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▼むじんさん:
>これについては何太后から宦官誅滅の令旨を引き出すため、示威行動を取ったよ
>うですね。『後漢書』何進伝だったか、どこかに書いてありましたよ。
いつも詳しい情報ありがとうございます。早速検索して調べてみました。『後漢書』何進伝でした。しかし、最初にこの内容を拝見したときは
「そんな馬鹿な理由で?!」と我が目を疑いましたが。
孟津は洛陽にとっても黄河に対する水上交通の要であるはずです。そんな大事な港を焼き払うのは経済・民心への大打撃ですので暴挙以外の何物でもない、という認識でした。もし止むを得ず焼き払ったなら白波賊か黒山賊の洛陽乱入対策かと思っていました。
宦官への示威行動で地方の実力者の参集で前将軍・董卓の駐屯、泰山の王匡の強弩部隊、東郡太守・橋瑁の駐屯までは(穏やかではないにせよ)理解とまだ納得ができたのですが、その次の
”使武猛校尉丁原焼孟津”のフレーズはニュアンスが完全に違います。効果的でしょうが暴挙です。反発も大きいでしょう。ほとんとその筋の人のやり方です。
その後、流石に何苗から「覆水盆に還らずですよ」といさめられていますね。
個人的には、多分丁原の勇み足だったのでしょうが、もし命じてやらせたなら何進がやらせたと思います。袁紹が命じた可能性もないわけではないですが、もしそうだったなら洛陽人士にそっぽを向かれる危険性を無視したとは思えませんし、その後で躊躇を見せた何進の尻を叩いたときに立場が弱くて叩けないはずから。
とはいえ、そういった何をしでかすか分からない荒い連中を呼び込むことを提言したのは袁紹自身ですのでけじめをつける必要あったでしょう。袁紹としてもこれは予期せぬ暴挙だったでしょうが宦官弾圧の波を抑えさせるわけには行かないので、自身は司隷校尉・仮節となり(丁原に首輪を着ける意味があるのでしょう)、王允を河南尹につけて収拾と統率を図ったと考えています。
長々と失礼しました。
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