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▼R・Fさん:
>私の見たサイトでは、異説を全訳していたわけではなかったのですね。
>やはり、原文に当たらないと、と最近は思うのですが、白文は辛いです。
>「ちくま」あたりで訳が出てくれないかと、思っています。
>少々高くても、「三国志集解」なら、需要はあるような気がするのですが。
実際のところですと、難しいでしょうね汗
値段も半端ないものになりそうですから、出版されても大学などの研究機関しか手に入れられないという感じになりそうな気がします。現在汲古書院で出版されている渡邉義浩先生翻訳の『後漢書』みたいに。(一冊数万円が十冊近くも…)
ちなみ僕は『晋書』和訳が欲しいのですが…こちらは需要もなさそうです…泣
>実は、呉質の「醜侯→威侯」の例もありますから、ひょっとして関羽は劉禅に嫌われていたのか、とのあらぬ妄想もしたわけなのですが。
>
>門田鳳雛さんの諡号辞典
>http://www.toride.com/~fengchu/sigou/
>ここを拝見すると、
>「蒙穀曰く、昔、わが秦の穆公様は、三良(三人の立派な臣、奄見・仲行・鍼虎)を殺し(殉死させ)、百里奚を処罰されましたが、(かれらは)罪を犯したわけではありませんでした。それゆえ号(諡号)を繆(穆と同じ)と申し上げるのです」とある。
>とあって、確かに「繆」は「穆」と同じと明言してあるわけです。ところが「繆」は「悪諡」、「穆」は「美諡」となっています。そのあたりの知識が無いので、「美諡」と「悪諡」が同じということがあるのか、ということで更に混乱したわけです。知識がないと、こういうときは本当に辛いですね。
>すいません。愚痴になりました。
もしかするとですが、「繆」と「穆」は本当は厳密には使い分けられていたのかもしれませんが、ちょっとわかりません。僕も詳しいわけではないので…
ただちょっと調べてみたんですが、『史記』秦本紀における秦の「ボク」公は、「繆公」となっているのが圧倒的に多く、「穆公」となっているのは一例のみです。司馬遷の参照した秦関係の原史料は「繆公」となっていたのかもしれません。それがいつしか「繆」と「穆」は通用するという事で、後世では「穆公」が一般的になった…完全に想像ですが。
『三国志』に話を戻しますが、蜀書巻34に穆皇后傳が立てられています。関羽傳の「繆」と使い分けられています。また同趙雲傳には
「於是関羽・張飛・馬超・ホウ統・黄忠及(趙)雲乃追諡、時論以為栄。」
ともあります。
「繆」は「穆」と通用して美諡とすることもあれば、悪い意味で取って悪諡とすることもある。これが実態なのかもしれません。ただし、不完成など若干そういう意を含ませたいときは、関羽のようにあえて「繆」として、美諡としたのかもしれません。これも想像です。そのように使い分けられていたのならば、当代の関羽の評価が垣間見えて面白い問題ではありますが、最早『三国志』に留まるものではないというものに思えます。もしかすると研究があるかもしれません。
>とんでもございません。
>長文を本当にありがとうございました。
僕はこの道に詳しいわけでなく、あくまで『集解』にはどう書いてあるか、を言ってみただけですので、R・Fさんの要望に沿うものではなかったと思いますが、参考になっていただけたなら幸いです。
あと、何度も申し上げてくどいかもですが、僕の『集解』訳等は間違っているかもなので、もっと多くの人にお聞きになるのがいいと思います。何しろ僕はまだ大学三年ですので…
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