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>舒だと私も思うのですが自信は・・・・。
>後漢書郡国史の廬江を見ると、確かに舒が最初に記されるので郡都だったのでは?と思います。
>私も後漢書(司馬彪の続漢書)郡国志の郡のところで、最初に出てくる県に郡府があるのかなって思っています(どうなんでしょ?)
舒でいいみたいですね。わたしも郡府が最初なのか?でした。
あれこれ邪推するよりも、廬江とのみの記述=舒ととる方が素直なのかも。
>周瑜は確かに舒在住ですが、陸康と袁術の争いが起こった頃にはすでに叔父の周尚が袁術指名による丹楊太守となっており、明らかに袁術軍閥影響下にあったと思われます。ですから、むしろ陸康の敵の側だったのでは?
袁家と周家は袁安の時に門生故吏という関係があったので、もともと意外と近いのかも?
と思ってます。
でも、当時中央に顕官を出している周家があからさまに朝廷から派遣された陸康と敵対するかな?と・・・疑問でしたが、周尚がすでに丹陽に赴任していたのなら直接関係してないのですね。私はちくま訳を読んでいて周尚の丹陽太守就任と「周瑜の周尚のところへご機嫌うかがい云々」の年代が特定できなかったので悩んでました。
袁術寿春に移動→陸績ミカン事件→米三万石寄越せ事件→孫策陸康攻める→孫策江南へ脱出〜と並べていても、ピンとこなくて。
ついでの方で新発見をしてしまいました。周瑜は地元の廬江の兵ではなく、丹陽から兵を率いてきたかもしれない!?(あの曹操もてこずったりした)
最後になりましたが、ご教授ありがとうございました。
また、次回もよろしくおねがいします。
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