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http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/gkbd.700.336.html#【呉書から省かれた孫策の活躍
上のurl先で魏書『武帝紀』で「孫策の渡江年」を193年としているのは何故かを考察してます。
簡単にまとめると孫策の渡江年は193年(初平3年)、194年(興平元年)、195年(興平2年)説が可能で、
それぞれ次のような考えに基づいて渡江年を定めていると考えられます。
193年説:丹楊太守周[日斤]を討伐するため渡江した年。
194年説:最終的に孫策が袁術から独立するまでのグランドキャンペーンの開始年と捉えている。
(陸康と劉ヨウを一まとめにして揚州の反袁術勢力蜂起と捉えている。)
195年説:劉ヨウを討つ戦いで実際に横行津から長江を渡り対岸の牛渚へ渡江した年。
なお、この考えでも袁宏『後漢紀』は明らかに勘違いしているとしか言えません。
あとそこの通鑑考異で触れてる『虞溥江表傳云『策興平三年渡江』』って、興平2年の間違いでは?
三国志孫討逆伝の裴松之注『江表伝』に『孫策は長江を渡ると劉ヨウを牛渚の軍営に攻め、テイカクにあった
軍糧と武器をすべて奪い取った。興平2年の歳のことである』ってあるんですけど。
なぜ同じ『江表伝』なのに歳がズレているのか不思議だ…。
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