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【1491】丁原に関して 岡本 2005/1/26(水) 14:05

【1493】Re:丁原に関して むじん 2005/1/29(土) 17:36
┗ 【1494】Re:丁原に関して 岡本 2005/1/29(土) 20:02 感謝♪
┣ 【1495】Re:丁原に関して 岡本 2005/1/29(土) 20:18
┃┗ 【1496】Re:丁原に関して MM2 2005/1/29(土) 20:59
┃┗ 【1500】Re:丁原に関して 岡本 2005/1/29(土) 23:46
┗ 【1498】Re:丁原に関して むじん 2005/1/29(土) 21:43
┗ 【1501】Re:丁原に関して 岡本 2005/1/30(日) 0:04
┗ 【1507】Re:丁原に関して MM2 2005/2/1(火) 0:24

【1493】Re:丁原に関して
 むじん WEB  - 2005/1/29(土) 17:36 -

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   どうも、こんにちは。

>3)なぜ、孟津を焼いたか?
>公孫瓉伝での袁紹弾劾文に、”丁原に孟津を焼かせた”との項目があります。
>解釈は悪く行っているとはいえ、事実として丁原による孟津焼き払いがあったことは間違いないでしょう。どういう状況・理由があって孟津を焼き払ったのでしょうか。仮に袁紹の指示でなしたのであれば、袁紹の意図はなんだったのでしょうか?

これについては何太后から宦官誅滅の令旨を引き出すため、示威行動を取ったようですね。『後漢書』何進伝だったか、どこかに書いてありましたよ。

【1494】Re:丁原に関して
感謝♪  岡本  - 2005/1/29(土) 20:02 -

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   ▼むじんさん:

>これについては何太后から宦官誅滅の令旨を引き出すため、示威行動を取ったよ
>うですね。『後漢書』何進伝だったか、どこかに書いてありましたよ。

いつも詳しい情報ありがとうございます。早速検索して調べてみました。『後漢書』何進伝でした。しかし、最初にこの内容を拝見したときは
「そんな馬鹿な理由で?!」と我が目を疑いましたが。

孟津は洛陽にとっても黄河に対する水上交通の要であるはずです。そんな大事な港を焼き払うのは経済・民心への大打撃ですので暴挙以外の何物でもない、という認識でした。もし止むを得ず焼き払ったなら白波賊か黒山賊の洛陽乱入対策かと思っていました。

宦官への示威行動で地方の実力者の参集で前将軍・董卓の駐屯、泰山の王匡の強弩部隊、東郡太守・橋瑁の駐屯までは(穏やかではないにせよ)理解とまだ納得ができたのですが、その次の
”使武猛校尉丁原焼孟津”のフレーズはニュアンスが完全に違います。効果的でしょうが暴挙です。反発も大きいでしょう。ほとんとその筋の人のやり方です。
その後、流石に何苗から「覆水盆に還らずですよ」といさめられていますね。

個人的には、多分丁原の勇み足だったのでしょうが、もし命じてやらせたなら何進がやらせたと思います。袁紹が命じた可能性もないわけではないですが、もしそうだったなら洛陽人士にそっぽを向かれる危険性を無視したとは思えませんし、その後で躊躇を見せた何進の尻を叩いたときに立場が弱くて叩けないはずから。

とはいえ、そういった何をしでかすか分からない荒い連中を呼び込むことを提言したのは袁紹自身ですのでけじめをつける必要あったでしょう。袁紹としてもこれは予期せぬ暴挙だったでしょうが宦官弾圧の波を抑えさせるわけには行かないので、自身は司隷校尉・仮節となり(丁原に首輪を着ける意味があるのでしょう)、王允を河南尹につけて収拾と統率を図ったと考えています。

長々と失礼しました。

【1495】Re:丁原に関して
 岡本  - 2005/1/29(土) 20:18 -

引用なし
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   追加です。

丁原による孟津焼き討ち事件のため、董卓が自己の戦力確保のためにおこなった呂布による丁原暗殺とその勢力吸収は、もしかしたら三国志演義に書かれておるほどには否定的な評価を事件直後は受けていなかったかもしれません。
何をしでかすか分からない連中を荒い方法ではあるが統御したということで。

もちろん、董卓が政権掌握の意図をあらわにしてからは評価が覆ったでしょうが。

【1496】Re:丁原に関して
 MM2  - 2005/1/29(土) 20:59 -

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   ▼岡本さん:
孟津を焼いたのは趙忠(十常侍の一人)に対する宣戦布告では?とか思ったり。
そもそも何進の政敵は蹇碩だったはずで、その蹇碩は趙忠に見捨てられ、この事件の直前に誅されます。
一連の宦官誅殺を何進にけしかけたのは袁紹ですし、袁紹自身若い頃に趙忠に目をつけられたりしてます。
脅し以外にも郷里(冀州)には帰さないという意思表示があったのかもしれません。

ところで孟津って孟津関(黄巾の頃都尉を置いた八関の一つ)と同じ位置なんですかね?


あと丁原がどこの出身かという事について考えた事を。
『三国志』呂布伝注『英雄記』に「(丁原は)南県の吏となった」とあり、官吏任用の建前からこの“南県”は、本籍県の南部の県を指すのではなく本籍県を指している筈です。しかし“南県”というのが『続漢書』郡国志に見えないことから、“南”の前が一文字抜けているのではないかと思います。
この箇所、引用の出だしから“(丁)原子建陽”(=“(丁)原字建陽”)とあって、裴末之が写し間違えたか参考にした原本が既に間違っていたかで、内容が二重三重に劣化しています。(『後漢書』董卓伝注に同じ箇所の引用があるけど、こちらは南県云々のくだりが抜けています)脱字があったとしても不思議ではありません。これがもし雲中郡の沙南県の事だったりしたら面白いですね。

【1498】Re:丁原に関して
 むじん WEB  - 2005/1/29(土) 21:43 -

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   こんにちは。

>>これについては何太后から宦官誅滅の令旨を引き出すため、示威行動を取ったよ
>>うですね。『後漢書』何進伝だったか、どこかに書いてありましたよ。

中研院が復旧したようですね。やはり何進伝でした。

>宦官への示威行動で地方の実力者の参集で前将軍・董卓の駐屯、泰山の王匡の強弩部隊、東郡太守・橋瑁の駐屯までは(穏やかではないにせよ)理解とまだ納得ができたのですが、その次の
>”使武猛校尉丁原焼孟津”のフレーズはニュアンスが完全に違います。効果的でしょうが暴挙です。反発も大きいでしょう。ほとんとその筋の人のやり方です。

橋瑁が成睾の要害を占拠したのも結構大きいと思いますが、やはり孟津炎上は心理的にインパクトが大きいでしょうね。ただ孟津の機能をどれくらい奪ったかはちょっと分からないと思います。要害は焼失しても、通常の港湾機能くらいは残ってたかも知れませんし、その逆もあり得るかと思います。

>個人的には、多分丁原の勇み足だったのでしょうが、もし命じてやらせたなら何進がやらせたと思います。袁紹が命じた可能性もないわけではないですが、もしそうだったなら洛陽人士にそっぽを向かれる危険性を無視したとは思えませんし、その後で躊躇を見せた何進の尻を叩いたときに立場が弱くて叩けないはずから。

もともと袁紹の発案なのですが、何進は陳琳の諫言を蹴って採用してるんですよね。相当な決意があったようにも見えます。そうなると意図せざることであったかどうか…。この一連の動きには洛陽の四方を途絶して宦官勢力への援軍を遮断する意図があったと思います。西は夕陽亭の董卓、東は成睾の橋瑁、北は孟津の丁原ですね。これで南方を除いてほぼ封鎖されました。

【1500】Re:丁原に関して
 岡本  - 2005/1/29(土) 23:46 -

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   ▼MM2さん:
>脅し以外にも郷里(冀州)には帰さないという意思表示があったのかもしれません。
>
>ところで孟津って孟津関(黄巾の頃都尉を置いた八関の一つ)と同じ位置なんです>かね?

ご意見ありがとうございます。
地理と交通事情が良く分からないのですが、当時、冀州へ向かおうと考えた場合、陸路で白馬津か延津までいってから渡河するルートか、孟津から河下りするルートのどちらがメインかでも話は変わりそうですね。
むじんさんの指摘にあった橋瑁による成睾の要害占拠で陸路、丁原に水路を押さえられたとなると......。

>
>あと丁原がどこの出身かという事について考えた事を。
>『三国志』呂布伝注『英雄記』に「(丁原は)南県の吏となった」とあり、官吏任用の建前からこの“南県”は、本籍県の南部の県を指すのではなく本籍県を指している筈です。しかし“南県”というのが『続漢書』郡国志に見えないことから、“南”の前が一文字抜けているのではないかと思います。
>この箇所、引用の出だしから“(丁)原子建陽”(=“(丁)原字建陽”)とあって、裴末之が写し間違えたか参考にした原本が既に間違っていたかで、内容が二重三重に劣化しています。(『後漢書』董卓伝注に同じ箇所の引用があるけど、こちらは南県云々のくだりが抜けています)脱字があったとしても不思議ではありません。これがもし雲中郡の沙南県の事だったりしたら面白いですね。


なるほど、武猛従事の張楊が雲中郡出身ということも考えると、同郷人であった可能性もたかいですね。

【1501】Re:丁原に関して
 岡本  - 2005/1/30(日) 0:04 -

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   ▼むじんさん:

>もともと袁紹の発案なのですが、何進は陳琳の諫言を蹴って採用してるんですよ
>ね。相当な決意があったようにも見えます。そうなると意図せざることであった
>かどうか…。この一連の動きには洛陽の四方を途絶して宦官勢力への援軍を遮断
>する意図があったと思います。西は夕陽亭の董卓、東は成睾の橋瑁、北は孟津の
>丁原ですね。これで南方を除いてほぼ封鎖されました。

う〜〜ん、なるほど。毎度のことながら私の解釈は浅すぎ&ピント外れですねえ。
袁紹がクーデターに限りなく近いことをやる覚悟だったとすると意図してやらせた可能性もなくはないですし。事実宮中に兵を入れて宦官を誅殺するという理由は真っ当かもしれませんが一大暴挙を袁紹自身がやっていますからねえ。
竇武の二の舞だけはさけるべきだという進言から兵権を固めさせていることを考えると、第二の張奐の出現を避けるために洛陽を封鎖、そして自軍勢力の結束を固めるために仮節を得たとする見方のほうが暴走を防ぐためだったとみるよりも妥当でしょうか。

しかし、袁紹は間違いなく当時を代表する英雄であることが間接的であれ証明されますね。宦官誅滅は三国志演義では一応イベントの一つではありますが三英雄が直接的に絡んでこないことと、董卓の台頭を招いたことから前後の流れや意義をスルーされている印象が強く感じられます。

【1507】Re:丁原に関して
 MM2  - 2005/2/1(火) 0:24 -

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   ▼岡本さん:
孟津については私も交通網とか詳しくないのですが、黄河の渡しということで前記のような発想になりました。
メインの要路なんか分かればいいんですけどね。

>西は夕陽亭の董卓、東は成睾の橋瑁、北は孟津の丁原ですね。これで南方を除いてほぼ封鎖されました。
南方は何進が南陽出身なので、地元の利を生かして色々手を回して軍を置かなくてもよい状況だったか、それとも有力豪族が怖くて置くに置けなかったかだと思います。
後者については、私は何氏は南陽豪族の中でもそれほど勢力の大きい豪族ではないと考えるからなのですが、外戚となって10年近く(何氏が皇后になったのが180年)経っていれば南陽の中でも有力豪族たりえる勢力になっているのかもしれません。
孫子に“囲師には必ず闕き”とあるのは…関係ないか。

>竇武の二の舞だけはさけるべきだという進言から兵権を固めさせていることを考えると、第二の張奐の出現を避けるために洛陽を封鎖、そして自軍勢力の結束を固めるために仮節を得たとする見方のほうが暴走を防ぐためだったとみるよりも妥当でしょうか。
竇武伝・陳蕃伝から、竇武の軍事蜂起の失敗は張奐の力が大きかったというより、中央軍の兵が宦官を恐れていた事による自壊が原因でしょう。何進(袁紹)らはその事を考慮して外軍(董卓ら)を引き込み、もし何進側が軍事蜂起しても中央軍が(外軍の行動を恐れて)宦官側につかないよう予防措置をとったのだと思います。
後に何進が誅殺された時は何進の部曲とそれに便乗した袁紹・袁術らが蜂起して、市街戦にまで発展させる事無く宮内での戦闘になりましたが(このため結局外軍は役に立たなかった)、時間的な問題はあったにせよ何進が西園から接収した軍・五営の軍(+何進の大将軍府・どさくさに紛れて殺害された何進の弟何苗の車騎将軍府)に動きが無かったのは、これらが一連の騒動を静観していたからともとれますね。

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