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美術鑑賞メモ「滋賀の現代作家展」
030126
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展覧会名:滋賀の現代作家展 絵画──見ることへの問い   岡田修二
開催場所:滋賀県立近代美術館
開催期間:2003年1月11日〜2月16日
鑑賞日:2003年1月19日


   美術館へ何回か行っていると、混む混まないが作品の善し悪しに関係ないことがわかる。
   要は作家の名が一般に知られていることと、どれだけ主催が大規模に宣伝しているかで混むかどうか決まってくる。
   だから、うまくすれば、人混みを気にせずとても素晴らしい絵画を見ることができるのだ。

   今回は珍しくそのケース。
   だけど、私は見るまでこの作家の作品を知らないでいた。
   ただ、たまたまポスターに目がいき、良いなあと思ったから行っただけだ。

   だから、何も予備知識がなくて、ポスターにでている作品をモノクロームの写真と思っていた。それぐらい現実感のある絵画だ。

   行った日は19日。朝方。
   最寄り駅はJR瀬田駅京都駅から新快速に乗ったものの、その電車はその駅に止まらない。だから石山駅で普通に乗り換える。
   数年前にこの美術館に来たことがあるので、別に迷う心配はない。ここから文化ゾーン前行きのバスに乗るってことは知っている。バスに乗り、風景を眺めていると、瀬田駅近くにあって以前、美術館帰りに寄った日本系ハンバーガーチェーン店「山洋陽020612-1)(仮名)」がなくなっていることに気付く。やはり数年の月日は残酷だ。今はどちらかというとハンバーガーチェーン店「新鮮さ(仮名)」に惹かれるんだけど、気に入って足繁くそのチェーン店に通っていた感覚が生々しくよみがえり切なくなってしまう。


   文化ゾーン前という名のバス停で降り、しばらく山の手の方に歩く。滋賀県立図書館をすぎ、目的地の滋賀県立近代美術館へ。
   予想通り、朝早くということもあって、あまり来館者はいない。
   ただ、外から中を見ると三脚にのったTVカメラとそれを調整する人が見える。何の取材だろうと気になるものの、そのまま美術館へ入る。
   すぐチケットを買えば良いものの、受付前のモニターで岡田修二先生の作品紹介ビデオが上映中だったので、しばらく見ることにする。ナレーターが解説するパートと岡田修二先生自ら出演し自作を語るパートがある。
   そこでいろんな予備知識を仕入れる。つまり、この展覧会は岡田修二先生の回顧展で、作品の制作時代順に展示していることがわかる。あと、気に入ったポスターの作品が絵画だと知ることができる。日常生活の光景と顕微鏡でしか見ることができない画像をオーバーラップさせている対比が目に面白く感じそうだった。
   一通りビデオを見ると、チケットを購入し、いざ、企画展展示会場へ。
   この美術館は、広々としているところを私はとても気に入っている。

 
   展示会場前でチケットを切って貰い、作品を見ようと順路をすすむ。
   ところが行く先にTVカメラを持った人など、何やら数人が談話している。TVのリハーサルか何かと思い、美術作品を見る素振りをしながら、聞き耳をたてる。

「そういう意味では、全部、実験的ですね」

という言葉が耳に入ってくる。その言葉に取材陣同士のリハーサルと決めつけるには、とても違和感があり、思わず美術作品から目を離し、そちらへ振り向く。
   私の視線の先には見覚えるのある姿がある。そうだ、先ほど、モニターの向こう側にみた人。岡田修二先生その人だ。
   とてもおどろいたのだが、動揺していると周りの人に悟られたくなかったので、あわてて、また美術作品に目を移す。そしてまた聞き耳を立てる。
   どうやら、何かのリハーサルであることは間違いないが、取材陣が事細かに岡田修二先生に質問を投げかけているようだ。その一つ一つに岡田先生は丁寧に答えている。材質や加工方法、その絵の着想や部分部分の意味、とにかくいろいろだ。
   ちなみに、始めの部屋は、顕微鏡写真を組み入れたレリーフ状の作品が並んでいる。
   偶然とはいえ、その作品を見ながら、作者自身の口による解説が聴けるなんて、とても贅沢な気分でいた。思わずそのリハーサルの一群に歩を合わせてしまう。

   次の部屋はパネル作品。「ノートリアスの日記」/「遅延・束縛・停止」シリーズだ。ノートリアスとは架空の人物。中世ヨーロッパで原始的な顕微鏡を持つ人。その人による文字を使わないイメージ的な日記が作品という趣向だ。顕微鏡写真をOHPシートにして抽象的な絵にまさしくオーバーラップさせてはりつけているんだけど、その映像がなんとも不思議感があって心地よい。ただのトンボのハネさえも神秘的にみえる。そして設定どおり、古風な雰囲気を味わえる。標本箱にしているマッチ箱を見つけて何が入っているのだろうと、ひらけるような妙な期待感さえある1)


   次の部屋に移る前に、例の取材陣はさっさと次の部屋、またその次の部屋へとすすんでいた。さすがに贅沢は長くは続かないとあきらめ、作品鑑賞に専念する。
   次の部屋はポスターでモノクローム写真と勘違いした作品がまず目についた。「take」シリーズとの部屋とのこと。肖像画に微生物の絵をオーバーラップさせている。先ほどまで、微生物の映像は写真そのものを使っていたが、ここからは微生物の写真をもとに岡田先生がその絵をかいているとのこと。私にはその分、二つの世界の光景が自然にオーバーラップしているような印象があった。


   次の部屋に移る前に、先行する取材陣の声が聞こえてくる。もちろん、私が聞きたいのはもちろん岡田先生のコメントだ。断片的に耳に入ってくる。

「これは写真では絶対、表現できません」
「そうですね。そういう意味では写真のような表現ですね」
「僕は写真のとおり描いてません」

   なるほど。写真をそのまま使わずにそれを見て、絵筆をふるう意義をなんとなくつかめたような気がした。写真の長所をうまく取り込んで、写真では表現できない映像を表現しているということか。
   私が立つ部屋は言ってみれば「take」シリーズの顔編で、取材陣がいた部屋は言っても見れば「take」シリーズの腕編である。
   取材陣は去った後だったが、私の耳にはしっかりと先ほどの言葉が残っている。次の部屋に招かれる心地でいる。
   その部屋にたどり着くと、私の目にはある種、理想的な映像光景がひろがっていた。
   単に両手を描いたモノクロームの絵画。だけど、感情の機微がこちらへ伝わってくる。それぞれいろんな表情がある。人生の深みがある。
   頭ではこういう単純な絵はすぐ飽きるだろうと認識しているのに、心が喜んで、体がなかなかその場を離れようとしない。


   しばらくしてから、次の部屋へ。
   そこは「水辺」シリーズだ。滋賀の作家らしく琵琶湖の水辺を題材にしているらしい。
   この絵の特徴は大胆にある写真の手法、というより特徴を取り入れたことだ。その特徴とは「Focus Defocus」。いわゆる、ピントがあってるかあってないかの特徴だ。
   こうかくと、人工的な絵画に思えるかもしれないが、そうではない。
   だいたい、人は日常生活を送るにあたり、どんなに目が良くても視界すべてが鮮明に見えているわけじゃない。頭の中で視界のどこかに気を向けて他の部分は意識しないはず。
   そういったリアリティをこのシリーズに感じ取っていたし、素直に目を映像美に奪われていた。これも見てて、飽きることがない。


   もう一度、今回の展示会の絵を見直そうと順路を逆に辿っていた。
   そうすると、「take」シリーズ顔編の部屋で光るものが見える。
   それはTV用の照明だった。実際にカメラをまわして、岡田先生の解説を撮影しているようだ。取材陣をよく見ると、某公営放送の取材だと言うことがわかる。
   私はそのままそこへ留まり、また岡田先生の言葉に耳を傾ける。
   「take」シリーズで顔を寝かして描いていることについて解説していた。概要はこうだ。人は日常生活で重力が働く方向を下として映像を認識している。それに対して、顕微鏡から見えるのは上からみた映像なので、そういう重力が働く方向から認識は自由となる。その顕微鏡からの見え方を日常生活の映像に当てはめると、別に下を下として描くことはないのだろう。そういうようなニュアンスで頭を下にしたり横にした肖像、そして微生物の絵をオーバーラップさせ描いている。
   それが私の目に他の作品同様、不思議な光景としてうつっている。明らかに日本人だとわかる女性や男性の顔。モノクロームだとはいえ、普段の生活だと、別に気にせずただ通り過ぎて行くだろう。しかし、そういう風にすこし見方を変えただけで目に面白く映るし、ましてや微生物の形状による模様が視界に独特の雰囲気を出していて見ることに飽きない。

   いろんなことをぼんやりと思いながら美術館を後にする。



1)   この作品を見ているとき、私の頭の中ではさねよしいさ子さん作詞作曲唄の「マッチ箱」(アルバムCD「手足」0208142104-5)収録)が流れていたので、その詩の影響がもろ文に出ている。   <<戻る

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