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▼鶴見川さん:
半分の回答どころか、十分過ぎるレスを頂きありがとうございます。
各時代の色々な方々の意見を教えていただき、本当に参考になりました。
整理しますと、
・史官は存在しなかった。
・史官は存在したが、物事を記録する制度が確立されていなかった。
・史官は存在したが、蜀滅亡時の混乱で記録が散逸した。
の3つの意見があるようですね。
史官の職がなかったことで、諸葛亮が非難されていると言うことは、やはり重要な職だったことが感じられますね。
個人的には、危急存亡の秋にあり、人材の乏しい蜀では、実務に関係のない史官に人を割くことが出来なかったのではないかと想像していました。
当らずといえども遠からず、という感じですね。
>蜀の史官の存否はこちらの下の方でもすでに話題になっていたんですね。
>http://cte.main.jp/sunshi/w/w050731.html
こちらのサイトも興味深く読ませていただきました。
話は少し変わりますが、蜀の吏は滅亡時に4万人という記録があります。
他のサイトで聞いた話ですが、呉は、それより人口が多かったにも関わらず、吏の数は3万5千人だったそうです。吏の数が多かったにも関わらず、史官が居なかった(可能性がある)。蜀の国はそれだけ統治が困難だったのでしょうか。山岳地帯というのは、それだけ管理が大変だったのかと、考えてしまいました。
この点については、考えがまとまったら、また質問させていただく事にします。
今回は、ありがとうございました。
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