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また、質問をお願いします。
三国志の特集本等や、サイトを読んでいると「蜀には(正式な)史官が居なかった」という文に出会うことがあります。
史官が居なかったので、本来なら個人の伝が立てられるはずの「呉懿」「陳到」の伝がない、という事体が発生した。
史官が置かれなかったのは、天文官でもあった同職が「天文にかこつけて、余計な提言をするのを孔明が嫌った為」という解釈をされていました。
ちなみに、「史官が居なかった」という解釈の元になる原文の引用は、一切見たことがありません。
本当に史官は居なかったのでしょうか?
春秋時代の有名なエピソード「斉の崔杼、主君(荘公)をしいず(殺す)」から、私は国家に記録は不可欠なもの、と考えていました。これのない(中国古代の)国家はまともな国家とは云えないのではないか、という思いがあります。
それとも、私が考えるほど、史官の存在は重いものでは無かったのでしょうか?
ここからが質問なのです。
前振りが長くてすいません。
蜀に史官が居なかったことを示す(推察させる)文はあるのでしょうか?
本当に無かったのなら、その理由はなぜなのか(これは推測になると思います)
宜しくお願いいたします。
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