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皇帝崩御(孫氏からみた三国志44)
2008.02.26.
<<涼州と幽州の顛末(孫氏からみた三国志43)


   中平六年夏四月丙辰(紀元189年4月11日)、皇帝は崩御した。

   これは一連の物事の終わりというより始まりの意味合いが強いこととなる。『後漢書』本紀や『後漢紀』を軸とし『後漢書』の各伝で補足しつつ流れを追ってみたいと思う。

   まず皇帝崩御の前の状況に少し戻り、『後漢書』何進伝1)より。大将軍の何進(字、遂高)と上軍校尉の蹇碩の関係について。

   蹇碩はただ宮中で兵をほしいままにし、そのためなお何進(字、遂高)を畏れ忌み、そのため諸常侍と共に、何進を西へやって邊章・韓遂を撃つように皇帝を説いた。帝はこれに従い、兵車百乗と虎賁斧鉞を賜った。何進は密かにそのはかりごとを知り、乃ち袁紹(字、本初)をやって徐兗二州兵を東で攻撃させ、すべからく袁紹を帰還させ、軍事につかせ、決行の日に到る。

   昔、何皇后は皇子の劉弁を生み、王貴人は皇子の協を生んだ。群臣は太子を立てることを請い、皇帝は劉弁が軽く威儀が無いとし、人主には出来ないとし、しかし、何皇后はいつくしみがあり、その上、何進もまた権勢があり、そのため久しく決まらないでいた。

   (中平)六年、皇帝は病が重くなり、劉協(皇帝の息子、皇子の弟)を蹇碩の元へ置いた。蹇碩は遺詔(遺言の詔)をすでに受けており、その上、元より何進兄弟に軽んじ憎んでおり、皇帝が崩御に及ぶと(後に霊帝と呼ばれる)、蹇碩はその時、宮内に在り、まず何進を誅して劉協を立てることを欲した。何進は外より入り、碩の司馬の潘隱と何進は早くからの古馴染みで、迎えてこれを目配せした。
   何進は驚き、儳道から走り営に帰り、兵を率い、百郡邸に入り駐屯し、病気を称し(宮内に)入らなかった(つまり霊帝の喪に望まず)。蹇碩の謀略は行われず、すなわち皇子の劉弁(何進の甥に当たる)は即位し、何皇后(劉弁の母)は朝廷に臨んだ。

   『後漢書』本紀2)によると即位したのは戊午(四月十三日)であり劉弁は年十七だった。尊皇后(何皇后)は皇太后になり、何太后は朝廷に臨んだ。改元し、光熹にした。皇弟の劉協を封じ渤海王にした。後将軍の袁隗を太傅にし、大将軍の何進と共に録尚書事を預けた。

   ここで『後漢書』何進伝の記述に戻る。
   何進は元より中官(宦官)が天下を侵していることを知っており、その上、蹇碩自身が朝廷の政治を執るよう図ることを憎んでおり、密かにこれを誅し正そうとした。袁紹もまた元より謀略があり、何進の親客の張津に頼りこれを勧めて言う
「黄門や常侍(共に宦官の官職)の権重は久しく、また共に永楽太后(「永楽」と称された南宮嘉徳殿に今居住していた董太后のこと4))はほしいままに姦利に通じ、将軍におかれましては正しく改め賢良を清く選び、天下をまとめ整え、国家のために患いを除いてください」
   何進はその言葉をもっともだと思った。また袁氏が世代を重ね貴を慈しんだことで、天下の帰すところであり、袁紹が元より良く士を養い、良く豪傑を用いており、その従弟の虎賁中郎将の袁術もまた気侠(男だて)を尊び、そのため並んでこれを厚遇した。それにより再び智謀の士、逢紀・何顒・荀攸らを広く徴集し、共に同じ腹心とした。

<2012年6月15日追記>
   この荀攸について、次のように『三国志』巻十魏書荀攸伝11)の記述が詳しい。

   荀攸は公達と字し、荀彧の従子だ。祖父の荀曇は、廣陵太守だった。荀攸は若いときに父を亡くした。荀曇が卒するに及び、故吏の張權は荀曇の墓を守るのを欲した。荀攸は年十三で、これを疑い、叔父の荀衢に言う。
「この吏は非常の色を有し、ほぼまさに姦が生じるでしょう」
   荀衢は覚り、そこで推して問い、殺人亡命を果たしていた。これによりこれ(荀攸)を異とした。何進が秉政し、海内の名士の荀攸等二十人余りを徴発した。荀攸が到ると、黄門侍郎を拝した。
<追記終了>

   『後漢紀3)より。
   上軍校尉の蹇碩は皇帝を軽薄で徳がないとし、二人の舅(何進と何苗)は虚名を好み治め、股肱の才は無く、社稷を安んず能力がないと怖れ、何進らを誅殺して、渤海王(劉協)を立てようと欲した。蹇碩は中常侍の趙忠、宋典と共に書で言う。
   (※『後漢書』何進伝に戻る。)
「大将軍の兄弟は国を取り、朝廷をほしいままにし、今、天下の党人と共に先帝の左右を誅しようと謀り、我の曹を平定します。しかし碩(わたし)の典禁兵によって、ことさら、しばらく深い考えを持ちます。今、共に宜しく上閤を閉じ、急ぎこれを捕らえ誅します」
   中常侍の郭勝は何進の同郡出身だった。何太后および何進の恩寵を受け、郭勝には権力があった。そのため郭勝は何氏を信任しており、遂に共に趙忠らと争い、蹇碩の計に従わず、その書を何進に示した。すなわち何進は黄門令を使いに出し、蹇碩を捕らえ、これを誅し(『後漢紀』だと、庚午、四月二十五日、獄に下り誅殺された)、それにより(何進は)その屯兵を領した。

   崩御から二日にして、まず何進は政治的な一大勢力となっていた蹇碩の勢力を殺いだ。

<2011年3月20日追記>
   ちょうど<<「西園八校尉と無上将軍」(孫氏からみた三国志42)にある『三国志』巻八魏書張楊伝10)の記述の続きで次のような記述がある。

   并州刺史の丁原は張楊(字稚叔)に兵を率い蹇碩に詣でさせ、仮司馬に為った。靈帝は崩御し、蹇碩は何進の殺す所と為り、張楊は再び何進の遣う所と為り、本州へ帰り兵を募り、千人余りを得て、上黨に留まることで、山賊を撃った。

<追記終了>

   霊帝の母である董太后近辺の話になる。こちらも政治的な一大勢力となっている。少し時間が遡る。
   まず『後漢紀』より。
   昔、皇帝(霊帝)は数度、皇子を失い、何太后は皇子の劉弁を生み、史道人家で養い、故に号を「史侯」とした。王貴人は皇子の劉協を生み、董太后宮で養い号を「董侯」とした。昔、大臣は太子を立てること(つまり誰が跡継ぎか決めること)を請うたが、劉弁は軽薄で威儀が無く、許可されず宗廟主となり、そのため何太后は寵愛し、大将軍の何進は権力を強め、ゆえに久しく決まらなかった。皇帝がまさに崩御し、劉協は上軍校尉の蹇碩に属した。劉協は疎く幼く、若くして喪に在り、百官を哀感し、見る人はこのため激しく泣いた。

   壬戌(中平六年四月十七日)、詔で言う。
「朕は小さい体で、海内(天下)の君主となり、朝早くから夜半まで憂え怖れ、助ける所を靡き知る。それ天地人の道であり、その用は三に在り、必ず補佐するべきであり、昭をもってその功とする。後將軍の袁隗の徳量は寛大で重く、代々、まめやかで慎み深い。今、隗をもって太傅とし尚書事を備える。その上、朕は諒闇(天子が先帝の喪に服す)であり、群后(諸侯)にまかせ、おのおのその職を率い、朕の意を讃えるのだ。」

   また多少、前述と被るが、『後漢書』皇后紀4)より。
   中平五年(八月)、董太后の兄の子の衛尉脩侯、董重を驃騎将軍にし、兵千人余りを領した(以前、書いた。<<参照)。昔、董太后は自ら霊帝の皇子の劉協を養い、皇帝に数度、太子を立てるように勧め、何皇后はこれを恨み、議が定められるに未だ及ばず、皇帝が崩御した。何太后は朝廷に臨み、董重と何太后の兄の大将軍の何進が権力が互いに害し、董太后が政事において参加を欲する毎に何太后はただちに禁じ塞いだ。董太后は怨んでののしり言う。
「汝は今、驚き恐れ、汝の兄を頼りとするのか?   まさに驃騎に何進の頭を斬り来させる勅令が下るだろう」
   何太后は聞き、それを何進に告げた。
   そのため、何進と三公および弟の車騎将軍の何苗らは上奏する(『後漢紀』によると中平六年五月のこと)。
「孝仁皇后(董太后のこと)は故(もと)の中常侍の夏惲・永楽太僕の封諝らを使い州郡と通じ、辜較に珍宝貨賂を在るところにし、尽く西省に入りました。蕃后は故事において京師に留まらず、輿服に章が有り、食前に品がありました。永楽后(董太后)に宮から本国へ遷ることを請います」
   上奏は許可された。何進はついに兵を挙げ驃騎府を囲み、董重を捕らえ、董重は官を辞め自殺した(『後漢書』本紀では五月辛巳、七日に獄に下り死んだ)。
   董太后は憂い怖れ、病を発し、崩御が明らかになり、位に在り二十二年だった(『後漢書』本紀では六月辛亥、八日、孝仁皇后の董氏が崩御した)。
   (のちに)民間は何氏に責任を負わせた。喪で河間に帰り、慎陵に合葬した。

   二ヶ月にして何進は董太后の勢力を殺いだことになる。


   ここであまり関係ない話を入れる。
   『後漢書』本紀より。
   秋七月に甘陵王の劉忠、薨去する。

   一度、劉忠はこの「孫氏からみた三国志」に出ている(<<参照)。跡継ぎが居たので、甘陵国が無くなることは回避された。しかし、『後漢書』章帝八王伝5)によると、
   劉忠が立って十三年に薨去し、嗣子(跡継ぎ)は黄巾に害されるところとなり、建安十一年(紀元206年)、後がないため、国が除かれた。
とのことで。


   ふたたび『後漢書』何進伝の記述に戻る。
   袁紹は再び何進に説いて言う。
「先の竇武は宮内の寵臣を誅することを望みましたが返って害されたため、その言葉が漏れたことが、五営百官が中人(宦官)に対し服し畏れていた理由です。今、将軍はすでに元より舅の重責があり、兄弟が並び強い兵を領し、部曲将吏は皆、英俊名士であり、力と命をつくすことを願い、事は手中にあり、この天の助けの時です。将軍は天下のため良く開始し、患いを除き、名を後世に残しましょう。周の申伯といえども、どうして道に足りましょうか。今、大行(霊帝の崩御)が前殿にあり、将軍は禁兵を領するという詔を受け、軽々しく宮省に出入りするべきではありません」
   何進は甚だこれに納得し、そのため病気を理由に喪の付き添いに入らず、また、山陵へ送らなかった。
   『後漢書』本紀によると(六月)辛酉(18日)、孝霊皇帝(霊帝)を文陵において葬った。

   『後漢書』何進伝の記述に戻る。
   遂に袁紹と共に籌策(はかりごと)を定め、その計を何太后に申した。何太后は聞き入れず言う。
「中官(宦官)は禁省を統領し、古から今に及び、漢家の先例では、(中官を)廃することができません。その上、先帝は新たに天下を棄てたのに、我(私)がどうしてあざやかに士人と共同してあたれましょうか?」
   何進は何太后の意が異なることを責め、その上、その欲しいままにする者を誅したいと思った。袁紹は中官が至尊(皇帝)と親密になると思い、出入り「今、ことごとく廃しなければ、後に必ず患いになる」と大声で命じた。そして何太后の母の舞陽君は何苗に及んで何苗は幾度も諸宦官の賄賂を受け取り、舞陽君は何進がこれ(中官)を誅したいことを知った。さらに幾度も何太后に申し、それをさえぎった。(舞陽君は)また言う。
「大将軍(何進)はもっぱら左右を殺し、権力を独占することで社稷を弱らせます」
   何太后は疑い、そのとおりだと思った。省闥にある中官で数十年の者は侯に封じられ身分が高く、内外を堅固にした。何進は新たに重任に当たり、元よりこれを畏敬し、ただ外では名声を集め、内では断ち切ることができず、そのため、久しく事が決まらなかった。

   ここに来て何進側の足並みが乱れてきた。

   引き続き『後漢書』何進伝より。
   袁紹らもまた画策のため、多く四方から猛将および諸豪傑を召し、並んで、兵を引き京城へ向けさせ、それにより何太后を脅そうとした。何進はこれを納得した。主簿の陳琳は入って諫めて言う
「易では『鹿に近付き謀らず』と言い、諺には『目を被って雀を獲る』とあります。そのつまらぬものはさらに志を得ているのに欺くことができず、いわんや国の大事なのに、いつわって立つことでそれを許されるのでしょうか?   今、将軍は皇威を集め、兵の要を握り、龍が空を飛び虎が歩くが如く、高きから低きまで心に留め、それでもなお大いに鼓が叩かれ炉が毛髮を焼いています。それは経に違い道に合い、天事と人事が準じるところで、英才を棄て返し、さらに外の助けを徴集します。大兵が集会し、強者は盛んになり、いわゆる干戈(たてとほこ)を逆さにもち人に柄を授けるようなもので、功は必ず成し得ず、まさに秩序の乱れの元となります」
   何進は聞き入れなかった。

   『後漢紀』によると、尚書の盧植(字、子幹)は言う。
「中官を誅殺し、外で徴兵しても足らず、その上、董卓は荒々しく、精兵が有り、必ず制することができなくなります」
   何進は従わなかった。

   『後漢書』鄭太伝7)によると、さらに尚書侍郎の鄭太(字、公業)も上言していた。
   昔、孝廉に挙げられ、三府で招聘され、公業は徴集されたが、すべて就かなかった。大将軍の何進の輔政におよび、名士を徴集し用い、公業を尚書侍郎とし、侍御史に遷った。進はまさに閹官を誅殺し、并州牧の董卓を招き、助けとしたいと欲した。公業は何進に言う。
「董卓は忍び義が少なく、志はあくことなく欲します。もし朝政を貸せば、大事に至り、まさにほしいままに強欲を抱き、必ず朝廷を危うくします。明公は親徳の重(皇帝の親戚)をもって、阿衡の権(殷の官名、湯王を補佐した伊尹のこと)に拠り、意に乗り独り決断し、有罪を誅殺し除き、誠に董卓に仮すことをもって援助するのはよろしくないでしょう。その上、事は変化に留まり、殷の鏡(殷の故事を手本とする)には遠くありません」
   また戦陣をなし、当世の要務の急ぐところであり、事を謀った。何進は用いず、すなわち(公業は)官を棄て去った。潁川人の荀攸に言う。
「どうして公(何進)は未だ補佐を改めようとしない」


   何進が董卓を招くことを良しとしない者は他にも居た。『三国志』魏書武帝紀の注に引く『魏書』8)より。
   太祖(曹操、字孟徳のこと)は(何進が董卓を招くことを)聞き、これを笑って言う。 「閹豎の官は今も昔も宜しく有るが、世の主が不当に権寵を貸せば、このようになるだろう。すでにその罪を治め、まさに元凶を誅殺し、一獄吏に足ることとなり、何をごたごたし外将(董卓のこと)を召す必要があるのだ? ことごとくこれを誅殺することを欲すれば、事は必ず露呈し、吾はその敗北を見るだろう」


   『後漢書』何進伝に戻る。
   遂に西から召した前将軍の董卓(字、仲穎)が関中(洛陽八関の内側)の上林苑に駐屯し、また府掾の太山出身の王匡にその郡の強弩を東より送らせ、併せて東郡太守の橋瑁を召し成皋に駐屯させ、武猛都尉の丁原(字、建陽)に孟津を焼かせ、火が城中を照らし、皆、宦官を誅することが言葉と思った。何太后は未だ従わなかった。

   『後漢書』董卓伝6)によって董卓の動きを見てみる。
   董卓は召され、すぐに道に就いた。並びに上書して言う。
「中常侍張讓らは盗み寵を承け、海内(天下)を汚し乱し、臣(私)は湯を揚げ沸騰を止めようとし、薪を取り去らないようなものと聞きます。できものがつぶれ痛がるといえども、内食より勝ります。昔、趙鞅は晉陽の甲を興すことで君側の悪人を追い出しました。今、臣はたちまち鍾鼓を鳴らし洛陽をはかり、張讓らを捕らえることを請い、それにより悪者を清めます」

<4月7日追記>
   さらに『後漢書』种劭伝9)によって董卓の動きを見る。
   大將軍の何進は宦官をまさに誅殺しようとし、并州牧の董卓を召し、澠池に至り、何進の意はさらに疑い深く心が定まらず、种劭(字は申甫)をやって、詔を宣しこれを止めた。董卓は受けず、ついに河南の前に至った。种劭は迎えこれをねぎらい、さとすことで軍をかえすよう命令した。董卓は異変があると疑い、その軍士を使って兵をもって种劭を脅した。种劭は怒り、詔を称して大いに叫びこれを叱り、軍士は皆、なびき、遂に先んじて董卓を質問により責めた。董卓は辞して屈し、乃ち軍を夕陽亭に帰した。
<追記終了>

   『後漢書』何進伝に戻る。
   何苗は何進に言う。
「共に南陽から来て始め、共に貧賤で、省内に依ることで貴富にいたりました。国家の事もまたどれほど容易でしょうか!   こぼれた水は集めることができません。良くこれを深く思い、その上、省内を合わせましょう」
   何進の意は疑い深く心が定まらないものになっていた。袁紹は何進が計を変えることを恐れ、そのためこれを脅して言う。
「かわるがわる構え、すでに成せば形と動きはすでに露わになっており、事が留まり変生し、将軍が再び何かを待とうとしても、早くにそれを決められないのではないでしょうか?」
   このことで何進は袁紹を司隸校尉にし節を仮し、命令を欲しいままにし、武力で処断した。従事中郎の王允(字、子師)は河南尹となった(<<王允が以前、でてきた箇所)。袁紹は洛陽の方略武吏に宦者を司察(伺い探る)させ、さらに董卓らに駅車を走らせ(京師へ)上がるよう促し、何進が平楽観で戦うことを望んだ。そのため何太后は恐れ、尽く中常侍小黄門を辞めさせ、里舍へ帰らせることで、それにより何進を留め人を予め自分のものとし、省中(禁中)を守った。諸常侍小黄門は皆、何進を訪ね謝罪し、処置されることになった。何進は向かって言う。
「天下は乱れ騒ぎ、まさに患いは諸君だ。今、董卓は辺境より至り、諸君はどうしておのおの国へすみやかに就こうとしない?」
   袁紹は何進にすなわちここで決するよう勧め、それは再三に至った。何進は許さなかった。袁紹はまた書によって諸州郡に告げ、何進の意をいつわって宣言し、中官(宦官)の親属を取り押さえさせた。

   何進は年月を重ね謀り、それが大いに漏れ、中官は恐れ思いを改めた。張讓の子の婦は太后の妹だった。張讓は子の婦を訪ね、叩頭し言う。
「老臣(わたし)は罪を得て、まさに新婦と共に私門へ帰りたい。恩を受け世代を重ねたいと思い、今まさに宮殿を遠く離れ、思いは懐かしく、願わくは再び一度は宿直し、太后と陛下の顔色を伺いたい。その後、退き、谷間につき、死んでも怨まない」
   子の婦は舞陽君に言って、入り何太后に告げ、そのため詔で諸常侍は皆、宿直に復帰した。

   こうして何進は宦官の巧みさにより勢力を殺ぐことができずにいた。
   この行方は次回へ続く。




1)   『後漢書』竇何列伝の記述。本文のネタバレあり。

碩雖擅兵於中、而猶畏忌於進、乃與諸常侍共説帝遣進西撃邊章・韓遂。帝從之、賜兵車百乘、虎賁斧鉞。進陰知其謀、乃上遣袁紹東撃徐兗二州兵、須紹還、即戎事、以稽行期。

初、何皇后生皇子辯、王貴人生皇子協。群臣請立太子、帝以辯輕佻無威儀、不可為人主、然皇后有寵、且進又居重權、故久不決。

六年、帝疾篤、屬協於蹇碩。碩既受遺詔、且素輕忌於進兄弟、及帝崩、碩時在内、欲先誅進而立協。及進從外入、碩司馬潘隱與進早舊、迎而目之。進驚、馳從儳道歸營、引兵入屯百郡邸、因稱疾不入。碩謀不行、皇子辯乃即位、何太后臨朝、進與太傅袁隗輔政、録尚書事。

進素知中官天下所疾、兼忿蹇碩圖己、及秉朝政、陰規誅之。袁紹亦素有謀、因進親客張津勸之曰:「黄門常侍權重日久、又與長樂太后專通姦利、將軍宜更清選賢良、整齊天下、為國家除患。」進然其言。又以袁氏累世寵貴、海内所歸、而紹素善養士、能得豪傑用、其從弟虎賁中郎將術亦尚氣侠、故並厚待之。因復博徴智謀之士(龐)〔逢〕紀・何顒・荀攸等、與同腹心。

蹇碩疑不自安、與中常侍趙忠等書曰:「大將軍兄弟秉國專朝、今與天下黨人謀誅先帝左右、掃滅我曹。但以碩典禁兵、故且沈吟。今宜共閉上閤、急捕誅之。」中常侍郭勝、進同郡人也。太后及進之貴幸、勝有力焉。故勝親信何氏、遂共趙忠等議、不從碩計、而以其書示進。進乃使黄門令收碩、誅之、因領其屯兵。

袁紹復説進曰:「前竇武欲誅内寵而反為所害者、以其言語漏泄、而五營百官服畏中人故也。今將軍既有元舅之重、而兄弟並領勁兵、部曲將吏皆英俊名士、樂盡力命、事在掌握、此天贊之時也。將軍宜一為天下除患、名垂後世。雖周之申伯、何足道哉!今大行在前殿、將軍(宜)受詔領禁兵、不宜輕出入宮省。」進甚然之、乃稱疾不入陪喪、又不送山陵。遂與紹定籌策、而以其計白太后。太后不聽、曰:「中官統領禁省、自古及今、漢家故事、不可廢也。且先帝新棄天下、我奈何楚楚與士人對共事乎?」進難違太后意、且欲誅其放縱者。紹以為中官親近至尊、出入號令、今不悉廢、後必為患。而太后母舞陽君及苗數受諸宦官賂遺、知進欲誅之。數白太后、為其障蔽。又言:「大將軍專殺左右、擅權以弱社稷。」太后疑以為然。中官在省闥者或數十年、封侯貴寵、膠固内外。進新當重任、素敬憚之、雖外收大名而内不能斷、故事久不決。

紹等又為畫策、多召四方猛將及諸豪傑、使並引兵向京城、以脅太后。進然之。主簿陳琳入諫曰:「易稱『即鹿無虞』、諺有『掩目捕雀』。夫微物尚不可欺以得志、況國之大事、其可以詐立乎?今將軍總皇威、握兵要、龍驤虎歩、高下在心、此猶鼓洪爐燎毛髮耳。夫違經合道、天人所順、而反委釋利器、更徴外助。大兵聚會、彊者為雄、所謂倒持干戈、授人以柄、功必不成、秖為亂階。」進不聽。遂西召前將軍董卓屯關中上林苑、又使府掾太山王匡東發其郡強弩、并召東郡太守橋瑁屯城皋、使武猛都尉丁原燒孟津、火照城中、皆以誅宦官為言。太后猶不從。

苗謂進曰:「始共從南陽來、倶以貧賤、依省内以致貴富。國家之事、亦何容易!覆水不可收。宜深思之、且與省内和也。」進意更狐疑。紹懼進變計、乃脅之曰:「交搆已成、形ゲイ已露、事留變生、將軍復欲何待、而不早決之乎?」進於是以紹為司隸校尉、假節、專命撃斷;從事中郎王允為河南尹。紹使洛陽方略武吏司察宦者、而促董卓等使馳驛上、欲進兵平樂觀。太后乃恐、悉罷中常侍小黄門、使還里舍、唯留進素所私人、以守省中。諸常侍小黄門皆詣進謝罪、唯所措置。進謂曰:「天下匈匈、正患諸君耳。今董卓垂至、諸君何不早各就國?」袁紹勸進便於此決之、至于再三。進不許。紹又為書告諸州郡、詐宣進意、使捕案中官親屬。

進謀積日、頗泄、中官懼而思變。張讓子婦、太后之妹也。讓向子婦叩頭曰:「老臣得罪、當與新婦倶歸私門。惟受恩累世、今當遠離宮殿、情懷戀戀、願復一入直、得暫奉望太后・陛下顏色、然後退就溝壑、死不恨矣。」子婦言於舞陽君、入白太后、乃詔諸常侍皆復入直。

2)   『後漢書』孝靈帝紀より。本文のネタバレあり。

(中平六年夏四月)

丙辰、帝崩于南宮嘉德殿、年三十四。戊午、皇子辯即皇帝位、年十七。尊皇后曰皇太后、太后臨朝。大赦天下、改元為光(喜)〔熹〕。封皇弟協為渤海王。後將軍袁隗為太傅、與大將軍何進參録尚書事。上軍校尉蹇碩下獄死。五月辛巳、票騎將軍董重下獄死。六月辛亥、孝仁皇后董氏崩。

辛酉、葬孝靈皇帝于文陵。

雨水。

秋七月、甘陵王忠薨。

庚寅、孝仁皇后歸葬河閒慎陵。

徙渤海王協為陳留王。司徒丁宮罷。


3)   『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)より。本文のネタバレあり。

(中平六年四月)丙辰、帝崩於嘉德殿。

時蹇碩在省中、欲誅大將軍何進、使人迎進欲與計事。進即駕往、司馬潘隱出迎進、因而逆之。進馳去、屯百郡邸、稱疾不入。

戊午、皇子辯即帝位、太后臨朝、大赦天下。封皇弟協為勃海王。

初、帝數失皇子、何太后生皇子辯、養於史道人家、故號為「史侯」。王貴人生皇子協、養於董太后宮、號為「董侯」。初、大臣請立太子、辯輕佻無威儀、不可以為宗廟主、然何后有寵、大將軍進權重、故久而不決。帝將崩、屬協於上軍校尉蹇碩。協疏幼、少在喪、哀感百官、見者為之感慟。

壬戌、詔曰:「朕以眇身、君主海内、夙夜憂懼、靡知所濟。夫天地人道、其用在三、必須輔佐、以昭其功。後將軍袁隗德量寬重、奕世忠恪。今以隗為太傅録尚書事。朕且諒闇、委成群后、各率其職、稱朕意焉。」

上軍校尉蹇碩以帝輕佻不德、二舅好脩虚名、無股肱之才、懼不能安社稷也、欲誅進等、立勃海王。與常侍趙忠・宋典書曰:「大將軍兄弟秉國威權、欲與天下黨人共誅内官、以碩有兵、尚且沈吟、觀其旨趣、必先誅碩、次及諸君。今欲除私讎、以輔公家。」是時上新崩、大行在前殿、左右悲哀、念在送終、碩雖用、有謀策、其事未可知也。忠・典以碩書告大將軍進、進誘諸常侍共誅碩。或曰:「碩、先帝所置、所嘗倚仗、不可誅。」中常侍郭脈與進同郡、素養育進子弟、遇之曰:「進、我所成就、豈有異乎?可卒聽之。」

庚午、上軍校尉蹇碩下獄誅、兵皆屬進。

中軍校尉袁紹説進曰:「黄門常侍秉權日久、永樂太后與之通謀、禍將至矣。將軍宜立大計、為天下除患。」於是進・紹共圖中官。進厚遇紹及虎賁中郎將術、因以招引天下奇士陳紀・荀攸・何顒等、與同腹心。

初、驃騎將軍董重與大將軍何進權勢相害、中官協重、以為黨助。永樂亦欲與政事、何后不聽、永樂后怒曰:「汝怙大將軍邪?敕驃騎斷大將軍頭如反手耳!」何后聞之、以告進。五月、進與三公奏:「故事、蕃后不同居京師、請永樂宮還故國。」於是驃騎將軍董重下獄死。永樂后怖、暴崩、衆以為何后殺之。

紹復説進曰:「前竇氏之敗、但坐語言漏洩、以五營兵士故也。五營皆畏中官、而竇〔氏〕(后)反用之、皆叛走、自取破滅。今將軍既有元舅之尊、二府並領勁兵、部曲將吏皆英俊之士、樂盡死力、事在掌握、天贊之時也。功著名顯、重之後世、雖周之申伯、何足道哉!」進言之於太后、太后曰:「中官領禁兵、自漢家故事、不可廢也。且先帝新棄天下、我奈何楚楚與士人共對乎?」進承太后意、但欲誅其放縱者。紹以中官近至尊、今不廢滅、後益大患。

初進寒賤、依諸中官得貴幸、内嘗感之、而外好大名、復欲從紹等計、久不能決。太后母舞陽君及弟車騎將軍苗謂進曰:「始從南陽來、依内宮以致富貴。國家亦不容易、深思之。覆水不可收、悔常在後。」〔苗〕(進)入、復言於太后曰:「大將軍專欲誅左右、以擅朝權。」太后疑焉。紹聞之懼、復説進曰:「形勢已露、將軍何不早決?事久變生、復為竇氏矣。」於是進以紹為司隸校尉、王允為河南尹、乃召武猛都尉丁原・并州刺史董卓將兵向京師、以脅太后、尚書盧植以為:「誅中官、不足外徴兵、且董卓凶悍、而有精兵、必不可制。」進不從。

六月辛酉、葬孝靈皇帝於文陵。

秋七月、徙勃海王協為陳留王。

董卓到澠池、上書曰:「中常侍張讓等竊幸乘寵、汩亂海内。昔趙鞅興晉陽之甲、以逐君側之惡、乃鳴鐘鼓以如洛陽。」進謂諸黄門曰:「天下洶洶、正患諸君耳。今董卓欲至、諸君何不各就國?」於是黄門各就里舍。

是時進謀頗洩、諸黄門皆懼而思變。張讓子婦、太后之娣也。讓叩頭向子婦曰:「老臣得罪、當與新婦倶歸私門。惟受恩累世、今當離宮殿、情懷戀戀。願復一入直、得暫奉望太后・陛下顏色、然後退就溝壑、死且不恨。」讓子婦言於舞陽君、入白、乃詔諸常侍皆復入直。

4)   『後漢書』皇后紀より。本文のネタバレあり。

孝仁董皇后諱某、河閒人。為解犢亭侯萇夫人、生靈帝。建寧元年、帝即位、追尊萇為孝仁皇、陵曰慎陵、以后為慎園貴人。及竇氏誅、明年、帝使中常侍迎貴人、并徴貴人兄寵到京師、上尊號曰孝仁皇后、居南宮嘉德殿、宮稱永樂。拜寵執金吾。後坐矯稱永樂后屬請、下獄死。

及竇太后崩、始與朝政、使帝賣官求貨、自納金錢、盈滿堂室。中平五年、以后兄子衛尉脩侯重為票騎將軍、領兵千餘人。初、后自養皇子協、數勸帝立為太子、而何皇后恨之、議未及定而帝崩。何太后臨朝、重與太后兄大將軍進權ゲイ相害、后毎欲參干政事、太后輒相禁塞。后忿恚詈言曰:「汝今輈張、怙汝兄耶?當敕票騎斷何進頭來。」何太后聞、以告進。進與三公及弟車騎將軍苗等奏:「孝仁皇后使故中常侍夏惲・永樂太僕封諝等交通州郡、辜較在所珍寶貨賂、悉入西省。蕃后故事不得留京師、輿服有章、膳羞有品。請永樂后遷宮本國。」奏可。何進遂舉兵圍驃騎府、收重、〔重〕免官自殺。后憂怖、疾病暴崩、在位二十二年。民閒歸咎何氏。喪還河閒、合葬慎陵。

5)   『後漢書』章帝八王伝より。本文のネタバレあり。

忠立十三年薨、嗣子為黄巾所害、建安十一年、以無後、國除。

6)   『後漢書』董卓伝より。次回以降のネタバレもあり。

及帝崩、大將軍何進・司隸校尉袁紹謀誅閹宦、而太后不許、乃私呼卓將兵入朝、以脅太后。卓得召、即時就道。並上書曰:「中常侍張讓等竊倖承寵、濁亂海內。臣聞揚湯止沸、莫若去薪;潰癰雖痛、勝於內食。昔趙鞅興晉陽之甲、以逐君側之惡人。今臣輒鳴鍾鼓如洛陽、請收讓等、以清姦穢。」卓未至而何進敗、虎賁中郎將袁術乃燒南宮、欲討宦官、而中常侍段珪等劫少帝及陳留王夜走小平津。卓遠見火起、引兵急進、未明到城西、聞少帝在北芒、因往奉迎。帝見卓將兵卒至、恐怖涕泣。卓與言、不能辭對;與陳留王語、遂及禍亂之事。卓以王為賢、且為董太后所養、卓自以與太后同族、有廢立意。

7)   『後漢書』鄭孔荀列傳より。本文のネタバレあり。

鄭太字公業、河南開封人、司農眾之曾孫也。少有才略。靈帝末、知天下將亂、陰交結豪桀。家富於財、有田四百頃、而食常不足、名聞山東。

初舉孝廉、三府辟、公車徵、皆不就。及大將軍何進輔政、徵用名士、以公業為尚書侍郎、遷侍御史。進將誅閹官、欲召并州牧董卓為助。公業謂進曰:「董卓彊忍寡義、志欲無猒。若借之朝政、授以大事、將恣凶慾、必危朝廷。明公以親德之重、據阿衡之權、秉意獨斷、誅除有罪、誠不宜假卓以為資援也。且事留變生、殷鑒不遠。」又為陳時務之所急數事。進不能用、乃棄官去。謂潁川人荀攸曰:「何公未易輔也。」

8)   『三国志』魏書武帝紀の注に引く『魏書』より。

魏書曰:太祖聞而笑之曰:「閹豎之官、古今宜有、但世主不當假之權寵、使至于此。既治其罪、當誅元惡、一獄吏足矣、何必紛紛召外將乎?欲盡誅之、事必宣露、吾見其敗也。」

9)   『後漢書』种劭伝より。

大將軍何進將誅宦官、召并州牧董卓、至澠池、而進意更狐疑、遣劭宣詔止之。卓不受、遂前至河南。劭迎勞之、因譬令還軍。卓疑有變、使其軍士以兵脅劭。劭怒、稱詔大呼叱之、軍士皆披、遂前質責卓。卓辭屈、乃還軍夕陽亭。

10)   『三国志』巻八魏書張楊伝より。

并州刺史丁原遣楊將兵詣碩、為假司馬。靈帝崩、碩為何進所殺。楊復為進所遣、歸本州募兵、得千餘人、因留上黨、撃山賊。

11)   『三国志』巻十魏書荀攸伝より。

荀攸字公達、彧從子也。祖父曇、廣陵太守。攸少孤。及曇卒、故吏張權求守曇墓。攸年十三、疑之、謂叔父衢曰:「此吏有非常之色、殆將有姦!」衢寤、乃推問、果殺人亡命。由是異之。何進秉政、徴海内名士攸等二十餘人。攸到、拜黄門侍郎。


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