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袁術僭号(孫氏からみた三国志65)
2012.09.16.
<<許に遷都(孫氏からみた三国志64)

>>孫氏からみた三国志66   掲載日未定
<<目次


   まず<<西方からの進軍(孫氏からみた三国志28)での張繡の部分の続きで、次のように『三国志』巻八魏書張繡伝1)の記述に触れる。董卓の話は<<董卓の死(孫氏からみた三国志55)にある。

   董卓は敗れ、張濟と李傕等は呂布を撃ち、董卓のため仇を報いた。語は董卓伝に在る。張繡は張濟に随い、軍功を以て次第に遷り建忠將軍に至り、(涼州武威郡)宣威侯に封された。張濟は(司隸)弘農に屯し、士卒は飢餓し、(荊州南陽郡)穰を南攻し、流矢の中り死す所と為した。張繡はその衆を領し、(荊州南陽郡)宛に屯し、劉表と合流した。太祖(曹操字孟徳)は南征し、淯水に軍し、張繡等は衆を挙げ降った。太祖は張濟の妻を納め、張繡はこれを恨んだ。太祖はその不悦を聞き、密かに張繡を殺す計を有した。計は漏れ、張繡は太祖を不意に襲った。太祖の軍は敗れ、二子は沒した。張繡は還り穰を保った。

   ここで注が入り以下のように『傅子』と『呉書』の記述2)が引かれる。

   『傅子』に言う。
   張繡は親しい所に胡車兒を有し、其の軍を勇冠した。太祖はその驍健を愛で、自ら金を以てこれを与えた。張繡は聞き太祖を疑い左右に因ってこれを刺すのを欲し、遂に反した。

   『呉書』に言う。
   張繡は降り、賈詡の計を用い、軍を徙し高道に就くのを乞い、太祖の屯中により通った。張繡はまた言う。
「車が数無くて重く、兵にそれぞれ甲(よろい)を被らせ得るのを乞う」
   太祖は張繡を信じ、皆、これを聴いた。張繡は乃ち兵を慎み入屯させ、太祖から隠した。太祖は備えず、故に敗れた。

   これについて曹操側の記述、『三国志』巻十八魏書典韋伝3)ではどうなっているかというと、<<呂布の波及(孫氏からみた三国志61)の続きで次のようになる。

   典韋は都尉を拝し、左右を引き起き、親兵数百人を率い、常に大帳を囲った。典韋はすでに武に優れ、その率いる所は皆、選ばれた卒で、戦闘ごとに、常に先んじて登り陣を落とした。校尉に遷り為し、性忠で謹重に至り、常に昼に侍に立ち日を終え、夜に帳の左右に宿し、稀に私寝に帰った。酒食を好み、食事は人と兼ね、前で色を賜うごとに、大きく飲み長く歠(すす)り、左右は連なり合い、数人が増やそこで供え、太祖(曹操)はこれをいさましいとした。典韋はは大きな双戟と長刀等を持つのを好み、軍中でこの語りと為って言う。
「帳下の壮士に典君が有り、一つの双戟八十斤を持つ」
   太祖は荊州を征し、(荊州南陽郡)宛に至り、張繡は迎え降った。太祖は甚だ喜び、張繡及びその將帥を連なり、酒を置き高会した。太祖は行酒し典韋は大斧を持ち後に立ち、刃の径は一尺で、太祖の至る所の前に、典韋はたちまち斧を挙げこれを目した。酒が終わり、張繡及びその將帥は敢えて仰ぎ見ることがなかった。後十日余り、張繡は反し、太祖の営を襲い、太祖は出戦し不利になり、軽騎は引き去った。典韋は門中で戦い、賊は入り得なかった。兵は遂に散り他の門のより並んで入った。当時、典韋の校はなお十人余り有り、皆、優れ死戦し、一で十に当たらない者は無かった。賊は前後に次第に多く至り、典韋は長戟を以て左右にこれを撃ち、一叉が入り、たちまち十余りの矛がくじいた。左右の死傷者は尽く省いた。典韋は数十の傷を被り、短兵(短い武器)で接戦し、賊は前にこれを叩いた。典韋は二人の賊を並べ挟みこれを撃ちて殺し、余りの賊は敢えて前に出なかった。典韋は再び前に出て賊を突き、数人を殺し、傷が重ねて発し、目を見張り大きく罵り死んだ。賊は乃ち敢えて前に出て、其の頭を取り、これを伝え見て、軍を覆い其の体を見に就いた。太祖は退き(荊州南陽郡)舞陰に住み、典韋の死を聞き、流涕を為し(涙を流し)、間を募りその喪(なきがら)を取り、自ら臨みこれを哭し、(兗州陳留郡)襄邑に帰らせ葬らせ、子の典滿を拝し郎中に為した。車駕が過ぎる毎に、常に中り囲むことで祀った。

   そしてこの一連のことはいつごろかというと、次のように『三国志』巻一魏書武帝紀4)に載る。<<許に遷都(孫氏からみた三国志64)の続き。

   張濟は関中より南陽に走った。張濟は死に、従子の張繡はその衆を領した。(建安)二年(紀元197年)、公(曹操字孟徳)は(荊州南陽郡)宛に到った。張繡は降り、すでに終わりこれを悔い、再び反した。公はそれと戦い、軍は敗れ、流矢の中る所と為し、長子の曹昂、弟の子の曹安民は殺害に遇した。

   これについて次のように注で『魏書』や『世語』の記述5)が引かれる。

   『魏書』に言う。公(曹操字孟徳)の乗る所の馬は絶影と名付けられ、流矢の中る所と為し、頬及び足を傷つき、ならびに公の右臂に中った。

   『世語』に言う。曹昂は騎するのに能わず、馬を公に進め、公は故に免じ、曹昂は殺害に遇した。

   次のように再び『三国志』巻一魏書武帝紀4)の記載を追う。

   公(曹操字孟徳)は乃ち兵を引き(荊州南陽郡)舞陰に還り、張繡は騎を率い来て掠め、公はこれを撃破した。張繡は(荊州南陽郡)穰に奔り、劉表と合った。公は諸將に言う。
「吾は張繡等に降り、失いさらに其質を取らず、ここに至った。吾は敗れる所以を知った。諸卿はこれを観て、今より以後、再び敗れない。」
   遂に(豫州潁川郡)許に還った。

   ここで注が入り次のように『世語』6)の記述が引かれる。

   旧制、三公は兵を領し入り見え、皆、戟叉を首に交え前に出る。以前、公(曹操字孟徳)は将に張繡を討とうとし、入り天子に見え、当時、この制を復し始めた。公はこれより再び朝見しなかった。

   こうして曹操は張繡の裏切りに会い、少なくない犠牲を出した上で、何とか危機から脱したのだけど、その続きの前に視点を東に移す。
   <<孫策創業(孫氏からみた三国志62)の続きに当たる。まずその続きとなる、以下のように『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝7)を追っていこう。

   孫策の人となりは、美しい姿と顔で、笑語を好み、性は闊達で聴き受け、よく人を用い、これにより士民の見る者は心を尽くさないことはなく、致死を為すのも厭わなかった。劉繇は軍を棄て遁走し、諸郡守は皆、城郭を棄て奔走した。

   なぜここで急に孫策個人の話になるかというと、江水(つまり長江)より南で連戦を続ける孫策の軍勢がどのような者か、それは率いる者から違っているというのを示していた。ここで注が入り、以下のように、『江表伝』8)の記述が引かれる。

   孫策が年少の時に、位号を有すると雖も、士民は皆、孫郎と呼び為した。百姓は孫郎が至ると聴くと、皆、魂魄を失った。長吏は城郭を委ね、山草に逃げ隠れた。至るに及び、軍士が令を奉じ、敢えて虜略をせず、鶏犬菜茹(やさい)は、一つも犯す所は無く、民はそこで大いに悦び、競って牛酒を以て軍を詣でた。劉繇は既に逃げ、孫策は(揚州呉郡)曲阿に入り將士を労い賜い、將の陳寶に(揚州九江郡)阜陵に詣で母及び弟を迎えさせた。恩を発し令を布き、諸県に告げる。
「それ劉繇、笮融等の故郷の部曲は首者に来て降り、一つも問う所が無い。従軍を願う者は、一身で行き、再び門戸を除く。願わない者は、強いない。」
   旬日の間(十日)、四面は雲のように集まり、兵二万人余り、馬千匹余りに見え得て、江東を威震し、形勢は転じて盛った。

   この時点で江水の北側で異変が起こっていた。それにはいつの時期か見るために、まず『後漢書』紀九孝献帝紀9)を見る。<<許に遷都(孫氏からみた三国志64)の続きとなる。

   (建安)二年春(紀元197年)、袁術は自ら天子を称した。三月、袁紹は自ら大將軍と為った。夏五月、蝗。秋九月、漢水が溢れた。
   この年、飢饉が起き、江水と淮水の間の民は相い食した。

   袁術は自ら天子を称したことは前述の『三国志』巻一魏書武帝紀4)の続きにも次のように書かれている。

   袁術は淮南で帝を称するのを欲し、人に呂布へ告げさせた。呂布はその使を収め、その書を上げた。袁術は怒り、呂布を攻め、呂布の破れる所と為った。

   そして肝心の袁術の伝、まず『後漢書』列伝六十五袁術伝10)は次のように書かれる。ちょうど<<建安の始まり(孫氏からみた三国志63)での同伝の続きとなる。

   孫堅が死んでより、子の孫策は其の部曲を再び領し、袁術は楊州刺史の劉繇を撃たせ、これを破り、孫策はそのため江東(江水が南北に流れる東側)に拠った。孫策は袁術が将に僭号すると欲していると聞き、書を与え諫めて言う。
「董卓は無道で、王室を陵虐し、太后に禍を加え、弘農に暴を及ぼし、天子は播越し(その居する所を失う)、宮廟は焚毀し、これを以て豪桀は発憤し、沛然(盛んに)と共に起きました。元凶は既に倒れ、幼主は東へ顧みて、乃ち王人に命を奉じさせ、朝恩を宣明し、武を伏せ文を修め、これを与え更新しました。そのため河北(袁紹)は黑山で異謀し、曹操は東徐で痛め帯び、劉表は南荊で僭乱し、公孫は朔北で叛逆し、正礼(劉繇の字)は兵で阻み、玄徳(劉備の字)は盟を争い、これにより未だ得られず命令に従えず、弓を収め戈を収めました。当に使君(袁術)へ国と規を同じくすると言い、是を捨て哀れまず、完然(完全で善い)と自取の志を有し、海内の企望(待ち望む)の意にないのを懼れています。成湯は桀を討ち、『夏に多くの罪がある』と称しました。武王は紂を伐ち、『殷に重い罰がある』と言いました。この二つの王者は、聖徳を有すると雖も、もし時に失道の過ちを無くせば、より迫り取ることはありません。今、主上は天下に悪を有さず、徒に幼子を以て強臣から脅え、湯武の時と異なります。また幼主は明智で聡敏で、夙成(早成)の徳を有し、天下は未だ其の恩を被らないと雖も、尽く心を帰しています。もし助けこれを興せば、旦、奭の美に則り、率土(地の限り)が望むところです。使君の五世(安、京、湯、逢、術)は相承し漢の宰輔、栄寵の盛と為り、これと比す者は無く、宜しく忠を致し節を守ることで、王室に報いた方がいいでしょう。時の人は図緯の言に多く惑い、非類の文に妄りに牽かれ、かりそめにも悅主を盛んにするのに、成敗(成功と失敗)の計を顧みず、古今が慎むところであり、熟慮しなくてもよいでしょうか。忠言は逆らうのみで、駮議は憎しみに至り、いやしくも尊明に益が有るのに、敢えて辞する所がありません。」
   袁術は聞き入れず、孫策は遂にこれを絶った。
   建安二年(紀元197年)、(司隸)河内の張炯の符命により、遂に僭号を果たし、「仲家」と自称する。(揚州)九江太守を以て淮南尹(淮水の南)と為し、公卿百官を置き、天地に郊祀した。乃ち使に竊号を以て呂布に告げさせ、併せて子のために呂布の女(むすめ)を娶った。呂布は袁術の使を捕らえ(豫州潁川郡)許(曹操の所)に送った。

   この記述に対応する『三国志』の記述、つまり『三国志』巻六魏書袁術伝11)での記述は次のようになる。最後の一文は前述の『後漢書』紀九孝献帝紀と整合性がとれる。同じく<<建安の始まり(孫氏からみた三国志63)での同伝の続きだ。

   河内の張炯の符命を用い、遂に僭号し(揚州)九江太守を淮南尹と為した。公卿を置き、南北郊を祠した。はなはだしく荒侈(おごる)し、後宮の数百は皆、綺縠(あやのあるうすぎぬ)を服し、粱肉(美食)を余らせ、士卒は凍餒(うえこごえ)し、江淮間は空き尽くし、人民は合い食した。

   ここで注が入り、『典略』と『九州春秋』の記述12)が引かれる。続けて以下に示す。

   『典略』に言う。
   袁術は袁姓を以て陳を出て、陳は舜の後で、土を以て火を承け、運の次を応じ得る。また讖文を見て言う。
「漢に代わる者は、當塗高だ。」
   自らを以て名と字がこれに当たり、そこで号を建て仲氏(土行は中央だから?)と称した。

   『九州春秋』に言う。
   司隸の馮方の女(むすめ)は、国色であり、乱を揚州へ避け、袁術は城に登り見えこれを悦び、遂に納め、甚だ愛幸した。諸婦はその寵愛を憂い、これを語り言う。
「将軍貴人は志節を有し、当に時時涕泣憂愁するべきで、必ず敬重に長く見えるでしょう」
   馮氏は然と思い、後に袁術に見えたちまち涙を流し、袁術を以て心に志があるとし、益々、これを哀しんだ。諸婦人は共に絞殺により、これを廁の梁に懸けられ、袁術は誠に志を得ず死んだと思い、そこで厚く殯斂(納棺しかりもがりする)を加えた。

   話を『後漢書』列伝六十五袁術伝に戻し、そこでは呂布が出てくるため、そこで次のように『三国志』巻七魏書呂布伝13)の記述を見る。『後漢書』列伝六十五呂布伝14)でも同様のことが書かれてある。<<許に遷都(孫氏からみた三国志64)の続きとなる。

   袁術は呂布と結び助けを為すのを欲し、そこで子のために呂布の女(むすめ)を求め、呂布はこれを許した。袁術は使の韓胤に僭号を以て呂布に議告させ、併せて婦を求め迎えさせた。沛相の陳珪は袁術と呂布が成婚し、徐州と揚州とが合従すれば、まさに国難になると恐れ、これにおいて往きて呂布に説いて言う。
「曹公は天子を奉迎し、国政を輔讚し、威霊のある命世(著名な人)は、四海をまさに征しようとし、將軍は宜しく協同し策謀して、太山の安を図ってください。今、袁術と結婚すれば、天下の不義の名を受け、必ず累卵の危(積み重ねた卵のように危険な状況)が有るでしょう。」
   呂布もまた袁術を恨み初め自らは受けず、女(むすめ)はすでに塗(みち)に在り、追い返し婚を絶ち、韓胤を械送し、許(曹操の所)の市で梟首(さらし首)にされた。

   このように方々で敵を作っている袁術だが、話を袁術と孫策との間に戻す。前述の孫策が袁術を諫めたことは次の『三国志』巻五十呉書呉景伝15)の記述にも現れる。<<孫策創業(孫氏からみた三国志62)の続きに当たる。

   袁術はまさに劉備と徐州を争い、呉景を以て(徐州)廣陵太守にした。後に袁術は僭号し、孫策は書を以て袁術を諭し、袁術は納めず、さらに江の津を絶ち、通を与えず、人に呉景に告げさせた。呉景は即ち郡を委ね東帰し、孫策は再び呉景を以て(揚州)丹楊太守に為した。漢は議郎の王誧を遣わし南行するよう君命を奉じ、呉景を表し揚武將軍に為し、郡を故(もと)の如く領させた。

   また『三国志』巻五十一呉書孫賁伝16)でも<<孫策創業(孫氏からみた三国志62)の続きで、次のように袁術の僭号前後の記述がある。

   孫策は孫賁、呉景に(揚州九江郡)壽春へ還らせ袁術に報告させ、袁術が僭号し、百官を署置したのに遭い、孫賁を(揚州)九江太守(※先の記述からだと「淮南尹」)に除した。孫賁は就かず、妻子を棄て江南に還った。

   ここに注がつき、次のように『江表伝』と『呉書』の記述17)が引かれる。

   『江表伝』に言う。
   袁術は呉景を以て(徐州)廣陵を守り、孫策の族兄の孫香もまた袁術の用いる所と為し、(豫州)汝南太守を作り、孫賁に將軍に為り、壽春に在って兵を領することを命じた。孫策は呉景に書を与えて言う。
「今、江東を征し、未だ二、三、あなたの意図が何なのかわかりません」
   呉景は即ち守りを棄て帰り、孫賁は困り後に免じ、孫香は道が遠いので独り還り得なかった。
   『呉書』に言う。
   孫香は文陽と字し、父の孫孺は仲孺と字し、孫堅の従弟で、郡に主簿功曹として仕えた。孫香は孫堅の征伐に従い功が有り、郎中を拝した。後に袁術のために駆馳し、征南將軍を加え、壽春で死んだ。

   袁術の僭号前後の記述に、『三国志』巻五十七呉書駱統伝18)の注に引く謝承『後漢書』があり、まず駱統伝の方を先に記述する。

   駱統は公緒と字し、(揚州)會稽の烏傷人だ。父の駱俊は、官が(豫州)陳相に至り、袁術の害する所と為した。

   その注に引く謝承『後漢書』19)の記述が次の通りだ。

   駱俊は孝遠と字し、文武の才幹を有し、若いときに郡吏と為り、孝廉に察し、尚書郎に補い、抜きんでて陳相を拝した。袁術の僭号に当たり、兄弟は怒り争い、天下は鼎沸し、群賊は並起し、陳国と境界は、奸慝(邪悪)が四方に布き、俊厲が武で威し、境界を保ち、賊は敢えて犯そうとしなかった。百姓を養い救い、災害は生じず、年間で豊かな稔りを獲た。後に袁術の軍衆が飢え困り、駱俊に就き糧を求めた。駱俊は袁術を憎み、初め応答しなかった。袁術は怒り、密かに人に駱俊を殺させた。

   こうして袁術が皇帝を僭号したことにより方々に波及したんだけど、袁術の続きを追う前に次に孫策の動きを追いたいと思う。


>>孫氏からみた三国志66   掲載日未定


1)   『三国志』巻八魏書張繡伝より。

董卓敗、濟與李傕等撃呂布、為卓報仇。語在卓傳。繡隨濟、以軍功稍遷至建忠將軍、封宣威侯。濟屯弘農、士卒飢餓、南攻穰、為流矢所中死。繡領其衆、屯宛、與劉表合。太祖南征、軍淯水、繡等舉衆降。太祖納濟妻、繡恨之。太祖聞其不悅、密有殺繡之計。計漏、繡掩襲太祖。太祖軍敗、二子沒。繡還保穰、

2)   『三国志』巻八魏書張繡伝注所引『傅子』『呉書』より。

傅子曰:繡有所親胡車兒、勇冠其軍。太祖愛其驍健、手以金與之。繡聞而疑太祖欲因左右刺之、遂反。呉書曰:繡降、用賈詡計、乞徙軍就高道、道由太祖屯中。繡又曰:「車少而重、乞得使兵各被甲。」太祖信繡、皆聽之。繡乃嚴兵入屯、掩太祖。太祖不備、故敗。

3)   『三国志』巻十八魏書典韋伝より。

拜韋都尉、引置左右、將親兵數百人、常繞大帳。韋既壯武、其所將皆選卒、毎戰鬥、常先登陷陳。遷為校尉。性忠至謹重、常晝立侍終日、夜宿帳左右、稀歸私寢。好酒食、飲噉兼人、毎賜食於前、大飲長歠、左右相屬、數人益乃供、太祖壯之。韋好持大雙戟與長刀等、軍中為之語曰:「帳下壯士有典君、提一雙戟八十斤。」
太祖征荊州、至宛、張繡迎降。太祖甚悅、延繡及其將帥、置酒高會。太祖行酒、韋持大斧立後、刃徑尺、太祖所至之前、韋輒舉斧目之。竟酒、繡及其將帥莫敢仰視。後十餘日、繡反、襲太祖營、太祖出戰不利、輕騎引去。韋戰於門中、賊不得入。兵遂散從他門並入。時韋校尚有十餘人、皆殊死戰、無不一當十。賊前後至稍多、韋以長戟左右撃之、一叉入、輒十餘矛摧。左右死傷者略盡。韋被數十創、短兵接戰、賊前搏之。韋雙挾兩賊撃殺之、餘賊不敢前。韋復前突賊、殺數人、創重發、瞋目大罵而死。賊乃敢前、取其頭、傳觀之、覆軍就視其軀。太祖退住舞陰、聞韋死、為流涕、募閒取其喪、親自臨哭之、遣歸葬襄邑、拜子滿為郎中。車駕毎過、常祠以中牢。太祖思韋、拜滿為司馬、引自近。文帝即王位、以滿為都尉、賜爵關内侯。

4)   『三国志』巻一魏書武帝紀より。本文のネタバレあり。

張濟自關中走南陽。濟死、從子繡領其衆。二年春正月、公到宛。張繡降、既而悔之、復反。公與戰、軍敗、為流矢所中、長子昂・弟子安民遇害。
公乃引兵還舞陰、繡將騎來鈔、公撃破之。繡奔穰、與劉表合。公謂諸將曰:「吾降張繡等、失不便取其質、以至於此。吾知所以敗。諸卿觀之、自今已後不復敗矣。」遂還許。
袁術欲稱帝於淮南、使人告呂布。布收其使、上其書。

5)   『三国志』巻一魏書武帝紀注所引『魏書』『世語』より。

魏書曰:公所乘馬名絶影、為流矢所中、傷頰及足、并中公右臂。世語曰:昂不能騎、進馬于公、公故免、而昂遇害。

6)   『三国志』巻一魏書武帝紀注所引『世語』より。

世語曰:舊制、三公領兵入見、皆交戟叉頸而前。初、公將討張繡、入覲天子、時始復此制。公自此不復朝見。

7)   『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝より。

策為人、美姿顏、好笑語、性闊達聽受、善於用人、是以士民見者、莫不盡心、樂為致死。劉繇棄軍遁逃、諸郡守皆捐城郭奔走

8)   『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝注所引『江表伝』より。

江表傳曰:策時年少、雖有位號、而士民皆呼為孫郎。百姓聞孫郎至、皆失魂魄;長吏委城郭、竄伏山草。及至、軍士奉令、不敢虜略、鶏犬菜茹、一無所犯、民乃大悅、競以牛酒詣軍。劉繇既走、策入曲阿勞賜將士、遣將陳寶詣阜陵迎母及弟。發恩布令、告諸縣:「其劉繇・笮融等故鄉部曲來降首者、一無所問;樂從軍者、一身行、復除門戶;不樂者、勿強也。」旬日之間、四面雲集、得見兵二萬餘人、馬千餘匹、威震江東、形勢轉盛。

9)   『後漢書』紀九孝献帝紀より。

二年春、袁術自稱天子。三月、袁紹自為大將軍。
夏五月、蝗。秋九月、漢水溢。
是歲飢、江淮閒民相食。

10)   『後漢書』列伝六十五袁術伝より。

自孫堅死、子策復領其部曲、術遣撃楊州刺史劉繇、破之、策因據江東。策聞術將欲僭號、與書諫曰:「董卓無道、陵虐王室、禍加太后、暴及弘農、天子播越、宮廟焚毀、是以豪桀發憤、沛然俱起。元惡既斃、幼主東顧、乃使王人奉命、宣明朝恩、偃武修文、與之更始。然而河北異謀於黑山、曹操毒被於東徐、劉表僭亂於南荊、公孫叛逆於朔北、正禮阻兵、玄德爭盟、是以未獲從命、櫜弓戢戈。當謂使君與國同規、而舍是弗恤、完然有自取之志、懼非海内企望之意也。成湯討桀、稱『有夏多罪』;武王伐紂、曰『殷有重罰』。此二王者、雖有聖德、假使時無失道之過、無由逼而取也。今主上非有惡於天下、徒以幼子脅於彊臣、異於湯武之時也。又聞幼主明智聰敏、有夙成之德、天下雖未被其恩、咸歸心焉。若輔而興之、則旦・奭之美、率土所望也。使君五世相承、為漢宰輔、榮寵之盛、莫與為比、宜效忠守節、以報王室。時人多惑圖緯之言、妄牽非類之文、苟以悅主為美、不顧成敗之計、古今所慎、可不孰慮!忠言逆耳、駮議致憎、苟有益於尊明、無所敢辭。」術不納、策遂絶之。
建安二年、因河内張炯符命、遂果僭號、自稱「仲家」。以九江太守為淮南尹、置公卿百官、郊祀天地。乃遣使以竊號告呂布、并為子娉布女。布執術使送許。

11)   『三国志』巻六魏書袁術伝より。

用河内張炯之符命、遂僭號以九江太守為淮南尹。置公卿、祠南北郊。荒侈滋甚、後宮數百皆服綺縠、餘粱肉、而士卒凍餒、江淮閒空盡、人民相食。

12)   『三国志』巻六魏書袁術伝注所引『典略』『九州春秋』より。

典略曰:術以袁姓出陳、陳、舜之後、以土承火、得應運之次。又見讖文云:「代漢者、當塗高也。」自以名字當之、乃建號稱仲氏。
九州春秋曰:司隸馮方女、國色也、避亂揚州、術登城見而悅之、遂納焉、甚愛幸。諸婦害其寵、語之曰:「將軍貴人有志節、當時時涕泣憂愁、必長見敬重。」馮氏以為然、後見術輒垂涕、術以有心志、益哀之。諸婦人因共絞殺、懸之廁梁、術誠以為不得志而死、乃厚加殯斂。

13)   『三国志』巻七魏書呂布伝より。

術欲結布為援、乃為子索布女、布許之。術遣使韓胤以僭號議告布、并求迎婦。沛相陳珪恐術・布成婚、則徐・揚合從、將為國難、於是往說布曰;「曹公奉迎天子、輔讚國政、威靈命世、將征四海、將軍宜與協同策謀、圖太山之安。今與術結婚、受天下不義之名、必有累卵之危。」布亦怨術初不己受也、女已在塗、追還絶婚、械送韓胤、梟首許市。

14)   『後漢書』列伝六十五呂布伝より。

術遣韓胤以僭號事告布、因求迎婦、布遣女隨之。沛相陳珪恐術報布成姻、則徐楊合從、為難未已。於是往說布曰:「曹公奉迎天子、輔贊國政、將軍宜與協同策謀、共存大計。今與袁術結姻、必受不義之名、將有累卵之危矣。」布亦素怨術、而女已在塗、乃追還絶婚、執胤送許、曹操殺之。

15)   『三国志』巻五十呉書呉景伝より。

術方與劉備爭徐州、以景為廣陵太守。術後僭號、策以書喻術、術不納、便絶江津、不與通、使人告景。景即委郡東歸、策復以景為丹楊太守。漢遣議郎王誧銜命南行、表景為揚武將軍、領郡如故。

16)   『三国志』巻五十一呉書孫賁伝より。

策遣賁・景還壽春報術、値術僭號、署置百官、除賁九江太守。賁不就、棄妻孥還江南。

17)   『三国志』巻五十一呉書孫賁伝注所引『江表伝』『呉書』より。

江表傳曰:袁術以呉景守廣陵、策族兄香亦為術所用、作汝南太守、而令賁為將軍、領兵在壽春。策與景等書曰:「今征江東、未知二三君意云何耳?」景即棄守歸、賁困而後免、香以道遠獨不得還。呉書曰:香字文陽。父孺、字仲孺、堅再從弟也、仕郡主簿功曹。香從堅征伐有功、拜郎中。後為袁術驅馳、加征南將軍、死於壽春。

18)   『三国志』巻五十七呉書駱統伝より。

駱統字公緒、會稽烏傷人也。父俊、官至陳相、為袁術所害

19)   『三国志』巻五十七呉書駱統伝注所引謝承『後漢書』より。

謝承後漢書曰:俊字孝遠、有文武才幹、少為郡吏、察孝廉、補尚書郎、擢拜陳相。値袁術僭號、兄弟忿爭、天下鼎沸、群賊並起、陳與比界、奸慝四布、俊厲威武、保疆境、賊不敢犯。養濟百姓、災害不生、歲獲豐稔。後術軍衆饑困、就俊求糧。俊疾惡術、初不應答。術怒、密使人殺俊。


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