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▼R・Fさん:
>質問です。
>盧弼の『三国志集解』で関羽の諡号である「荘繆侯」について、こう記されています。
>
>死者に栄誉を与えるため「繆」という字を使ってよいか、という問題がある。
>関羽に送られた「繆(ビュウ)」ではなく「穆(ボク)」ならば、秦ノ穆公や魯ノ穆公に使われた文字だ。孟子には、漢ノ穆公生、秦の穆公が載っている。古代では、全て「穆」を使った。宋の岳飛が武穆と追諡されたのも、同じ意味である。
>諡法によれば、関羽に付けられた「繆(ビュウ)」はマイナスの評価で、武功が成らなかったという意味である。
>「繆(ビュウ)」と「穆(ボク)」が混同されたのだろうか。
>
>とあります。
>私も、壮繆侯の「壮」に誤魔化されていて気が付かなかったのですが、確かに「穆(ボク)」ではなく「繆(ビュウ)」です。ちくまの訳では「繆」に「ボク」とルビを振っています。「穆」と勘違いするのも無理は無い。…言い訳ですね、すみません。
>
>某サイトで話題として振ったところ、ちくまの訳は「訳者が、字の混同であると解釈してルビを振ったのでっはないか」との見解を頂きました。が。それ以外には反応がありませんでした。
>
>そこで、改めてここで質問させていただくことにしました。
>「繆」と「穆」のどちらと思われますか?
>
>答の出る質問でないことはわかっています。造詣の深い皆さんの見解を披露していただけたら、と思っています。
>
>よろしくお願いします。
>
>私の見たのは、以下のサイトです。
>『いつか書きたい三国志』
>http://www.3guozhi.com/g/s1.html
はじめまして。このサイトに投稿するのも初めましてです。
リンクのサイトに行ってみましたが、
>死者に栄誉を与えるため「繆」という字を使ってよいか、という問題がある。
>関羽に送られた「繆(ビュウ)」ではなく「穆(ボク)」ならば、秦ノ穆公や魯ノ穆公に使われた文字だ。孟子には、漢ノ穆公生、秦の穆公が載っている。古代では、全て「穆」を使った。宋の岳飛が武穆と追諡されたのも、同じ意味である。
>諡法によれば、関羽に付けられた「繆(ビュウ)」はマイナスの評価で、武功が成らなかったという意味である。
>「繆(ビュウ)」と「穆(ボク)」が混同されたのだろうか。
の箇所はそこのサイト主さんの訳ですね。ただ僕が集解見た限りですと、若干不足があるように思いますので、僕なりに集解を訳してみます。(といっても正しいかは別です汗)
まずこの諡に関して、盧弼は程敏政と梁章鉅の二人の注釈を引き、結論的には程の説が正しいと言っています。その程の説ですが、
「(略)関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠・趙雲も皆追諡を得て、世論は栄誉なこととした。案ずるに古代では「繆」と「穆」は通用していた。例えば、秦の穆公・魯の穆公が孟子に見え、漢の穆生・晋の穆彤が史書(史記?)に見えるが、皆「繆」と記されている。宋の岳飛は武穆と諡されたが、これと意味は同じである。今関羽の諡が悪諡とされるのは、諡法に『武功が成らない事を「繆」と言う』とあるからである。蔡邕の『独断』名実過爽にはこうある。『繆豈理也。(わかりません)』もし悪諡であれば、史書では追諡を言わない原則があり、世論が関羽の追諡を栄誉なこととするだろうか。(略)古代の書物では「穆」は「繆」に作っていた。『左傳』では「穆」は多く「繆」に作っている。このことから、「穆」と「繆」は古今で通用しているのである。」
一方の梁の説ですが、正確に訳せないので大要を記すと、
「「荘繆」はともに美諡ではない。当時の人がどうしてこれを採用するのか、その理由が知れない。今殿本をによって改め、「忠義」とする。」
これに対し盧弼が程説を支持し、何か講評みたいな事を記しているんですが、ちょっと疲れたので省略させてもらいます汗
さて両氏の説ですが、梁説はちょっと根拠に欠けますね。殿本を実際に見てみなければなんとも言えないところです。
程説は説得力があります。というのは、僕はちくま和訳の『史記』を読んだことがあるのですが、「繆公」で「ボクコウ」とルビがふられているんですよね。最初は誤植か誤訳だと思ったんですが、後で『史記』の原文を見ると、確かに「繆公」と記されているんです。
おそらくちくま『三国志』の訳者も程敏政及び盧弼に賛同し、「繆」と「穆」は通用していると解釈したのでしょう。
長文すいません。またはじめに断りましたが、なにぶん標点もない集解ですし、僕の訳が間違っている可能性も十分ありますので、ご了承ください。
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