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ある日、パパと二人で〜(孫氏からみた三国志5)
030102
<<川のほとりで暮らしている(孫氏からみた三国志4)

   これから触れるところは、ようやく三國志呉書の冒頭。孫破虜討逆傳のはじめのところ。

   文台は若いうちから県の吏になった。「吏」というのは、お役人さんのこと、つまり、県の役人になった。(ちなみに「卒」は兵隊さんのこと。)
   「若いうち」って何歳だ?   って突っ込みたくなるんだけど、三國志呉書には、正確に書いていない。ただ、

少為縣吏

と書かれているのみ。「少」が若いときの意で、「縣」は「県」の旧字のようなもの。
   だけど、次の文字からは

年十七

と明確に「17歳のとき」と書かれていることから、県の吏になったのは17歳以前ということになる。
   そして、県の吏になった後の時期、果たして、文台17歳に何が起こったのか?

   少し余談だけど、このときの17歳は、今の17歳と違う。「そりゃ、昔の人と今の人とはちがうでしょ?」という意味じゃなくて、歳の数え方が違うと言うこと。今は誕生日を迎えたら、一歳、増えるんだけど、当時は、正月を迎えると一歳、増えたらしい。それに、今は生まれた瞬間から0歳で、次の誕生日を迎えるまで一年間、0歳なんだけど、当時は生まれた瞬間から1歳で、生きている期間に関係なく、正月を迎えると、2歳になる。だから、当時は極端にいうと、同じ2歳でも、1月1日生まれと12月31日生まれだと、生きている期間がかなり違う。
   言い換えると、今が満年齢で、当時が数え年ってやつだ。
   なので、17歳といっても、今の数え方に換算すると、15歳か16歳ということになる。

   で、17歳(今でいう15歳か16歳)のとき、文台は父親と一緒に船にのり、錢唐というところに向かった。このときの目的は、小旅行?   親戚への挨拶回り?   などなどいろいろ想像が膨らむけど、はっきりしたことはわからない。
   文台の故郷・富春もその錢唐も同じ浙江沿いにあったんで、船一本(?)で浙江を下れば、錢唐に行けたんだろう(もしかして乗り継ぎがあるかもしれないけど)。ちなみに富春も錢唐も浙江の北岸にあるんで、前回、書いたように、両方とも呉郡に含まれる。
呉郡
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版) 但し、画面上の戦闘マークの位置に根拠はありません

   たまたま海賊の胡玉らが匏里のほとりから賈人(商人)の財産を掠奪していた。文台とその父親が船で移動中のちょうどそのとき、岸のほとりで胡玉らは財産を山分けしていた。
   ここで、いきなり、「胡玉」やら「匏里」やら見知らぬ言葉が出てきた。「胡玉」は海賊の名前か通称ってことはわかると思う(ちなみに浙江の賊だけど「海賊」という言葉を使ってる。「江賊」でないところに注意)。このエピソード以外、その名が見られないことから、文台に関わったことで、こうやって三國志呉書に名を刻んだんだろう。悪い人でも歴史に名が残るのだから、ある意味、幸運といえば幸運。「匏里」は地名かなんかだろうけど、辞書によると「匏」は、ひさごのこと。ひさごのさとから、海賊が襲ってくるなんて、なんだかよくわからない光景だけど。

   そんな海賊が岸に居たもんだから、危ないってんで、行旅(たびびと)はみんな、留まっていたし、船をあえて進めようとしなかった。立ち往生ってやつ。
   もちろん、文台も文台の父も立ち往生。そこで文台が父に言ったことはというと。
「この賊、撃てる……こいつらをやっつけてきていい?
   父親は次のように言い返す。
「おまえが出しゃばることじゃないぞ」
(※例によってセリフは元々、漢文なんで、口調は私が勝手に決めた)

   そんな父の言葉を聞くどころか耳を傾けた様子もなく、文台は刀をしっかりと握り、そこへ向かって岸へと上がり、手で東西に指図した。
   オイオイ、「やっつけられる」とか言って刀を手にとってんのに、なにわけわかんないことしてんだ、って思うだろうけど、実はこれ、ちゃんと考えてのこと。
   何かっていうと、その文台の様子は、あたかも兵を組み分け巡らせ、海賊の形勢を遮ろうという仕草に見えたってこと。
   実際、それを眺め見ていた海賊はすぐに財産を置いて、四散したとのこと。おそらく、役所の兵士が捕まえに来たかと思ったんだろう。
   文台はそれだけに留まらない。賊一人を追っかけて、その首を斬り落とし、持って帰ってきた
   そりゃもう文台の父は大いに驚いたってこと。

   このエピソードに見られる大胆さや、そんな中でも見られる賢さは後の人生にも見られる。まぁまだ先の話だけど。




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