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呂布の元上司として知られている丁原、字建陽に関する
以下の点について伺いたく存じます。
1)いつ、そしてなぜ并州刺史であったか?
劉焉伝にある牧の設置原因となった并州刺史・張懿の敗死事件(中平5年3月=188年)と、丁原が執金吾に任命されたのは霊帝崩御後(中平6年4月=189年)であることから、この約1年間の間、并州刺史であったことが推定できます。
しかし、彼のように名門出ではなく文盲に近い人士が後漢王朝から果たして刺史に
任命されるようなことがありえたのでしょうか?
彼はおそらく并州の人間と思われますので、鮮卑族の乱入等で非常事態であったため、本籍が同じ州の人間ではありますが緊急対蹠的に任官されたのではないかと考えております。
2)丁原を引き立てたのは誰か?
1)とも被りますが、刺史はおろか彼のような文に暗い人間が後漢王朝で九卿に匹敵する高官である執金吾になれたこと自体が作為的なものを感じさせます。
対宦官の自身の影響力を確保するため私兵的存在を必要としていた何進が引き上げたことは間違いありませんが、袁紹自身はどれくらい関わっていたのでしょうか?
もしかしたら、并州刺史になれたのにも、彼に対して恩を売っておくことを考えた袁紹の影響があるのではと想像したこともあります。
3)なぜ、孟津を焼いたか?
公孫瓉伝での袁紹弾劾文に、”丁原に孟津を焼かせた”との項目があります。
解釈は悪く行っているとはいえ、事実として丁原による孟津焼き払いがあったことは間違いないでしょう。どういう状況・理由があって孟津を焼き払ったのでしょうか。仮に袁紹の指示でなしたのであれば、袁紹の意図はなんだったのでしょうか?
以上の3項目について御諸兄のご意見・コメントをいただけませんでしょうか。
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