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▼岡本さん:
孟津については私も交通網とか詳しくないのですが、黄河の渡しということで前記のような発想になりました。
メインの要路なんか分かればいいんですけどね。
>西は夕陽亭の董卓、東は成睾の橋瑁、北は孟津の丁原ですね。これで南方を除いてほぼ封鎖されました。
南方は何進が南陽出身なので、地元の利を生かして色々手を回して軍を置かなくてもよい状況だったか、それとも有力豪族が怖くて置くに置けなかったかだと思います。
後者については、私は何氏は南陽豪族の中でもそれほど勢力の大きい豪族ではないと考えるからなのですが、外戚となって10年近く(何氏が皇后になったのが180年)経っていれば南陽の中でも有力豪族たりえる勢力になっているのかもしれません。
孫子に“囲師には必ず闕き”とあるのは…関係ないか。
>竇武の二の舞だけはさけるべきだという進言から兵権を固めさせていることを考えると、第二の張奐の出現を避けるために洛陽を封鎖、そして自軍勢力の結束を固めるために仮節を得たとする見方のほうが暴走を防ぐためだったとみるよりも妥当でしょうか。
竇武伝・陳蕃伝から、竇武の軍事蜂起の失敗は張奐の力が大きかったというより、中央軍の兵が宦官を恐れていた事による自壊が原因でしょう。何進(袁紹)らはその事を考慮して外軍(董卓ら)を引き込み、もし何進側が軍事蜂起しても中央軍が(外軍の行動を恐れて)宦官側につかないよう予防措置をとったのだと思います。
後に何進が誅殺された時は何進の部曲とそれに便乗した袁紹・袁術らが蜂起して、市街戦にまで発展させる事無く宮内での戦闘になりましたが(このため結局外軍は役に立たなかった)、時間的な問題はあったにせよ何進が西園から接収した軍・五営の軍(+何進の大将軍府・どさくさに紛れて殺害された何進の弟何苗の車騎将軍府)に動きが無かったのは、これらが一連の騒動を静観していたからともとれますね。
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