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▼鶴見川さん:
>蜀の史官の存否はこちらの下の方でもすでに話題になっていたんですね。
>http://cte.main.jp/sunshi/w/w050731.html
>先生方が結論を留保されるほどの問題なので、私が結論を出す事は全くはばかられますね・・・
こんばんわ。
リンク先にある「第一回 三国志シンポジウム」に関しては第二回のときに、第一回の第一部のレジュメと第二部の議事録とをまとめた冊子が配られていました。
史官の話は第二部に出てきた話だと思うのですが、その冊子から該当する部分を以下に転載しておきますね。但し、一気に打ち込んで、特に読み返していないので、誤りや抜け落ちがあるかもしれませんが、そこらへんはすみません。
大東文化大学文学部中国学科/編集『三国志シンポジウム』(2006年2月10日発行)
PP.86-89
第二部 パネルディスカッション
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東京大学三国志研究会
ありがとうございました
金先生にうかがいます。先生は、さきほど蜀の鼓吹曲はのこされていないとおっしゃりましたが、蜀は自分たちの国家は漢であると主張していたので、漢の鼓吹曲をそのまま用いていたという可能性はありませんか。といいますのは、蜀は漢王朝だと自称しており、制度もだいたい漢朝のものをそのまま用いています。そして、『宋書』楽志を見ますと、漢の鼓吹曲も収録されておりますから、既に「漢」という王朝には鼓吹曲はあったわけです。蜀漢は自らを漢王朝と主張していたわけですから、新たな鼓吹曲を作ることは、自らが新たな王朝であると言っていることになるため、鼓吹曲を作らなかったのではないでしょうか。『宋書』楽志を見ますと、魏・晋・呉の鼓吹曲には、たとえば魏の鼓吹曲の場合「漢第一曲朱鷺、今第一曲初之平、言魏也」というように、「漢の鼓吹曲の第〜曲は〜〜というタイトルだったが、この曲は〜〜である」というような解説が見えます。このことからも、魏・晋・呉は、漢に取って代わる王朝として、自らの王朝の鼓吹曲を作った、少なくとも『宋書』の著者・沈約はそう理解していた、と見ることができると思います。ということは蜀の鼓吹曲は、残っていないのではなく、最初から無かったのではないかと思うのですが、如何でしょう
金文京(京都大学)
ああ、それはかんがえられますね。私はそういう風に考えたことはなかったのですが、それは、今うかがってみると、なるほどなと思います。そうなると、各国がみな自国の同時代史の物語を作っているのに、蜀だけが作らなかったことになるわけで、それはそれで非常に面白いと思います。
東京大学三国志研究会
それに関して、もう一つおうかがいしたいのですが、先生は今の鼓吹曲の話について、ご高著『三国志演義の世界』の中で、蜀の鼓吹曲が残っていない理由について、「蜀は史書を編纂しなかったから史料が散逸した」と書いておられるわけですが、これは陳寿が『三国志』蜀書後主伝で「蜀は史官を置かなかった」(三)と書いているのを根拠となさっておいでだと思うのですが、これについては唐代の史家劉知幾が『史通』の中で、「諸葛亮が史官を置かなかったと陳寿は書いているけれども、こんなことがあるはずない、これは陳寿が父親が諸葛亮に刑罰を受けたことを恨んでわざと悪く書いたのである」ということを書いています。私個人としても、鼓吹曲が蜀の正統性、王朝の正統性を宣伝するために大事だというならば、自国史を編纂することは、自らの正統性を主張するためにもっと大事なことだと思うので、劉知幾と根拠は違いますが、やはり蜀が史官を置かなかったということは考えにくいと考えているのですが、先生はこれについてどうお考えでしょう。
金文京(京都大学)
私は正直いって深く考えたことがなくて、史官がなかったという陳寿の説をただ単に採っただけなのですが、常識的に考えて、あれだけ知識人がいたわけですから、たとえ、政府で編纂しなくても、[言焦]周とか、やはり誰かが歴史を書いて残すということは当然あったと思うのですよね。ただ、それは史料が無い話になるので、想像で勝手なことは言えませんけれども、なんらかの記録はあって、あるいは史官もいて、歴史書もあったのかもしれませんが、今ではそれは残っていないわけですし、記録も無いということで、ただ三国志の蜀志の一番最後に『季漢輔臣賛』というものがある。そこには人物の賛なんかがずっと載っていますね。ああいうものがある以上は、やはり何らかの記録があったのだと思いますけれども、蜀の場合は征服されたあとに成都の街自体が焼かれたりして史料があまり残っていないですよね。呉の場合はすんなり降伏したので、たぶん呉にあった史料は、南京にあったものがきっちり残ったと思いますが、蜀の場合は反乱が起こりますから、それで成都が大混乱になって史料が散逸した可能性というのがあるのではないでしょうか。そのへんは私にはよくわかりませんので(笑)、渡邉先生はどう思いますか。
渡邉義浩(大東文化大学、司会)
私よりはですね、フロアに国士舘大学の津田資久先生がいらっしゃいますので(笑)。陳寿や正史『三国志』の編纂についてが専門ですから、お答えいただければと思います。
津田資久(国士舘大学)
お答えと言いますが、日ごろ考えていることを少しお話したいと思います。まず、諸葛亮のときに史官が無かった、あったという話ですが、これよくわからないですね。本当によくわからないです。つまり、諸葛亮のときには無かったけれども、その後に置かれたという可能性も一つ考えられるわけですし、さらに言うならば、ここでいうところの「史官」というものの実態は一体何なのか、という問題にも関わってくると思います。つまり魏に置かれた著作郎のような歴史編纂官を指しているのか、それとも太史令のような、天文・暦法などを司る官を指しているのかもよくわかりません。後主伝の問題の記述を見ていきますと、そういう災異の記事が欠けているとお話なので、(ここで指すものは歴史官ではなく)あるいはその太史である可能性もあると思います。あと、蜀ではたぶん後漢の制度をそのまま継承しているはずですから、後漢における国史編纂を行っていた、兼務していたというのでしょうかね。東観というものがありまして、その東観秘書郎というのに陳寿はなっております。あるいはそこで国史編纂のようなことをやっていた可能性もまた一つあるかと思われます。ただし本当に史料がないのでよくわからないとしか言いようがありません。あと、ついでに金先生にお聞きしたいのですが(笑)、蜀の鼓吹曲のお話なのですが、漢の鼓吹曲というのは高祖と光武帝のときと両方ともあるのでしょうか。
金文京(京都大学)
いや、あれは『漢書』にあるだけだと思います。
津田資久(国士舘大学)
『漢書』だけですか。どうもありがとうございます。
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付記 以上の討論は、当日の議論を東京大学三国志研究会が起こした文章に、渡邉義浩が読みやすいように手直しを加えたものです。
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≪ 注 ≫
(三)「又国不置史、注記無官、是以行事多遺、災異靡書」(『三国志』巻三十二・後主伝)。
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