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孫堅の進言と進軍(孫氏からみた三国志33)
041229
<<東方の黄巾(孫氏からみた三国志32)


   <<前回張温(字、伯慎)の軍から陶謙(字、恭祖)が抜けたぐらいで、特に問題なく張温の軍は西へ向かうことになる。
   北宮伯玉邊章韓遂の軍はそれほど進軍に執着していなかったようで、戦いもなく張温の軍は長安までたどり着く(下記の地図参照)。張温の軍はここに駐屯する。
   前々回、張温の軍が「歩兵、騎兵、合わせて十万余り」になったと書いたけど(<<この部分)、ちゃんと全部、まとまった軍ではないようだ。例えば、次のエピソードがある1)

   長安にいた車騎将軍の張温は詔書(皇帝の命令文?)で部下の破虜将軍の董卓を招いた。だけど、董卓(字、仲穎)はかなり遅れ、ようやく張温に謁見した。それで張温は董卓を責めとがめたんだけど、董卓は応対するが従わなかった。
   ここで孫堅(字、文台)の登場。彼はそのとき、張温のそばに座っていた(董卓より近い位置?)。彼は前に進み張温の耳元でささやく
「董卓は罪を恐れないため、威張り大きなことを言い、招いてもほとんど遅れて到着するため、軍法に照らし、彼を斬ればよいでしょう」

   と孫堅の大胆な進言。いくら軍法に反しているからといっていきなり斬れとは……
   そう思ったのは後世の我々だけじゃなく、その場にいた張温も思ったようだ……理屈立てている。

   張温は言う
「董卓は隴蜀の間で威名があり、今日、これを殺せば、西に行くのに頼りになるものがなくなる」

   隴蜀の間とは、大まかに言うと涼州(涼州の隴西郡あたり?)と益州(益州の蜀郡あたり?)の領域あたりかなぁ。まぁ、大まかすぎる説明だけど、ともかく「斬司徒、天下乃安。(孫氏からみた三国志30)」でも説明したように(<<この部分)、董卓は「若い頃、羌族の中で行き来しており、ほとんどの豪帥(旗頭)と通じていた」ので、そこらへんの地域(羌族だから涼州あたり?)では顔がきくらしい。逆に言えば、そんな董卓を殺せば後々、困るってことを張温は言いたいらしい。
   これで孫堅は納得しない。董卓と何かあったのかというぐらいくどくいく。

   孫堅は言う。
「あなたは天子(皇帝)の兵を親しく率い、威光で天下を揺るがせるほどなのに、なぜ董卓に頼るのですか?   董卓が言うことは、あなたを助けようとせず上を軽んじ、無礼を働いているように思えます、それが一つ目の罪です。邊章と韓遂が思うように振る舞って、一年が過ぎ2)、今こそ進み討つべきであり、それなのに董卓は不十分だと言い、軍を阻み、衆人を疑っています、それが二つ目の罪です。董卓は任務を受けるが戦功が無く、招きに応じるが留まり、それなのに高揚し自らおごっていまず、それが三つ目の罪です。いにしえの名将は鉞(まさかり、刑罰の象徴?)にたより衆人にまみえ、威を示す者によって斬らないということは未だなく、そのため穰苴莊賈を斬り、魏絳楊干を殺しました。今、あなたは董卓に注意し、すぐに殺しません。威光と刑罰が欠け損じるのはこれに起因しています」

   一度で聞き入れられないとなると、再び細かく孫堅は張温に発言する。三つの罪をあげてだ。簡単にいうと、一つ目は忠義がないってこと、二つ目は自軍の邪魔をしているってこと、三つ目は董卓自身、それを改める意志がないこと。それから張温が董卓を罰する正当性があることを故事を交えて説明している。穰苴と莊賈のエピソードは「西方からの進軍(孫氏からみた三国志28)」(<<この部分)で説明しているのでここでは割愛。とにかく相手が誰であろうと軍法に忠実だったとのこと(む、説明が簡単すぎる)。史記の世家3)によると魏絳は春秋時代の晋に使えた人。この時代の年数を今、表現するときは君主名+年数なんだけど、悼公三年(紀元前570年)に、魏絳は悼公の弟の楊干が乱行をしたということで、罰して辱めた。これも相手が誰であろうと軍法に忠実だったってエピソードかなぁ。
   もしかするとこの孫堅の行動は、先の皇甫嵩(字、義真)の刑罰(<<参照)との不公平感を董卓に感じていての行動かもしれない。

   しかしこの進言に対し、張温は(刑罰を)発するのを許さず、そのまま言う
「もし君が(その話を)蒸し返すならば、董卓は君を怪しむだろう」
   そのため孫堅はさらに何か進言するというわけでもなく、立ち上がりそこから出ていった。

   というわけで特に董卓は罰せられることなく、そのまま軍に同行する。
   軍はさらに西へ進み、美陽(県)5)に駐屯し、園陵(みささぎ、歴代皇帝のお墓)を守った040811-08)
   その美陽へ邊章・韓遂の軍がやってくる。いよいよ開戦ということになる(下記地図参照)。
三度目の戦闘
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)但し、ルートに根拠はありません


   さらに孫堅にまつわるエピソードがある5)。戦の話。時期はこのときかこの少し後かのどちらか。
   そのエピソードは「山陽公載記」という書に書いてあったらしい(三国志呉書の注にあり)。ただややこしいことにそのまま書かれているんじゃなくて、董卓と劉艾の懐古対談で孫堅の行動の話題が出ている。その対談がどういった状況で行われたかを書くとややこしくなるので、ここでは孫堅の行動だけ書くことにする。

   美陽(県)の亭(むら)の北に孫堅は騎兵と歩兵、千人を率い、そして虜(えびす、つまり敵兵)と戦い、ほとんど死にかけ、印綬(官位・官職のあかし)を失うほどだったそうな。
   孫堅、よわ〜い、とするのは早計。どうもこのときの孫堅の率いていた兵卒は烏合の衆の正義だけで従っていた兵卒で、虜(えびす)の精兵のようには行かなかったとのことだった。なぜこんな兵卒を率いていたか、なぜそんな状態でそこに駐屯したのかは特に説明はないんだけど、何かしらのドラマを感じてしまう。

 
(以下、2006年1月1日追記)
   それからもう一点。こちらは時期がわからないんだけど、タイミングがいいんでここで。後漢書蓋勳伝から。<<ここの続き
   叛羌(羌族の反乱勢力)が畜官(官府?拠点?)で護羌校尉の夏育という人を包囲した6)。夏育は覚えている人は少ないと思うけど、以前、鮮卑に大敗し罪に問われた人だ(<<「舞台はひとまず北へ(孫氏からみた三国志12)」参照)。復帰したんだ。
   包囲されたということで蓋勳(字、元固)は夏育を救おうと州と郡の兵を合わせ、狐槃というところに至った(具体的な場所は調べきれず)。ところが羌族に蓋勳は破れる。
   蓋勳はなんとか百人あまりの残った者たちをあつめ、魚麗之陳(魚のように並んだ陣)をくむ。そこに羌族の精鋭騎は急いで攻めてくる。そのため、蓋勳の士卒(士人と兵卒)は多く死んだ。蓋勳も無傷ですむわけはなく、勳は三つの傷を負い、動かないと心に決め。そのため、目印となる木をさして次のように言う。
「ここで私をさらしておくのだ」
   つまり蓋勳は自らが足手まといになると考え、自らをおいていくように命じた。そこに居合わせていた句就種の羌族のてん吾という人(蓋勳の部下?)7)は前々から、蓋勳から手厚くされていたため、武器により残った者たちを守りながら次のように言う。
「蓋長史は人より優れており、お前たちはこの者を見殺しにし天にそむくか」
   蓋長史とは漢陽郡の長史8)である蓋勳のこと。
   それに対し蓋勳はてん吾をあおぎ見てののしりながらいう。
「反乱の者を殺し、君は何を知ったのだ?   敵を近づかせ私を殺させろ!」
   その言動に残った者たちは互いを見て驚いた。
   てん吾はそれに従わず、馬から下り蓋勳に馬を与えるが、蓋勳は馬に上がるのを承知せず、ついに蓋勳は賊にとらえられてしまった。
   しかし、羌戎はその義勇に心服し、あえて蓋勳を害を加えようとせず、漢陽へ送還した。

   さて戦の全体の流れは回を改めて。




1)   張温・董卓・孫堅のエピソード。まずはネタ元の三国志呉書からの引用。『邊章・韓遂作亂涼州。中郎將董卓拒討無功。中平三年、遣司空張温行車騎將軍、西討章等。温表請堅與參軍事、屯長安。温以詔書召卓、卓良久乃詣温。温責讓卓、卓應對不順。堅時在坐、前耳語謂温曰:「卓不怖罪而鴟張大語、宜以召不時至、陳軍法斬之。」温曰:「卓素著威名於隴蜀之間、今日殺之、西行無依。」堅曰:「明公親率王兵、威震天下、何ョ於卓?觀卓所言、不假明公、輕上無禮、一罪也。章・遂跋扈經年、當以時進討、而卓云未可、沮軍疑衆、二罪也。卓受任無功、應召稽留、而軒昂自高、三罪也。古之名將、仗鉞臨衆、未有不斷斬以示威者也、是以穰苴斬莊賈、魏絳戮楊干。今明公垂意於卓、不即加誅、虧損威刑、於是在矣。」温不忍發舉、乃曰:「君且還、卓將疑人。」堅因起出。』(「三國志卷四十六 呉書一孫破虜討逆傳第一」より)
   賢明な読者諸君ならお気づきのように(ベタな呼びかけやけど)、先に示した引用元では「中平三年」(西暦186年)となっているが、本文では中平二年(西暦185年)の出来事にしている。これは引用元の文で邊章韓遂の軍と戦う前のエピソードなので、他の史書(後漢紀や後漢書)との整合性を考えたからなのだ。ちなみに資治通鑒ではもっと後のエピソードになっており(ぶっちゃけ戦の後)、場所も長安でないかもしれない。文は先に引用したのとほぼ同じ。引用しておく。『(中平二年十一月〜)張温以詔書召卓、卓良久乃詣温;温責讓卓、卓應對不順。孫堅前耳語謂温曰:「卓不怖罪而鴟張大語、宜以召不時至、陳軍法斬之。」温曰:「卓素著威名于河・隴之間、今日殺之、西行無依。」堅曰:「明公親率王師、威震天下、何ョ于卓! 觀卓所言、不假明公、輕上無禮、一罪也;章・遂跋扈經年、當以時進討、而卓云未可、沮軍疑衆、二罪也;卓受任無功、應召稽留、而軒昂自高、三罪也。古之名將仗鉞臨衆、未有不斷斬以成功者也。今明公垂意于卓、不即加誅、虧損威刑、于是在矣。」温不忍發、乃曰:「君且還、卓將疑人。」堅遂出。』(「資治通鑒・卷第五十八」より)
2)   一年が過ぎ。「章・遂跋扈經年」(「三國志卷四十六 呉書一孫破虜討逆傳第一」より)。こんな訳で良いのかな(汗)。まぁ、去年の10月ぐらいからの乱なので040118-11)、一年ぐらいは経過してるってことで。
3)   史記の世家に載っているエピソード。とりあえず引用から。「魏絳事晉悼公。悼公三年、會諸侯。悼公弟楊干亂行、魏絳りく辱楊干。」(「史記 世家 卷四十四 魏世家第十四」より)。前後関係みずに書いている(汗)。あと西暦だけど、それは史記の表を参照にしている。
4)   美陽。続漢書の郡國志によると司隸の右扶風の県。岐山があるそうな。
5)   孫堅の死にかけエピソード2。ちなみにエピソード1は<<ここ。まずはエピソード2の引用から。かなり先のネタバレを含んでいる。『艾曰:「(〜略〜)聞在美陽亭北、將千騎歩與虜合、殆死、亡失印綬、此不為能也。」卓曰:「堅時烏合義從、兵不如虜精、且戰有利鈍。但當論山東大勢、終無所至耳。」』(「三國志卷四十六 呉書一孫破虜討逆傳第一」の注に引く「山陽公載記」より)
   出てくる地理から勝手にこの時期あたりかなぁとおもってこのエピソードを紹介している。
6)   蓋勳の話。脚注040229-2)の続き。どうも逆の意味に訳している可能性があるな。『時叛羌圍護羌校尉夏育於畜官、勳與州郡合兵救育、至狐槃、為羌所破。勳收餘衆百餘人、為魚麗之陳。羌精騎夾攻之急、士卒多死。勳被三創、堅不動、乃指木表曰:「必尸我於此。」句就種羌てん吾素為勳所厚、乃以兵扞衆曰:「蓋長史賢人、汝曹殺之者為負天。」勳仰罵曰:「死反虜、汝何知?促來殺我!」衆相視而驚。てん吾下馬與勳、勳不肯上、遂為賊所執。羌戎服其義勇、不敢加害、送還漢陽。』(「後漢書卷五十八   虞傅蓋臧列傳第四十八」より)
7)   後漢書の西羌伝にてん良の息子にてん吾ってのが出て来るんだけど、時代が違うんで、同名別人なんだろな。
8)   後漢書の蓋勳伝の冒頭に「初舉孝廉、為漢陽長史」(「後漢書卷五十八   虞傅蓋臧列傳第四十八」より)ってあるけど、それ以来、特に異動がないのかな? 結構、手柄たてているのに。
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