三国志ファンのためのサポート掲示板 ※共同掲示板。話題は三国志関係。横レス歓迎。初心者モードの質問からマニアックな雑談まで
  新規投稿 ┃ツリー ┃スレッド ┃一覧 ┃トピック ┃番号順 ┃検索 ┃設定 ┃ルール ┃外部カレンダ ┃フロント  
293 / 663 ツリー ←次へ前へ→

【2635】捕虜の扱い方 島津 2006/12/27(水) 15:36 教えて
┣ 【2636】Re:捕虜の扱い方 将軍様 2006/12/27(水) 23:37 多分…
┃┗ 【2637】Re:捕虜の扱い方 島津 2006/12/28(木) 13:53 感謝♪
┃┗ 【2638】Re:捕虜の扱い方 将軍様 2006/12/28(木) 23:24
┃┗ 【2639】孫策軍の軍律 島津 2006/12/29(金) 5:42
┃┣ 【2640】Re:孫策軍の軍律 将軍様 2006/12/29(金) 21:32
┃┃┗ 【2649】Re:孫策軍の軍律 島津 2007/1/5(金) 1:19
┃┗ 【2650】Re:孫策軍の軍律 清岡美津夫 2007/1/5(金) 10:45
┃┗ 【2655】Re:孫策軍の軍律 島津 2007/1/5(金) 16:17
┃┗ 【2656】Re:孫策軍の軍律 清岡美津夫 2007/1/5(金) 16:36 多分…
┃┗ 【2657】Re:孫策軍の軍律 島津 2007/1/5(金) 16:45 雑談
┗ 【2651】Re:捕虜の扱い方 清岡美津夫 2007/1/5(金) 11:45 雑談
┣ 【2652】Re:捕虜の扱い方 清岡美津夫 2007/1/5(金) 12:18 追記
┃┗ 【2658】Re:捕虜の扱い方 島津 2007/1/5(金) 17:05
┃┗ 【2660】Re:捕虜の扱い方 清岡美津夫 2007/1/5(金) 18:05 ひと言
┗ 【2654】Re:捕虜の扱い方 島津 2007/1/5(金) 16:03
┗ 【2659】Re:捕虜の扱い方 ゲソ 2007/1/5(金) 17:45 ひと言
┗ 【2661】Re:捕虜の扱い方 島津 2007/1/5(金) 21:16
┗ 【2662】Re:捕虜の扱い方 将軍様 2007/1/5(金) 21:33
┣ 【2669】Re:捕虜の扱い方 島津 2007/1/6(土) 3:43 雑談
┗ 【2673】Re:捕虜の扱い方 孫ぽこ 2007/1/6(土) 13:36
┣ 【2677】Re:捕虜の扱い方 将軍様 2007/1/6(土) 21:18
┗ 【2686】Re:捕虜の扱い方 ゲソ 2007/1/7(日) 18:41 感謝♪
┗ 【2782】ありがとうございました! 島津 2007/4/9(月) 12:52 感謝♪

【2635】捕虜の扱い方
教えて  島津 E-MAIL  - 2006/12/27(水) 15:36 -

引用なし
パスワード
   はじめまして!
三国志については偏った知識(しかも乏しい;)しか持ってないくせに、趣味で絵や文を書いている者です。
周瑜が好きで、彼にまつわるお話などを手当たり次第に収集しているのですが、
ふと疑問に思ったことがあるので質問させてください。

孫策が皖城を攻めたときに周瑜とともに二喬を娶ったというのは有名ですが、彼女たちはもともと捕虜だったのですよね?
捕虜・・・というと、イメージ的に牢屋に閉じ込めたりするのかなぁ・・・と思うのですが、捕虜の扱いについて当時どのようにしていたのか、ご存じであればどなたかお教えください。

あと、二喬について逸話などありましたらそちらも教えていただきたいなぁ〜と・・・

初めて利用させていただくので何やらドキドキいたしますが・・・
よろしくお願いします!

【2636】Re:捕虜の扱い方
多分…  将軍様 WEB  - 2006/12/27(水) 23:37 -

引用なし
パスワード
   こんばんは
夫人らが捕虜だったかわわかりませんが…

捕虜について
・戦争で捕虜になった者
戦闘中は監視下に置かれていたのでしょう、将校だけを捕縛して兵士は解散させていたりかと思います
理由は 農民兵を養うほど糧食に余裕がある時代ではなかった、武将については干禁などのように何年も軟禁されていたりするものも居たのでしょう、身分次第かも知れません
身代金とか 捕虜交換とか 使い道がある者だけ捕虜にしたとかね。
・外交で捕虜になった使者
何らかの決着がつくまで当事者たち以外の太守やら名士に身柄の拘束をお願いしていたかなと
これは反董卓連合の董卓側の降伏(解散)の使者たちの処遇がそんな感じかなって思います

当たりさわりがない反応にしたつもりですがどうでしょう(笑

【2637】Re:捕虜の扱い方
感謝♪  島津 E-MAIL  - 2006/12/28(木) 13:53 -

引用なし
パスワード
   なるほど〜。
では、例えば城を攻めた時なども、太守を捕らえて城下全体は監視をつけるといった感じなのでしょうかね?
(いくらなんでも民草全体を捕縛してってことは・・・そりゃあないですよね;)
占領された後でも一般の民達は普通に生活していたのでしょうか。

あっ、でもおかげで大体イメージつきました♪
初心者質問に丁寧にお答えくださり、ありがとうございました!

【2638】Re:捕虜の扱い方
 将軍様 WEB  - 2006/12/28(木) 23:24 -

引用なし
パスワード
   太守が降伏したならば、そのまま帰属させて太守を任せる
とか礼を礼で返せば下手な人間に任せるよりは安定した政治が出来たのかもしれませんね
ただ、捕虜という意味では、太守を捉えたのならば、別の郡に護送して軟禁とかしたかもしれませんね
民にとっては太守が疎かな扱いを受けることに反発を覚えるでしょうから
これらは孫堅や劉祥(江夏)だったかな、他の州郡の頭を理不尽な排除の仕方をすると、後に農民に逆襲されるって話もあるので
民は、生活が保護されているならそのままだったでしょうね
税収の基盤なので、中級層や商人などは特に占領後の都市にとどめておきたいでしょうし

ほとんど私の妄想なんで、あまり信じないようにw

【2639】孫策軍の軍律
 島津 E-MAIL  - 2006/12/29(金) 5:42 -

引用なし
パスワード
   話が逸れてしまうのですが、妄想の延長で質問・・・w

孫策軍の軍律は厳しく、占領下においた地で民に歓迎された、というのを何か
(小説だったかな?うろ覚えですが、確か北方版・・・でだったかと;)
で読んだのですが、史実でもそうなのでしょうか・・・?
孫策といえば、太守というか、頭の人には容赦ないところがありますよね。
民に恨まれることはなくても、頭の残党には恨みを買ってた・・・とゆうことでしょうか(許貢の件とか・・・)

【2640】Re:孫策軍の軍律
 将軍様 WEB  - 2006/12/29(金) 21:32 -

引用なし
パスワード
   ども
妄想ですがw
孫策はその軍勢を使って根拠地を得るために永久占領するってな政策を取っていたのではないでしょうか?
仁策を打ち出していたとかね
会稽太守を自称して、地元の豪族らから人材を募って責任者につけてやれば民衆は歓迎するでしょう
また、自身の一族を悉く役に就けたとしてもその絶対数は少なく(袁とか何代も続いている大家は人数凄い)無官の地元民らが入り込む余地が多くあったとか
合議制で地元の意見も取り入れていかなければならなかった事実からも、孫策の行動は他に比べて歓迎されているって感じなのかもしれないですね
苛烈だったのは叛乱する賊(山越民かも・・・)宗教勢力などを徹底的に弾圧したとかではないでしょうか?

【2649】Re:孫策軍の軍律
 島津 E-MAIL  - 2007/1/5(金) 1:19 -

引用なし
パスワード
   于吉の件とか・・・
あれは作り話でしょうけど、孫策はどこか、信心めいたものを毛嫌いする・・・といったお話をちらちら聞きますが、それにしても悪気がない于吉を殺してしまうのはひどいと思うのです;
よっぽどトラウマになるようなことがあったのかしら・・・(笑

宗教など弾圧したくだりも、やはり政のうえで、人心を得るのにやっかいだから、とかそういった理由があったのでしょうか・・・?

【2650】Re:孫策軍の軍律
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2007/1/5(金) 10:45 -

引用なし
パスワード
   ▼島津さん:
>話が逸れてしまうのですが、妄想の延長で質問・・・w
>
>孫策軍の軍律は厳しく、占領下においた地で民に歓迎された、というのを何か
>(小説だったかな?うろ覚えですが、確か北方版・・・でだったかと;)
>で読んだのですが、史実でもそうなのでしょうか・・・?

初めまして。
おしゃっているのは、以下の三國志呉書討逆伝の注に引く江表伝のエピソードですね。

策時年少、雖有位號、而士民皆呼為孫郎。百姓聞孫郎至、皆失魂魄;長吏委城郭、竄伏山草。及至、軍士奉令、不敢虜略、鶏犬菜茹、一無所犯、民乃大ス、競以牛酒詣軍。

<清岡のテキトー訳>孫策は若いときから、位と名号があるといっても、士人や民衆はみな、孫郎と呼んでいた。百姓は孫郎が来ると聞くと、みな魂魄をうしなった。長吏(役人の長官)は城郭に伏し、山の草へ逃げ隠れした。(孫策が)到着すると、兵士は命令を受け、鶏や犬や野菜を略奪をするようなことはなく、一人も犯すところがなかったため、民衆はとても喜び従い、競って牛や酒をもって軍に詣でた。


あと民が関係しない軍律に関するエピソードだったら三國志呉書討逆伝の方にもありましたね。

【2651】Re:捕虜の扱い方
雑談  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2007/1/5(金) 11:45 -

引用なし
パスワード
   ▼島津さん:
>はじめまして!
>三国志については偏った知識(しかも乏しい;)しか持ってないくせに、趣味で絵や文を書いている者です。
>周瑜が好きで、彼にまつわるお話などを手当たり次第に収集しているのですが、
>ふと疑問に思ったことがあるので質問させてください。
>
>孫策が皖城を攻めたときに周瑜とともに二喬を娶ったというのは有名ですが、彼女たちはもともと捕虜だったのですよね?
>捕虜・・・というと、イメージ的に牢屋に閉じ込めたりするのかなぁ・・・と思うのですが、捕虜の扱いについて当時どのようにしていたのか、ご存じであればどなたかお教えください。
>

こんにちわ。
二橋を娶ったところは下のような文ですね。

三国志呉書周瑜伝

頃之、策欲取荊州、以瑜為中護軍、領江夏太守、從攻皖、拔之。時得橋公兩女、皆國色也。策自納大橋、瑜納小橋。

<清岡のテキトー訳>しばらくして、孫策は荊州を取ろうとして、周瑜を中護軍領江夏太守とすることで、皖を攻めさせ、これを攻め取った。その時、橋公の二人の娘を得た。二人とも国色(国中一の美女)だった。孫策は自ら大橋を納め、周瑜は小橋を納めた。


この橋公と皖との関係(皖の守備側についていたとか、単に皖に住んでいたとか)について何も説明がない以上、捕虜になったと決めつけるのは早計のような気がしますね。
例えば三国志蜀書先主伝だと「布虜先主妻子」(呂布が先主の妻と子を生捕りにした)という表現が見られるので、「得」じゃなくて「虜」であれば確定なんですけどね(と例え生捕りにしたとしても三国志呉書で孫策や周瑜の負のイメージがつくようなことは書かれそうにないな、と自己ツッコミを入れてしまうのですが・笑)

【2652】Re:捕虜の扱い方
追記  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2007/1/5(金) 12:18 -

引用なし
パスワード
   追記です。
他のエピソードと比べると何かわかるところがあるかもしれませんね。

例えが悪い上に大して分かることはないんですが、

三国志魏書夏侯淵伝の注に引く魏略

初、建安五年、時霸從妹年十三四、在本郡、出行樵採、為張飛所得。飛知其良家女、遂以為妻、産息女、為劉禪皇后。

<清岡のテキトー訳>昔、建安五年、そのとき夏侯覇の從妹は十三、四歳で本郡にいて、薪をとりに出ていたら、張飛にとられた。張飛はそれが両家の娘だと知り、妻とし、自分の娘を生み、(その娘が)劉禅の皇后となった。

というふうに、軍事とは無関係で娶るときでも「得」が使われてます。

【2654】Re:捕虜の扱い方
 島津 E-MAIL  - 2007/1/5(金) 16:03 -

引用なし
パスワード
   はじめまして!


>この橋公と皖との関係(皖の守備側についていたとか、単に皖に住んでいたとか)について何も説明がない以上、捕虜になったと決めつけるのは早計のような気がしますね。
>例えば三国志蜀書先主伝だと「布虜先主妻子」(呂布が先主の妻と子を生捕りにした)という表現が見られるので、「得」じゃなくて「虜」であれば確定なんですけどね(と例え生捕りにしたとしても三国志呉書で孫策や周瑜の負のイメージがつくようなことは書かれそうにないな、と自己ツッコミを入れてしまうのですが・笑)

確かにそうですよね。
あの一文を読む限りでは、二人を得るのにどんなくだりがあったか、まったくわからないですよね;
(想像するに、皖攻めの時に二人の噂を聞いて娶りに行った・・・というのが自然なのでしょうか・・・。)

初心者向けの三国志本や、ゲームの人物紹介などで、
「捕虜となったのが縁で妻とした」と説明されているのを見るのですが、
あれは何が元になっているんでしょう?
小説でも捕虜エピソード、けっこう見ますし・・・
なにか、もとになるネタがあるのでしょうか。

【2655】Re:孫策軍の軍律
 島津 E-MAIL  - 2007/1/5(金) 16:17 -

引用なし
パスワード
   ▼清岡美津夫さん:

>初めまして。
>おしゃっているのは、以下の三國志呉書討逆伝の注に引く江表伝のエピソードですね。
>
>策時年少、雖有位號、而士民皆呼為孫郎。百姓聞孫郎至、皆失魂魄;長吏委城郭、竄伏山草。及至、軍士奉令、不敢虜略、鶏犬菜茹、一無所犯、民乃大拭・グ糞躰魴愀魁」
>
><清岡のテキトー訳>孫策は若いときから、位と名号があるといっても、士人や民衆はみな、孫郎と呼んでいた。百姓は孫郎が来ると聞くと、みな魂魄をうしなった。長吏(役人の長官)は城郭に伏し、山の草へ逃げ隠れした。(孫策が)到着すると、兵士は命令を受け、鶏や犬や野菜を略奪をするようなことはなく、一人も犯すところがなかったため、民衆はとても喜び従い、競って牛や酒をもって軍に詣でた。
>
>
>あと民が関係しない軍律に関するエピソードだったら三國志呉書討逆伝の方にもありましたね。

はじめまして!

うわ!ばっちり書かれていますね!
正史は演義より事実に基づいているので好きなのですが、難しそうでかいつまんでしか読んだことがないもので・・・;
でもおかげでスッキリしました!
小説などの話もこれが元ネタなのですね。

あと、ぜんぜん関係ないかもですが、上の「百姓聞孫郎至、皆失魂魄」は解釈としては、「孫策は良い政を行うから魂を失うくらい嬉しいぜ!」というカンジですか?表現的に逆な雰囲気を感じるのですが;

なんか、小さなコトで質問してスミマセン!

【2656】Re:孫策軍の軍律
多分…  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2007/1/5(金) 16:36 -

引用なし
パスワード
   ▼島津さん:
>あと、ぜんぜん関係ないかもですが、上の「百姓聞孫郎至、皆失魂魄」は解釈としては、「孫策は良い政を行うから魂を失うくらい嬉しいぜ!」というカンジですか?表現的に逆な雰囲気を感じるのですが;
>
>なんか、小さなコトで質問してスミマセン!

根拠は今すぐ示せないのですが、多分、文脈から「肝を潰した」って意味でしょうか。
孫策軍を怖れていた→実際に孫策軍がくると民に害はなかった
って流れかと。

【2657】Re:孫策軍の軍律
雑談  島津 E-MAIL  - 2007/1/5(金) 16:45 -

引用なし
パスワード
   ▼清岡美津夫さん:
>根拠は今すぐ示せないのですが、多分、文脈から「肝を潰した」って意味でしょうか。
>孫策軍を怖れていた→実際に孫策軍がくると民に害はなかった
>って流れかと。

ぎゃ!
よく読めよ!ってカンジ!
再度読み直して理解しました;
愚問失礼しました!
は、恥ずかしい・・・(汗

【2658】Re:捕虜の扱い方
 島津 E-MAIL  - 2007/1/5(金) 17:05 -

引用なし
パスワード
   ▼清岡美津夫さん:
>追記です。
>他のエピソードと比べると何かわかるところがあるかもしれませんね。
>
>例えが悪い上に大して分かることはないんですが、
>
>三国志魏書夏侯淵伝の注に引く魏略
>
>初、建安五年、時霸從妹年十三四、在本郡、出行樵採、為張飛所得。飛知其良家女、遂以為妻、産息女、為劉禪皇后。
>
><清岡のテキトー訳>昔、建安五年、そのとき夏侯覇の從妹は十三、四歳で本郡にいて、薪をとりに出ていたら、張飛にとられた。張飛はそれが両家の娘だと知り、妻とし、自分の娘を生み、(その娘が)劉禅の皇后となった。
>
>というふうに、軍事とは無関係で娶るときでも「得」が使われてます。


張飛が夏侯氏を妻にしたのも人さらい的なカンジ・・・ですが、
どうも、どこの娘かもわからないで得たようだし・・・。
夏侯氏の娘だから、という意味ではなく、気に入ったので連れて行ったというところでしょうか?

とはいえ、↑を考慮すると、二喬を娶った件は軍事的な意味はないような気もしてきました。

逆に軍事関係で「得」を使う記述があったりするのでしょうか?
そうなると・・・また振り出しに戻ってしまいますが;

【2659】Re:捕虜の扱い方
ひと言  ゲソ E-MAIL  - 2007/1/5(金) 17:45 -

引用なし
パスワード
   ちなみに当の孫策本人の伝ですが、討逆伝註の「江表伝」に曰く、
「周瑜とともに二万を率いて徒歩で皖城を襲撃し、すぐにこれを陥落させ、袁術の百官および鼓吹隊、部曲三万余り、ならびに袁術・張勲らの妻子を手に入れた。」
とあります。
つまり先ほどの周瑜伝の記述と、この記述を組み合わせて解釈した結果、
「接収した残党・部曲民の中に二橋がいた」「二橋は捕虜だった」
という解釈になったのかもしれませんね。

しかし討逆伝には橋公も二橋の名前も記されていないのは何故なんでしょうね。

【2660】Re:捕虜の扱い方
ひと言  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2007/1/5(金) 18:05 -

引用なし
パスワード
   ▼島津さん:
>張飛が夏侯氏を妻にしたのも人さらい的なカンジ・・・ですが、
>どうも、どこの娘かもわからないで得たようだし・・・。
>夏侯氏の娘だから、という意味ではなく、気に入ったので連れて行ったというところでしょうか?
>
>とはいえ、↑を考慮すると、二喬を娶った件は軍事的な意味はないような気もしてきました。
>
>逆に軍事関係で「得」を使う記述があったりするのでしょうか?
>そうなると・・・また振り出しに戻ってしまいますが;

「得」は意味的に広いんで、軍事関係でも使われると思います……と書き込もうと思ったら、
[#2659]←先ほど、ゲソさんから書き込みのあったところの原文が

自與周瑜率二萬人歩襲皖城、即克之、得術百工及鼓吹部曲三萬餘人、并術・勳妻子。

となって「得」が出ていますね。
(というか、私、ずぼらして討逆伝をちゃんと見てなかったことに気付いて恥ずかしいです・笑)

【2661】Re:捕虜の扱い方
 島津 E-MAIL  - 2007/1/5(金) 21:16 -

引用なし
パスワード
   ▼ゲソさん:
>ちなみに当の孫策本人の伝ですが、討逆伝註の「江表伝」に曰く、
>「周瑜とともに二万を率いて徒歩で皖城を襲撃し、すぐにこれを陥落させ、袁術の百官および鼓吹隊、部曲三万余り、ならびに袁術・張勲らの妻子を手に入れた。」
>とあります。
>つまり先ほどの周瑜伝の記述と、この記述を組み合わせて解釈した結果、
>「接収した残党・部曲民の中に二橋がいた」「二橋は捕虜だった」
>という解釈になったのかもしれませんね。
>
>しかし討逆伝には橋公も二橋の名前も記されていないのは何故なんでしょうね。

はじめまして!

なるほどー。接収した残党・部曲民の中に二橋がいた、とうのであれば捕虜という解釈もわかる気がします。


周瑜伝に二喬の記述があって、孫策伝に無いのは不思議ですよね。
周瑜伝で記述しなければ、あえて載せるほどの事柄でもなかったということでしょうか・・・?

【2662】Re:捕虜の扱い方
 将軍様 WEB  - 2007/1/5(金) 21:33 -

引用なし
パスワード
   周瑜には妻が一人で孫策には数人いたから←(想像)
あえて孫策の方では書かなかったとかですかね
必要ないからなのか、削除されたのか
はっきりしないからこそ、自由に描かれたわけですが
時代を飛び出て有名人で人気者の姉妹ですね(笑

【2669】Re:捕虜の扱い方
雑談  島津 E-MAIL  - 2007/1/6(土) 3:43 -

引用なし
パスワード
   ▼将軍様さん:
>周瑜には妻が一人で孫策には数人いたから←(想像)
>あえて孫策の方では書かなかったとかですかね

私も、そうではないかなぁ〜・・・と一瞬思いました(笑

孫策には他に奥さんがいたようですし、(結婚した時期的にも大喬との間に一男三女を設けるのはまずムリではないかと・・・憶測ですが;)
他の妻達についても触れられていないということなら、よけい書かなかった・・・というのもあるのかしら。
(ああ・・・孫策の女性関係について知りたくなってきた〜・・・w)

また話が逸れますが、周瑜の奥さんは小喬一人なんですかね?
周循・周胤・周氏の母も、やはり彼女なのでしょうか?
(とか言って、答えが違っていたらショックだなー;ガクガク;)

【2673】Re:捕虜の扱い方
 孫ぽこ WEB  - 2007/1/6(土) 13:36 -

引用なし
パスワード
   ▼将軍様さん:
>周瑜には妻が一人で孫策には数人いたから←(想像)
>あえて孫策の方では書かなかったとかですかね
>必要ないからなのか、削除されたのか
>はっきりしないからこそ、自由に描かれたわけですが
>時代を飛び出て有名人で人気者の姉妹ですね(笑

ども。
たぶん孫策には妻は数人いたと思われます。孫策には一男三女がいますが、大喬を娶ったのは皖城攻撃のあった199年以降で200年4月には孫策は死んでいる訳ですから、どう考えても大喬一人でこの短い期間に一男三女を産むのは難しいでしょう。

孫策の妻の伝が書かれてないのは、まず第一に孫策は皇帝ではなく王扱いですので伝を書くと整合性が取れないので妻の伝は韋昭の呉書の段階でなかっただろうというのが一つ。もう一つは書くに書けなかったのではないかとw

大喬小喬の話が周瑜伝に書かれているのは、そのエビソードがいかに孫策と周瑜の仲が良かったか信頼し合っていたかを表すエピソードだからではないかと思われます。周瑜の正妻が小喬だったからとは限りますまい。むしろ年齢を考えれば周瑜も孫策もそれ以前に妻は娶っていると考えるのが自然かもしれませんね。

【2677】Re:捕虜の扱い方
 将軍様 WEB  - 2007/1/6(土) 21:18 -

引用なし
パスワード
   孫ぽこさん毎度〜
孫羽でしたw

そうか・・・一杯いたから書くに書けない
そかそか
そりゃモテモテのお二人さんなんで、黙っていてもいくらでも嫁はきたでしょう
その息子二人、説明に養子とか 妾の子で とかないなら、妻の子なんでしょう
きっと・・・きっと
周瑜のほうからしたら、孫策と兄弟なんですよ!って、強調したほうが通りが良いからわざわざ記された とか

【2686】Re:捕虜の扱い方
感謝♪  ゲソ E-MAIL  - 2007/1/7(日) 18:41 -

引用なし
パスワード
   >大喬小喬の話が周瑜伝に書かれているのは、そのエビソードがいかに孫策と周瑜の仲が良かったか信頼し合っていたかを表すエピソードだからではないかと思われます。周瑜の正妻が小喬だったからとは限りますまい。むしろ年齢を考えれば周瑜も孫策もそれ以前に妻は娶っていると考えるのが自然かもしれませんね。

二橋のエピソードはあくまでも孫策と周瑜の結びつきを強調するものであって、婚姻そのものについては特記すべき事柄ではなかった、というのは考えてみればなるほどもっともですね。毎度の慧眼に驚くばかりです。

【2782】ありがとうございました!
感謝♪  島津 E-MAIL  - 2007/4/9(月) 12:52 -

引用なし
パスワード
   将軍様さん、清岡さん、ゲソさん、孫ぽこさん、
初心者である私の質問に対し、わかりやすく丁寧にお答えくださってありがとうございます!
元は、孫策・周瑜がどのようにして美人妻を得たか知りたくて調べているうち、捕虜の扱い方が気になって、質問させていただいたわけですが、こんなにたくさんのご回答を得られて、とても勉強になりました!
かなーり時間が経ってしまいましたが;
御礼申し上げます。ありがとうございました!

返信がまだでしたので・・・

▼孫ぽこさん:
大喬小喬の話が周瑜伝に書かれているのは、そのエビソードがいかに孫策と周瑜の仲が良かったか信頼し合っていたかを表すエピソードだからではないかと思われます。周瑜の正妻が小喬だったからとは限りますまい。むしろ年齢を考えれば周瑜も孫策もそれ以前に妻は娶っていると考えるのが自然かもしれませんね。

二喬を得たときの二人は20代・・・ですよね。
たしかに他に奥さんがいてもおかしくない年齢ですね。
二次創作でこの夫婦を扱う側としては、ちょっと切ない気もしますが(笑)
でも、確かに孫策・周瑜の間柄がどれほど濃いものだったか、説明するものとして、簡単でわかりやすいエピソードですよね。

  新規投稿 ┃ツリー ┃スレッド ┃一覧 ┃トピック ┃番号順 ┃検索 ┃設定 ┃ルール ┃外部カレンダ ┃フロント  
293 / 663 ツリー ←次へ前へ→
ページ:  ┃  記事番号:   
506,580
(SS)C-BOARD v3.8 is Free