都だったのでは?と思います。

>私も後漢書(司馬彪の続漢書)郡国志の郡のところで、最初に出てくる県に郡府があるのかなって思っています(どうなんでしょ?)

舒でいいみたいですね。わたしも郡府が最初なのか?でした。
あれこれ邪推するよりも、廬江とのみの記述=舒ととる方が素直なのかも。

>周瑜は確かに舒在住ですが、陸康と袁術の争いが起こった頃にはすでに叔父の周尚が袁術指名による丹楊太守となっており、明らかに袁術軍閥影響下にあったと思われます。ですから、むしろ陸康の敵の側だったのでは?

袁家と周家は袁安の時に門生故吏という関係があったので、もともと意外と近いのかも?
と思ってます。
でも、当時中央に顕官を出している周家があからさまに朝廷から派遣された陸康と敵対するかな?と・・・疑問でしたが、周尚がすでに丹陽に赴任していたのなら直接関係してないのですね。私はちくま訳を読んでいて周尚の丹陽太守就任と「周瑜の周尚のところへご機嫌うかがい云々」の年代が特定できなかったので悩んでました。
袁術寿春に移動→陸績ミカン事件→米三万石寄越せ事件→孫策陸康攻める→孫策江南へ脱出〜と並べていても、ピンとこなくて。
ついでの方で新発見をしてしまいました。周瑜は地元の廬江の兵ではなく、丹陽から兵を率いてきたかもしれない!?(あの曹操もてこずったりした)

最後になりましたが、ご教授ありがとうございました。
また、次回もよろしくおねがいします。

【729】Re:横やり
 白崎ゆきと E-MAIL  - 2004/3/12(金) 1:31 -

引用なし
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   なんかキレイに纏まっていたところ申し訳ありません。

孫策が廬江を攻めていた頃の丹陽太守は呉景だと思うのですが……。

周瑜伝の記述は「瑜從父尚為丹楊太守,瑜往省之.會策將東渡,到歴陽,馳書報瑜,瑜將兵迎策」ですよね。

この文中の「會」をちくま訳のように「たまたま・ちょうどその時に」と訳すと、周尚の丹陽太守任命は孫策が劉ヨウを討つべく長江を東渡した頃ということになりませんか?

【730】Re:横やり
 孫ぽこ WEB  - 2004/3/12(金) 18:30 -

引用なし
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   ▼白崎ゆきとさん:
>なんかキレイに纏まっていたところ申し訳ありません。
>
>孫策が廬江を攻めていた頃の丹陽太守は呉景だと思うのですが……。
>
>周瑜伝の記述は「瑜從父尚為丹楊太守,瑜往省之.會策將東渡,到歴陽,馳書報瑜,瑜將兵迎策」ですよね。
>
>この文中の「會」をちくま訳のように「たまたま・ちょうどその時に」と訳すと、周尚の丹陽太守任命は孫策が劉ヨウを討つべく長江を東渡した頃ということになりませんか?

すいません、自分も後で気が付いたのですが、綺麗に纏まっていたのでスルーしてました(汗)

自分が調べた範疇だと
・孫策が袁術の元に身を寄せたのは194年
・廬江・陸康の反乱・・おそらく194年?
・孫策が牛渚砦を攻略した195年
・孫策、会稽太守を名乗る196年
・廬江は二年包囲され、陸家に多数の死者が出た。

まず、陸康が反乱を起こしたのは、「袁術に徐州攻略のための米三万石援助を求められたため」ですから、袁術が徐州攻略を試みてた頃、つまり194年の事かと思います。劉備が徐州を受け取った前後かな?と。

次に孫策が歴陽に布陣した時期ですが、曹操伝に孫策が江東に渡ったのは194年とあるのと、孫策のその後のタイムスケジュールを考えると、少なくとも194年末〜195年初頭にかけての事ではないか?と思います。

で、周尚が丹楊太守となったのは「孫策が歴陽に布陣する前」ですから、この辺りのタイムスケジュールは相当せわしなく、孫策による廬江攻撃と歴陽布陣は連続的に起きているような感じがします。

で、呉景は周尚の前の丹楊太守な訳ですが、どの時期に交代したんかなぁ?と考えた場合、孫策が廬江攻撃をやっている段階なのかなぁ?という気がしていたんですね。

ただ、これは陸康の反乱が194年の事だと断定した場合ですので、もう少しこの時期が早いのかもしれません。後漢書には二年包囲されたと在りますし。という事で私の勇み足です(汗)

【738】Re:横やり
 ムゼ  - 2004/3/14(日) 14:46 -

引用なし
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   >白崎ゆきと様
>>孫策が廬江を攻めていた頃の丹陽太守は呉景だと思うのですが……。
>>周瑜伝の記述は「瑜從父尚為丹楊太守,瑜往省之.會策將東渡,到歴陽,馳書報瑜,瑜將兵迎策」ですよね。

>>この文中の「會」をちくま訳のように「たまたま・ちょうどその時に」と訳すと、周尚の丹陽太守任命は孫策が劉ヨウを討つべく長江を東渡した頃ということになりませんか?

実はそこの「會」は悩んでました。魯粛伝でも「會」が出てきたところがあるのですが
孫ぽこさまがサイトで解説なさっておられます。
>>正史の「丁度その頃・・・」は、結構、時間的な幅をもっている事が多い
と。同感です。周尚の丹陽太守任命は孫策が劉ヨウを討つべく長江を東渡した頃「丁度」
JUSTととれるのかは微妙な気が・・・

孫ぽこ様
>・孫策が袁術の元に身を寄せたのは194年
>・廬江・陸康の反乱・・おそらく194年?
>・孫策が牛渚砦を攻略した195年
>・孫策、会稽太守を名乗る196年
>・廬江は二年包囲され、陸家に多数の死者が出た。
>
>まず、陸康が反乱を起こしたのは、「袁術に徐州攻略のための米三万石援助を求められたため」ですから、袁術が徐州攻略を試みてた頃、つまり194年の事かと思います。劉備が徐州を受け取った前後かな?と。
>
>次に孫策が歴陽に布陣した時期ですが、曹操伝に孫策が江東に渡ったのは194年とあるのと、孫策のその後のタイムスケジュールを考えると、少なくとも194年末〜195年初頭にかけての事ではないか?と思います。
>
>で、周尚が丹楊太守となったのは「孫策が歴陽に布陣する前」ですから、この辺りのタイムスケジュールは相当せわしなく、孫策による廬江攻撃と歴陽布陣は連続的に起きているような感じがします。
>
>で、呉景は周尚の前の丹楊太守な訳ですが、どの時期に交代したんかなぁ?と考えた場合、孫策が廬江攻撃をやっている段階なのかなぁ?という気がしていたんですね。
>
>ただ、これは陸康の反乱が194年の事だと断定した場合ですので、もう少しこの時期が早いのかもしれません。後漢書には二年包囲されたと在りますし。という事で私の勇み足です(汗)

私は呉景さん関連から追ってみました。 
・呉景丹楊太守に任命される。元の太守周听を曲阿から追い払う。曲阿に孫策一家が江都から移住してくる。(192〜193)
・193年袁術寿春に移動。三月に揚州刺史陳温を殺害。
・陳温の後任の劉ヨウが寿春が占拠されているので、曲阿へ。呉景は歴陽へ移る。(193〜194)
・呉景、袁術に督軍中郎将に任命される。(193〜194)
・194年孫策の袁術陣営に加入。

呉景は歴陽に追い出された時点で太守から更迭されたのかも?で、新たに督軍中郎将という官位を与えられた?(加官もありえますが)のが193〜194年。このあたりで太守交代したのではないでしょうか?

陸康の「後漢書には二年包囲された」というのを二年間丸々なのか13ヶ月と取るべき?
なのかで悩んでます。あと陸績のミカン事件は193年の袁術が寿春に移動直後に挨拶に
来た時のことではないでしょうか?その後関係悪化、戦争になるのが193〜194年の13ヶ月余りでは?丸二年にすると孫策が廬江を陥落させてから歴陽に行くのが計算あわなくなるような。

(個人的には、孫策の廬江攻めの時に城内に周瑜が居たとしたら面白いなと思って問題提起したのですが・・・)質問しておきながら自分の頭の混乱具合を深めています。
まとめきれなくてすみませんが、新たな情報がおありの方どうぞよろしくご教授ください。

【739】Re:横やり
ハロ〜☆  ニセクロ WEB  - 2004/3/15(月) 0:52 -

引用なし
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   そ、そんなネタには釣られないクマ〜〜(ジタバタ!)(AA略)

皆様はじめまして。
偽黒武堂の三国志探訪と言う三国志サイトをやってますニセクロと申します。

>陸康の「後漢書には二年包囲された」というのを二年間丸々なのか13ヶ月と取るべき?
>なのかで悩んでます。
私は194年冬〜195年春までの間と考えています。
つまり二年とは丸々二年でも13カ月でもなく足掛け二年、と言うことでしょう。
戦争時期が194年冬から翌年春にかけて行われたためにそうした記述になったと思います。
数カ月と書くよりは(足掛け)二年と書いた方が、
攻めた方も抵抗した方もすごい相手とすごい戦いをしたと言うことになるからでしょう。

>あと陸績のミカン事件は193年の袁術が寿春に移動直後に挨拶に来た時のことではないでしょうか?
私も大体その時期だと考えています。
精確に言うなら寿春に移動直後ではなく、九江郡陰陵を獲た直後で寿春占拠前ではないかと。

どちらも自サイトの下記ファイルで詳述していますので宜しかったら参照下さい。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/gkbd.700.336.html

【742】後漢紀の注にある「孫策の渡江年」
紹介  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2004/3/15(月) 19:28 -

引用なし
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   あまりツリーの流れを把握してないうちに情報を出すのは烏滸がましいんですが(汗)、後漢紀の注に関係しそうな記述を見つけたので、参考までにおいときます。
孫策の渡江時期についてです。
あまり関係がなかったらごめんなさい(しかも私からの訳なしですので…)


後漢紀校注(袁宏撰、周天游校注)

↓本文、初平四年(西暦193年)のところ

是歳袁術使孫策略地江東、軍及曲阿。揚州刺史劉ヨウ敗績、將奔會稽…

↓その注です

通鑑考異曰:「魏志・袁紀皆云、『初平四年、策受袁術使渡江』。漢獻帝紀・呉志孫策傳皆云『興平元年』、虞溥江表傳云『策興平三年渡江』。按袁術初平四年、始得壽春。策傳云術欲攻徐州、從陸康求米、事必在劉備得徐州後也。劉ヨウ傳稱呉景攻ヨウ、歳餘不克、則策渡江不應在興平元年已前。今依江表傳為定。」


※ちなみに興平元年が西暦194年に対応します。

【743】Re:後漢紀の注にある「孫策の渡江年」
 ニセクロ WEB  - 2004/3/15(月) 22:21 -

引用なし
パスワード
   http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/gkbd.700.336.html#【呉書から省かれた孫策の活躍

上のurl先で魏書『武帝紀』で「孫策の渡江年」を193年としているのは何故かを考察してます。

簡単にまとめると孫策の渡江年は193年(初平3年)、194年(興平元年)、195年(興平2年)説が可能で、
それぞれ次のような考えに基づいて渡江年を定めていると考えられます。

193年説:丹楊太守周[日斤]を討伐するため渡江した年。
194年説:最終的に孫策が袁術から独立するまでのグランドキャンペーンの開始年と捉えている。
     (陸康と劉ヨウを一まとめにして揚州の反袁術勢力蜂起と捉えている。)
195年説:劉ヨウを討つ戦いで実際に横行津から長江を渡り対岸の牛渚へ渡江した年。

なお、この考えでも袁宏『後漢紀』は明らかに勘違いしているとしか言えません。

あとそこの通鑑考異で触れてる『虞溥江表傳云『策興平三年渡江』』って、興平2年の間違いでは?
三国志孫討逆伝の裴松之注『江表伝』に『孫策は長江を渡ると劉ヨウを牛渚の軍営に攻め、テイカクにあった
軍糧と武器をすべて奪い取った。興平2年の歳のことである』ってあるんですけど。
なぜ同じ『江表伝』なのに歳がズレているのか不思議だ…。

【749】Re:後漢紀の注にある「孫策の渡江年」
感謝♪  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2004/3/17(水) 20:31 -

引用なし
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   ▼ニセクロさん:
>http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/gkbd.700.336.html#【呉書から省かれた孫策の活躍

リンクを教えていただき、ありがとうございます。
まだ自分の中でうまく消化できてないんですが、時間があるときに、これを参考に自分なりに解釈したいと思いました。

>あとそこの通鑑考異で触れてる『虞溥江表傳云『策興平三年渡江』』って、興平2年の間違いでは?
>三国志孫討逆伝の裴松之注『江表伝』に『孫策は長江を渡ると劉ヨウを牛渚の軍営に攻め、テイカクにあった
>軍糧と武器をすべて奪い取った。興平2年の歳のことである』ってあるんですけど。
>なぜ同じ『江表伝』なのに歳がズレているのか不思議だ…。

言われてみれば、そうですね。
引用元は「漢籍全文資料庫」(大東文化大学サーバー版)http://china.ic.daito.ac.jp/、つまり電子文献です。
途中でかわったのか、資治通鑑考異の段階でそうなのか、気になりますね(そういえば、資治通鑑では何年なのでしょうかね>知っている方)

【759】Re:後漢紀の注にある「孫策の渡江年」
 乍融 WEB  - 2004/3/21(日) 2:07 -

引用なし
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   ちゃっと資治通鑑見た所興平二年のところに書いてましたよ。
<sage>

【816】「孫策の渡江年」
感謝♪  ムゼ  - 2004/4/2(金) 17:36 -

引用なし
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   >皆様
ありがとうございます。
お礼を申し上げるのが遅くなりましてすみませぬ。
陸康攻めの「二年」を年またぎの二年ということがわかって納得かつショックを受けました。

・孫策は194年馬日テイから官位を受ける以前の193年から九江、丹楊攻略などで活躍していた
・陸康との対決は194年末から195始めの冬にかけて行われ、その後丹楊へ渡った

てな感じでしょうか?

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