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孫堅の上洛(孫氏からみた三国志50)
2008.04.28.
<<動き出した関東諸将(孫氏からみた三国志49)


   <<二回前からの続きで孫堅(字、文台)中心に話が進む。『三国志』呉書孫破虜討逆伝1)より。

   まさに進軍し董卓(字、仲潁)を討とうとし、長史の公仇稱を遣って兵を率い事に従い州に還り軍糧を督促しようとした。(荊州南陽郡魯陽)城の東の門外に帳幔を施し、祖道し(道祖神を祈り平安を祈り)公仇稱を送り、官属は並んで会った。董卓は歩騎数万人を遣って孫堅に逆らい、軽騎数十が先に到った。孫堅は広く酒杯を巡らせ談笑しており、部曲に整頓させ布陣させ、妄動させなかった。後続の騎は次第に増え、孫堅はゆるやかに座ることを止め、導き城に入り、乃ち左右に言う。
「先に堅(わたし)がすぐ起きなかった理由は、兵を恐れ互いに踏みにじり、諸君が(城に)入り得なかったためだ」
   董卓の兵は孫堅の士衆がはなはだ整っていることを見て、敢えて城を攻めず、乃ち引き返した。


   <<前々回に書いたように劉表が荊州を抑えているため(時期は確定しづらいが)、孫堅にとって荊州長沙郡からの補給は期待できず、上記にある、軍糧を督促する先の「州」とは恐らく豫州の方であろう。またそれを補足するかのように、下記の『後漢書』董卓伝2)には豫州から潁川太守が軍事的協力をしていることがわかる。

   当時、長沙太守の孫堅もまた豫州の諸郡兵を率い董卓を討った。董卓はまず将の徐栄、李蒙を遣って四回出て、虜掠(略奪)させた。徐栄は(司隷河南尹)梁で孫堅に遭遇し、戦い、孫堅を破り、潁川太守の李旻を生け捕り、これを煮た。董卓は義兵の士卒を得るところとなり、皆、布により纏い包まれ、地に逆立ちし、熱い膏でそそぎこれを殺した。


   これは董卓側の記述だが、恐らく、これと同じ戦いの孫堅側の記述が以下の『三国志』呉書孫破虜討逆伝1)にある。

   孫堅は梁の東へ移り駐屯し、大いに董卓の軍に攻められるところとなり、孫堅と数十騎は包囲を潰しそして出た。孫堅は常に赤い罽幘を被っており、乃ち幘脱ぎ親近将の祖茂にこれを被らせた。董卓の騎は争い祖茂を逐い、故に孫堅は間道より免れ得た。祖茂は困難に追われ、馬を下り、幘をもって塚の間の焼けた柱に冠し、頼って草中に伏した。董卓の騎は望み見て、数重も囲み巡らせ、位置を定め近付き、これが柱だと悟り、乃ち去った。


   こうやって孫堅と董卓との戦いは激化していて決着する前に初平二年になる。『後漢書』本紀3)によると年頭に、

   (初平)二年春正月辛丑(六日)、天下に大赦した。
   二月丁丑(十二日)、董卓は自ら太師となった。

とのこと。董卓が太師になったのは『後漢紀』でも同じ年月日になっている。このことに関し次の『後漢書』董卓伝2)に詳しい。

   董卓は朝廷が光祿勳の宣璠に節を持たせ董卓を諸侯や王の上に在る位の太師にさせるようほのめかした。乃ち長安に引き返した。百官は路で迎え、拝揖し、董卓は遂に車服で皇帝の真似をし、金華青蓋、爪画両轓、時の人が「竿摩車」(かんましゃ)と号するものに乗り、その服飾は天子に近いと言った。弟の旻を左将軍にし鄠侯に封じ、兄の子の璜を侍中・中軍校尉にし、皆、兵事を司った。これにより宗族の内外で、並び居て位を列べた。その子や孫は髫齔(たれがみがあって乳歯が抜け替わるころ)に在っても男は皆、侯に封じられ、女は邑君になった。


   また董卓が太師になったおり、次のような話が『三国志』魏書董卓伝の注に引く『山陽公載記』4)にある。

   以前、董卓は前将軍となり、皇甫嵩(字、義真)は左将軍になり、ともに韓遂を征しており、おのおの、互いに下にならずにいた。後に董卓は徴集され少府并州牧になり、兵は皇甫嵩に属し、董卓は大いに怒った。
   董卓は太師になるに及び、皇甫嵩は御史中丞になり、車下で拝した。董卓は皇甫嵩に問うた。
「義真は未だ服していないか?」
   皇甫嵩は言う。
「落ち着いて知れば、明公(あなた)は乃ちこれに至るでしょう」
   董卓は言う。
「鴻鵠は固く遠志が有るが燕雀は自ら知らずだ」
   皇甫嵩は言う。
「昔、明公と共に鴻鵠になり、今日、鳳皇に変わるとは思いませんでした」
   董卓は笑って言う。
「卿(あなた)は早々に服し、今日では拝せずとも良い」


   続けて『三国志』魏書董卓伝の注に引く張璠『漢紀』5)にある。

   董卓はその手にふれ皇甫嵩に言う。
「義真は未だ恐れぬか?」
   皇甫嵩は対して言う。
「明公(あなた)は徳をもって朝廷を補佐し、大慶はまさに至り、なぜこれを恐れるのでしょうか?   もし淫刑によりほしいままにすれば、まさに天下は皆、恐れ、嵩(わたし)が一人だけ恐れるということはありません」
皇甫嵩は黙してそうだとし、ついに皇甫嵩と和解した。


   次のように『後漢書』皇甫嵩伝6)で同じような話がある。

   董卓は長安に遷り及び、公卿百官は道次で迎え謁見した。董卓は御史中丞以下を皆、拝するようほのめかすことで、皇甫嵩を屈せさせ、すでにそうしており(董卓は)手に触れ言う。
「義真は未だ服さないのか?」
   皇甫嵩は笑ってこれを謝り、董卓は乃ち解き明かした。


   長安は函谷関の西側であり、つまり董卓は「入関」したといえる。ここで董卓は次の『後漢書』朱儁伝7)にあるように洛陽を離れている間の防衛を高めようとする(あるいは後述の董卓が黽池に駐屯したとき)。

   後に董卓は入関し、(河南尹の)朱儁(字、公偉)を留め洛陽を守り、そうして朱儁と山東諸将は謀を通じ、内応した。すでに董卓に襲われることを恐れ、乃ち官を棄て荊州へ奔走した。董卓は弘農の楊懿を河南尹にした。


   朱儁は董卓に反旗を翻したことについて、次のように『後漢書』蓋勳伝8)にある。

   董卓は司徒の王允に問うて言う
「司隸校尉(領地のこと)をはやく得たいとのぞむが、誰が可能か?」
   王允が言う
「ただ京兆(京兆尹の蓋勳のこと)がいるのみでしょう」
   董卓は言う。
「この人、道理に明るい智恵が余り有り、そのため、雄職により替えることはできない」
   そのため越騎校尉にした。
   董卓はまた典禁兵に留めようと望まず、ふたたび出し(蓋勳を)潁川太守にした。未だ郡に至らぬうちに、(蓋勳を)京師へ召還した。その時、河南尹の朱儁は董卓と軍事で対峙することとなった。董卓は朱儁を誹っていう。
「我は百戰百勝で、これを心で決し、卿(あなた)は妄説がないのに、その上、我の刀を汚す」
   蓋勳(字、元固)は言う
「昔、武丁(殷王高宗)の明はなお戒め、まさに卿者の如くで、人の口をふさごうと望みましたか?」
   董卓は言う
「これをからかうか」
   蓋勳は言う
「怒る言葉を聞かなくとも、からかうことを思うことはできるでしょうか?」
   そのため董卓は朱儁にあやまった。
   蓋勳はただ強直で不屈であるため、董卓から内部で押さえ込まれ、意を得られず、出来物が背に発し、亡くなり、その時、年五十一だった。遺令により、卓から賻贈(葬送を助けるおくりもの)を受けることはなかった。董卓は外に寬容を示すことを望み、東園の秘器、賵襚を賜ることを表明し、これを送り礼に従った。


   細かいことだけど、上記の文中では「未だ郡に至らぬうちに」と蓋勳が潁川郡に行かなかったことが明記されているが、『後漢紀』では至ったことになっており、その補足として注に引く『北堂書鈔』卷七十六に引く『謝承書』9)の記述が次のように載っている。

   蓋勳は潁川太守に遷り、民吏は讃え歌い、口に容れなかった。


   再び、孫堅と董卓の戦いを見る。戦場は梁県の陽人に移る(位置関係はこのページの下部の地図参照。以下、同じ)。まず『後漢書』董卓伝2)より。董卓伝内の順序としては董卓が太師になることより先立つが、一連の記述の冒頭に「時」とあり、時系列に対し強い束縛性はないのだろうね。

   次の年(初平二年)、孫堅は散開した兵卒を集め合わせ、進んで梁県の陽人に駐屯した。董卓は将の胡軫と呂布(奉先)を使いこれを攻撃し、呂布と胡軫は違いに親しまず、軍中では自ら驚き恐れており、士卒は散り乱れていた。孫堅はこれを追撃し、胡軫と呂布は敗走した。


   これについて以下に示すように『三国志』呉書孫破虜討逆伝の注に引く『英雄記』10)に詳しい。

   以前、孫堅は董卓を討ち、梁県の陽人に至った。董卓もまた兵歩騎五千をやってこれを迎え、陳郡太守の胡軫を大督護とし、呂布を騎督にし、その余りの歩騎、将校、都督者は甚だ集まった。胡軫の字は文才であり、性急で、宣言を預けて言う。
「今、この行いにより、必ず一青綬(一人の太守程度)を斬り、乃ちまとめ整えるのだ」
   諸将が聞きこれ(胡軫)を憎んだ。軍は広成に至り、陽人城から数十里だった。日暮れに、士馬の疲労が極まり、まさに宿に止まり、また元より董卓の節度を承け広成に宿り、馬にまぐさを与え飲食し、夜に頼り兵を進め、明け方に城を攻めた。諸将は胡軫を憎み恐れ、賊にそのことで敗れることを欲し、呂布らは宣言する。
「陽人城の中の賊はすでに逃走し、まさに追いこれを調べるべきです。これを失うべきではありません」
   たやすく夜に進軍した。城中の守備ははなはだ連なっており、不意におそうことはできなかった。これにおいて吏士は飢え渇き、人馬ははなはだ疲れ、その上、夜に至り、また塹壕や土塁が無かった。甲を解き休息し、呂布はまた互いに宣言し驚いて見せ、言う。
「城中の賊が出て来ています」
   軍衆は乱れ奔走し、皆、甲を棄て、鞍や馬を失った。十里余り行って、賊が無いことを定め、たまたま天が明るくなり、たやすく還り、兵器を拾い取り、進み城を攻めることを欲した。城の守りは既に堅く、塹壕をうがち既に深く、胡軫らは攻めることができず還った。


   この陽人での戦いは『後漢書』本紀では初平二年二月丁丑(十二日)以降、四月以前のところに書かれている。『後漢紀』では初平元年一月のところに書かれてある。さらに戦いの行方は『三国志』呉書孫破虜討逆伝1)より。

   孫堅は再び兵を受け治め、陽人において合い戦い、董卓の軍を大いに破り、其の都督の華雄らをさらし首にした。この時、ある人が袁術から孫堅をへだち、袁術は疑いを抱き、軍糧を運ばなかった。陽人を去り魯陽への百里余り、孫堅は夜を馳せ袁術にまみえ、地に描き計り比べて言う。
「身を出し顧みない理由は、上は国家のため賊を討ち、下は将軍(あなた)の家門の私讐を慰めるからです。堅(わたし)と董卓は骨肉の怨みはなく、しかし、将軍が染み込み浸す言葉を受けているため、返って嫌疑を受けてます」
   袁術は懼れ慎んで、乃ち軍糧を調発した。孫堅は還り駐屯した。


   この話の補足として次のように『三国志』呉書孫破虜討逆伝の注に引く『江表伝』11)の記述がある。

   ある人が袁術に言う。
「孫堅はもし洛を得れば、再び制することができず、これは狼を除き虎を得ることです」    故に袁術はこれを疑った。


   さらに補足として次のように『三国志』呉書孫破虜討逆伝の注に引く『江表伝』12)に孫堅の語が載っている。

「大きな勲は早く地に着くが軍糧が続かず、これが呉起が西河において嘆き泣く所以であり、楽毅が垂成において恨みを遺す所以です。将軍におかれましてはこれを深く思うことを願います」


   さらに戦いの行方は『三国志』呉書孫破虜討逆伝1)より。

   董卓は孫堅の猛々しい強さを恐れ、乃ち将軍の李らを遣って今、孫堅の連なり並ぶ子弟を刺史・郡守に任じることで和親を求め来させ、これを用いることを表し、くみした。孫堅は言う。
「董卓は天に逆らい無道で、王室を覆しているが、今、汝の三族を傷つけず、四海(天下)につらね示せば、則ち吾が死しても目を暗くしないというのに、どうしてまさに和親を結ぼうとするのか?」
   再び大谷に進軍し、雒から九十里で敵対した。董卓は西へ都を遷し入関することを探り、雒邑を焼いた。


   董卓は追い込まれついに雒邑(洛邑)を焼く暴挙に及んだ。<<以前、書いた『後漢書』董卓伝からの記述だと遷都直後に記述されている。もしかすると、そのときの記述はこのタイミングかもしれない。
   董卓と孫堅の戦いに関し次の『後漢書』董卓伝2)からの記述で補足できる。

   董卓は将の李をやって、孫堅に詣でさせ和平を求め、孫堅は拒絶し受けず、大谷へ進軍し、洛までの距離九十里となった。董卓は自ら出て諸陵墓の間で孫堅と戦い、董卓は敗走し、退き(司隷弘農郡)黽池に駐屯し、(司隷弘農郡)陝において兵を集めた。


   さらに孫堅との戦いの行方は次の『後漢書』董卓伝2)にある。

   孫堅は洛陽宣陽城門へ進み、さらに呂布を攻撃し、呂布は再び敗れ逃走した。孫堅は乃ち宗廟を清め、諸陵を塞ぎ安らかにし、兵を分け、函谷関を出て、(司隷弘農郡)新安と黽池の間に至り、これにより董卓の後を断ち切った。董卓は長史の劉艾に言う。
「関東の諸将は数敗し、無能だった。ただ孫堅の小愚直で、諸将軍はよろしくこれに恐れた」
   乃ち東中郎将の董越を黽池に、中郎将の段煨を(司隷弘農郡)華陰に、中郎将の牛輔を(司隷河東郡)安邑に駐屯させ、その残りの中郎将と校尉の呂布を諸県に置き、これをもって山東から防いだ。


   これは『三国志』呉書孫破虜討逆伝1)では次のように書かれている。

   孫堅は乃ち先に入り雒に至り、諸陵を修め、董卓が発掘したところを平らにし塞いだ。


   また朱儁の行方は『後漢書』朱儁伝7)によると次のようになる。

   朱儁は聞き、再び兵を進め洛を奪還し、楊懿は敗走した。


   孫堅の雒陽(洛陽)入りと朱儁の雒陽(洛陽)入りはどちらが先でそれぞれどういう時期なのか不明だが、『後漢紀』13)の初平三年六月のところに、朱儁のその時点までの行動が以下のように書かれている。

   尚書令の朱儁が出奔し、孫堅と共に洛陽に入り、既に中牟において駐屯している。


   個人的には、出奔したとき、朱儁は尚書令でなかった点と、「孫堅」ではなく「孫の堅」かもしれないという点はひっかかるが。
洛陽周辺
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)


   雒陽(洛陽)入りした孫堅は、その後、次の示す『三国志』巻五十六呉書朱治伝14)の記述のような行動を起こしている。

   陽人で董卓を破るのに従い、洛陽に入る。上表し朱治にを督軍校尉を行わせ、特に歩騎を率い、徐州牧陶謙が黄巾を討つのを東へ助けに行った。

   朱治は 「<<長沙太守・孫文台(孫氏からみた三国志40)」に出てきた人物であり、黄巾を討つ陶謙については「<<東方の黄巾(孫氏からみた三国志32)」に記述がある。その時の陶謙は徐州刺史という位置づけだったが、ここでは徐州牧になっている。

   ともかく孫堅は洛陽入りしたわけだけど、この先を追う前に、次回は関東諸将の動きについて。



1)   『三國志』卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一より。本文のネタバレあり。

當進軍討卓、遣長史公仇稱將兵從事還州督促軍糧。施帳幔於城東門外、祖道送稱、官屬並會。卓遣歩騎數萬人逆堅、輕騎數十先到。堅方行酒談笑、敕部曲整頓行陳、無得妄動。後騎漸益、堅徐罷坐、導引入城、乃謂左右曰:「向堅所以不即起者、恐兵相蹈籍、諸君不得入耳。」卓兵見堅士眾甚整、不敢攻城、乃引還。堅移屯梁東、大為卓軍所攻、堅與數十騎潰圍而出。堅常著赤罽幘、乃脫幘令親近將祖茂著之。卓騎爭逐茂、故堅從閒道得免。茂困迫、下馬、以幘冠冢閒燒柱、因伏草中。卓騎望見、圍繞數重、定近覺是柱、乃去。堅復相收兵、合戰於陽人、大破卓軍、梟其都督華雄等。是時、或閒堅於術、術懷疑、不運軍糧。陽人去魯陽百餘里、堅夜馳見術、畫地計校、曰:「所以出身不顧、上為國家討賊、下慰將軍家門之私讎。堅與卓非有骨肉之怨也、而將軍受譖潤之言、還相嫌疑!」術踧踖、即調發軍糧。堅還屯。卓憚堅猛壯、乃遣將軍李等來求和親、今堅列疏子弟任刺史・郡守者、許表用之。堅曰:「卓逆天無道、蕩覆王室、今不夷汝三族、縣示四海、則吾死不瞑目、豈將與乃和親邪?」復進軍大谷、拒雒九十里。卓尋徙都西入關、焚燒雒邑。堅乃前入至雒、脩諸陵、平塞卓所發掘。訖、引軍還、住魯陽。

2)   『後漢書』董卓列傳より。

時長沙太守孫堅亦率豫州諸郡兵討卓。卓先遣將徐榮・李蒙四出虜掠。榮遇堅於梁、與戰、破堅、生禽潁川太守李旻、亨之。卓所得義兵士卒、皆以布纏裹、倒立於地、熱膏灌殺之。

時河内太守王匡屯兵河陽津、將以圖卓。卓遣疑兵挑戰、而潛使銳卒從小平津過津北、破之、死者略盡。明年、孫堅收合散卒、進屯梁縣之陽人。卓遣將胡軫・呂布攻之、布與軫不相能、軍中自驚恐、士卒散亂。堅追擊之、軫・布敗走。卓遣將李詣堅求和、堅拒絕不受、進軍大谷、距洛九十里。卓自出與堅戰於諸陵墓閒、卓敗走、卻屯黽池、聚兵於陝。堅進洛陽宣陽城門、更擊呂布、布復破走。堅乃埽除宗廟、平塞諸陵、分兵出函谷關、至新安・黽池閒、以截卓後。卓謂長史劉艾曰:「關東諸將數敗矣、無能為也。唯孫堅小戇、諸將軍宜慎之。」乃使東中郎將董越屯黽池、中郎將段煨屯華陰、中郎將牛輔屯安邑、其餘中郎將・校尉布在諸縣、以禦山東。

卓諷朝廷使光祿勳宣璠持節拜卓為太師、位在諸侯王上。乃引還長安。百官迎路拜揖、卓遂僭擬車服、乘金華青蓋、爪畫兩轓、時人號「竿摩車」、言其服飾近天子也。以弟旻為左將軍、封鄠侯、兄子璜為侍中・中軍校尉、皆典兵事。於是宗族内外、並居列位。其子孫雖在髫齔、男皆封侯、女為邑君。

3)   『後漢書』孝獻帝紀より。本文のネタバレあり。

二年春正月辛丑、大赦天下。

二月丁丑、董卓自為太師。

袁術遣將孫堅與董卓將胡軫戰於陽人、軫軍大敗。董卓遂發掘洛陽諸帝陵。

4)   『三國志』卷六 魏書六 董二袁劉傳第六の注に引く『山陽公載記』より。

初卓為前將軍、皇甫嵩為左將軍、倶征韓遂、各不相下。後卓徵為少府并州牧、兵當屬嵩、卓大怒。及為太師、嵩為御史中丞、拜於車下。卓問嵩:「義真服未乎?」嵩曰:「安知明公乃至於是!」卓曰:「鴻鵠固有遠志、但燕雀自不知耳。」嵩曰:「昔與明公倶為鴻鵠、不意今日變為鳳皇耳。」卓笑曰:「卿早服、今日可不拜也。」

5)   『三國志』卷六 魏書六 董二袁劉傳第六の注に引く張璠『漢紀』より。

卓抵其手謂皇甫嵩曰:「義真怖未乎?」嵩對曰:「明公以德輔朝廷、大慶方至、何怖之有?若淫刑以逞、將天下皆懼、豈獨嵩乎?」卓默然、遂與嵩和解。

6)   『後漢書』皇甫嵩朱儁列傳(皇甫嵩のところ)より。

及卓還長安、公卿百官迎謁道次。卓風令御史中丞已下皆拜以屈嵩、既而扺手言曰:「義真未乎?」嵩笑而謝之、卓乃解釋。

7)   『後漢書』皇甫嵩朱儁列傳(朱儁のところ)より。

卓後入關、留儁守洛陽、而儁與山東諸將通謀為内應。既而懼為卓所襲、乃棄官奔荊州。卓以弘農楊懿為河南尹、守洛陽。儁聞、復進兵還洛、懿走。儁以河南殘破無所資、乃東屯中牟、移書州郡、請師討卓。徐州刺史陶謙遣精兵三千、餘州郡稍有所給、謙乃上儁行車騎將軍。董卓聞之、使其將李・郭汜等數萬人屯河南拒儁。儁逆擊、為・汜所破。儁自知不敵、留關下不敢復前。

8)   『後漢書』虞傅蓋臧列傳より。

卓問司徒王允曰:「欲得快司隸校尉、誰可作者?」允曰:「唯有蓋京兆耳。」卓曰:「此人明智有餘、然不可假以雄職。」乃以為越騎校尉。卓又不欲令久典禁兵、復出為潁川太守。未及至郡、徴還京師。時河南尹朱儁為卓陳軍事。卓折儁曰:「我百戰百勝、決之於心、卿勿妄説、且汙我刀。」勳曰:「昔武丁之明、猶求箴諫、況如卿者、而欲杜人之口乎?」卓曰:「戲之耳。」勳曰:「不聞怒言可以為戲?」卓乃謝儁。勳雖強直不屈、而内厭於卓、不得意、疽發背卒、時年五十一。遺令勿受卓賻贈。卓欲外示寬容、表賜東園祕器賵襚、送之如禮。葬于安陵。

9)   『後漢紀』(後漢孝獻皇帝紀卷第二十六)の注に引く『北堂書』鈔卷七十六に引く『謝承書』より。

勳遷潁川太守、民吏嘆詠、不容於口。

10)   『三國志』卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一の注に引く『英雄記』より。

初堅討董卓、到梁縣之陽人。卓亦遣兵歩騎五千迎之、陳郡太守胡軫為大督護、呂布為騎督、其餘歩騎將校都督者甚眾。軫字文才、性急、預宣言曰:「今此行也、要當斬一青綬、乃整齊耳。」諸將聞而惡之。軍到廣成、去陽人城數十里。日暮、士馬疲極、當止宿、又本受卓節度宿廣成、秣馬飲食、以夜進兵、投曉攻城。諸將惡憚軫、欲賊敗其事、布等宣言「陽人城中賊已走、當追尋之;不然失之矣」、便夜進軍。城中守備甚設、不可掩襲。於是吏士飢渴、人馬甚疲、且夜至、又無塹壘。釋甲休息、而布又宣言相驚、云「城中賊出來」。軍眾擾亂奔走、皆棄甲、失鞍馬。行十餘里、定無賊、會天明、便還、拾取兵器、欲進攻城。城守已固、穿塹已深、軫等不能攻而還。

11)   『三國志』卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一の注に引く『江表傳』より。

或謂術曰:「堅若得洛、不可復制、此為除狼而得虎也」、故術疑之。

12)   『三國志』卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一の注に引く『江表傳』より。

「大勳垂捷而軍糧不繼、此吳起所以歎泣於西河、樂毅所以遺恨於垂成也。願將軍深思之。」

13)   『後漢紀』(後漢孝獻皇帝紀卷第二十六)より。

尚書令朱儁之出奔也、與孫堅倶入洛陽、既而屯於中牟。


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