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「三国志シンポジウム」雑感
050731
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 三国志シンポジウムのレポート。

2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感  07/31 (Sun) 2005


 こういうのは読み手にとっても書き手にとっても熱の冷めないうち、当日か翌日に書いてアップするのがいいんだけど、ついつい遅れてしまった。まぁ、その分、他の人への記事へリンクできるからいいんかな。

 さて、大東文化大学では毎年、この時期にオープンキャンパスをやっていて、2004年も中国文学科(現、中国学科)で渡邊義浩先生が「三国志の世界」というタイトルで体験授業講義をやっておられたんだけど、今年度は中国学科へと改称するので、それを記念して「三国志シンポジウム」を行うってことだった。


 この話は四月ぐらいに確定したようだけど、それ以前に噂(というかフライング情報・汗)はチラホラあった。
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1641
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1610
http://cte.main.jp/newsch/article.php/59

 まぁ、そういうことが長い間、興味を惹きつけられた要因の一つでもあるんだけど、発表のタイトルなど内容のこともきいて当日を迎える。

 前の日に、ネット上の知り合いにあって会食し(いわゆるオフ会)、ビジネスホテルに泊まり、当日を迎える。

 会場は大東文化大学のオープンキャンパスと同じく、東松山キャンパス。そこの622教室になるそうな。東武東上線に乗って、最寄り駅の高坂駅へ。10時から始まるというのに9時50分高坂駅着。間に合うのか、と焦りながら、電車から降り、無料のスクールバスに乗る。やっぱり電車に合わせてスクールバスがきていて、それに乗り込み、やがて出発(※と後で聞いたら、前の電車で来た人はバスを随分、まったとのこと)。そして、丘の上の大東文化大学へ。
 バスから降りると、オープンキャンパスの看板の前にそこには大きく「三国志シンポジウム」とあった(右上の写真)。その後に学校のパンフレットとか飲み物とかもらえる受付みたいなのがあったけど、もう10時を回っていたので、そこをスルーしていざ会場へ。ソーラーハウスみたいな渡り廊下を通り、階段を下り、レジュメ(白黒の冊子)をもらいいざ会場の教室へ。足を踏み入れると、案の定、午前の司会の中林史朗先生の挨拶がもう始まっていた。

 会場は意外と大きく、大学の大きめの講義室(階段状の教室)といったところだ。発表者は一段高いところでずらりと並んでいて、その中央にいかにも発表するぞ、といった机が用意されている。その前の聴衆の席は向かって左から学習院大学三国志研究会。通路を挟んで、東京大学三国志研究会、早稲田大学三国志研究会、そしてまた通路を挟んで、右は大東文化大学三国志研究会。このプログラムには書いてなかった謎の大東文化大学三国志研究会はシンポジウムが終わった後に何となくその正体がわかるのだが。
 とりあえず、会場の右前へ陣取る。

※これから三国志シンポジウムをあれこれ書くのだけど、下記のリンク先とあわせて読むとわかりやすい。
・宣和堂電網頁の宣和堂遺事(2005年7月31日付け)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xuan-he/
・木の葉のページの寝言(NO.123)
http://www.h2.dion.ne.jp/~konoha/
・民草厨房(女性向けサイトなので注意)のBoyaki(2005年7月31日付け)
http://tamigusa.itigo.jp/
・AKN's三國志図書館の三國志図書館Blog(2005年8月1日付け)
http://akn.to/
・蜀人気質の沈思黙考(2005年8月1日付け)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shuren/
・三国志漂流(2005年8月2日付け)
http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040
・東京大学三国志研究会のサイト(2005年7月31日付け)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/2832/
・三国志ファンのためのサポート掲示板の感想ツリー
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1871

・三国志シンポジウム
日時 2005年7月31日(日)午前10時〜午後3時
会場 大東文化大学東松山校舎622教室
対象 高校生・大学生・一般市民・研究者

総合司会 中林史朗(大東文化大学教授)



○基調報告  金 文京(京都大学人文科学研究所所長)「日中韓三国の三国志」

 司会の中林史朗先生から金文京先生の紹介が始まる。レジュメより副題は「三つの三国志物語」。タイトルから現在の日中韓の三国志系ジャンルをそのまま紹介するのかな、と思ったら、そうではなく源流から紹介している。つまり三国演義の成立までを説明し、そこから日中韓にわかれていくって話の流れだ。
 三国演義の源流、つまり三国志の物語化を「説三分」とかじゃなくて、もっと古い鼓吹曲(当時の軍歌の類。講演では「鼓吹歌」。宋書に載っている)に持ってきているあたりが面白い。実際、物語調になってるしね。蜀の鼓吹曲は現在に伝わってないが、伝わっていれば三国演義の源流になるという。
http://cte.main.jp/newsch/article.php/149
 次は「三国志平話」に飛ぶ(三国演義関連の政治的な話らしい)。元代。三国演義との違いをまず説明。その大きな違いの二つ、冒頭の転生話と末尾の劉淵の話を紹介。それから成立した元代の時代背景が三国志平話にどう影響を与えているか(正当論、民族論、五行説、宋=漢)に話が移る。「事林広記」だと「元は宋を継承し」みたいな事実と反したことが書かれていることを指摘し、それは当時の願望を反映しているとのこと(政治的、民族的に微妙な問題)。
 それから韓国の話へ。李氏朝鮮時代に三国演義の記録あり(「小説を読むな」とか記述らしい。朱子学の精神に関連)。さらに時代が下って壬申倭乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略の時)。明の軍人が関羽廟をつくるから、朝鮮にその資金を要請したとのこと。それで小説への反感が高まったとかで。ソウルの関帝廟の話。韓国人で参拝する人はいないとのこと。でも臥龍廟(諸葛亮)は参拝する人がいるとのこと。今では韓国では日本と同じく小説やらマンガやらゲームやらが流行っているが、今でも知識層の一部では否定的な意見が多いとのこと。日本ではそういった政治的なものが切り離されて三国志ブームが起こっている。

○報告  石井 仁(駒沢大学助教授)「三国時代の軍事制度」

 司会の中林史朗先生から石井仁先生の紹介がされ報告が始まる。三国演義との三国志のギャップを持ってきて、三国演義では一刀のもとにきりすてた、とかいって会場を沸かしてつかんでいる。古代ローマを引き合いに出して(塩野七生先生の「ローマ人の物語」の名がでていた)、実は三国志の軍事はよくわからないとおっしゃっている。但し戦争全体の戦略とか外交はわかるが、バトル(作戦レベル?)はわからないという意味。
 で話は渭水の戦い(曹操軍対韓遂&馬超軍)の話にうつる。長矛の役割(張飛の愛用している蛇矛で形状、つまり長柄を解説)。長矛の例として孫策軍対黄祖軍のときの劉表が黄祖に長矛五千の援軍をおくったという話にとび、さらに歩兵と騎兵の比率の話で、北の公孫[王賛]軍が3:1で袁紹軍が10:1、南の孫策軍が20:1という話(→だからまとまった長矛は歩兵だろう)。長矛はどう使われていたかの話。168年の逢義山の戦いからマケドニア密集軍を引き合いに出していた。
 「虎彪騎」は「鉄騎」で「重装騎兵」(馬もよろいをつけている)だと推測されるそうな。太平御覧に引く「魏武軍策令」に出ている馬鎧を証拠の一つとしている。それを使った軍事のこととして、三国志魏書の武帝紀の渭水の戦いの記述から軍の動きの予想図をレジュメに示している(ほかにも逢義山の戦いも)。つまり当時の中国にも古代ローマのように有機的な統合戦術があった、と。
 曹操の話。孫子研究の第一人者、とのこと(曹操の注釈が残っている)。「通典」に曹操の「軍令」があるとのこと。あと軍律は厳しかったとか、いろいろ。
 武将はおしゃれって話。例の諸葛亮の話とか(レジュメには横山三国志の二コマが載せられていた)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;id=;tree=1452
 関羽と張飛の話特集。いろいろと。武人の地位はどうだったかって話とか。

○ 休憩時間

 ネットの知り合い二人とは会ったんだけど、残りの知り合いに会えないかときょろきょろしていた。壇上の発表者の一人の和田さんがなにやら携帯で操作をしていた。事前に和田さんとメールのやりとりをしていたんだけど、もしやと思い、ノートPCを見るとメールが来ていた。それで席を立たずにお互い手を振り合う(笑)


○報告 中川諭(大東文化大学助教授)「『三国志演義』ができるまで」

 司会の中林史朗先生から中川諭先生の紹介がされ報告が始まる。「三国志」と「三国演義」の違い。史書と小説の違いってあたりで一般向け。陳寿の「三国志」編纂話。六朝時代の裴松之の注、成立話。実際にレジュメに現在の「三国志」のコピーが出されていて本文と注の様子を示す。上記二つでとられなかった三国志の物語化(伝説とか歴史事実じゃないこと)は捜神記を初めとする志怪小説、それと世説新語などをあげた後に、金先生の鼓吹曲の話を一言フォロー。唐の時代はまとまった三国志の物語はなく断片的。晩唐の詩人、李商隠の「驕児詩」に張飛のひげ面のことが書かれているから、三国志の物語はある程度、広まっていたって話。宋代になるとまとまった資料が出てくる。講談や演芸が出てくるそうな(東坡志林とか、三国芝居とか、講談師の霍四究とかを例に)。
 元代には劇にして演じようとする「戯曲」、講談を文字にしようとする「平話」(評話)が出てくる。「全相平話三国志」(三国志平話)の話。講談の種本的存在らしい。それで三国志平話の写真を持ってきて聴衆に見せていた。
※余談だけど、清岡はネットでも見れるよ、とノートPCで二階堂善弘先生のサイトを隣の人に見せたら、引かれてしまった(汗)
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/
それで三国志平話に見られる南北の起源の考察。現在に伝わるのは確かに南方で出版されているが、起源は北方、て話。
 さらに三国志平話の訳本の話。自訳本の宣伝(笑)。例の光栄から出ている二階堂善弘先生と中川諭先生の本。パソコン通信で訳をやっていたら、光栄の人の目に止まったそうな。すごい話だ。(※追記 サイト「>>宣和堂電網頁」の大宋宣和茶論(掲示板)の過去ログ(2001年9月17日、記事番号831)を見ていたら、二階堂先生の書き込みがあって、そこによると三国志平話の訳は 「パソコン通信で連載」→「光栄の雑誌に載る」→「本になる」 という流れだそうだ。発表で「パソコン通信でやっていたら光栄の人の目にとまって」っていう旨の下りがよくわからなかったんですが、なんとなくわかってきた。パソコン通信っていうとコミュニティみたいなのじゃなくてコンテンツみたいなのを想像すればいいんかな。あと、光栄の雑誌(歴代のどれだろ)に載ってたというのも私的には新情報)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;id=;tree=1762
 三国志平話から三国演義へ。どういう関係なのか決定的な資料はないとのこと。三国演義の嘉靖本の話(嘉靖元年、西暦1522年に初めて刊行された本)。スペインに三国志演義の本がのこってるそうな(すげー!)。その後、関索の話が付け足されたとのこと(金先生リスペクト発言有り・笑)。清代、康熙年間(1662〜1722年)になると毛宗崗が数ある三国演義を添削し、いわゆる毛宗崗本がでてきた話。清代の終わりには毛宗崗本が主流になったとのこと


○報告 和田幸司(三国志サイトウェッブマスター)「インターネットにおける三国志の世界」

 司会の中林史朗先生から和田幸司先生の紹介がされ報告が始まる。その中で中林先生の発言でインターネット利用が普及したという発言に続き「おかげさまで、余談ですが、私も今やインターネットの世界で、一介の学者と言うよりは骨董品好きのただのおじさんとして知られていいます」という発言で会場をわかせていた。
※以下、タイトル通り、インターネットのサイトでの三国志関連の話(主にファンによる個人サイトやコミニティ)の話になって、まさしく我々の身近なことなので、冷静に見ていられなる(気恥ずかしい!)。そのせいか、普段、ネットに馴染みのない人々との温度差が気になって過敏反応をしていたし、あまり発表が頭に入らないでいた。
 以前の発表と異なり、プロジェクターを使うようだ。その変化に聴衆がついていってないようで、目に面白いのが映し出されているにも関わらず反響が薄い。
 まず自己紹介から。自分のサイトの紹介。それからサイトでのおそらく最も古い三国志個人サイトの紹介。
http://www.baobab.or.jp/~matumoto/sangokushi/
 三国志系サイトのサイト数の話。一週間に10サイトぐらいできているとのこと(すごい!)。和田さんからの「三国志サイト、運営している人、手をあげてください」との質問。会場わく。清岡出遅れ、挙げられず仕舞い。
 それから和田さんと三国志ジャンルとの出会い話。ゲームをやっていたときに知った三国志の人物は「張飛と関羽と賈[言羽]」と発言したら会場大受け。それから横山三国志を読み(友だち同士で回し読み)、それから後に「諸葛孔明」という小説を読んだとのこと。それからしばし三国志ジャンルから遠ざかったそうな。
 ウェブ三国志界を文化の視点から、の話(ここらへんからは知識欲を刺激される)。歴史・文学の分野における三国志への興味の深化。「三国志ファンのためのサポート掲示板」の話とか
http://cte.main.jp/
おそらく「OVER LOAD」の掲示板の話(サイトや掲示板の名前出ず、董卓の貨幣の話)が例として出てくる。
http://overload-system.net/
それからネット上での三国志と三国志演義の話(いわゆるネットでの正史派・演義派云々)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;id=;tree=791
 三国志ファンにとってのバイブル、ちくま学芸文庫「正史 三国志」(筑摩書房刊、ちくま学芸文庫、ISBN4-480-08041-4から全8巻)。会場、少しわく。ファンの興味の対象となる歴史書が「後漢書」「三国志」「晋書」「後漢書集解」「三国志集解」と広がっている。サイトでどんな掲載資料があるかって話。→人物辞典、年表、地図、漢籍の日本語訳、三国志データベース。学界発の電子工具書の利用。→電子漢籍文献、漢字辞典・年号変換ツール、三国志目録検索システム(※渡邉義浩先生のサイトにあるやつだ)
http://china.ic.daito.ac.jp/cgi-bin/handy/ftmsw3
http://books.bitway.ne.jp/gakken/kanjigen/club/
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;id=;tree=1824
http://cte.main.jp/newsch/article.php/120
 そういったネットでの活動の蓄積の話。三国志研究の専門家の領域と違い、三国志ファン同士によるウェブ三国志界では特に整理されずそして蓄積されないまま、「至る所で同じ様な議論が繰り返される」ということで、一見、無駄なことを繰り返しているようであるけど、「それが故に三国志ファンが逗留されて」おり、ウェブ三国志界が盛んだ、ということをおっしゃられていた。なるほど、すごく納得した!

○休息

 いわゆる昼休み。オープンキャンパスとあって、一階の食堂も二階の食堂も混んでいた。そのせいか、午後の部に遅れることになる(汗)。ちなみに期待されていたんで書くと、「エポックメイキング」という単語の意味を知らない人がいたことをここに記しておこう(内輪ネタ)。





○討論会
司会 渡邉義浩(大東文化大学教授)
東京大学三国志研究会・早稲田大学三国志研究会・学習院大学三国志研究会など。

 昼休みの食堂が混んでいたせいで、我々は20分遅れで会場入りする。当たり前だけど、すでに討論会は始まっていた。
 討論会というから、てっきり各大学の三国志研究会同士が何か三国志にまつわることを討論すると思いこんでいたが、どうやら違うようだ。午前の基調報告ならびに報告に関する質問を各大学の三国志研究会が用意していて、それを順次、報告者に質問していくって形式。
※あとで人伝えで聞いたんだけど、どうもコメンテーターがあらかじめレジュメを見て質問を用意していたようで、その質問内容は発表者側にはあらかじめ報せているようなことはなかったようだ。
 我々が到着していたときは早稲田大学三国志研究会の質問がすでに行われていた。
※質問と回答が1対1という単純なものではなかった(そこらへんが討論?)のと私の聞くテンションが下がっていたので、以下、ほとんどメモ書きになっている。さらに聞き間違え・聞き逃しが多数あると思われるのでご注意を。



▽早稲田大学三国志研究会の質問
・早稲田大学三国志研究会のサイト
http://www.jggj.net/3594

◎三国志はいつ頃、日本へ伝わったか(三国演義の方とのこと)。
(金先生)はっきりとは言えないと思うが三国演義の方は、嘉靖本。朝鮮に入ったのが(嘉靖本ができてから)数十年後だからそれと時をあまり隔てずに同じくして入ったのでは。

◎(日本文学か何かの論文で)太平記と三国演義がかなり似てるという表記。同じぐらいの時期(つまり三国演義ができてからすぐ)に日本入ってきた?
(金先生)三国志平話なども伝わった可能性もある。それより前の平家物語で似ている部分があるって話。能で三国志平話と似ている部分がある。

◎史書にみられる「虎豹騎」と「虎騎」の表記の違いと蜀の虎騎監について
(石井先生)「虎賁」(九錫の一つ?)という言葉から説明。
※このとき、渡邉先生が黒板に「虎賁(こほん)」と「九錫(きゅうせき)」とルビ付きで書いていた。以降もたびたび黒板で用語を書いてくれる。

・下記ブログ「げんりゅうの欣喜雀躍」の2005年8月2日の記事を参考にすると、ここは、げんりゅうさんの質問だったようだ。
http://blog.livedoor.jp/genryu_nori/
(※8月29日追記。上のようなことを書いてトラックバック送信したら、げんりゅうさんが上記ブログ、8月29日付けの記事でさらに詳しいことを書いていただく。質問の動機や上の論文の詳しい情報等ある)

◎三国演義における他の通俗小説からの影響で面白い話は何かないか。
(中川先生)ぱっと思い浮かぶのはないが、花関索伝が三国演義(毛宗崗本?)に取り込まれた過程。あと先生が発見したもので資治通鑑の話が三国演義に取り込まれているって話(嘉靖本にはない)。南京あたりで出版された三国演義では資治通鑑の話、特に呉に関する話が取り込まれている。そもそも三国演義より早い長編の白話小説がぱっと思い浮かばないので影響も思い浮かばない。
(金先生)(逆に)三国演義のストーリーが取り込まれることはたくさんある。呂布が劉備をののしる話。花関索の名前がみえるとか。


▽学習院大学三国志研究会の質問

◎曹操の歩戦令(軍令)と魏の兵戸制(軍制)との関係について。軍制が厳しい軍令を可能にしたのか、厳しい軍令を実行化させるために軍制をつくったか。
(石井先生)兵戸制の簡単な説明から。後漢末から南北朝時代の初期ごろまで兵戸という特別な戸籍をつくった(ある一定の兵士を出すための戸籍)。曹操の兵戸制のきっかけの話とか流民や黄巾賊(青州兵)を取り込んだ話とか。

◎青州兵と軍令とのギャップ。青州兵に略奪が多いことから、それらの兵に軍令が適応されていたのか疑問
(石井先生)今の話は先生の著作「曹操」にも書いている。曹操のエピソードから説明。曹操は青州兵を特別扱いしていた?(降伏したんじゃなく協力関係?) 中世の時代区分の話(領主とか私兵とか豪族とか)。このその他の国の中世(鎌倉幕府を例に)と同じでいいのか。

※ここで司会の渡邉先生から注釈。豪族(≠領主)と中世の捉え方で石井先生と渡邉先生は少数派。基本的な京都大学系の話を紹介(豪族=領主)。それから曹操と青州兵の関係の説の紹介

◎武将の軍事能力の位置づけ。合戦の実際のところ(チャンチャンバラバラじゃない?)。
(石井先生)曹操の武将たちへの事細かな指令の話。

◎陣形のこととか、バトル(千人規模ぐらい?)のこと。バトルの実状は?
(石井先生)バトルレベルだとあまりわからない。

◎最後に俗な質問。諸葛亮について。軍事的に優れていないと言われる風潮がありますがが、私はそれに疑問を持っていますが、石井先生はどのようにお考えですか?
(石井先生)おっしゃるとおりだと思います。名将というか

◎中国には政治的な側面がある。日本では政治的な側面がないのはなぜ
(金先生)簡単にいうと、軍事的に日本はほとんど中国と関係を持っていない。日本は中国の政治システムに入ってないから(三国志は中国の政治的背景があることと関係)。

◎日本では三国演義と水滸伝がともにはいってきたが、韓国ではどうか
(金先生)日本と同じ。需要の仕方に違いはあるが。共通点は多い。


▽東京大学三国志研究会の質問
・東京大学三国志研究会のサイト
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/2832/
※この顛末は近日中に上記サイトの日記でアップされるとのこと

◎三国志をどういった経緯で研究しているのか
(金先生)三国志を研究しようと思ったことはない(場内わく)。大学二年のときの花関索伝発見で花関索伝に興味を持ち、花関索伝の研究から入った。戯曲の研究家。
(石井先生)三国志の専門家ではない。六朝史など。
(中川先生)小川先生の影響。授業で詩経の話なのにいつのまにか三国志の話になっていた。修士のときに花関索伝の研究会があった。そのとき、金先生のところへおしかけた(場内わく)。
(和田先生)研究家ではなく一ファンとしてしかお答えできない。サイトで日々、一つ一つ積み重ねていく過程が「三国志」だと。
(渡邉先生)科学者希望だったが高二のときに読んだ小説の三国志がきっかけ。大学のはじめ三国志を研究したい、って人は結構、多いが、みんな止めていった。当時(※今もか?)は「(研究対象に)三国志、何いってんの?」っていう風潮が普通だったとのこと。先生はそのままやってしまった。本を書くと儲かるのは(中国史の分野の中で)三国志だけ(場内、笑)。他の分野は本を書けば書くほど貧乏になる。
※司会に質問するのはルール違反だそうな。
(中林先生)子どものときから漢語読み(三国志も読んだ)。出版社と話していて、気付いたことに、三国志関係の出版は当時、関西の先生ばかりだったとのこと。それで「癪」と感じたとのこと(場内、笑)。曰く「一番、儲かるところをなぜ関西にとられないといけないんだ」(場内、爆笑)。その後、関西じゃない先生方に三国志関連の本を書いてもらったとのこと。やっと三国志関係を関東に持ってきたって話。その流れで今回のシンポジウムがあるってことだそうな(場内、笑いっぱなし。金先生から「私は関西」とツッコミがあったような…)。今後、この世界は若い渡邉先生中心に関東で進んでいく、ってことで締め。

◎三国志平話は庶民、三国志は知識層、演義はどういった層に読まれていた?
(中川先生)読者は誰か?はかなり難しいとのこと。本ですから、字を読める層。そうなると上層部?教養人? 小説は卑下されていたが机の下で実はいろんな人が読んでいた? 三国演義と教養人のエピソードを紹介(教養人が三国演義を読んでいることを知られ恥ずかしい思いをしたという)。

◎<延々と質問者の発表になっている質問> 日本における文化資源としての三国志? コミュニケーションツールとしての三国志?
(和田先生)あまり深く考えたことがない(※この質問だと質問の意図がわからないのは当たり前のような…)
(金先生)金先生のスーパー歌舞伎の話。「劉備が女で関羽と恋仲になる」っていう一作目の話。
http://cte.main.jp/sunshi/off/repo10.htm
主演の市川猿之助さんが先生の本をヒントにこの脚本を書いたとのこと。劉備が女性って考え方は中国で昔からあったとのこと(例えば三国演義で劉備だけがそれを暗示する双刀を持っている)。スーパー歌舞伎に協力している中国の雑伎団がこのストーリーに断固反対したが、タイトルに「新」をつけて「新三国志」ってタイトルにしてどうにか折り合いをつけた、とのこと。中国人にとって「三国志」というのは決まっている(三国演義は許容範囲のフィクションが入っている)。日本ではそういうのはありえる。韓国はその真ん中ぐらい。

◎鼓吹曲の話。蜀のが残ってないのは、漢から引き継いだので元々、なかったのでは?って質問。三国平話や三国演義に鼓吹曲の影響はあるのか?
(金先生)それだと蜀は同時代史的なものを作らなかったことになるが、それはそれで面白い。

◎蜀が史官を置かなかったと陳寿は書いているが、これは陳寿が私怨で悪く書いているから、実際は史官は居た?
(金先生)(史官がいたいないに関わらず)常識的に考えて、誰かが歴史(記録)を残したのは当然あったと思っている(今は記録にない)。呉はすんなり降伏したのに対し、蜀は征服された後に反乱が起こり成都が大混乱となるので史料が散逸したのでは。

※ここで、見に来ていた国士舘大学の津田先生に話がふられる。
(津田先生)諸葛亮のときに史官があったかなかったっていうのは本当にわからない。その後に置かれた可能性もある。史官はなにか?って問題にもかかわってくる。歴史編纂官? 天文官? あと、蜀は後漢の制度をそのまま引き継いでいるんで国史編纂をやっていた可能性はあると思う。
※ここで津田先生からの質問
◎漢の鼓吹曲は○○と□□(※ききとれず)の両方ともある?
(金先生)カンジョにあるだけだと思う。

◎六朝期を経て兵書が消えていった理由、豪傑たちが重視されなかったこと、兵法が学問として成立しなかった理由等
(石井先生)バトルはよくわからなかったが、ストラティジーはよくわかる。曹操の兵書は実際の話よりは理論的な話になっている。バトルは職人技→中国では職人の地位は低い。理論をくみたてるのは尊重されるが実践する人は尊重されない。文官が優勢になる。
(金先生)三国時代までは文武のバランスがとれている。六朝期を経た後は圧倒的に文治社会。その理由は難しい。武という文化(武人文化)が消えてしまったわけではなく低層で受け継がれていたのではないか。近代以前の最も大きな組織は官僚組織と軍人組織。(話変わって)芸能というのは軍事と表裏一体。軍隊の中に芸人がいる話。


▽大東文化大学三国志研究会の質問
※残り1分で出番が回ってくる。

◎新三国志の話(劉備が女)と「登場人物があたかも韓国人」というレジュメの記述をふまえ、日本での三国志物語と韓国での三国志物語の中でキャラクターに大きな違いがあって面白いってものを紹介して欲しい。
(金先生)趙雲を題材にしたある小説の話。三国志とは違う話になっている。アドリブ的にかかれた箇所(兵士の会話部分とか)が韓国になっている。

○渡邉先生による討論会、閉会の挨拶。
なかなか難しい質問が多かった。

○中林先生による「三国志シンポジウム」閉会の挨拶
※ここでの冒頭で、先の文武の質疑応答の注釈が少し入る。なぜ文が強くなってきたかは儒教社会の成立が関連。
来年再来年とこういったシンポジウムを開きたいがそれは予算次第ということ(場内、笑)


 というわけで満場拍手で終了。
 振り返ってみるとかなり満足なシンポジウムだった。

・三国志シンポジウムの感想・コメント等は下記のリンク先で
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1871


 個人的なことだけどこの後、ネットの知り合いとでプチオフ会を開くのでした。
http://cte.main.jp/sunshi/w/w050801.html







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