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▼白崎ゆきとさん:
>なんかキレイに纏まっていたところ申し訳ありません。
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>孫策が廬江を攻めていた頃の丹陽太守は呉景だと思うのですが……。
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>周瑜伝の記述は「瑜從父尚為丹楊太守,瑜往省之.會策將東渡,到歴陽,馳書報瑜,瑜將兵迎策」ですよね。
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>この文中の「會」をちくま訳のように「たまたま・ちょうどその時に」と訳すと、周尚の丹陽太守任命は孫策が劉ヨウを討つべく長江を東渡した頃ということになりませんか?
すいません、自分も後で気が付いたのですが、綺麗に纏まっていたのでスルーしてました(汗)
自分が調べた範疇だと
・孫策が袁術の元に身を寄せたのは194年
・廬江・陸康の反乱・・おそらく194年?
・孫策が牛渚砦を攻略した195年
・孫策、会稽太守を名乗る196年
・廬江は二年包囲され、陸家に多数の死者が出た。
まず、陸康が反乱を起こしたのは、「袁術に徐州攻略のための米三万石援助を求められたため」ですから、袁術が徐州攻略を試みてた頃、つまり194年の事かと思います。劉備が徐州を受け取った前後かな?と。
次に孫策が歴陽に布陣した時期ですが、曹操伝に孫策が江東に渡ったのは194年とあるのと、孫策のその後のタイムスケジュールを考えると、少なくとも194年末〜195年初頭にかけての事ではないか?と思います。
で、周尚が丹楊太守となったのは「孫策が歴陽に布陣する前」ですから、この辺りのタイムスケジュールは相当せわしなく、孫策による廬江攻撃と歴陽布陣は連続的に起きているような感じがします。
で、呉景は周尚の前の丹楊太守な訳ですが、どの時期に交代したんかなぁ?と考えた場合、孫策が廬江攻撃をやっている段階なのかなぁ?という気がしていたんですね。
ただ、これは陸康の反乱が194年の事だと断定した場合ですので、もう少しこの時期が早いのかもしれません。後漢書には二年包囲されたと在りますし。という事で私の勇み足です(汗)
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