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孫堅薨去(孫氏からみた三国志53)
2010.05.24.
<<袁紹と袁術の対立(孫氏からみた三国志52)


   前回、袁紹劉表連合と袁術公孫瓚連合の対立が明確になったわけだけど、かといって依然、長安には董卓の勢力が弱まったわけではない。
   それがよく判るのは『後漢書』列伝第六十一朱儁伝1)の記述。ちょうど「<<孫堅の上洛(孫氏からみた三国志50)」での続きの記述となり、洛陽に入った朱儁の記述から。

   朱儁は河南が破壊され蓄えがないため、すなわち中牟へ東屯し、州郡へ書を移し、董卓を討つ師(軍)を請うた。徐州刺史の陶謙は精兵三千を遣わし、あげく州郡が次第に給するところがあり、すなわち陶謙は朱儁を行車騎将軍に上げた。董卓はこれを聞き、その将の李傕・郭汜等数万人を使わし河南に駐屯させ朱儁を拒んだ。朱儁は逆に撃ち、李傕・郭汜に破れるところとなった。朱儁は自ら敵せずと知り、関下に留まり、敢えて再び前に行こうとしなかった。

   陶謙について、「<<孫堅の上洛(孫氏からみた三国志50)」以来の記述となる。実は似たような記述が『後漢紀』にある。『後漢孝献皇帝紀』巻第二十七2)に見える。以下のような初平三年(紀元192年)の記述だ。

   牛輔は李傕・郭汜・張済・賈詡を遣わし兵を出し、關東を撃ち、先に孫堅に向かった。孫堅は梁の東に駐屯し、大いに李傕等に破れるところとなった。孫堅は千騎を率い包囲を潰し去った。再び陽人で戦い合い、李傕軍を大いに破った。李傕は遂に陳留・潁川へ掠奪に至り、荀彧の郷人は多く殺されかすめ取られた。

   「<<孫堅の上洛(孫氏からみた三国志50)」にあるように、牛輔董卓配下の者であり、李傕・郭汜に破れたところは同じだが、肝心のその相手が朱儁と孫堅とに違いがある。それに「梁の東」や「陽人」は孫堅が上洛する際の戦いを連想させる(また、荀彧の件は<<「冀州の動乱」(孫氏からみた三国志51)参照)。
   朱儁と孫堅とが同じ行動をとっていたとも理解できなくはないが、時期的に重なるかどうか不明ながら、他の史書によると、孫堅はこの年に、あることに従事していた。
   それは『三国志』巻四十六呉書孫破虜討逆伝3)に、

   初平三年、袁術は孫堅を使わし荊州へ出征させ、劉表を撃たせた。

とあり、袁紹・劉表連合と袁術・公孫瓚連合との対立から派生した戦闘だということがわかる。そして史書上ではその戦闘の行方があっさりと書かれている。同じく『三国志』巻四十六呉書孫破虜討逆伝より以下。

   劉表は黄祖を遣わし樊と鄧の間で逆らわせた。孫堅は撃ちこれを破り、追い漢水を渡り、遂に襄陽を囲み、単馬で峴山に行き、(孫堅は)黄祖の軍士に射殺されるところとなった。

   こうして、初平三年に孫堅は戦死した。この部分の裴松之の注4)は次のように多くの書物から引用されており、互いに矛盾した部分もある。

   『典略』に言う。孫堅はその衆を尽くし劉表を攻めた。劉表は門を閉じ、夜に将の黄祖を遣わし、密かに出て兵を発した。黄祖は兵を率い、孫堅は逆らい交戦した。黄祖は敗走し、峴山の中に隠れた。孫堅は勝ちに乗じ、夜に黄祖を追い、黄祖の部の兵は竹木の間より孫堅を暗射し、これを殺した。
   『呉録』に言う。孫堅はその時、年三十七だった。
   『英雄記』に言う。孫堅は初平四年正月七日をもって死んだ。
   また言う。劉表の将の呂公は兵を率い山へ寄り孫堅へ向かい、孫堅は軽騎で山を訪ね呂公を討った。呂公の兵は意志を下した。孫堅の頭に当たり、時に応じ脳が出て亡くなった。
   その不同はこのようなことだった。
孫堅対劉表
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)



   さらに『三国志』巻四十六呉書孫破虜討逆伝の後の記述の裴松之の注に『呉録』5)に載る孫策の上表が引かれている。そこには

   臣(わたし)は年十七で(父に)頼るところを喪失し、

と書かれており、さらにそれについて裴松之が次のようにコメントを寄せている。

   臣(わたし)松之が案ずるに、本伝は孫堅が初平三年をもって卒去し、孫策は建安五年をもって卒去し、孫策の死の時は年二十六で、孫堅の亡を数えると、孫策はまさに十八であるが、この表では十七といい、則ち合わない。『張璠漢紀』および『呉歴』は並んで孫堅をもって初平二年に死んだとし、これを是とするなら本伝は誤りだ。

   『後漢書』孝献帝紀第九6)では初平三年春正月丁丑(※但し、この月に丁丑はない)に天下へ大赦した以降の記事として、

   袁術は将の孫堅を遣わし、襄陽で劉表を攻めさし、孫堅が戦没した。

とあり、『後漢孝献皇帝紀』巻第二十七7)では初平三年五月丁未(※二十日。『後漢書』本紀では「丁酉」十日)に天下へ大赦した以降の記事として(※『後漢紀』の注8)によると、王允が言うに「一年間で再び赦することはない』と発言しているとのこと)、

   劉表と袁紹は連和し、袁術は怒り孫堅を召し劉表を攻めさせ、新野で戦った。劉表は退き襄陽に駐屯し、孫堅は衆を尽くしこれを囲んだ。劉表の将の黄祖は江夏より来て劉表を救い、孫堅は逆に撃ち黄祖を破り、勝ちに乗じ軽騎を率いこれを追って、黄祖の伏兵により殺された。孫堅の子の孫策と孫権は皆、袁術に随った。

とあり、片や劉表側ではどうなっているかというと、『三国志』巻六魏書劉表伝9)によると、

   この時、山東は兵起し、劉表もまた兵軍を襄陽に合わせた。袁術は行き南陽に在り、孫堅と合わせ従わせ、劉表から州を襲い奪うことを欲し、孫堅を劉表へ攻めさせた。孫堅は流矢が当たるところとなり死に、軍が敗れ、袁術は遂に劉表に勝てなかった。

となり、まとめると、書物によって孫堅の亡くなった年がバラバラで初平二年から初平四年正月七日までの開きがある。
   盧弼三国志集解10)では『三国志』巻四十六呉書孫破虜討逆伝での孫堅の薨去の記述について様々な史書から薨去について引いた後、盧弼は次のように書いている。

   盧弼が按ずるに、周瑜伝の建安三年に周瑜は年二十四で、周瑜と孫策は同年であり数えると初平二年に実に十七歳であり、孫策の表では十七に父を失ったと言う。孫堅の死は初平二年に実在し、疑うことができない。

   そのため、『三国志集解』では、孫堅が初平二年(紀元191年)に年三十七で薨去したことで統一されている。例えば「<<ある日、パパと二人で~(孫氏からみた三国志5)」で出てきた『三国志』巻四十六呉書孫破虜討逆伝の文「少為縣吏年十七」では、「その時、漢の霊帝の建寧四年(紀元171年)だ」と注がついている。
   「孫氏からみた三国志」では単純に『三国志』『後漢紀』『後漢書』を信じ、初平三年(紀元192年)薨去の年三十七ということにしておこう。といっても今、「孫氏からみた三国志」を見直すと、初期の段階で『英雄記』『呉録』を採用し、初平四年(紀元193年)薨去の年三十七にしているのだが。
   後の『三国志』の記述を見ると、孫策は興平元年(紀元174)年に活動し始めているので、『礼記』三年問11)によると「三年の喪は二十五ヶ月でおわる」となっていることから、初平四年薨去は不自然となる。

   この後、どうなったかというと、少し時間が遡って『三国志』巻二十二魏書桓階12)によると、次のようになる。

   桓階、字は伯緒で、長沙郡の臨湘の人だ。郡功曹だった。太守の孫堅は桓階を孝廉に挙げ、尚書郎になった。父の喪で郷里に還った。たまたま孫堅が劉表を撃ち、戦で死に、桓階は難を冒し劉表を詣で、孫堅の喪(亡骸)を乞い、劉表は良しとしこれ(亡骸)を与えた。

   こういうように劉表の下にあった孫堅の喪(亡骸)は奪還された。その後は『三国志』巻五十一呉書孫賁伝13)に次のように書かれている。ちょうど「<<破虜将軍・孫文台(孫氏からみた三国志48)」の続きに当たる。

   孫堅が薨去し、孫賁は帥余衆をとりもち、霊柩を守り送った。

   さらに『三国志』巻四十六呉書孫破虜討逆伝の孫堅薨去後の記述を見ると、

   兄の子の孫賁は、将士衆を率い、袁術に就き、袁術は再び上表し孫賁を豫州刺史にした。

となっており、官職上、孫堅の兄(孫羌)の子の孫賁が跡を継いでいる。
   さらに孫堅伝の次の孫策伝に目をやると、次のように長男の孫策の行動が書かれている。

   孫堅が薨去し、還り曲阿に葬った。孫策自身は乃ち江を渡り江都へ居を定めた。

   さらにその注に引く『魏書』14)を見ると次のように書かれている。

   孫策は侯を嗣ぐのに当たり、弟の孫匡に譲り与えた。

   しかし、孫策に随う者が居て、『三国志』巻五十五呉書程普伝15)に次のように書かれている。ちょうど<<「長沙太守・孫文台」(孫氏からみた三国志40)の続きだ。

   孫堅が薨去し、(程普字徳謀は)再び孫策に随い淮南に在った。

   同様に、孫策に随う者が居て、『三国志』巻五十六呉書朱治伝16)に次のように書かれている。こちらは<<「孫堅の上洛」(孫氏からみた三国志50)の続きとなる。

   孫堅が薨去するのに会い、朱治(字君理)は孫策を助け守り、袁術に依り就いた。

   こうして袁紹・劉表連合と袁術・公孫瓚連合の対立により犠牲者が出たわけだが、これだけでは事態がまだ収まるわけはなく、それは次回以降。



1)   『後漢書』列伝第六十一朱儁伝より。関連する部分を抜粋。

儁以河南殘破無所資、乃東屯中牟、移書州郡、請師討卓。徐州刺史陶謙遣精兵三千、餘州郡稍有所給、謙乃上雋行車騎將軍。董卓聞之、使其將李傕・郭汜等數萬人屯河南拒雋。雋逆撃、為傕・汜所破。雋自知不敵、留關下不敢復前。

2)   『後漢孝献皇帝紀』巻第二十七より。

牛輔遣李傕・郭汜・張〔濟〕(倕)・賈詡出兵撃關東、先向孫堅。堅移屯梁東、大為傕等所破。堅率千騎潰圍而去。復相合戰於陽人、大破傕軍。傕遂掠至陳留・潁川、荀彧郷人多被殺掠。

3)   『三国志』巻四十六呉書孫破虜討逆伝より。

初平三年、術使堅征荊州、撃劉表。表遣黄祖逆於樊・鄧之間。堅撃破之、追渡漢水、遂圍襄陽、単馬行峴山、為祖軍士所射殺。兄子賁、帥將士衆就術、術復表賁為豫州刺史。

4)   『三国志』巻四十六呉書孫破虜討逆伝の裴松之注より。

典略曰;堅悉其衆攻表、表閉門、夜遣將黄祖潛出發兵。祖將兵欲還、堅逆與戰。祖敗走、竄峴山中。堅乘勝夜追祖、祖部兵從竹木間暗射堅、殺之。呉録曰:堅時年三十七。英雄記曰:堅以初平四年正月七日死。又云:劉表將呂公將兵縁山向堅、堅輕騎尋山討公。公兵下石。中堅頭、應時腦出物故。其不同如此也。

5)   『三国志』巻四十六呉書孫破虜討逆伝の裴松之注より。

呉録載策上表謝曰:「臣以固陋、孤持邊陲。陛下廣播高澤、不遺細節、以臣襲爵、兼典名郡。仰榮顧寵、所不克堪。興平二年十二月二十日、於呉郡曲阿得袁術所呈表、以臣行殄寇將軍;至被詔書、乃知詐擅。雖輒捐廢、猶用悚悸。臣年十七、喪失所怙、懼有不任堂構之鄙、以忝析薪之戒、誠無去病十八建功、世祖列將弱冠佐命。臣初領兵、年未弱冠、雖駑懦不武、然思竭微命。惟術狂惑、為惡深重。臣憑威靈、奉辭罰罪、庶必獻捷、以報所授。」臣松之案:本傳云孫堅以初平三年卒、策以建安五年卒、策死時年二十六、計堅之亡、策應十八、而此表云十七、則為不符。張璠漢紀及呉歴並以堅初平二年死、此為是而本傳誤也。

6)   『後漢書』孝献帝紀第九より。

三年春正月丁丑、大赦天下。

袁術遣將孫堅攻劉表於襄陽、堅戰歿。

7)   『後漢孝献皇帝紀』巻第二十七より。

劉表與袁紹連和、袁術怒召孫堅攻表、戰於新野。表退屯襄陽、堅悉衆圍之。表將黄祖自江夏來救表、堅逆撃破祖、乘勝將輕騎追之、為祖伏兵所殺。堅子策、權皆隨袁術。

8)   『後漢孝献皇帝紀』巻第二十七の注より。

范書作「丁酉」。通鑑考異曰:「按是年正月丁丑、大赦。及李傕求赦、王允曰:『一歳不再赦。』然則五月必無赦也。」

9)   『三国志』巻六魏書劉表伝より。

是時山東兵起、表亦合兵軍襄陽。袁術之在南陽也、與孫堅合從、欲襲奪表州、使堅攻表。堅為流矢所中死、軍敗、術遂不能勝表。

10)   『三国志集解』での『三国志』巻四十六呉書孫破虜討逆伝の集解部分より。

弼按周瑜傳建安三年瑜年二十四瑜與孫策同年計初平二年實為十七歳孫策表云十七失怙孫堅之死實在初平二年無可疑也
11)   『礼記』三年問より。

三年之喪.二十五月而畢.

12)   『三国志』巻二十二魏書桓階伝より。

桓階字伯緒、長沙臨湘人也。仕郡功曹。太守孫堅舉階孝廉、除尚書郎。父喪還郷里。會堅撃劉表戰死、階冒難詣表乞堅喪、表義而與之。

13)   『三国志』巻五十一呉書孫賁伝より。

堅薨、賁攝帥餘衆、扶送靈柩。

14)   『三国志』巻四十六呉書孫破虜討逆伝注引『魏書』より。

策當嗣侯,讓與弟匡。

15)   『三国志』巻五十五呉書程普伝より。

堅薨、復隨孫策在淮南。

16)   『三国志』巻五十六呉書朱治伝より。

會堅薨、治扶翼策、依就袁術。


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