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公偉、戦地に立つ(孫氏からみた三国志13)
030504
<<舞台はひとまず北へ(孫氏からみた三国志12)


   前回は北の兵乱の話をしたけど、今回は南の兵乱の話。
   主に後漢書からの話。

   熹平七年(西暦178年)正月に交阯郡合浦郡烏滸蠻がそむき、九真郡日南郡の民が郡や県を攻め落とすよう、し向けた1)
   また、交阯の賊(烏滸かどうか不明)が一斉に蜂起し、州の刺史や郡の太守は軟弱で、それを防ぐことができなかった2)

   烏滸蠻(烏滸蛮)とは異民族の名前。
   交阯郡(交趾郡)、合浦郡、九真郡、日南郡と、「孫氏からみた三国志」初登場の郡名が4つもでてくるけど、これらには共通することがある。
   それは4つの郡ともども交州に属するということ3)
   その交州とは、揚州の南に接していて、前回とはまったく逆で、南の辺境に接している。
州それぞれ
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)

   ちなみに交阯郡、九真郡、日南郡は今でいうベトナムの地域と重なる部分がある。つまり、交州って、今でいう中国とベトナムの国境を中心にして、太平洋に面した地域ね(ちょっと言葉足らずな説明だけど)。
   交州には七つの郡があって、残りは南海郡蒼梧郡鬱林郡。    うーん、何か、歴史の重みがあるなあ。

   そんな南の辺境とはいえ、4つの郡をも反乱に関係したのだから、結構、規模が大きかったんだろう。それに後述するけど、残りの3つの郡もまきこまれることになる。
(とはいえ、前回、書いた、2つの州をまたぐ、鮮卑の侵攻よりは地理的に小規模だけど)

   あと、気になるのは「烏滸」という異民族。
   廣州記によると、南方の夷(えびす、つまり異民族)の呼び名で、人を食い、鼻で水を飲み、口の中で食を進める習慣があるとのこと……ホントかねぇ4)

   この烏滸を説明するのに、少し時代をさかのぼる。
   ときは建寧三年(西暦170年)。
   後漢書卷八十六南蠻西南夷列傳第七十六によると、交州内の一つの郡、鬱林郡の太守の谷永(字、不明)が、いつくしみと信用をもって烏滸人十万人あまりを降伏させ、内属させ、みな、冠と帯をうけ、七つの県を開設した5)
   冠と帯を身につけることは漢民族特有の習慣みたいなものだから、烏滸人が「漢民族」化するような動きがあったのだろう。さらに県を設けたのだから、融和政策といったところかな。
   前回の鮮卑とは、えらく対照的な政策。

   その関係か、熹平二年(西暦173年)冬十二月、 日南の辺境の外の国(日南徼外國、日南の砦の外の国?)が献上品を貢いだ5)

   順調にこの辺りの政治がうまくいきそうだけど、ここで冒頭で書いた、交阯郡と九真郡の烏滸の反乱となる。ここの記述では、合わせて数万人の反乱となっている5)

   ここで、孫堅(字、文台)の登場!   といきたいところだけど、まだ中央からお呼びがないみたい。少しネタばらしだけど、次の兵乱で関わってくるようになる。

   今回、呼ばれたのは朱儁(字、公偉)。
   いつ呼ばれたのかは史書により異なる。
   後漢書卷七十一皇甫嵩朱儁列傳第六十一だと、光和元年(西暦178年3月に熹平から光和に改元)で6)資治通鑒卷第五十八だと、光和四年(西暦181年)になっている7)
   後漢書卷八孝靈帝紀第八1)と後漢書卷八十六南蠻西南夷列傳第七十六5)だと、光和元年に烏滸の乱が起き、光和四年に、それ関連で「朱儁」の記述が見られる。
   だから、清岡は、光和元年に乱が起きて、そこから四年までの間に、公偉が呼ばれたことにするという、なんともはっきりしない解釈にしておく。光和元年と光和四年って三年の開きもあるんだけどね(汗)

   公偉はそれまで蘭陵令をやってたんだけど、政治にすぐれているとして東海國の相に上表されている8)(國と相の説明は>>こちら)。
   そのこともあってか、公偉は交州刺史に選ばれる6)
   ちょうど、臧旻会稽の兵乱を沈める前に揚州刺史になったのと同じパターンかな(>>参照
   その記述で、「刺史って役職をエサに反乱討伐を押しつけられたのかな(汗)030201-10)」なんてことを書いたけどね(笑)。
(でも、俸禄からいったら減給のような……これは後述)

   ともかく、公偉は武事に携わることとなる。
   会稽の兵乱のときは、文官だったので、初陣といったところだろうか。

   また戻って、乱のこと9)
   交阯の賊(烏滸人かどうか不明)の代表格は梁龍という人。あと、南海郡の太守、孔芝が背く。
   梁龍ら一万人余りと孔芝の軍は郡や県を攻め破る。
   そして、蒼梧太守の陳紹は斬られている。いそげ、公偉!

   交州刺史に任命された公偉は上表し、出身地の郡(会稽郡)に寄って兵を募集したいことを伝える。
   天子(皇帝)はそれを許可する。
   公偉は、会稽郡で家兵(しもべみたいなもの)二千人並びに選んだ兵を合わせた五千人を、2つの道に分けて、州の境界(揚州と交州もしくは荊州と交州かな)まで進んだ。

   公偉はしばらく故郷を離れ、県令をしてたんだけど、やっぱり頼るべきは生まれ故郷なんだろう。故郷の兵士が五千人も居たら団結力も強いだろうし、なにより心強い
   そして、戦に不慣れな公偉は、いきなり不得意分野に手を出さず、得意なところから攻めようとしていた。
   彼がしたことは、使者をやって、虚実を示し、威徳を表し、利害をもってさとし、賊の心を動揺させたこと。
   蘭陵県で政治に素晴らしい才能を発揮していた公偉のことだから、人心を掴むのに秀でていたんだろう。さぞかし、賊は動揺したことだろう。
交州の兵乱
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版) 但し、画面上のルートや戦マークの位置に根拠はありません

   そして本番。
   交州の七つの郡の兵とともに進み、賊に迫り、ついに梁龍を斬った。十ヶ月で乱をことごとく平定し、その間に降った兵は数万人になった。
   それは光和四年(西暦181年)二月から六月のあいだのこと1)
   兵卒五千人で交州入りし、数万人も降伏させるなんて、痛快♪ それに「滅亡」とかじゃなくて「降伏」なところが現在の感覚でもグッド♪
(ちなみに、交州七郡のうち、反乱した太守のいる南海郡や、太守が斬られた蒼梧郡がどうなっているのか不明)

   このこともあってか、光和六年(西暦183年)には日南の辺境の外の国からの献上品を貢ぐことが再開される5)(明記してないけど、お返しもあるんだろうね、中華の朝廷として)。

   この手柄で公偉は都亭侯(千五百戸)に封じられ、黄金五十斤を賜った。そして諫議大夫になった。
   都亭とはらく陽にある地名だそう10)で、そこを土地、千五百戸分からの税をもらえるってこと。いわゆる、「列侯」ってやつ。

   諫議大夫の俸禄(給料)は六百石11)
   ん?   まてよ。県令って千石だった030406-7)のに対し、刺史は六百石030201-7)のに時の役職だから、一時的なものだろう。でも諫議大夫は平時だから、やっぱり降格?
   いえいえ、やっぱり都亭侯になるってのはそれだけ大きいものだということで!   お願いします。




1)   烏滸蠻の乱。「光和元年春正月、合浦・交阯烏滸蠻叛、招引九真・日南民攻沒郡縣。」(後漢書卷八孝靈帝紀第八より)また「(光和四年)交阯刺史朱儁討交阯、合浦烏滸蠻、破之。」(同上)。光和元年とあるけど、この後の記述で「三月辛丑、大赦天下、改元光和。」というふうに改元したと書いているので、この時点では熹平七年。   <<戻る

2)   交阯の賊のこと。「會交阯部群賊並起、牧守軟弱不能禁。又交阯賊梁龍等萬餘人、與南海太守孔芝反叛、攻破郡縣。」(後漢書卷七十一皇甫嵩朱儁列傳第六十一より)。並べてみると、脚注1)と同じことにみえるけど、改めてみると別事件だったかも(汗) ちなみに資治通鑒では一緒の事件だという扱い。まぁ、ここでは普通に一緒にしてる。行間にそこらへんの葛藤を感じてくれると幸い。   <<戻る

3)   交州の七つの郡。「南海   蒼梧   鬱林   合浦   交趾   九真   日南      右交州」(後漢書志第二十三 郡國五より)。横書きだとわかりにくいけど、「右交州」ってなっているのは縦書きだからね。んー、やっぱり、このコンテンツ、地図、いるかね。スキャナー、借りるか買うかしないと。   <<戻る

4)   烏滸のこと。はい、いい加減な訳です。原文は後漢書卷八孝靈帝紀第八の注からです。誰の注とか調べてないところが清岡のいい加減さが出てます。『烏滸、南方夷號也。廣州記曰:「其俗食人、以鼻飲水、口中進[口敢]如故。』   <<戻る

5)   烏滸の説明。「靈帝建寧三年、鬱林太守谷永以恩信招降烏滸人十餘萬内屬、皆受冠帶、開置七縣。熹平二年冬十二月、日南徼外國重譯貢獻。光和元年、交阯・合浦烏滸蠻反叛、招誘九真・日南、合數萬人、攻沒郡縣。四年、刺史朱儁撃破之。六年、日南徼外國復來貢獻。」(後漢書卷八十六南蠻西南夷列傳第七十六)。はい、まるまる引用です。ちなみに烏滸は日本読みで「おこ」とよみ、烏滸がましいの語源だそうです。「おこがましい」と打って、「烏滸」と変換されたのには感動したなぁ。   <<戻る

6)   公偉が中央に呼ばれる(役職が変わる)。「光和元年、即拜儁交阯刺史、令過本郡簡募家兵及所調、合五千人、分從兩道而入。」(後漢書卷七十一皇甫嵩朱儁列傳第六十一より)。「儁」とはもちろん朱儁(字、公偉)のこと。「交阯刺史」とは「交州刺史」のことだね。   <<戻る

7)   資治通鑒の記述。「(光和四年の夏四月から六月までの間の記述)交趾烏滸蠻久為亂、牧守不能禁。交趾人梁龍等復反、攻破郡縣。詔拜蘭陵令會稽朱儁為交趾刺史、撃斬梁龍、降者數萬人、旬月盡定;以功封都亭侯、征為諫議大夫。」(資治通鑒卷第五十八より)。「烏滸蠻」と「梁龍」がつながっているとはっきり書いているのは清岡が知る限り資治通鑒ぐらい。後進史料に書いているだけに、やっぱり烏滸蠻の乱と梁龍の乱とは別々じゃないかと勘ぐってしまう。   <<戻る

8)   公偉が蘭陵令だったころ。「後太守徐珪舉儁孝廉、再遷除蘭陵令、政有異能、為東海相所表。」(後漢書卷七十一皇甫嵩朱儁列傳第六十一より)。私にはどうも「異能」が褒め言葉に見えないんで、これを見るたび、ついつい字引を見てしまいます(笑)   <<戻る

9)   これ以降、乱が平定するまでの記述は後漢紀、後漢書皇甫嵩朱儁列傳の2つが引用元でごちゃ混ぜに訳して話を進めています。「光和初、交阯賊梁龍等攻郡縣、以儁治蘭陵有名、即拜交阯刺史。儁上書求過本郡募兵、天子許之、得以便宜從事。將家兵二千人、并郡所調合五千人、分兩道至州界。斬蒼梧太守陳紹、遣使喩以利害、降者數萬人。乃勒兵撃斬龍、旬月盡定。封都亭侯、賜黄金五十斤。」(後漢孝獻皇帝紀卷第二十八より)ってところと「會交阯部群賊並起、牧守軟弱不能禁。又交阯賊梁龍等萬餘人、與南海太守孔芝反叛、攻破郡縣。光和元年、即拜儁交阯刺史、令過本郡簡募家兵及所調、合五千人、分從兩道而入。既到州界、按甲不前、先遣使詣郡、觀賊虚實、宣揚威コ、以震動其心;既而與七郡兵倶進逼之、遂斬梁龍、降者數萬人、旬月盡定。以功封都亭侯、千五百斤、賜黄金五十斤、徴為諫議大夫。」(後漢書卷七十一皇甫嵩朱儁列傳第六十一より)ってところ。両者の大きな違いは「降者數萬人」が記入される順序。梁龍を斬ってから降伏なのか、斬る前(使者を出してから)なのか。「どっちでもいい」って思うかも知れないけど、戦の被害の大きさが両者でかなり違っていると思いますし。   <<戻る

10)   都亭の場所。「都亭在洛陽。」。原文は後漢書卷八孝靈帝紀第八の注からです。誰の注とか調べてないところが清岡のいい加減さが出てます。   <<戻る

11)   諫議大夫の給料。「諫議大夫、六百石。」(後漢書志第二十五   百官二より)。給料はわかるけど、職種なんだろ? 文官だろうけど。   <<戻る
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